音はいのち
自然界にはたくさんの音が流れている。その音を聞くことができてもできなく
てもそこにある音は体の五感で感じるだろう。私は直接聞くことができる能力を得た。
きっと、幸せ者だと思う。
世の中にある音は、心地よい音ばかりではない。人の罵声、嵐、濁流、怖さを感じる音は
たくさんある。反面、やさしさや穏やかで、心が静かになる音もたくさんある。
人は音が大好きで、その音が音楽としてまとまった時、個人の好き嫌いの感情が生まれる。
私はあの人の曲が好きだ、いつも聞いている、素晴らしいことだ。
この世界に無音の場所はあるのだろうか。音が空気振動である限り、その世界はどこに
行ってもないはずだ。
ただ一つ、瞑想の世界は別ではないかと思う。座禅を組みただひたすら己のこだわりか
らの解放を求める。それができたとき「音」というものはなくなる。
あるのは、心の世界、おのれの中にある真理の奏でだ、奏は音ではなく。心の振るえなの
だ。
私は考える。いのちは何か。心臓の鼓動、血流の流れ、それが心のエネルギーとなる。だが、
これだけではいのちの神髄は不完全だ。いのちのいのちたるゆえんは、無音である。無音の
境地を知らなければ本当の「いのち」を感じない。
でもこれは我々がそう思う錯覚に近い。瞑想の世界にそれがあるとしても、それは万人の
ものではない。不可能に近い可能性の問題だ。
ただ言いたかったのは、音があろうとなかろうと、感じる力は誰にでもある。その力が
いのちだ。
いのちには音がある。その音を聞け、去れば死ということを間違った無音の世界と看破し
死を選ぶことはないだろう。生きていればこそ世界は音のある世界だ。
その世界を我々は無にしない。音を感じ、喜び、新しいいのちを楽しむのが今の世界だ。
無音の世界はいずれ誰にもやってくる。その時まで一生懸命生きなければ、本当の「音」
はわからない。命には始まりと終わりがある。それは音の始まりと終わりでもあるのだ。
A Sound,sound is happiness forever
HEALING MUSIC GREENDOOR
自然界にはたくさんの音が流れている。その音を聞くことができてもできなく
てもそこにある音は体の五感で感じるだろう。私は直接聞くことができる能力を得た。
きっと、幸せ者だと思う。
世の中にある音は、心地よい音ばかりではない。人の罵声、嵐、濁流、怖さを感じる音は
たくさんある。反面、やさしさや穏やかで、心が静かになる音もたくさんある。
人は音が大好きで、その音が音楽としてまとまった時、個人の好き嫌いの感情が生まれる。
私はあの人の曲が好きだ、いつも聞いている、素晴らしいことだ。
この世界に無音の場所はあるのだろうか。音が空気振動である限り、その世界はどこに
行ってもないはずだ。
ただ一つ、瞑想の世界は別ではないかと思う。座禅を組みただひたすら己のこだわりか
らの解放を求める。それができたとき「音」というものはなくなる。
あるのは、心の世界、おのれの中にある真理の奏でだ、奏は音ではなく。心の振るえなの
だ。
私は考える。いのちは何か。心臓の鼓動、血流の流れ、それが心のエネルギーとなる。だが、
これだけではいのちの神髄は不完全だ。いのちのいのちたるゆえんは、無音である。無音の
境地を知らなければ本当の「いのち」を感じない。
でもこれは我々がそう思う錯覚に近い。瞑想の世界にそれがあるとしても、それは万人の
ものではない。不可能に近い可能性の問題だ。
ただ言いたかったのは、音があろうとなかろうと、感じる力は誰にでもある。その力が
いのちだ。
いのちには音がある。その音を聞け、去れば死ということを間違った無音の世界と看破し
死を選ぶことはないだろう。生きていればこそ世界は音のある世界だ。
その世界を我々は無にしない。音を感じ、喜び、新しいいのちを楽しむのが今の世界だ。
無音の世界はいずれ誰にもやってくる。その時まで一生懸命生きなければ、本当の「音」
はわからない。命には始まりと終わりがある。それは音の始まりと終わりでもあるのだ。
A Sound,sound is happiness forever
HEALING MUSIC GREENDOOR
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます