丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

闇猫 ①

2009年07月31日 | 作り話
 私がその女を診るのは三回目だった。僅かに白髪の混じった黒髪を丸髷に結い、和服に身を包んでいるその女は物静かで控えめな大和撫子という言葉が相応しい。歳はまだ四十になるかならないかだが、もっと年上に見えた。老けて見えるというよりは、中年独特の姦しさを全く感じさせないからのようだ。まるで影のような、強い日差しに当たると溶けて消えてしまうのではないかと思わせるような、薄い生気。そんな弱々しい雰囲気の中に、妙な色香を感じさせる。
「調子はどうですか。眠れましたか?」
 私は前回のカルテに目を通しながらその女―香代に聞いた。香代は診察用の安楽椅子に腰掛けると遠慮がちに首を振った。
「一時間、二時間は眠れるのですけれどすぐに目が覚めてしまって……」
 不眠症、動悸、息切れ、調子が悪くなると幻覚、幻聴。私がカルテに書き記した診断名は精神分裂病(*)だった。派手な症状は治まりつつある寛解期。
「眠っても悪い夢を見てしまって……。夢さえ観なければもうちょっと安心して眠れるのかしら」
 香代は小さな溜息をついて足元に視線を落とした。
「夢……ですか」
 夢には色々な心理状態が反映していることが多い。患者が抱える問題が夢の中で姿形を変えて現れるのだ。
 香代が診察にくるようになって三回目。私に対する警戒心も少しは薄らいできているのかもしれない。もっと深く、彼女の心に触れることが出来れば……。
「楽に座ってください」
 私は香代に声をかけた。香代は安楽椅子にゆったりと座りなおした。華奢な香代の身体がすっぽりと安楽椅子に埋まる。
「帯、苦しくないですか?」
「大丈夫です」
 香代は上手く身体をずらし、帯が当たらないように工夫している。そのシナと物憂げな表情は無意識のうちの媚態とも思われた。もっとも本人は意識していないだろうが……。
「……夢を見るのですか」
 私は先程の話に戻した。
「はい。大抵、嫌な夢なんです……」
「嫌な夢なんですか」
「ええ。……過去と幻がぐちゃぐちゃになったような、脈絡のない……」
 香代は目を軽く目を閉じた。


