早朝風景
1840 手につかまり歩く
老いて足元がふらつき転倒してしまうのではないかと
娘は老母の手首をつかみ足速に歩く
母親に比べ歩幅の小さい幼児は
歩幅が合わず走り歩きのようになり
阿吽の呼吸がとれず 躓き転んでしまい
路端にしゃがみ込み泣いてしまう
老母も同じく娘の足に追いついていけない
幼児と同じく「ゆっくり歩いて」、と訴えることもできない
手首をつかまれた人に合わせて歩かねばならない
老母が娘の手を握る
娘の足が速くなり、自分の足が追いついていかなくなり
転びそうになる前に、老母は娘の手を離す
歩行介助の主体者(主役)は誰か
(介護の主体者は誰か。利用者(老人)であると介護のテキストに書いてある)
老母や幼児が主体者
歩行の場合、手を握るのは老母である
介護者に手をつかまれ、転びそうになり「危ない」、と思っても
自分の身体を守ることができない
娘(介護者)先に歩いているので、後ろの状況がわからない
転ぶ音がしてはじめて振り向く
手を引かれるときは、相手に命を預けるのではなく
自ら相手の手を握り歩行の助けを願う
些細なことのように見えるが
実は大切なことなのかもしれない
と思ったのですが、
母娘でありながら「ゆっくり歩いて」と言えないのですか。
老いた母を自分の歩みについてこさせようとするのですか。
理解できないのは私の想像力が足りないのでしょうか。
自分もそうです
老いてはじめて
老いた母のことを思い出しました
食べることも
ひとつ一つの動作も
遅くなります
思いやりが不足している、と
自責される必要はないです。
ふと、気がつき
思い直してみます。
アイヘルパーとしての講習は受けておりません。
が時々、多少のアップダウンコースを含んだハイキングに参加し、ペアを組んで歩いてきました。
足元だけでなく周囲についても目の代わりを致しますが、どうしたって慎重になります。
お相手は白状を持ち、私の腕をつかんで歩きます。
リードしますが、腕をつかむ感覚、歩調を察しながら歩きます。
そんなことと思い合わせ、相手の状況を思いやる気持ちの大切さを思ったのです。
Kei さんの手で打った点訳を媒介としながら
視覚障がい者と関わっておられる
お互いに違う世界を感じたり
反対にその時間を共有しながら
いろんなことを体験されていることと思います。
腕をつかむ感覚
腕をつかむときの強弱や微妙な足の動きなど
それも視覚障がい者から伝わる言葉であり感情なのかな、と思います
目が不自由な分、聴覚、皮膚感覚はとても敏感です。
遠くから応援、声援を送ります。