はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

水泳部の思い出

2015年08月05日 | 昔話
水泳の世界選手権がロシアで開催されています。
昨日の渡部香生子選手の200個人メドレー決勝は素晴らしいレース展開での銀メダルでした。
100のターン時にはビリだったのですが、150で4位に上がってきました。
しかし3位の選手とは、まだ一身長近くも差がありました。
なんとか銅メダルに手が届かないかなと期待して観ていたのですが、残り25mで3位に追いつきました。
さらに残りの10mで2位に追いつき、タッチの差で銀メダルをゲットしたのです。
水泳のレースでこれほど感動したのは久方ぶりでした。

私の少年時代は、やっと全国の小学校にプールが建設された頃でした。
小学校の5年6年には水泳部で随分と練習した記憶があります。
しかし、ほとんどの中学校には未だプールは有りませんでした。
私の母校である百道中学校にもプールは無く、私はバスケット部に入りました。
バスケットは面白くはあったのですが、シューズやユニフォーム、ジャージなど、結構金がかかります。
そこで、修猷館に入学した時に、一番金がかからない水泳部を選択しました。

修猷館のプールが新築されたばかりということもあって、入部希望者は30人を超えました。
しかし先輩たちの過酷な指導に音を上げる者が続出し、1か月後には10人も残りませんでした。

さて、同期で入部した中に虎石龍彦というスーパースターがいました。
彼が通っていた中学校には、珍しくもプールがあって、彼は水泳部上がりだったのです。
彼の素晴らしい泳ぎを眺めながら、私は親友の緒方良と、” いつかは抜いてやる ” と話していました。
その会話を上級生に立ち聞きされてしまったようで、” 素質が違いすぎるから、その可能性は無い! ”と言われたのです。

その夜から、私と緒方良は、当時流行っていたスポコンドラマさながらの特訓を開始しました。
練習が終わったら、帰宅して、夕食を食べ、8時に再び集合して泳ぐというものでした。
プールは防犯のためか、2階部分に作られていたのですが、私たちは校舎の2階の窓を利用してプールに忍び込むルートを開拓していました。

そして6月に虎石と私の決戦の時がやってきたのです。
新人戦の4継( 400m自由形リレー ) のメンバーが2年生だけでは1人足りず、私と虎石との勝負で勝ったほうが選ばれることになったのです。
勝負に先立って、私は初めて作戦というものをたてました。
それまではペース配分などという概念を知りませんでしたので、最初から飛ばして、最後はバテるということを繰り返していたのです。
そこで、前半の50mを楽に泳いで、勝負は75mのターンからかけることにしたのです。
実際に、レースは私の思惑通りに進み、私の快勝に終わりました。
観戦していた緒方良は、50mで私が一身長離された時には、全然駄目だと思ったそうです。
しかし、虎石本人は75mのターンで追いつかれたときに自分の負けを覚悟したそうなのです。

この勝利体験で、私は確実に幸福になれる方法を理解しました。
それはコツコツと努力してスキルを上げ、それを自覚することです。
水泳という競技の利点は、自分のアチーブメントを記録として正確に把握できるということなのです。
当時は、練習を1日休んでも記録は落ちないが、2日休むと元に戻るのに3日かかるし、3日休むと1週間かかるような気がしていました。
そのせいか、ボウリングでもゴルフでも毎日練習を続けたがる傾向にあります。
また、水泳をやっていた者の習癖として、どんなスポーツをするにせよ、入念な準備運動を欠かしません。

ボウリングに関しては、ある程度の達成感があります。
しかし、ゴルフに関しては、まるでありません。

当分は、妹に勝利することによって得られる、ささやかな達成感でよしとすることにします。

蓮尾

2014年07月26日 | 昔話
最近父親となった外科の蓮尾は玉名高校始まって以来の秀才と呼ばれていました。
卒業後は東京大学に行くつもりだったのですが両親の反対で断念せざるを得ませんでした。
自宅から通える大学じゃないとダメだと言われたのです。
仕方なく蓮尾は熊本大学の工学部に願書を出そうとしました。
しかし、担任の先生に、 " いくらなんでももったいないから、せめて医学部を受けなさい。 " とアドバイスされます。
結局、熊本大学に2番で入学した蓮尾でしたが、東大への未練を絶ち切れず、翌年受験しようと計画しました。
ところが、同級生との麻雀や飲み方にハマってしまい、ずるずると医者になってしまったのです。