 私の母は私が十歳の時に家出をしました。父や祖母からは母は実家に帰されたと聞いていました。何があったのか。何故母は実家に帰されたのか。母の実家ってどこにあるのか。知りたくてたまりませんでした。でも、その話になると決まって父は不機嫌にその場からいなくなったし、祖母は泣き出しましたから、子供心に聞いてはならないと……。
 私が中学生になると父は次第に私を避けるようになりました。最初は悲しかったけど、その理由はうすうす気付いておりました。近所の人が時々言うんです。「香代ちゃん、お母さんにそっくりになってきたねぇ」って。
 しばらくして祖母が亡くなり、父は後妻を娶りました。苛められたとか、そんなんじゃないのですけど、母にそっくりな私が家にいると父も義母も面白くないでしょう。よそよそしい空気が家の中に満ちていました。そうなるとますます行き場が無くなって……。
 中学卒業と同時に就職しました。寮があるのを口実に家を出ました。……ええ、金の卵と呼ばれた時代ですよ。先生のようなエリートの方には想像もつかないかもしれませんけどね。
 真面目に働いて、二十歳になった時。警察がやって来たんです。身元不明の仏がどうやら私の母らしい。確認してくれないかって。
 戸惑いましたよ。だって、十年も逢ってないんですよ? 顔だって変わってるかもしれないじゃないですか。でも、ほうっておく訳にも行かなかった。なにしろ実家の父は警察を門前払いしたそうなんです。
 仕方なく私は警察へと行きました。死体安置所って言うんですか? 暗くて、冷たくて……。廊下を歩いているだけで足が震えてくるくらい、不気味で怖くて。
 母の遺体はそりゃ無残なモノでした。身体中アザだらけで、顔にもひどい内出血の痕が残っていて、喉には白い包帯が巻かれてありました。刃物で掻き切られたのだと検死の方がおっしゃっていました。文字通り、二目と見られない姿。一週間、悪夢にうなされました。なんでも、娼婦の縄張り争いに巻き込まれて、集団暴行の末に殺されたんだって……。
 刑事さんからは家を出てからの母の足跡を聞かされました。
 母は若いヤクザにそそのかされて、駆け落ち同然に家を出たらしいのです。その後、その若いヤクザとしばらく一緒に暮らしていたらしいのですけれど、どんどん身を持ち崩して……。まさか娼婦なんて……。挙句にボロ雑巾みたいに路地裏で殺されるなんて……。
 頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。でも、同時に強烈に母の足跡を辿ってみたくなったのです。
 刑事さんに聞いて、母の住いだったところを訪ねました。薄汚い長屋の、物置みたいな部屋。一人暮らしていたんですって。でも時々男を連れ込んで、日銭を稼いでいたらしいのです。惨めな人生……。
 部屋の片隅に小さなお椀が二つ転がっていました。猫を飼っていてらしくて。その猫だけが唯一心のやすらぎだったんじゃないのって、隣のおばあさんが言ってました……。猫ですか? さあ、母が殺された後、見かけなくなったって……。
 世間はアメリカに追いつけ追い越せで、東京タワーだ、テレビだって、何かに憑かれたように走っていて、でもついていけない惨めな敗者が自分よりももっと惨めな者を虐げて……。そんな闇があるなんて事自体が誰も認めなかった。いえ、目を向けようとすらしなかった。
 しばらくして連続殺人事件が起こったんですよ。被害者は皆ひどい殺され方でした。鋭利な刃物で首を掻き切られてって言われてましたけど、食い殺されたような傷だって噂もあった。でも殺されたのは、娼婦とヤクザ。闇の住民達ばかりだったから新聞にもほとんど載らなかった。世間からすれば、DDTでシラミがいなくなるようなものだったんじゃないですか?
 でも私は気になって仕方なかった。気にしちゃいけないって思いつつ、自分を抑えることが出来なかった。何故なんでしょうね。今となっては母が呼んでいたんじゃないかって思いますけど……。
 ある日、仕事が終わってからこっそり寮を抜け出して、その界隈へ足を運んだんです。
 行ってすぐに後悔しました。あんな界隈、堅気の娘が行くところじゃありませんね。あっと言う間に男の人たちに捕まって、物陰へ連れ込まれて……。
 その時、一人の男の人が助けてくれたんです。背の高い、ほっそりした、でも物凄く腕っ節が強くて。私を陵辱しようとしていた男達を叩きのめして、私を引きずるようにしてその場から逃げたんです。
 死に物狂いで走って走って、ようやく街の外れの住宅街に辿り着いて。電信柱にしがみつくようにしてぜえぜえ言っている私にその人は言いました。
「莫迦か、アンタ。若い女が一人でフラフラしてたら襲われるに決まってるだろ」
 私はその人を見て息を呑みました。色白の綺麗な顔立ち。いえ、それに驚いたんではなくて、その人の目が闇の中でキラキラ光っていたから。まるで宝石のように、緑色の美しい光を帯びた瞳。その瞳はじっと私を見つめていました。彼もまた凍り付いたように私を見つめていました。どれくらいそうしていたでしょうか。
 彼は呟いたんです。
「アンタ、もしかして香代?」 
 驚きました。まさか私の名前を知っているなんて。
「本当に、香代?」
 その人はしばらく私を見つめていましたが、やがて私に滑るように近づくと私の髪や首筋に顔を近付けました。心臓が信じられないような速さで走っています。それはさっきとは明らかに違う理由で……。
「ああ、アノ人と同じ匂いがする」
 その人は泣きそうな声でそう振り絞ると私の身体を抱きしめました。

②に続く
(*)統合失調症の旧呼称

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