丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

桜情話~前編~

2008年05月29日 | 作り話
 私が私であった頃の最後の記憶は、あの人の泣き顔と、私の喉にかかるあの人の指の感触、そして意識が暗闇に吸い込まれる直前に聞こえたあの人の声。
「後から逝くから……。必ず逝くから」
 その声を聞きながら私は泣いた。泣きながら、逝った……。

          ************

 駅前のバスのロータリーの真ん中に、桜の巨木が立っている。十年前に駅前の再開発が始まった時、伐採される予定だった。しかし、計画は途中で変更され、桜の木は伐採を免れた。噂では伐採しようと業者が来る度に、台風が来たり、事故が起きたりして、ことごとく失敗したとか……。地元住民は皆一様に「それ見た事か」と頷いたと言う。昔からこの桜には怪談話が付きまとっていた。
 僕は桜を見上げた。一抱えもありそうな太いごつごつした幹から立派な枝が四方八方に伸び、その途中から下に向かって枝垂れていた。ソメイヨシノではなく、濃いピンクの八重桜で、今は盛りと咲き誇っている。風が吹く度に、ピンク色の吹雪が僕の周りをひらひらと舞い踊る。あまりにも迫力のある美しさに、なんだかめまいがしそうだ。
 僕がこの街に引っ越してきたのはつい一月前だ。住いは駅の程近くのワンルームマンション。会社の借り上げのマンションで、いわば社宅のようなものだった。僕は東京の本社からこの片田舎の代理店に出向してきたのだ。
 妻は東京に残してきた。自分も仕事をしていて、それなりに責任のあるポストについている。それに子供の事もあった。共働きで子供がいる我が家は、妻の実家の近くにある。義母の協力なしではやっていけない。妻が素直について来るとは思わなかった。
「ついては行けないわよ。どうしても断れないなら、単身赴任ね。いいじゃないの、別に」
 予想通り、あっさりと突き放された。
 かくして僕は一人寂しくこの片田舎にやって来たのだった。

 デ・ジャ・ビュ、既視感。この駅に降り立ち、この桜を見た時、僕はふとそう思った。古い映画のような映像が頭の中を駆け抜け、二重写しのように現実の風景と重なったような気がした。もっとも何が見えたのかはわからない。寂寥感とも郷愁とも言えるような思いがこみ上げ、息苦しささえ覚えた。
 知らず知らずのうちに桜に歩み寄っていた。まだ蕾は固くて小さかった。足元には太い蛇のような根がうねっている。木の半径三メートルほどは土が見えていたが、恐らく根はもっと広く延びているはずだ。アスファルトで固められた地面の下にもうねっているに違いない。僕は不意に桜に触れたくなった。ウロコのような古びた幹にそっと手を押し当てると、心臓が締め付けられるような悲しみが込み上げる。一体、僕はどうしたのだろう。そう不思議に思いながら、僕はいつの間にか泣いていた……。

 その晩、不思議な夢を見た。山の中だった。僕の目の前には昼間の桜が佇んでいた。桜はまだ若くて、幹は細く枝ぶりも小さかったが、昼間の桜だと一目でわかった。
 辺りは夜だった。上も下もわからないような、密度の濃い闇。その中にぼんやりと桜だけが浮かび上がっている。僕はその桜の下にひざまずいて、泣いていた。

          
 僕の歓迎会が開かれた。駅前の居酒屋で新しい職場の同僚とささやかな宴会を持った。僕の新しい職場は総勢十人の小さな営業所だ。直轄の営業所ではなく、本社にとっては代理店に過ぎない。所長のポストは本社の営業部から二年という期限付きの人材が勤めることになっているのだ。
「所長さん、単身赴任なんですって? 寂しいネ~」
 営業所の一番の古株のオバチャンが早くもほろ酔い加減で僕に絡んでくる。
「大丈夫、大丈夫。すぐに終わっちゃうわよぉ、二年なんてあっという間。はい、飲んで飲んで」
 僕のグラスに盛大にビールを注ぐので、僕は口からお出迎えをしなくてはならなかった。
「どうですか、ここは。田舎でしょう? 東京に比べたらぜ~んぜん田舎だもんね。つまんないでしょう?」
 僕は苦笑いした。東京と比べる方が間違っている。
「緑がいっぱい残ってて、いいところですよ。のんびりしてそうだし」
「それだけがとりえだって」
 オバチャンはガハガハと笑った。
「あの駅前の大木、あれ凄いですね。よく切らずに残してるんですね」
 僕は何気なくそう言った。
「あの桜、あれは切りたくても切れないのよ」
 オバチャンはにやりと笑う。
「あの桜を切ろうとすると祟りがあるのよ~。だって、あんだけ綺麗な桜の老木、神さんか妖怪かわからないけど、なんかあるって」
 オバチャンの話を聞きながら、僕は闇の中に浮かんでいる桜の姿を思い浮かべていた。
 
