はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

疾風怒濤の日々

2014年12月30日 | ゴルフ
昼食はみんなで糖質制限的なつまみをオーダーして、生ビールで乾杯しました。
私はつまみとのペース配分を考えて、ゆっくりとビールを消費していきました。
ところが妹夫婦はペースなど無視して普通に飲み続け、私が半分くらい飲んだころには生ビールを飲み干してしまいました。
そして妹は生ビールのお替りを、慎ちゃんにいたっては焼酎をオーダーするではありませんか!
ペースを無視したわけではなく、最初から1杯でやめるつもりなど無かったようなのです。

ほろ酔い状態のせいか、二人はインの10番と11番で共に6オーバーとしてしまいます。
私は、" 酔っ払い! " と揶揄するゆとりを持ちました。この時点で妹に5打差をつけることができたからです。

ところが、やっと酔いが醒めたのか、妹は難しい谷越え打ちおろしの12番ショートホールをスプーンでナイスオンさせてパーを取ります。
以後じわじわと妹が私に迫ってきます。
そして16番のショートホールで私はトリプルを叩き1打逆転されてしまいました。

続く17番のミドルで、私のティーショットはピンまで90ヤードというナイスショットでした。
普段ならばアプローチウェッジを加減して狙う距離です。
ところがAWが見当たりません。
前のショートホールに置き忘れてきたのです。
仕方なくPWで寄せみたいなショットを放ち、なんとかグリーンに乗せたのですが、ピンまでは未だ登りの5mが残りました。
私は声をあげてゴルフの意地悪な女神に宣言しました。
" このパットが入ったなら、今日一日の出来事はすべて許してやる! " と。
さらに、" フックかスライスか分からない。めんどくさいから真っすぐ打つ。 " と叫び、その通りにパットしました。
すると、本当に真っすぐなラインだったのです。
私の球はスルスルとフックもスライスもすること無く、真っすぐにカップインしました。
妹はといえばピン左2m弱に4オンしていました。
入れ頃外し頃のスライスラインです。
しかし、これをしっかり入れてくるのが妹のしぶとさです。

実際には、この時点で同点だったのですが、妹のしぶとさに動揺したのか、
私は1打負けていると思い込んでしまいました。

そして最終18番のティーショットを、私は左の池に叩き込んでしまうのです。
最も大切な場面で最悪のショットが出てしまったのです。
私は心の中で敗戦を受け入れました。
私の5オンを狙った80ヤードのショットはグリーンにわずかに届かず、そこからの寄せも2段グリーンの上の段に上りきらずに戻ってきました。
そこからなんと4パットをしてしまい、ダブルパーの10で私の戦いは終わりました。
妹も、そのホールは4パットで8を叩きましたので、あきらめずに根性を出していれば、もう少し盛り上がったのかも知れませんが、
しぶとさに欠ける私の心はティーショットの池ポチャで折れてしまったのです。

結局、妹は102打の34パット、私が104打の38パット、慎ちゃんは110打の39パットでした。

その夜は和食の店、" まつとも " に行きました。
ジョニ黒の1リットル瓶を持ち込んでキープしようとしたのですが、まだ前のボトルがありますよと指摘されました。
なるほど、ほんの少ししか減っていない普通瓶があったのですが、私たちの実力?を考慮すれば足りるはずもありません。
しかし3日連チャンの飲み方であるし、ゴルフの疲れもあったので早めのお開きとなりました。
それでも持ち込んだ1リットル瓶は3分の1以上も消費されていました。

馴れてはきましたが、私が上京しても、妹夫婦が来熊しても、怒涛のような日々が繰り広げられます。
アラ還世代で、この体力を維持できているのは、糖質制限のおかげかも知れません。
糖質制限という理論に感謝です。

久々のゴルフ対決

2014年12月29日 | ゴルフ
金曜日に妹夫婦が来熊したので、その晩は修猷館の後輩でもあるT君も加えて、居酒屋 " 二貝 " で飲みました。
もともとジョニ黒のキープが500ml残っていたのですが、強力メンバーですので、700mlの新品ボトルを2本用意しておきました。
しかし、案の定飲み空けてしまいました。
4人で1900mlですか。この顔ぶれではあたりまえかも知れませんが、異常と言えば異常ですよね。

土曜日の晩はT君に代わって、妹と昔から親交のあるHとO先生を交えて、" 銀杏釜飯 "で忘年会を開催しました。
毎年、相手変われど主変わらずと言うのでしょうか、Hと誰かが揉めることが多いのですが、今年は平和な忘年会でした。
私と妹夫婦は2次会で、" KONS "に行き、ラフロイグをフロートさせたジョニ黒の美味さを満喫しました。

そして翌日の日曜日は、あつまるレイクC.C.で妹夫婦とのゴルフ対決が実現しました。
アウトスタートの1番は3人とも2パットのダボというショボいものだったのですが、
まずは2番でゲームが動きます。
私の2打目は残り130ヤードチョイだったのですが、8番アイアンで軽く放たれた球はピンの右50cmに突き刺さりました。
OKバーディーです。
しかし、バタバタした妹もなんとか寄せワンのボギーで耐え、慎ちゃんは惜しくも2パットのボギーでした。

次にゲームが動いたのはハンディキャップ1の5番ロングでした。
私の4打目はサブグリーンのガードバンカーからの100ヤードショットだったのですがPWでなんとかグリーン左端に載せることができました。
妹の5打目は私が捕まったサブグリーンバンカー手前のラフからでした。
極端な左足上がりからのショットだったのですが、引っかけを警戒しすぎたのかグリーン右に大きく外してしまいました。
そこからの寄せは木の枝が邪魔で低い球でバンカー越えを狙わねばなりません。
限りなく不可能に近い状況ですので、私と慎ちゃんは、枝を避けて、ピンでは無く、グリーン左端に乗せるしかないだろうと予測していました。
しかし妹はPWを手にしてピン方向を向いています。
私と慎ちゃんは、" 無茶だ。計画が悪すぎる。 " と囁き合いました。
案の定、妹の球は枝に当たってバンカーに入り、そこからの寄せもグリーンオーバー。
次の寄せも4mほどを残したのですが、なんと、そこから1パットで入れたのです。
私のロングパットは2mチョイに寄ったのですが、かすりもせずに3パットとなりダボでした。
妹は9でしたので、私が2打リードを広げることができたのですが、2打しか広がらないのかというのが私の正直な気持ちでした。


そして次の6番ミドルで信じられなことが起こります。
妹がカラーから打った8mくらいの大きなフックラインのパットが見事にカップインしたのです。
4オン0パットのパーです。
全く入らない私と慎ちゃんを尻目に、むつかしいパットを次々と沈めてきます。

結局前半は、スコアこそ、私が48、妹が51、慎ちゃんが55だったのですが
パット数は、妹が14、私が19、慎ちゃんが21というものでした。

( 明日に続く..... )

meijiの超美味チョコレート

2014年12月20日 | 飲食物
最近meijiからORANGETTE ( オランジェット )というチョコレートが発売されました。







昔からチョコレートとオレンジの相性の良さは有名で、幾多のオレンジチョコが発売されてきました。
しかしこのチョコのオレンジの強さは別格です。
バレンシアオレンジではなさそうですが、蜜漬けオレンジピール恐るべしです。
私はセブンイレブンでゲットしました。
ひと箱の炭水化物は22.5gで6粒入っていますので、一粒で3.75gです。
毎晩一粒だけ丁寧に食しています。

もともと私はチョコレートが昔からの好物で、江部先生の糖質ドットコムから購入するノンシュガーダークチョコのストックが欠かせません。



振り返ってみれば私の幼年期には明治か森永の板チョコしかありませんでした。
それを大事に一粒ずつ口の中で温めて溶かすのです。
チョコレートを噛むなどということは贅沢過ぎる食べ方だとされていたのです。
小学生になるとグリコ・アーモンドチョコが登場しました。
私の中ではこいつが40歳過ぎまではベストなチョコで、バレンタインの義理チョコでは必ずリクエストしていました。
その後グリコ・アーモンドチョコは姿を消していきます。
私の推測ですが、上質なアーモンドの安定した輸入が困難になったのが理由であるような気がします。
看板商品の品質を落とすことなく製造中止とするところに、私はグリコの良心的な企業姿勢を感じます。

変わったチョコとしては高校生の頃にロッテのラミーチョコにはまった時期がありました。
当時はチクロ甘味料入りのコカ・コーラに家族ではまっていましたので、糖質まみれの毎日でした。
20歳の頃にチクロが禁止されてコーラ中毒を脱しました。飲んでも全く美味くなくなったのです。
結局コーラ中毒では無く、チクロ中毒だったということでしょう。

ネットで調べてみましたが
森永ミルクチョコレートは大正7年、
明治ミルクチョコレートは昭和元年、
グリコ・アーモンドチョコは昭和33年の発売だったそうです。

100歳の華麗な冒険

2014年12月19日 | 映画








昨日は電気館で上記を鑑賞しました。

スウェーデンでのベストセラー小説を映画化したものです。

老人ホームに住むアランは100歳の誕生日に、部屋の窓から逃げ出します。
逃げ出したというよりも、出発したという表現の方が正しいのかも知れません。
ひょんなことからヤクザの大金入りのカバンを手に入れたアランは仲間を増やしながら
ヤクザや警察の追跡を振り切るというストーリーです。

そのストーリーの合間にアランの若い頃からの数奇な人生が紹介されていきます。

少年時代のアランは、何故か爆弾作りにはまってしまい、偶然通りかかった男を爆死させます。
刑務所に収容されたアランは出所後にスペインの内戦に参加し、次々と重要な橋を爆破していきます。
そして偶然ではありますがフランコ総統の命を救います。

その後の第二次世界大戦では爆弾作りの腕前を見込まれて、アメリカのマンハッタン計画に参加し、
原爆の完成直前で壁に突き当たり悩んでいたオッペンハイマーにさらりと重要なヒントを提示します。
原爆は完成し、喜んだ当時の副大統領トゥルーマンからライターをもらいます。
終戦後は原爆製造を目論むソ連に招聘されますが、酔っぱらってスターリンに罵声を浴びせて収容所送りとなります。

冷戦時代はレーガンとゴルバチョフの間で二重スパイとして、綱渡りとでも呼べるような危険な任務を数年間も遂行していきます。

この作品のジャンルは、" 大人のおとぎ話 " でしょうか。
とぼけたコメディーですが、アランの、" なるようにしかならない。 " という開き直った人生観が渋く光ります。

少年時代を除けばアランは30歳くらいから100歳までを一人の俳優が一回70万円とも言われる特殊メイクを駆使して演じきります。
で、一体何歳の俳優なのか検索してみると49歳でした。
ノーメイクの写真をアップします。




平成26年はせがわクリニック忘年会

2014年12月15日 | お酒


12月13日の土曜日に熊本駅隣のホテル・ニュー大谷で開催されました。



これは女性陣との集合写真ですが、後列右側に怪しげな茶髪がいますよね。



そう、女装した卸問屋さんでした。婦長のアイデアだそうですが、よくやりますよね。

二次会には旧婦長も駆けつけてくれました。



左が旧婦長、右が新婦長の川崎です。

それほど荒れることも無く終了することができました。

毎年ですが、この忘年会が終わると、ひと山越えたような気がして、ほっとします。

後は、粛々と新年を迎えるだけです。

ラウンドレッスン

2014年12月08日 | ゴルフ
昨日はゴルフのラウンドレッスンを受けてきました。
城南GCのファミリーコースを、レッスンプロ同伴で回り、途中で様々なアドヴァイスを授かり、改善させながら何球も同じ場所から打ち直します。
様々な指摘を受けましたが、とにかく体が開くのが私の最大の欠点のようです。
自分では、インサイドからクラブを立てて下ろしてきて、後ろを向いたままスイングしようとしているつもりなのですが、不十分なのだそうです。
寄せでも体が開いているそうで、試しに後ろを向いたまま寄せを打ってみると大成功で、簡単に打てるようになりました。

このレッスンの良いところは、当日の天気次第で12時ごろ申し込める点です。
レッスンは2時半スタートで、日没までです。
今年の冬は、できるだけ通うことにしました。

思えば、私自身はゴルフを他人に教えてもらった経験が殆ど有りません。
20年近く前に、週一で一年間ゴルフレッスンに通ったことがありますが、そのコーチは、" 振り切る、振り切る! " と言うだけの指導でした。
お手本を見せてくれることなど一度も無く、体力こそついたかも知れませんが、ゴルフのスキルがアップすることは全くありませんでした。