医学部に入ってくる学生は、皆、自分の頭の良さに自信をもっています。
みんなが頭の良い仲間で、上も下も無いと思っています。
ところが、蓮尾だけは別格でした。
同級生たちは、蓮尾を自分たちよりも頭が良い人間だとみなしたのです。
私も、人生で初めて、自分よりも確実に頭が良い人間に遭遇したと思いました。

昔、インベーダーゲームが流行したことがあり、皆ハマってしまいましたが、蓮尾の上達は異様でした。
なんだか訳のわからない攻略法を編み出したのです。
随分後になって雑誌に、" 名古屋打ち " として発表され、全国に知れ渡りますが、蓮尾は自分で発明していたのです。

私は蓮尾から白血病物語という話を聞かされた記憶があります。
白血病と免疫のメカニズムをストーリー仕立てにして理解しようとするもので、ただただ感心させられました。

ただ蓮尾には議論になったら、相手が誰であろうと一歩も引かないという頑固さがありました。
ある日、私の部屋で麻雀をしたのですが、メンツが5人も集まってしまいました。
こういう時には、 " 二抜け " といって、2位に終わった者が、半チャン休むというルールを適用します。
2位になった蓮尾は隣の部屋で私の家内の手料理を味わいながら一杯やっていました。
しばらくして隣の部屋からすすり泣くような声が聞こえてきました。
蓮尾との討論で、言い負かされた家内が悔し泣きをしていたのです。
私は蓮尾に、 " お前は、他人の家でご馳走になりながら、カミさんを泣かすのか? " と言いました。
それでも蓮尾は、" だって間違ってるんですもん。 " と譲りませんでした。

随分昔の話ですが、蓮尾が東京の妹夫婦の部屋を訪ねたことがありました。
その日は慎ちゃんの友達も来ていて早速飲み方が始まりました。
蓮尾は、慎ちゃんたちより3つ年下です。
蓮尾の身長は180cmですが慎ちゃんたちは186cmの大男です。
いつの間にか蓮尾は、 " チビ " と呼び捨てにされ、ビールを持ってこいだのとパシリ扱いになったそうです。
妹も、 " ビールを取りに行く時は、空き瓶を持って行って片づける! " などと指導したそうです。
明け方まで飲んで皆酔いつぶれたそうなのですが、翌朝の10時に、またまたビールで乾杯しようとする慎ちゃんたちに、
" 冗談じゃない、殺されます! " と蓮尾は、ほうほうの体で退散したそうです。
後日、蓮尾は私に、 " 人生でチビと呼ばれたのは、後にも先にも、あの時だけですよ。 " とこぼしていました。

結局医者になってしまった蓮尾ですが、興味はサイエンス全般のようでニュートンなどの科学雑誌が愛読書です。
蓮尾のような優秀な頭脳を医者にしてしまうのは、資源の無駄遣いのように思えます。

しかし、蓮尾に娘ができたことは朗報で、遺伝子がちゃんと橋渡しされました。
そのことで良しとしましょう。

不思議なバツイチ男

2014年07月26日 | 昔話
昨日のことですが、昔からの親友である外科医の蓮尾からメールが届きました。
第一子が生まれたそうなのです。57歳にして初めて父親となったわけです。
祖父と言われてもおかしくないような年齢差ですよね。
産まれたのは女の児だったそうで、これまた良かったねとメールを送りました。

男は娘を得て、初めて子煩悩になるからです。
そのことを考えた時に整形外科を開業しているKを思い出しました。
医学部時代からの知り合いですが、Kは酒が強くなかったので、もっぱら麻雀での付き合いでした。

さて、Kのアパートに麻雀をしに行くと、時折、可愛い彼女を見かけることもありました。
卒業したKは彼女に結婚を申し込んだそうなのですが、その時のやりとりがニヤリとさせられるものでした。
彼女の返事は、" うれしい。まさか結婚してもらえるとは思っていなかったから。" というものでしたが、
それを聞いたKは胸の内で、" なんだか損したような気がする。 " と思ったそうです。

そんなKでしたが、医局から派遣された県外のS市で浮気をしてしまいました。
その時にKのとった行動は常識外れでした。
なんと、Kは奥さんに離婚してくれと頼んだのですが、1年間の期限付きで、1年後には再び結婚し直すというものだったのです。
そしてKは、その通りに約束を果たしたのです。
Kの戸籍はバツイチなのでしょうが、変則的ですよね。