 その晩、また夢を見た。前と同じシチュエーション。暗い森の中、暗闇にほうっと浮かび上がる桜の姿。僕はやっぱり泣きながら桜の木の下にひざまずいていた。幹を抱きしめながら、肩を震わせ、声を上げながら……。

 ふと目が覚めた。しばらく自分の居場所がわからなかった。枕元に置いた時計の音がやけに耳に響く。ふと、僕は自分が本当に涙を流していることに気がついた。
 身体を起こし、パジャマの袖で顔を拭った。枕を触ると、涙で濡れている。こんなになるまで泣いたのは何年ぶりだろうか。
 僕はすっかり目が冴えてしまい、困惑して頭をぼりぼりとかきむしった。

 ソメイヨシノと入れ替わるように、駅前の桜に花が咲き始めた。僕は桜を見るのが苦痛になっていた。これほどまでに美しいというのに。花の数が増すにつれ、寂しさと虚しさと、何故か罪悪感が込み上げてくるのだ。
 夢も毎晩のように見るようになっていた。その度に息切れがするほど、泣いている。どう考えても普通ではない。ホームシックからうつ病になったのではないかとさえ思えるほどだった。
 いつもなら金曜の晩に帰るところを、僕は金曜日全休で家に帰った。さすがに不安になったのだ。それほど家族にべったりと接する事はない、どちらかというと淡白な関わりだと自分では思っていたが、やはり一人は心もとないと感じているのかもしれない。何と言っても家族なのだから。
 久しぶりに妻と小学生の娘と過ごす時間は最初のうちは楽しかった。しかし、土曜の昼を過ぎるとなんだかうるさく感じられた。すっかり、気楽できままな一人暮らしの味をしめてしまったようだ。
 例の夢は見なかった。ほっとする反面、どことなくもの足りなさを感じているのが自分でも不可解だった。やはりホームシックだったのだろうか。自分は案外寂しがり屋なのか? 今までそんな風に思ったことはないのだが。実際、月曜日の早朝家を出た時、開放感を感じていたくらいだった。
 そして、駅前で桜を見た。相変わらず見事に咲き誇っている。本当に美しい姿だ。思わず僕は呟いていた。
「ただいま……」
 僕はいつの間にか桜に心を奪われていた。


 桜の季節が終わると、心のざわめきは静かに納まって行った。桜の夢はあまり見なくなった。いや、少し変わってきていた。
 夢の中の桜の花は散り、緑の葉が萌え始めていた。その頃から夢の中に人影が出てくるようになったのだ。
 艶やかな着物をまとったその姿は女だった。大きく抜いた襟から見えるうなじは、白くて細い。僕はその滑らかなうなじをドキドキしながら見つめている。そう、夢の中で僕はその女に恋をしていた。

「あなた、最近痩せたんじゃない?」
 一ヶ月ぶりに帰省したある日、ふと妻がそう言った。
「そうか?」
 僕はグラスのビールをぐっと開けた。しばらく体重を計っていないが確かにベルトの穴は一つずれていた。
「ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
 言っておくが料理の腕は君より上がったよと、心の中で呟く。もっとも、それを口にするほど命知らずではない。
「ストレス?」
「さあ……。それほど困った事もないんだけどねぇ」
 首をかしげる。僕に対してかなり無頓着な妻が指摘する位なのだから、相当痩せたのだろう。しかし当の本人にはさっぱり心当たりがなかった。
「体調は悪くないよ。むしろ、メタボ腹になるよりはマシだろ」
「そりゃまあ、ね」
 妻は肩をすくめた。
「それはそうと、次の週末、うちの近くで祭りがあるんだよ。結構有名な祭りらしくてさ、だんじりが出るんだって。縁日も出るらしいし。愛美も連れてさ、見にこいよ」
 ついこの間、同僚から聞いたところだった。この一ヶ月は仕事が忙しく休日出勤が続いていたため、なかなか家族サービスが出来なかった。たまには一家揃ってのイベントも必要だろう。まあ、手近なところではあるが……。
 しかし妻の反応はそっけないものだった。
「来週? あ~、ダメよ。仕事が入っているから」
「そんな週末に仕事いれなくても……」
 僕は眉をしかめた。
「愛美も可哀想じゃないか、週末までおばあちゃんと過ごすのか?」
「先週、皆でディズニーに行ったのよ」
 妻は少し棘を含んだ口調で僕を遮った。ああ、もう、これ以上は言うまい。僕は黙り込んで自分のグラスにビールを注いだ。自分だけ置いていかれたのかと思うと、少し腹が立つ。自分勝手な憤りだとわかってはいるのだが、疎外感を感じるというのは否めない。
 その夜、布団に入ってから隣に寝ている妻の腕をそっと撫でた。
「なあ」
 低い声で囁きながら首筋に顔を埋めようとすると、妻はもそもそと寝返りを打ち、僕に背を向けた。
「……眠いの」
 くぐもった無愛想な声には、どうしようもない拒絶が満ち溢れていた。
 僕は大きな溜息をつき、暗い天井を見上げた。僕の居場所はだんだん無くなってきているようだ……。


 次の週末、結局娘も妻も来なかった。しょうがないので、一人でぷらぷらと祭りを見て回った。
 地元の古い氏神さんの祭りで、なかなか立派なだんじりが町ごとに出る。茶色や金髪の若者がさらしに地下足袋という昔ながらの勇壮ないでたちで派手に飾り付けられただんじりを勢いよく引き回して歩く。濃い化粧をしたけばけばしい娘達もさらしにハッピ姿で街を練り歩いていた。
「……なんかちょっと違うような」
 僕は思わず苦笑いをした。
 神社の参道に並ぶ縁日を眺めながら、ぷらぷらと歩く。子供の頃はよく近くの祭りに遊びに行った。ヨーヨーを買ったり、射的をしたり、ワタアメを買ったり。あの頃は楽しかった。
 ベビーカステラとヨーヨーをぶら下げて家路につく。駅前に辿りついた頃はもう日が落ちかかっていた。
 薄蒼い夕闇の中に、あの桜が立っていた。緑の葉を茂らせて、静かに佇む姿に僕の心が波立っていく。
 夢の中ではいつもこの幹にもたれかかりながら、彼女が立っているのだ。まるで一枚の絵のように。
 僕は桜に歩み寄り、いつも彼女が立っている場所に立った。そして彼女がそうするように、幹に身体を預けた。ふんわりと甘い香りが漂っているように感じた。

 夏が来ると僕は本格的に体調を崩した。四六時中、ふわふわと心もとない目眩がし、食欲もなく、体重が減っていく。何度か医者に行ったが、診断はいつも「自律神経失調症」という当たり障りのないものだった。今年の夏が異常なまでに暑いという理由もあるだろうが、元々僕は夏に強いはずだったのだ。何かがおかしかった。
 休日となると東京に帰る元気もなく、部屋で一人寝ているだけだ。クーラーをかけ、カーテンを閉め切り、だらだらと惰眠をむさぼる。何をする気にもならなかった。現実とも夢とも区別のつかないような夢を見るだけ。
 
 けだるい暑さは夢の中まで侵入してくる。絡みつくような湿気を含んだ暑い夢の中で僕は彼女との逢瀬を重ねていた。
 彼女は濃い緑の葉を茂らせた桜の木の下で僕を待っている。僕は息を切らせながら彼女の元へと走っていくのだ。
 白い浴衣に身を包んだ彼女は艶やかな微笑を浮かべながら、団扇でゆるゆると僕を扇いでくれる。
 僕はたまらない欲望に駆り立てられ、彼女の身体を強く抱きしめる。
 蝉時雨、ざわざわと歌う桜の木の枝、彼女の髪の香り、扇情的な紅い唇、凶暴なまでにたぎる欲情、甘く蕩ける身体……。連続ストロボのように次々と強烈な光景が甦っていく。
 熱い、熱い、熱い、熱い。
 誰か、僕を、止めてくれ。

 ふと目を覚ます。部屋の温度が少し上がったのだろうか、クーラーがゴオォォンと鈍い音を立てて冷たい空気を吐き出し始めた。
 鈍い頭痛を感じて僕は額を押さえた。額は冷たい汗でひどく濡れていた。腕でその汗を拭い、僕はゆっくりと身体を起こした。体中が汗まみれだ。着替えなくてはならない。そう思い、立ち上がろうとして僕は下着の中の不快な、でも少し懐かしい感触に気がついた。
「……うぅぅ。勘弁してくれよ。情けない」
 欲求不満の中学生のように僕は夢で果ててしまったらしい。
 シャワーを浴びながら僕の頭の中をとりとめのない思いがぐるぐると巡る。
 あの夢の中の女は誰なのだろう。何故、あんな夢を見るのだろう。妻と交わりがないから、欲求不満なのだろうか? いや、妻と一緒に暮らしていても、それほど頻繁に愛し合った事もない。子供が出来てからはどちらかというとセックスレスに近い生活だった。それでもこんな事はなかったのだ。第一、妻に対して、いやそれまでに付き合っていた彼女に対してもあんなに激しい欲望を抱いた事はない。
 夢と言うにはあまりにも生々しい。女の身体の熱さや、肌に食い込む爪の鋭い痛み、何もかもが夢とは思えないほどリアルで鮮烈だった。まるで自分の脳みそに焼き付けられた強烈な記憶のようだ。
 自分を侵食していく、得体の知れない甘い夢にいつの間にか僕は酔っていた。

<後編に続く>



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