ゴルフ雑誌だけが頼みの綱だったのですが、しばらくは読まないようにします。
" 船頭多くして、舟、山に登る。 " と言うからです。

スキッドアンドスナップ

2014年12月02日 | ボウリング


11月12日以来のボウリングですから、月一ゴルファーならぬ、月一ボウラーに成り果てています。
ショートオイルパターンの7、8番レーンで、最初はブラックウィドウレジェンド ( 未亡人 ) を使用したのですが、
1ゲーム目はなんとストライクがゼロでした。
それでも15枚目を派手に膨らませて、なんとかポケットらしきところを突くことは可能でした。
しかし、全く幅がありませんし、テンピンも跳びません。

そこで、2ゲーム目の終盤から久しぶりの508Aにチェンジしました。
これが大成功で、右足20枚目からの10枚目チョイ出しでポケットをヒットしますし幅もありました。

上がり3ゲームは、254、189、208、TOTAL : 651 AVE : 217 、ストライク率 : 61.8 % でした。
スプリットが5つですがスペアミスはありませんでした。

未亡人の驚異的な曲がりに魅了されていて、ついついそいつを使用したくなってしまいます。
しかし久々の508Aの健全なスキッドアンドスナップも捨てたものでは有りません。
懐かしい快感を味わうことが出来ました。

竹鶴政孝・ニッカ・フロムザバレル

2014年12月01日 | お酒






テレビの連続ドラマのせいで、ニッカウィスキーがブレイクしているようです。
今日はKONSの吏菜ちゃんにもらった、竹鶴政孝の自叙伝を読みました。

竹鶴政孝は1894年に広島県竹原町で造り酒屋の3男として生まれました。
長男は早稲田大学から商社マンになり、次男は九州大学から北海道石炭汽船のエンジニアになったので、両親は跡取り息子として政孝に期待を寄せ、
今で言う大阪大学工学部の醸造科に進学させました。
卒業後、当時の洋酒のトップメーカーであった摂津酒造 ( 現在の宝酒造 ) に就職します。
そこの社長の計らいで、政孝はスコットランドに留学し、大学の授業だけではなく、各地のウィスキー蒸溜所を訪ね回って、竹鶴ノートを作成しました。
後年、英国のヒース首相は、" 頭の良い日本の青年が、一本の万年筆とノートでウィスキーづくりの秘密を盗んでいった。 " と評しました。

4年間の英国滞在の後に帰国しますが、摂津酒造は不景気に翻弄されており、ウィスキー製造の計画は取締役会で否決されます。
傷心のうちに政孝は摂津酒造を退社します。
そんな政孝を拾って、ウィスキーを造らせたのが赤玉酒造( 現サントリー ) の鳥井信治郎社長でした。
天王山のそばの山崎の地で、政孝は日本初のウィスキーを造り上げます。
入社時の約束通り、10年で政孝はサントリーを円満に退社し、自ら北海道余市でのウィスキーづくりを目指します。
どこまでも品質にこだわり、値段も高く、ピート臭いウィスキーは当初売り上げが伸びませんでしたが、徐々にコアなファンを増やしていきました。
しかし、残念ながら2001年にはアサヒの完全子会社になったようです。

さて私ですが、20代の頃はサントリーのレッドにはじまって、角、オールド、リザーブとジャンプアップしていきました。
ところが27歳のある晩、酔っぱらって立ち寄ったスナックのマスターが、ニッカのフロムザバレルの口を開けて勧めてくれたのです。
ストレートで飲んだのですが、その美味さに圧倒されてしまい、その晩に、ほとんど一人で空けてしまいました。
それから15年間は、自分で買うウィスキーはフロムザバレルだけでした。

ところが、40歳を超えた頃に洋酒が値下がりしてジョニ黒が安くゲットできるようになりました。
そこでジョニ黒に乗り換えて20年になります。

自分の主義主張が定まらぬ若い頃はともかくとして、27歳から15年間同じニッカウィスキーを飲み続け、
そこでジョニ黒に乗り換えて20年間、元に戻ることも無く、それだけを飲み続けるというのは、なんだか、清廉潔白な? 飲酒歴ですよね。

ただ、最近では灰汁 ( アク ) の強い女 ( ラフロイグ ) にちょっかいを出し始めたようです。