後年Kは私に夫婦関係をユーモラス?に説明しました。
奥さんは浮気事件を根に持っているそうで、" あなたが脳卒中で片麻痺になった時は、麻痺側の枕元にコップを置いて、
あなたが必死にそれを取ろうとするのを、ニヤニヤしながら見守ってあげるわ。" と言ったそうです。 "
ブラックユーモアですよね。

Kは男の子2人を授かりましたが、子煩悩になることもなく、徹夜マージャンに人生を費やしていました。
ところが3人目に女の子を授かったとたんにKは豹変します。
眼の中に入れても痛くないほどの猫可愛がりで、奥さんには、 " 別れる時は、娘だけは俺が連れて行く。 " と宣言していたそうです。

2013年05月19日 | 昔話
Mは高校2年の時の同級生でした。
身長が180cmを越える、がっちりとした体型で、私と彼がクラスでの体育委員の座や、通知表の体育の点数のトップを競い合いました。
私と彼とは親友というよりもライバルといった関係だったかもしれません。
記憶に残っているのは、その年の体育祭です。
二人で400m走に出たのですが、陸上部所属のスーパースターが優勝することが確実なレースでした。
ところが、スタートで飛び出したのは谷という秀才でした。(実際、彼は現役で東大に進学します。)
谷はスーパースターに臆すること無く、堂々と勝負を仕掛けたのです。
それを、”スゲーな”と他人事のように眺めながら、私は3位をチンタラと走っていました。
すると第3コーナーでMが、”コイッ、長谷川っ”と叫びながら私を追い抜いていったのです。
我にかえり、あわててMの背中を追いかけた私でしたが、追いつくことはできませんでした。
そして、そのレースは谷がスーパースターの猛追を振り切って優勝したのです。
谷やMと比べて、私には、”気迫”が足りなかったことを反省させられるレースで

その後、Mは立命館大学に入学し、ボクシング部のキャプテンになります。
Mが一度だけ熊本に遊びに来たことがあるのですが、真っ先に連れて行けと頼まれたのは九州学院高校でした。
最近は知りませんが、当時はボクシングの強豪校だったのです。
練習中だったボクシング部員に対してMは先輩のフリをして、リングを空けるように命令しました。
そして私にスパーリングをするぞと提案してきました。
”打つのは長谷川だけで、俺は防御だけだから大丈夫。”と言うのです。
生まれて初めて練習用の大きなグラブを付けてみたのですが、その軽さには驚かされました。
そしてMに向かってパンチを繰り出していったのですが1発も当たりません。
私はMに、”よけるな!打たせろ!”と叫びました。
するとMは私のパンチを顔で受け始めました。正確には顔では無くオデコです。
オデコにパンチを受けてもダメージは全く無いようでした。
1分で息切れし、1分半であれほど軽かったグラブが鉛のように重く感じられ、両手が下がってきます。
その時Mのジャブが私の顔面を捉えました。
”防御だけと言っただろうが!”と抗議したのですが、Mはジャブをやめません。
仕方ないので防御しようとしたのですが不可能でした。
何の前ぶれも無くジャブが伸びてくるので、避けようとした時にはMのグラブが私の顔面に張り付いているのです。
両手でガッチリとガードするしか無いのですが、こんどは防御の上からワンツーが打ち込まれてきて、吹っ飛ばされます。
結局、3分持たずにTKO負けとなりました。
この体験は貴重で、以後、ボクシングの試合でスタミナ切れで手数が減ったボクサーに同情を覚えるようになりました。

立命館を卒業したMは、一吉証券に入社しますが、そこに留まらず、海外青年協力隊に入り、アフリカへと旅立ちました。
私が知っているのはそこまでです。
修猷館の同窓会名簿などで調べるつもりですが、Mの消息をご存じの方があれば、是非、教えて下さい。

楢原元庸

2013年05月18日 | 昔話
楢原元庸(ナラちゃん)と私は中学高校を通じての同級生でした。
互いに母子家庭ということもあり、将棋を通じて仲良くなりました。
また、互いに3つ下の妹がいるだけの二人兄妹という共通点もありました。実際、互いの妹は修猷館で同級生となります。

ナラちゃんの祖父は内科の開業医でした。
西新界隈では有名で、九州場所の開催中に、当時の横綱であった大鵬から往診の依頼を受けたことがありました。
祖父は、”相撲取りならば体力があるから来れるはずだ。往診など必要無い。”と断ったそうです。
私も診察を受けたことがありますが、気骨あふれる紳士でした。

