MOZART EINE KLEINE NACHTMUSIK 他
言わずと知れたモーツアルトの名曲である。ベルリン・フィル八重奏団が演奏している。
第1ヴァイオリン アルフレット・マレンチェック
第2ヴァイオリン ルドルフ・アルトマン
ヴィオラ 土屋邦夫
チェロ ハインリッヒ・マジョウスキー
コントラバス ライナー・ツェペリッツ
第1ホルン ゲルト・ゼイフェルト(ディヴェルティメント)
第2ホルン マンフレット・クリエールディヴェルティメント)
あまりにも有名で私が言うことは何もない。静かな夜、ワインを片手に、
ジャケットを見ながら荻昌弘さんの論評を読んでいた。そんなシチュエー
ションを想像する。
ここでは荻さんの書いた文章を紹介させていただく。最近の音楽評論で、
このような表現ができる方はいないと思う。
転載不可だと思うが皆さんに読んでいただきたいので、あえて転載いた
します。誤字脱字があればすべて私の責任です。
荻 昌弘
「ベルリン・フィル八重奏団の神髄」の皮切りになるこの名レコは2
つの点で、みごとにこの演奏団体の本質をあきらかにしていると、いえ
よう。ひとつは、モーツァルトの2傑作を通して、私たちを心静かに室
内楽の醍醐味へひきこんでゆく、非のうちどころのない音楽的洗練であ
る。そしてもうひとつ。それはこの八重奏団が、いつもながら、楽曲と
演奏との関係、その本質問題をつきつけてくる重味だ。逆の言い方をす
ると、このレコードでベルリン・フィル八重奏団は、モーツアルトから
純粋にモーツァルトだけをとりだすという端正無比の演奏をおこなった
ために、2曲は、じつはディヴェルティメントとかセレナーデなどと娯
楽的な名称で呼ばれるのがおかしなくらい、堂々と正面きった名曲にき
こえてくるのである。
たとえば、オーケストラ化された甘い水気たっぷりの演奏などで「アイ
ネ・クライネ・ナハトムジーク」をききなれた耳には、この五奏者によ
る演奏は、やや素ッ気ないとも思われかねまい。たしかにこの演奏は、
たとえセレナーデであるとしても、春のおぼろ夜のそれではなくて、も
っと硬質な、月の光がさえざえと冷えた夜の、想いのうたになっている
から。
しかし、ききちがえてはならない。この団体のもつ硬質感は、決して金
属的な、つまり無味乾燥の"現代"ドライ趣味ではない。澄んだ5層の弦の
重なりに流れるのは、抒情とすればまさしく夜の抒情だ、という点こそ
肝心なのである。ただベルリンのこの5人は、その抒情を決して自分らの
恣意で、誇張しようなどとは小細工しないだけだ。余計なボルタメント
など一切つけぬことで美しさに生きる第一ヴァイオリン。それを支える
内声部の、シンフォニックな厚みの充足、そしてなんともすなおな弾力
で踏まれてゆくリズムの正確さ。その格調正しさが、決して機械主義に
おちいっていない証明は、たとえば、第2楽章のロマンッェ、小きざみ
な低弦のリズムがクションで受けとめられるようにリタルダンドする、
えもいわれぬエレガントな情感をきけば充分である。
ともあれこの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のベルリン・フィ
ル八重奏団は、この曲がなにゆえに“1音の無駄もない簡潔の傑作”とた
たえられるのかその真の理由を、音色と演奏の構築じたいで解きあかし
実証してみせた……そんなようにきこえる。私たちはふだん、あまりに
この曲を安易にききすぎているので、この名曲がいまや人工の手垢にこ
ねくりかえされてどこまで堕落させられているか、なかなか気付きにく
い。この5人はそれを潔癖な正確さで、もう一度モーツアルトへ戻すので
ある。
しかし、この第1曲以上に唸らされ考えさせられるのは、私にはK287の
ディヴェルティメントである。白状するが私はこの秀演ではじめて、ア
インシュタインがこの曲を「唯一無二の傑作」と呼んだのもうそでない
ことを納得した。
この曲はすでに多くの演奏団体でレコード化されているが、このベルリ
ンとおよそ対蹠的な演奏にはウィーン・フィル八重奏団があるといって
よい。この聴きくらべは興味深い、オーケストラ世界の双璧であるBP
OとVPOの特質が、そのままエッセンスだけ抽出され音の標本になっ
て目の前に並ぶような印象だ。ウィーンによるこの曲は、各楽器やフレ
ーズの表情を極度に大きくとることで、あたたかい人間感と、ディヴェ
ルティメントの愉楽面をこそ強調する。
それに対して、ベルリンは、あくまで、音と楽曲の様式感そのものへ純
粋にアプローチすることで、演奏は曲の.音楽美それだけに生きようとす
るのである。たとえばブラームスの弦楽6重奏曲などでも、この八重奏団
は、決して楽曲に妙な色をつけぬ演奏の正確さの徹底によって、曲がじ
つにクリアに、いわば"判りやすく"きこえてくるのが独特の強味だ。そ
の特色はこのモーッァル.トに至って、一つの芸術論理に昇華した観があ
る。
マレチェックの第1ヴァイオリンは、この曲でも情緒が甘味過多にならぬ
清澄.感が快いのだが、その透明な壮麗さを支える他の声部が、いつも完
全な対等さで彼とバランスを保ちつづけるみごとさこそ、何より彼らの演
奏を“腰のすわった”ものにしている基本だろうと思う。しかもここでは
助奏のホルンが典雅な謙虚さで弦と同質化し、決して前へ飛出そうとしな
い。それが一層、演奏の統一感をひきしめてゆく。
各楽器がきっしりと対話を繰返す第1楽章は、演奏の緊密さが先ず印象深い。
一転して第2楽章の6変奏は各パートのソロ的なやりとりが、奏者たち一人
づつの実力をいかんなくフィーチュァする。
欧米の名だたる室内楽団における、はじめての日本人であるだろう土屋邦
夫氏のヴィオラの、非常な美音と品格。
第3楽章は、テンポの設定がいいようもなく美しい歩みだと思うが、この楽
章のトリオ部分第4楽章の弦部は、ベルリン・フィルの独壇場、「音色美」
のうたげである。ヴァイオリンが息の長い特有の野情歌をつづけるあいだ、
ヴィオラが軽いもやのヴェールをかけてゆくところなど、形容に苦しむか
なしい美しさである。しかもそのあと、第5楽章で弦とホルンが優雅に呼応
した末、第6楽章の立上りで突如うたいだされる悲愴な詠嘆調が、一瞬にし
て早口のリズムでディヴェルティメントの享楽感へ回帰してしまう転回の
巧味など、心にくいモーツァルトのおもしろさを、完壁にこの演奏は出し
きっている、と私は聴きかえせば聴きかえすほど、感嘆を深めずにいられ
ない。
これはまさに、「飽きぬ演奏」である。そしてそれは、この楽団のつねに
かわらぬ基本姿勢なのだ。
HP
HEALING MUSIC GREENDOOR