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丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

生きる悲しみ 死の孤独

2009年02月04日 | お仕事
 最近よく聞く言葉がある。「早いことアッチに行きたいわ」仕事でお付き合いのある利用者さん達の言葉だ。体調が悪いという事もない。勿論、九十歳前後の高齢の方ばかりなので、あちこちちょこちょこと具合の悪いところはある。認知症の方もある。でもどなたも致命的というようなレベルの不調ではない。
 長生きをするという事はめでたい事だと思う。世の中には生きたくても生きられない人も少なくないし、不慮の事故で突然亡くなるという事も多い。そんなアクシデントを潜り抜け、九十年、百年と生き延びると言う事は強運の証だ。
 しかし長く生きると言う事は、他人を送るという事でもある。一年一年、友人達は減っていく。九十歳を越すと、自分の娘や息子もたいがい高齢になっている。逆縁は親不孝だと言うが、我が子が病に倒れ、先に逝ってしまったという方も少なくない。
「私が生きてるのに、子供が先に逝ってしまった。申し訳ない。なんで長生きしてるんやろ」
 娘を送った利用者さんがぽつりと呟いた言葉に、私はかける言葉がなかった。この世に取り残されていく孤独。その重さをまだ私は実感したことはない。

 著しく体調が悪くなり、体力がどんどん落ちてきている利用者さんがいる。いつも明るい方だが今日はしきりに、
「もうあかん。私の事、忘れたらあかんで」
 と、おっしゃっていたらしい。
 早くアッチに行きたいと思う反面、アッチの世界が少し近づいてくると不安になるのだろう。それは肉体が滅びるという事への恐怖と言うよりも、むしろ人々から忘れられるという孤独感なのかもしれない。それはわかるような気がする。本当の死は「自分」という存在が人々から完全に忘れ去られる瞬間に訪れる。
 私は自分の存在を確認するために、小説を書いているんじゃないかと思う時がある。何かを書いて、それが世に残る。直接私を知っている人がこの世から消え去っても、私の思考の一部は文字となってどこかの誰かの本棚に残る。私の痕跡はわずかながらもこの世に残る。
 臓器提供者カードを持っているのも同じ理由なのかも知れない。私は居なくなっても、誰かの身体の一部として私はまだ生きる事が出来る。そんな事を明確に思って登録している訳ではないが、心のどこかにそんな思いがあるのかもしれない。粛々と死を受け入れたいという理想を持ちながらも、心のどこかでその真の孤独から少しでも遠ざかりたいと思っているのだろうか……。

 生きる事も死ぬ事も、どちらも哀しいものだ……。


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