ナラちゃんの祖母は中学生相手に英語の塾を開いていました。
明治生まれの女性で、英語塾を開くスキルをどのようにしてゲットしたのか、私は興味を持ちましたが、聞くチャンスは逸しました。
私はナラちゃん家に行く度に、”まだ、ボケもせずに、元気に生きているんだ。”と常に感動させられました。
正確ではありませんが、80代後半まで英語塾を続けたはずです。

ナラちゃんの母親は実家でピアノ教室を開いていました。
音大受験を目指す生徒さん達が多く、レベルの高い教室だったようです。
ピアノのレッスンは実家の敷地内に建てられた防音教室で行われていました。
この防音教室を利用して、ナラちゃんは高校生のときにドラムセットを買い込み、ヤマハドラム教室に通い始めました。
私も足繁く防音教室を訪ね、ナラちゃんにドラミングの手ほどきを受けました。

ナラちゃんは中学の模試で、福岡県全体の2番になった程の秀才でしたが、高校では目立たず、一浪して九大の工学部に入りました。
私達の一つ上の学年は東大入試が中止になるくらい、学生運動が盛んな時代でした。
学生運動がらみで、退学する者も珍しくはなかったのですが、ナラちゃんの場合は、JAZZ喫茶に入り浸って、進級できずに、結局中退してしまいました。

ナラちゃんも私もかなりの読書好きでしたが、ナラちゃんが読むジャンルに文学は一切ありませんでした。
将棋の参考書、物理化学関係の理論書、様々なハウツー物(カッパブックス)、インド哲学(バグアン・シュリ・ラジネーシ)、などでした。
とくにカッパブックスのジャンルは幅広く、米国で書かれた物の翻訳本が多かったせいか、キリスト教の影響が強く、成功哲学、ヨガ、などが印象的でした。
ナラちゃんは3つに分類される人間の精神の働きに序列をつけて、まず、”意”を第一に、”智”を第二に、そして
、”情”については重きを置かないというスタンスでした。私とは真逆です。

その後ナラちゃんは京都大学の物理学部を目指して京都で浪人生活を送りますが、結局かなわず、博多の実家に戻って学習塾を開き生計を立てました。

私も何回か博多に行き、ナラちゃんと飲みに出ました。
大して酒に強くないナラちゃんが、ビール一杯で顔を真っ赤にしながらも、人生論などを挑んできて、私もそれに応戦しました。

そんなナラちゃんを突然死が襲います。
知らせを聞いた私は取る物もとりあえず博多に急行しました。
脳卒中でした。
前の晩は何事もなく就寝したそうです。朝、起きてこないので家族が見に行ったところ、ベッドで冷たくなっていたそうです。
僕たちが50歳の秋でした。

今、もう死んでしまったナラちゃんからの手紙を私は読んでいます。
今、もう死んでしまったナラちゃんへの手紙を私は読んでいます。
不思議な感覚です。
とても不思議な感覚です。
私の意識の深い底が時間を止めてざわついています。
パンドラの箱を開けたのかも知れません。

パンドラの箱

2013年05月17日 | 昔話
昔の手紙類を小さなボストンバッグにしまって保管していました。
中学2年生から30歳くらいまでの頃の物です。
開けたことは無かったのですが、最近、押し入れの大掃除の際に邪魔になるので整理する気になりました。

ポケベルも携帯も無かった時代ですので、文通は比較的ポピュラーな文化でした。
もらった手紙を、ざっと読み返してみましたが、そういうこともあったのかと驚くくらいで、特に感動はありませんでした。
ところが、感動は、手紙とともに保存されていた、私自身が書いた手紙の下書きにありました。

ガールフレンドに宛てた手紙の内容は、すぐにでも舌を噛んで死にたくなるような恥ずかしいものでした。
必死に文学性を持たせようとあがきまくった文章は、”陳腐”の二文字で片付けられるレベルでした。

ただ、面白かったのは高校の同級生であった楢原元庸と宮崎信夫への手紙です。
それぞれと、数年間に渡り、数十通の手紙をやりとりしています。
これらの手紙は、まじめに、そして真剣に全力で書いていました。
印象としては、”完全に時間を止めている。”ということでしょうか。
立ち止まって、文学、孤独、恋愛論、詩、花鳥風月、JAZZ、煙草、酒などについて徹底的な分析を加え、自分の考え方を表明しています。
殆どは無駄かもしれませんが、それでも、すざましいエネルギーが費やされています。

