11月8日に亡くなられました。
素晴らしい最期でした。
2週後に自分が生きている可能性は無いと、死期をさとり、レコーディングを早めて、自宅で最後の力を振り絞って歌いきりました。
そして、お礼の挨拶まで録音して、その3日後に旅立ったのです。
これ以上は望めぬほどの立派な最期だと思います。
私は勤務医時代に、終末期の患者さんの主治医として、多くの人達を見送ってきました。
昔は、現在とは違って、癌を本人に告知することは、まず有りませんでした。
しかし本人は、自分が癌だろうと、うすうす気づいています。
そこで、看護婦をつかまえては、”私は癌だろう?”と、しつこく尋ね回ります。
しかし、主治医である私が尋ねられることは、ほとんど有りませんでした。
主治医の口から決定的な答えが返って来るのを怖れてのことでしょう。
しかし患者さんは、ある瞬間に、自分の死期が近づいているという事実を受け入れます。
受け入れたその瞬間から、顔つきや雰囲気が変わります。
なんとなく達観した詩人のようになるのです。
詩人のようにという意味は、多分彼らに見えている景色が、私達が見るそれとは別物だからです。
病室から見える白川の流れを、私が点滴の準備をしながら、”今日も川がきれいですね。”と表現すると、
”ええ、昨日までは透明で緑がかっていたのが、今日は青白くなっています。”と応えられました。
60歳くらいで、文学的な素養など全く無い、農家の方でした。
告知は、こっそりと家族に告げていましたが、どうしようもない失敗もありました。
50歳くらいの仲の良いご夫婦がおられましたが、ご主人の胃カメラで早期胃癌が見つかりました。
奥さんをクリニックに呼んで告知しました。
そして、当時としてはポピュラーであった作戦を授けました。
すなわち、ご主人には胃潰瘍で手術の必要があると言うから、奥さんも、クリニックに来たことは内緒にしておく、というものです。
ところが、奥さんが帰られてから30分も経たないうちに、ご主人が飛んでこられました。
話によれば、帰宅した奥さんはわんわん泣き出したそうなのです。
どうしたのか、どこに行ってきたのか尋ねても、何も答えずに、わんわん泣き続けるだけだそうなのです。
そこで、ご主人はピンときて、胃カメラの結果が悪かったのではないかと、私を訪ねて来たのです。
こうなっては、隠すのは無理だと判断せざるをえません。
私が、本人に癌を告知した第一号となりました。
幸いにも早期であったために、オペは成功し、10年が経過しても再発はありませんでした。
素晴らしい最期でした。
2週後に自分が生きている可能性は無いと、死期をさとり、レコーディングを早めて、自宅で最後の力を振り絞って歌いきりました。
そして、お礼の挨拶まで録音して、その3日後に旅立ったのです。
これ以上は望めぬほどの立派な最期だと思います。
私は勤務医時代に、終末期の患者さんの主治医として、多くの人達を見送ってきました。
昔は、現在とは違って、癌を本人に告知することは、まず有りませんでした。
しかし本人は、自分が癌だろうと、うすうす気づいています。
そこで、看護婦をつかまえては、”私は癌だろう?”と、しつこく尋ね回ります。
しかし、主治医である私が尋ねられることは、ほとんど有りませんでした。
主治医の口から決定的な答えが返って来るのを怖れてのことでしょう。
しかし患者さんは、ある瞬間に、自分の死期が近づいているという事実を受け入れます。
受け入れたその瞬間から、顔つきや雰囲気が変わります。
なんとなく達観した詩人のようになるのです。
詩人のようにという意味は、多分彼らに見えている景色が、私達が見るそれとは別物だからです。
病室から見える白川の流れを、私が点滴の準備をしながら、”今日も川がきれいですね。”と表現すると、
”ええ、昨日までは透明で緑がかっていたのが、今日は青白くなっています。”と応えられました。
60歳くらいで、文学的な素養など全く無い、農家の方でした。
告知は、こっそりと家族に告げていましたが、どうしようもない失敗もありました。
50歳くらいの仲の良いご夫婦がおられましたが、ご主人の胃カメラで早期胃癌が見つかりました。
奥さんをクリニックに呼んで告知しました。
そして、当時としてはポピュラーであった作戦を授けました。
すなわち、ご主人には胃潰瘍で手術の必要があると言うから、奥さんも、クリニックに来たことは内緒にしておく、というものです。
ところが、奥さんが帰られてから30分も経たないうちに、ご主人が飛んでこられました。
話によれば、帰宅した奥さんはわんわん泣き出したそうなのです。
どうしたのか、どこに行ってきたのか尋ねても、何も答えずに、わんわん泣き続けるだけだそうなのです。
そこで、ご主人はピンときて、胃カメラの結果が悪かったのではないかと、私を訪ねて来たのです。
こうなっては、隠すのは無理だと判断せざるをえません。
私が、本人に癌を告知した第一号となりました。
幸いにも早期であったために、オペは成功し、10年が経過しても再発はありませんでした。