HAZAMAN'S WORLD WEBLOG

自分が描く絵のことや、日々の暮らしの中でふと気付いたことなど・・・・

コラボレーションとかグループと言うこと

2008年05月05日 | Weblog
既にここで書いているかもしれませんが、今年の10月、横浜にある神奈川県民ホールの一部屋を使って、大学時代の先輩と展覧会を企画することになりました。

かれこれ10年ぐらい前から「いつかやろう!」と言っていたものは時間はかかりましたが、やはり現実になる。かつて漠然と想像していたものは単なる二人展ですが、それが今回具体的になったとき、自分達はディレクターとして動こうと決めたことは、わずかながら進歩があったのか?と思ってもいます。

下の文章は、二週間ほど前、次の展覧会のことも思いつつ、自分の仕事のことを書いてみた文章です。

「コラボレーションとか共同制作とか(仮)」

僕の場合は、何故か自分一人で描いて発表していることよりも、田中慎平という、個人みたいな名前のユニットのほうが良く知られているのではないか、そう自分では感じている。確かに、一人で仕事をすることがごく当たり前の今の絵の世界で、延々8年以上、詩人とチームを組んでやっているのだから、自然と人目を引くのかもしれないとは思う。

ところで、いわゆる「コラボレーション」という言葉について、恥ずかしながら、僕自身この言葉の意味を良く分からずに使っていて、どちらかというと、共同制作という言葉の方が馴染があるのだが、「コラボレーション」は、もしかすると90年代から頻繁に使われ始めた言葉ではないだろうか。

60年代から70年代、日本の現代美術の中にも、グループ活動華やかりし時期があったが、僕が記憶している限りでは、当時の評論などの中に、「コラボレーション」なんて言葉は出てこなかったような気がする。

多分、かつて新鮮味を失った「アイデア」と言う言葉がいつの間にか「コンセプト」に変わってしまい、ずいぶんと高尚な、特別なもののようになってしまったのと同じで、「コラボレーション」も、言葉が与える印象ほどには、確かな内実のある言葉ではないのだろう、そんな気がする。

では、「コラボレーション」なる物はひとまず脇においてい置いて、自分にとって共同制作とは何かと問うと、それは、作品を作者の意図や個性から一度切り離すための過程となる作業だ、と思っている。そして、その前提とは、美術とは自己発見や自己実現、あるいは自己表現といった、今日ごく当たり前になってしまっている「私ー自分」というものを主役にしたた文化の組み立てが、もう、人間にとって魅力の無いものになっているのではないかということにある。

私が私の都合のために始めた美術は、結局は私という範疇から出ることはない。美術が人間にとって魅力的でありうるとすれば、美術の中に、作者である自分ではない誰かが、何かを発見できるかもしれない道標が見出される時だけだろう。

では、その道標を、ぼくは、どのように作り出そうとしているのか。田中慎平の方法ならごく単純だ。

自分たちの描いた絵と書いた詩をそれぞれ用意する。そして、幾つか集まった材料の中から、これはと思う絵と詩の言葉の組み合わせを見つけるだけだ。

このとき基準になるのは「面白い」と直感的に感じと取れる組み合わせを採用すると言うことに尽きる。そして、この「面白い」と言う直感は、例えば座禅のように宗教的な修練によって始めて獲得されるような、特別な「悟り」の状態とは何の関係もない。

ここにあるのは、日常的に様々にある物の配置を変え、そのコンテクスト変更することによって、今までに見ることが出来なかった意味やイメージを現出せしめるという、極めてありふれた方法でしかない。

もしかすると、一見意味の繋がらない絵と詩の組み合わせ、しかも本来は完成された詩を分解して組み合わせる仕事は、どこかダダを彷彿とさせるかもしれないが、本人達は特にそんなことを意識してはいない。

むしろ異なるコンテクストにあるものを集めて一つの新たなコンテクストを生み出すという方法は、マグリッドの騙し絵や、キリコやデルボーといった画家の、奇妙なモチーフの集合に近いのではないだろうか。けれど、その辺りの、美術史と自分の仕事との参照は、評論畑の仕事だし、何もかもを西洋を規範とした文脈に当てはめて安心しようとすること自体が奴隷根性の表れでもある。だからそんな仕事はやりたい者がやればよい。

ぼく達の仕事にとってもっとも大切なことは、実は自己主張をしないことにある。実際これは大変困難なことで、この8年の間に、明らかにそれが成功した例は、ごくわずかしかないだろう。

素材となる絵と詩を前にした時に、二人の作者は決して自分の意図を引きずってはいけないのだ。言わば、全くの他人になってしまったぐらいの気持ちで、絵と言葉の組み合わせを見つけていかなければならない。

そして、二人が見せるべきであるのは、たくさんの作品という実例を見せながら、その作品を成立させることになった、言葉にはならない判断基準、自分のものでもなければ彼のものでもない、けれど自分のものでもあれば彼のものでもある「面白い」という直感を観客に対して見せることにある。

美術が作家個人のものではないというような内容のことを先に述べたが、ならば美術が観客のものであるということははっきりしている。それは常に作り手以外のすべての人に捧げられる想像力、人間の生命エネルギーの冒険なのだ。そして、その想像力や冒険とは、田中慎平の作品では、絵と言葉の組み合わせの意外性や新鮮さということに尽きるのではないかと思っている。

これらの、作品の意外性や新鮮さというものを導き出すのは、無論作者の個性なのだが、それは意図され、主張される主観的な個性ではなく、無心になって、今までの自分ですら気づかなかったものを発見しようとする努力なのだ。

美術における作者とは、触媒であり、イメージの編成や新たな感情の喚起を呼び起こすような働きをただ促すのであって、作者は何も変わらない。けれど、その触媒も立場が替われば観客であり、一人のイメージの冒険者なのだ。言ってみれば、スーパーの店員が、彼の休日には別のスーパーの客になっていることとなんら変わりがない。
だから共同制作は、外見的には奇妙に見えることがあっても、意外なほどに日常生活する姿と重なる部分がある。



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