振り返って、最近では時間を止めることなど全くありません。
AならばB、CならばDという風に自分の思考回路が固定されているからです。
時間は毎日、淀むこともなく流れ続け、一年があっという間に過ぎていきます。
そして、様々などうしようも無い問題に出会った時は、斜に構えて皮肉を述べることでやり過ごします。

ところで、残された下書きには次のような文章がしたためられていました。作者不詳の一文です。

”考え深い者はニヒリストまでは、皆、辿り着く。しかし、そこを越えるのは難しい。信じがたい程難しい。”

まるで数十年後の自分を予見したような文章です。(続く)

勤労感謝事件

2013年04月05日 | 昔話
まだ、みんなが医学生であった頃の話ですが、ある年の勤労感謝の日の翌朝にHから電話がかかってきました。
浄行寺のガソリンスタンドまで、すぐに来て欲しいと、切羽詰まったような口調でした。
何事かと車で駆けつけると、Hが女子大生と二人して待っているではありませんか。
Hは私の車に乗り込むなり、”薬学部まで急いで!”と言います。
薬学部で彼女を降ろした後、何事かとHに問いただしました。
Hの答えは、”彼女が遅刻しそうだったから。”というものでした。
私は、”なんだー、俺はタクシー代わりかっ!タクシー代も持たんのかっ!”と怒りましたが、Hは、
”マアマア、長谷川さん、ドライブでも行きましょうよ。”と言います。
”おまえと二人でドライブだとー!”と私は声を荒げました。
しかし、Hが免許取りたてだったのを思い出し、車の運転がしたいんだなと推測して、仕方なくRX-7を発進させました。
俵山を越えて阿蘇に上り、山脈ハイウェイまで行き、夕暮れに俵山にもどってきました。
Hは夕焼けの中、RX-7を運転しながらこう切り出しました、”長谷川さん、実は昨日、初めてしちゃったんだよね。”
その日の朝からの出来事が、パズルの正解が一瞬にして分かる時のように完璧に整理されました。
”お前は、それが言いたくて、俺を一日中連れ回したのか!”
”分かった。これを勤労感謝事件と名付けて、5年間は秘密を守ることを約束しよう。”と私は言い、それを実行しました。

Hにはその年の春に教育学部を卒業して郷里に帰って行った彼女がいました。
私も初心者水泳教室でのアルバイト中に、偶然二人を目撃したことがありました。
紺のスクール水着を着て、河合奈保子をスマートにしたような清楚な美人でした。
Hは彼女の卒業後、酔う度に、”あの時手を握る勇気があったならば展開が変わっていたかも知れない。”とこぼしていました。
初体験は、その彼女の友人に引っ越しの手伝いを頼まれたのがきっかけだったようですが、その女性とはそれっきりだったようです。

その後毎年、勤労感謝の日が近づくと、私はHに、”あれほど働いた勤労感謝の日は無かったろう。よく頑張ったな。”と言いながら乾杯を迫るのが常となりました。
Hは、”何がですかっ!”と怒りますが、私は、”いや、引っ越しの手伝いのことだよ。”と受け流します。


オカマの日?

2013年04月04日 | 昔話
今日4月4日は医者仲間のHの誕生日です。
彼自身が昔から喧伝しているのですが、4月4日はオカマの日なのだそうです。
3月3日が女の子の日で、5月5日が男の子の日なので、中間の4月4日はオカマの日だというわけです。
彼はオカマとは無縁ですが、よく観察してみるとその性格は、”中年のオバチャン風”かも知れません。

Hと私は学生時代に二人でよく飲みに出かけました。
二人とも酒が強いので、お互いに、相手を気遣う事無く飲めるからです。
ある夜、酔っぱらったHが、”知り合いの女子大生のアパートに押しかけよう。”と言い出しました。
私は、”もう11時を回っているので止めろ”と言ったのですが、Hは、”たたき起こせばいい!”と強気です。
仕方なく付いていったのですが、まずは裏側に回って彼女が勉強中であることを確認して、手を振り、入り口にむかいます。
彼女がドアを開けたとたんに、それまでは強気だったHの態度が豹変します。
”ゴメンネ、ゴメンネ、こんなに遅くにゴメンネ。”と低姿勢で謝るのみです。
結局、上げてもらえずに玄関払いされたのですが、その時、私には、ある予感がひらめきました。
それは、”コイツは女を口説けない性格ではなかろうか?”というものでした。
残念ながら、その予感は的中して、彼は青春時代を、ほぼ彼女無しで過ごすことになりました。

