老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

303;ぼけた脳を洗濯してみる

2017-08-15 19:13:33 | 文学からみた介護
ぼけた脳を洗濯してみる 
川端康成『山の音』新潮文庫


長男の嫁菊子に語り掛ける。
わたしはね、このごろ頭がひどくぼやけたせいで、日まわりを見ても、頭のことを考えるらしいな。
あの花のように頭がきれいにならんかね。
さっき電車のなかでも、頭だけ洗濯か修繕かに出せん物ものかしらと考えたんだよ。
首をちょんぎって、というと荒っぽいが、頭をちょっと胴からはずして、洗濯ものみたいに、はい、これ頼みますよと言って、大学病院へでも預けられんものかね。
病院で脳を洗ったり、悪いところを修繕したりしているあいだに、三日でも一週間でも、胴はぐっすり寝てるのさ。
寝返りもしないで、夢もみないでね。」(32頁)


『山の音』は、昭和29年に出版された作品である。
尾形真吾は62歳、物忘れの症状がではじめてきている。

「真吾は失われてゆく人生を感じるかのようであった。」(7頁)
この小説の感想は省くとするが、
昭和20年代は50歳から60歳で亡くなっていた時代である。
小説の冒頭に登場する真吾は、ぼけてきたことに不安、悩みを、面白い発想で表現されている。
ぼけた頭を、胴体から外し、洗濯ものみたいに脳を洗い、修繕(治療)していく。
ぼけは、昔からあったが、いまほど社会問題とはなってはいなかった。


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