丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

闇猫 ②

2009年07月31日 | 作り話
 ユウという名のその人は母の友人だと言いました。母が亡くなるまで親しく付き合っていたと。母はよく私の事を話していたそうです。自分がこうなったのは自業自得だけど、家に置いてきた娘の事は気になる、どんな娘になっているのだろう。寂しそうに言っていたのですって。複雑な気持ちでした。嬉しいような、腹立たしいような。でもその思いを母にぶつけることはもう出来ません……。
 それにしても、ユウさんというこの人は信じられないくらい美しい人でした。これほど美しくしなやかな男性を私は観たことがありません。映画俳優だってこれほど美しくはないでしょう。すらりとしなやかな肢体。小さな顔。しなやかな身のこなし。そして何より妙に浮世離れした、生活感のない雰囲気。何の仕事をしているのかと訊きましたら、ユウさんは母と同様のいかがわしい商売をしているのだと言いながら、にやりと笑いました。その笑顔の妖しい美しさに私は心の奥底が激しく波立ちました。
 そして同時に、母に対する嫉妬心を感じたのです。家庭を捨て若い男に溺れ捨てられ、身体を売るような商売をしていたのに、こんな若くて美しい男性と付き合っていたという事実に憎しみすら感じました。
 ユウさんは私の昼休みの時間になると、職場の近くにふらっと現れるようになり、私は周囲の目を盗んでユウさんと会うようになりました。母のことを教えて欲しいというのは口実で、ユウさんと過ごす時間が欲しかったのです。……いいえ、正直に言うと、母からユウさんを奪いたかったのですよ……。
 ユウさんはいつも昼間しか逢ってくれませんでした。夜ならゆっくりと逢えるというのに、いつも昼間なんです。夜は自分が仕事をしているから、というのが理由でした。
「俺の仕事なんて、若い娘が興味を持つようなモンじゃないよ。薄汚い仕事だ」
 ユウさんはそういうとニヤリと笑うのです。薄汚い仕事と言いながら、その表情は少しも悪びれた風はありませんでした。
 私の心のざわめきははっきりとユウさんへの恋心に変わっていきました。ユウさんが欲しい……そう思うようになりました。それは憧れなんて綺麗なものではなく、もっと身体の芯が疼くような、肉の渇きのような、生々しい感情でした。まだ男の人を知らない、手さえ握ったことのない二十歳の初心な娘のはずなのに、あんな衝動が自分の中に蠢いているというのが自分でも不気味でした。それは私が、あの母と同じ血をひいているという事でしょうか……。
 とうとう私は我慢できなくなり、あの街を再び訪れました。なるべく人目を引かないように、年寄りの着るような地味なコートで身を包み、ネッカチーフで頭をすっぽりと隠し、まるで占い師の魔法使いのおばあさんのようないでたちで……。今から考えたら笑い種ですけどね、また襲われるのはいやでしたから。
 新月の夜でした。ねっとりと絡みつくような闇の中をユウさんの姿を求めて私は歩き回りました。
 どのくらい歩き続けたことか。恐らく深夜だったでしょう。薄汚い路地裏に忽然と小さな空き地が現れました。そこは元々どこかの店の資材置き場だったようで、大量の廃材や廃棄物、古びた丸太やらビールの箱やら、ドラム缶なんかがゴロゴロと無造作に放置されていました。
 私は何気なくそこで足を止め、魔法にかかったように立ちすくみました。
 緑色や金色の小さな光があちらこちらに煌いています。それは小さな冷たい炎のようでした。その光が一斉に私の方を見ています。それは、そう、猫の瞳だったのです。無数の猫達がじっと私を見つめていました。まるで私を監視するかのように……。
 私は恐ろしさで足が震えました。そこから逃げ出さなきゃ。そう思った途端、空き地の一角から何か異様な気配がするのを感じ、そちらを見てしまいました。
 ブロック塀と、まとめて立てかけられた廃材の影で絡み合う男女。見るからに娼婦と思しき女はブロック塀に両手をつかされて、背後から男に貫かれていました。だらしなくはだけた胸からはふくよかな白い双球が零れ、激しく揺れています。そして男が腰を突き上げるたびに女の真っ赤な唇から呻き声が漏れます。その声はまるで獣のようでした。
 私はその場にへなへなとしゃがみこんでしまいました。男女の睦み合う姿を見たのは初めてでした。それは密かに思い描いていたような密やかで淡く切ない交わりとは別世界の、まるで獣のような醜悪なものでした。胃から酸っぱい物が込み上げてきて私は思わず口元を押さえました。
 女がのけぞりながら一際大きな咆哮をあげ、男は女の背中に覆いかぶさりその首筋に顔を埋めました。
 女の咆哮はいきなり断ち切られ、かわりにひゅうひゅうという笛のような擦れた空気の音が微かに響き始めました。
 私は目を見開いたままその光景を見つめていました。
 女の白い喉はぱっくりと切り裂かれ、そこから噴水のように血が噴出しているではありませんか。女はびくびくと身体を痙攣させると壁に上半身を押し付け、やがてだらりと両手を落としました。
 男は女の血を全身に浴びながら女と繋がったままその様子を冷静に眺めていましたが、女が息絶えるのを見届けると無造作に女の身体から離れました。女は人形のようにその場に崩れて落ちました。
 この界隈で連続殺人事件が起こっている。そんな話が頭の中をぐるぐる回っています。まさか、まさか、まさか……。恐怖のあまり身体がすくんで、私は逃げ出すことすら出来ません。足が、重くて、動けないんです……。
 血にまみれた男は私に気付き、ゆっくりとこちらを向きました。
「……見た、な?」
 闇の中でらんらんと緑に燃える瞳は私をじっと見据えています。それは紛れもないユウさんでした。
 そして私は気を失いました……。

