老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

人を殺したことのある手で淹れたコーヒー❷

2020-08-03 04:46:33 | 読む 聞く 見る


1615 人を殺したことのある手で淹れたコーヒー ❷

英治(67歳)は仕事を辞め、
寝たきりの妻(63歳)を3年介護を続けてきた。

週に2回、ヘルパーに身体介護(おむつ交換、食事介助、床ずれ防止のマッサージなど)をお願いした
週にこの2日だけが英治の心の休まる日でもあり
カラオケサークルに行き息抜きができる日でもあった。

カラオケサークルで53歳の志麻子に魅かれ恋心を抱き、
妻が死んでさえくれれば、寡婦である彼女と一緒になれるのに。
英治の心にたびたび魔が差してしまいそうになる。

「お前、いったいいつまで生きているつもりなんだ」
「いったいいつまで、俺に迷惑をかければ気がすむんだ」
(前掲書176頁)

「早く死んでくれ、悦子。そうすれば俺は志麻子と」(前掲書180頁)

英治は右手に濡れタオルをしっかりつかんでいた。これを悦子の鼻と口に
かぶせれば・・・・窒息して死ぬ・・・・・」
(前掲書181頁)
濡れタオルを両手で広げて、英治は立ち上がったが、顔のすぐ手前で止まった。

ふらりと部屋を出た英治は、珈琲屋の行介の顔が見たかった。
コーヒーを淹れる手で、地上げ屋を柱に打ちつけて殺した行介に
英治は「人を殺すということはどういうことなのか、教えてくれませんか」、と尋ねた。

行介の眉間に深い皴が刻まれるのがわかった。
行介は英治を直視しながら話す。
「人間以外のものになることです。二度と人間に戻れないということです」(前掲書186頁)

英治は家に帰り、悦子の枕許に座った。
英治の右手には濡れタオルが再び握られ、今度こそはやり抜くのだ・・・・。
「志麻子という人と一緒になるためには、お前が死ぬより方法がないんだ。だから、悦子。黙って死んでくれるか」

最後に英治は椅子に腰をおろし、悦子の好きだった『すきま風』を歌った。
英治は「すまない、悦子」と呟いたとき
悦子の落ちくぼんだ両目がうっすらと開かれ目が光った。
「殺してください。あなた」
嗄(か)れた低い声だったが、はっきり聞きとれた。
いい終えた瞬間、落ちくぼんだ目から涙がこぼれて頬を伝った。
(前掲書187~188頁)

英治(男)は不倫をしながら、長年連れ添った妻に「志麻子と一緒になるために、死んでくれ」、と
濡れタオルで殺そうとするができなかった。
介護疲れから妻を殺し、自分も後追い自殺をする気持ちはわかる。
英治の心にすきま風が吹き、志麻子に魅かれ、すきまを埋めようとした気持ちもわからないわけではないが、
妻に「死んでくれ」と言うのは余りにも残酷すぎる。

介護に疲れ、身体も心もボロボロになると
「いつまで生き続けるのだろう」
「疲れてしまった」「駄目になるかもしれない」などと
胸の内でこんな思いがよぎることもある。
英治の呟く言葉のなかに在宅介護者の大変さしんどさが吐露されている。

夫の足手まといとなり、この先も迷惑をかけ、妻の介護が重荷になっていくのは申し訳ない、と思い
妻は「殺してください、あなた」と嗄れた声と眼尻から涙がこぼれ落ちる。

人を殺すと「人間以外のものになることです。二度と人間に戻れないということです」。
行介の言葉が印象に残った。

{終わり}





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