”女子大生たたき起こし事件”の翌日、私とHは街に飲みに出ました。
2,3千円しか持ちませんでしたが、いつもの如くパチンコで増やせばOKです。
ところが、その夜は、ことごとく運に見放されました。
ドラムの777は何度か完成させたのですが、1/2以上の確率で7になるはずの上部のデジタルが一度も7になりませんでした。
負けてしまって、トボトボと歩いて大学迄戻るのですが、その途中でHが私に言いました。
”長谷川さんは女遊びばっかりしているから金が無いんよ。”
ムシャクシャしていた私はキッチリと言い返しました。
”お前は女もおらんくせに、なんで金が無いんや!”

その後もHの、”彼女いない歴”は延々と続きます。
女性関係に忙しかった私を反面教師として観察し続けたのもまずかったかも知れません。
さらに、医者になって結婚適齢期を迎えると、Hは根本的にまじめですので、さらに女付き合いに慎重になります。
結局、Hの、”彼女いない歴”はギリギリ39歳で見合い結婚をするまで続きました。

Hの人生を振り返ってみると、弟がいるだけで姉も妹もいません。
中学高校は男子校であるラサールの寮暮らしです。
私には妹がおりましたので、女の実態は把握でき、それほど女性崇拝に走ることはありませんでした。
しかしHには女性の実態を知るチャンスも無く、”女性崇拝とブス蔑視”という幼稚で両極端な考え方しかできなくなっているように見えました。

男は生まれつき男なのでしょうが、少なくとも、”女に対しての男”という部分は、女との付き合いによって形成されていくような気がします。
女と付き合って、喧嘩したり仲直りしたり、祝いあったり慰め合ったり、誉めたり誉められたり、様々な感情のやりとりを重ねることで、
女をきちんと理解できるようになり、女に対する男としての自分もできあがっていくのです。
Hには、その部分が欠如していたような気がします。
そのことが今の彼の性格を、”中年のオバチャン風”に見せるのかもしれません。(続く)

ストリーキング

2013年02月16日 | 昔話
昨夜は熊大医系水泳部の現役、OB数十名が、”銀杏釜飯”に集合して、水泳部の顧問である赤池孝章教授の送別会を開きました。
微生物(正確には、熊本大学大学院生命化学研究部微生物学分野)の教授である彼の、”活性酸素”に関する研究を評価した東北大学が引き抜きに成功したのです。
2回ほどアメリカでの客員教授を務めた経験はあるものの、それ以外は熊本から一度も出たことは無いそうで、ずいぶんと迷ったそうですが、東北大学側の、
”ただ、研究だけしてもらえれば結構だと思って下さい。”という申し出に心が動いたそうです。
熊本大学とは違って、旧帝大クラスになると、教授選考は、派閥も無く、縁故や自薦も無く、ただただその時点での日本における研究や論文や将来性で候補者を選び、
スカウトをしかけるシステムなのだそうです。
もちろん、”旧帝大からの勧誘を断れるはずも無い。”との思惑が見え隠れしますが....

彼との思い出で印象に残っているのは岡山で開催された西日本医系水泳部水泳大会(西医体)です。
閉会式の後は全大学が大広間に集まって大宴会が始まります。
もともとが裸に近い水泳部ですから、繰り出される芸は殆どが、”脱ぎ芸”です。
久留米医大名物の、”洗濯屋”(ただ単に全員で裸踊りをするだけの芸です。)をはじめ、次々と脱ぎ芸が続きます。
女子部員も2割近くは居るのですが、おかまいなしです。
熊大も女子部員を一人だけ連れて来ていたのですが、その娘は私の頭越しに、”脱げ!、脱げ!、全部脱げ!”と叫んでいました。

2次会、3次会と人数が減っていき、途中のスナックで脱ぎ芸を披露して追い出されたりもしましたが、6次会を終えた時点で残ったのは10名くらいでした。
岡山の繁華街を流れる川っぺりに来たときに奈良県立医大のキャプテンが突然、”泳ごう!”と言い出しました。
そこで、”よしっ!”とスッポンポンになったのは私と赤池だけでした。
川の規模は白川の半分以下だったように記憶していますが、それでも簡単には川まで降りれそうにもありません。
そこで、”赤池、走るぞ!”と叫んだ私は、岡山の川っぺりをスッポンポンでペッタンペッタンと走り始めました。
向かい側からタクシーが来て停車し、後部座席の客が窓を開けて私達に、”ストリーキングや、ストリーキングや!”と岡山弁で指摘してきますが、
気にせず、手を振って挨拶し、やり過ごしました。
そして、やっと川に降りることができ、二人で泳ぎ始めました。
赤池はその大会の200m背泳ぎで優勝するほどの達人でした。
ところが泥酔していましたので、水流に負けて流され始めるではありませんか。
私は一気に酔いが覚めて、”赤池っ!大丈夫かっ!”と彼を抱え上げ、土手まで運びました。