 目が覚めると私は寮の布団の中にいました。窓のカーテンの隙間からは朝の白い光がまっすぐに差し込み、畳の上に明るい線を描いています。
 私はゆっくりと身体を起こしました。いつもの習慣で、壁にかかった日めくりを見ると土曜日となっていました。妙に早くに起きてしまいましたが、どうやら今日はお休みのようです。
 なにかとんでもなく忌まわしい、悪い夢を見ていたような気がしました。夢の内容を思い出そうとするのですが、頭がずきずきと痛んで上手くいきませんでした。
 私は顔を洗おうと起き上がりました。
「……やだ、始まっちゃった?」
 私の寝巻きには赤い血のシミがついています。月の物にはまだ早いはずなのに……。そう思いながら私は着替えました。
 血のついた下着と寝巻きを洗おうと洗面所に向かい洗い場にそれを置いた時、私はふと下着についた異物に気がつきました。
 細くて柔らかい毛でした。まるで猫の毛のような。それが下着にも寝巻きにも絡みつくようにくっついていたのです。まるで猫に身体を擦り付けられたかでもしたように。でも寮は当然ペット禁止です。そんなものが身体につくはずもないのです。
 何か妙な違和感を感じながら、私はカランを捻りました。蛇口から水が勢いよくほとばしりました。


 香代の言葉が途切れた。私はペンを置くと香代を見た。香代は目を閉じ、小さな溜息をついた。
「疲れましたか?」
「ええ。少し」
 私は腕時計を見て少し驚いた。香代が診察室に入ってからもう二時間近く経っている。こんなに長い時間、それも仕事を忘れて、患者の話に聞き入った事はない。
 私は席を立つと部屋の片隅に置いてあるワゴンへ近寄った。水差しとコップが置いてる。私はコップに水を注ぐとそれを香代に差し出した。
「良かったら、どうぞ」
「すみません」
 香代はにっこりと笑うと座りなおし、コップを口元へと運んだ。白い喉が小さく動き水が吸い込まれていく。香代の様子を見ながら私は声をかけた。
「小説みたいな夢ですね」
「ええ」
 香代は意味ありげな微笑を浮かべた。
「自分でもそう思うんですけど、時々、どこまでが夢でどこまでが現実だったのかって混乱するんです」
「現実?」
「ええ」
 あんな夢のどこをどう取ったら現実だというのか。母親が無残な死に方をしたというところまでは現実だとしても、そこから先はどう考えても妄想だ。病が引き起こした幻に翻弄されているのだろう。人は時として重く暗い現実から逃避するために妄想という逃げ道を作る。その妄想が現実とすり替わり、人を混乱させるのだ。
「ユウさんとはそれからどうされたんですか?」
 試しに訊いてみる。化け猫もどきの色男の妄想は夢の中だけなのか。それとも今も彼女を現実から乖離させようとしているのか。答え如何では薬の内容も変えないと……。
 私の思惑をよそに香代はその問いには答えず、謎めいた微笑を浮かべたままコップを私に手渡した。
「ありがとうございました」
「いえ。じゃあ今日はこれくらいにしておきましょうか。薬は少し内容を変えておきます。それで様子を見てください」
 香代がゆったりと立ち上がった。私は香代をエスコートするように扉の方へと歩き、扉を開けてやった。
 待合室に若い男が座っていた。まだ二十代だろうか。長い足を組み、ゆったりと座っている。
「迎えに来てくれたの?」
「あんまり遅いから」
 男はしゅうっと一つ伸びをすると滑らかな動きで立ち上がり、香代の傍へと歩み寄った。
「お時間を取ってしまってすみません」
 私は謝罪の言葉を口にしながらその男に釘付けになっていた。初めて見る顔なのにこの既視感は一体なんなのだ? しなやかな身のこなし、ほっそりした色白の顔立ち。どこかで見た事があるような気がしてならない。
「失礼ですが……?」
 私は香代を見た。香代の家族歴はおおよそ把握しているが、どうみても親子ほど歳が離れていそうなこんな若い男の存在は聞いた事がなかった。
「夫ですの。内縁なんですけど……」
 香代が恥ずかしそうにうつむいた。その様子を愛おしげに見つめる若い男。私はあっけにとられて二人をかわるがわる見比べた。
「じゃ、行こうか」
「ええ」
 二人は並んで出口に向かって歩き始めた。玄関の扉を押し開け、香代が先に出る。その後ろから続いて出た若い夫が不意に振り向いた。きらりと瞳が緑色の光を帯び煌く。私は総毛が逆立っていくの感じた。緑色の瞳……。この男、まさか? いや、そんな莫迦な!
 男は私の顔を見てニヤリと嗤った。
 扉が閉まった。

                                  了


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