翌朝、なんだか騒がしいので目を覚ますと、私のフトンを4人のオバチャン達が取り囲んでいて、
”いくら何でも、もう起きてもらわないと....”と話し合っているではないですか。
まわりを見渡して状況を確認すると、私は200畳もある大広間の真ん中にたった一人寝かされていたのです。
毎年、大会最終日の晩は全大学が大広間に雑魚寝をするシステムなのです。
私は、”ウーン”と起き上がったのですが、ドブ川の臭いが鼻につき、髪の毛は爆発して固まっていました。

みんなは、どうしても目を覚まさない私を見捨てて、市内観光へ出かけていたのです。
後で、私が、”おまえら冷たいっ!”と怒り狂ったことは言うまでもありません。

”銀杏釜飯”での一次会が無事終了しましたが、赤池教授は私に二次会を希望しました。
そこで、彼をスナック、”安楽”へと誘導しました。そこに妹を待たせていたからです。
3人で楽しく飲んで歌って騒いだのですが、妹は彼が自分よりも年下だと知ると、なんだか上から目線で会話していました。
”つつましやかな性格”という日本語があります。
どなたか反意語をご存じの方があれば、是非、教えて下さい。

続・パチプロ人生

2013年02月14日 | 昔話
その、ドラム回転型のセブン機は2年くらいで消滅しました。
おそらくは、私のように、仕組みを見破るパチンカーが増えてきたせいでしょう。

次に登場してきたのは、ドラム部分がデジタル表示に替わったセブン機でした。
ただし大当たりは111、333、555、777、999と奇数のゾロ目すべてとなりました。
左側のデジタル数字は一回の回転で3ずつ増えていきます。
つまり、0-3-6-9-2-5-8-1-4-7-0を繰り返すのです。
以下は全く根拠のない私の勝手な想像ですが、プログラムの内部には6つの、”島”があるのではないのか。
そして、大当たりがたくさん入っている島が一つ、少しだけ入っている島が一つあるだけで、他の4つの島には大当たりは一つも入っていないと考えたのです。
ある島に入ったら、しばらくは抜け出すことができません。
どういうきっかけで、その島を飛び出すのかといえば、惜しい目(773や114,332、994など)が出たときだと考えたのです。
さきほど紹介したように、左端のデジタルは偶数と奇数を繰り返します。
基本的に左デジタルが偶数では惜しい目は出ませんので、左デジタルが奇数の場合はストップボタンを押し、偶数の場合は押さないようにしました。
惜しい目が出たときは、その島がどういう島であるのか見極めるために20回はなにもせずに回します。
この単なる私の根拠もない仮定に基づいた作戦ですが、時給2000円くらいにはなりました。
ただ、医者になり、時給2000円が魅力的では無くなったので、次第にパチンコから遠ざかっていました。

ところが、当時行きつけだったスナックのホステスがパチンコマニアで、話題がパチンコに及んだ時に、私は、”毎日行けば30万くらいは勝つと思う。”と言いました。
すると、そのホステスは、”先生が本当に30万勝ったならば、なんでもしてあげる。”と言うでは有りませんか。
翌日から私は、6時に仕事を終えると、街中の、”まるみつパチンコ”に毎日通い詰めました。
毎日記録を取っていったのですが、30日通って、負けた日は一日だけでした。
TOTALで32万5000円のプラスでした。

意気揚々と、そのホステスに戦果を報告に行ったのですが、ホステスは私の手を握って、”ハイ、これで終わり。”と宣言するだけでした......

平成7年の7月にストップボタンが全面的に禁止になりました。
もう、工夫のしようがありません。きれいに足を洗いました。
その時点で振り返って、自分がパチンコで生涯いくら稼いだのかを計算してみましたが、どんなに低く見積もっても800万は超えているだろうと思われました。

パチンコを止めて暇をもて余した私は、代わりにゴルフに手を染めました。38歳の時です。

振り返れば、パチンコは、若い頃の私に、そこそこの稼ぎを提供してはくれましたが、人生の無駄遣いだったように思えます。
逆に、かなりの時間を消費させられたにせよ、ゴルフには,Quality Of Life を高めてもらったような気がします。

パチプロ人生

2013年02月13日 | 昔話
私は高校2年の春に初めてパチンコに行きました。
同級生に無理矢理連れて行かれたのですが、ビギナーズラックで500円ほど勝ちました。
以後、チョクチョクとパチンコ屋に出入りするようになりました。
振り返れば修猷館高校は煙草以外はすべてフリーパスというユルイ指導体制でした。
パチンコ屋や雀荘で教師と一緒になっても、おとがめは無く、普通に挨拶して遊んでいました。

当時は椅子もなく、立ち打ちで、左手で一個ずつ球を穴に放り込んで、右手ではじくという仕様でした。
勝ち負けは釘を読む能力と、素早く連射できる器用さで決まりました。
私はすぐに、”乱れ打ちのハセガワ”という異名をとり、釘を読む能力も短期間の内にレベルアップさせていきました。
現在でもそうですが、パチンコ屋の釘は毎日変わるわけではありません。
1/3から1/4の台しか変わらないのです。
したがって、前日によく球が出た台は、次の日も出る確率が高いのです。
夏休みに補修をサボッて、私は連日のように中洲のパチンコ屋へ通いました。
そして、よく出た台(終了台)の番号をこっそりとメモし始めました。
この頃から、パチンコは私にとって、ギャンブルでは無く、仕事のような感覚になってしまいました。
朝イチで入店して、前日終了させた台の釘が変わってないことを確認すると、キョロキョロとまわりを見回しながら打ち続けます。
前日、終了させるのに2時間かかったならば、今日も、それくらいで終了させられるはずだから、
その次に打ちたい台をキョロキョロと注目していたのです。
同級生が力仕事(ドカタ仕事)で丸一日こき使われて1800円しかゲット出来ない時代に、
私は2時間のパチンコで1600円ほど稼いでいたのです。
20歳の時ですが、私は初めて入ったパチンコ屋で、釘を読みながら、出そうな台を探していきました。
そして、ついに一台も見つけることができずに、その店を後にしたのです。
打ちたい台が無いならば打たないというプロ意識のようなものが芽生えていました。

やがて時代は進み、”セブン”というパチンコ台が登場しました。
台の真ん中に、スロットマシンのようなドラムがあって、777が揃って、上のデジタル表示の数字も7になると大当たりが完成するという仕様でした。
いまでこそ様々な攻略本が売られていますが、当時は皆無でした。
私は、まず3つのドラムの展開図を作成しました。
そして、一回の回転で第二ドラムと第三ドラムが2個ずつずれていくことを発見しました。
第一ドラムには3つの7が描かれていますがその上の図柄がすべて違うので区別がつきます。
次の回転で、表か裏の方でかは分かりませんが7が3つ揃うような状態(テンパッテいる状態)は8.5回に一回あることもつきとめました。
そして、その時に、第一ドラムの3つの7のうちの、どれを正面で止めれば7が揃うのかもつきとめました。

朝10時にパチンコ屋に入ります。
100円分だけ球を買います。
8台か9台のうちに1台ある、”テンパッテいる台”を探します。
1回だけ回して目標の7が正面に来るようにストップボタンを押します。
目標の7が画面の下に消えたタイミングでボタンを操作するのがコツでした。
うまく第一ドラムに目標の7を止められた瞬間に7が3つならぶことが約束されます。
上部のデジタルは操作できませんが半分近くは7が出ます。
場内放送で10時1分に、”123番台スタート”の声を聞くことも珍しくはありませんでした。
一度大当たりが出ると、連チャンが来ることがかなり期待できるようなプログラミングでしたから、しばらくは何もせずにただ回すだけでOKでした。
ドル箱(大箱)は足下に5個重ねるのが限界でしたので、球売り場のそばに、私専用の玉置場できました。
上通りにあった、”巨人会館”というパチンコ屋でしたが、常連さんたちとも仲良しになりました。
しかし、私はメカニズムの秘密を決して口外しませんでした。
気のいいおじさんとも仲良しになりましたが、彼は一年足らずで退職金の600万円を使い果たして姿を消しました。
稼いだ金は飲んでも遊んでも無くなりません。
スーツや靴を買い、バイクを買い、県外にアベック旅行を楽しむという贅沢な学生生活でした。

(次回に続く)