春庭パンセソバージュ

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へぇへぇ平成(へぇなる)言語文化教育研究 青房赤房、力の色③

2004-01-28 | インポート
ぽかぽか春庭のへぇへぇ平成(へぇなる)言語文化教育研究
「平成好色一代女・青房赤房、力の色③」
(2004/01/28)

 モンゴル相撲「ブフ」では、力士には神霊が宿っているという古い信仰が今も生きており、その所作にも、強い動物の霊魂が込められている。

 1月10日の横綱戦。立ち会い前の土俵上。朝青龍の所作に、私は「鷹の舞」を見た。NHKテレビが、このモンゴル的な所作を放映したかどうかはわからない。少なくとも私は、これまでテレビではこの所作にまったく気づかなかった。

 土俵上の東方西方の力士が四股をふみ、土俵両脇に蹲踞する。次に、両手を大きく広げる所作。「塵を切る」というそうだ。このとき、朝青龍は、両手をひろげたあと、何度か腕を羽のように動かした。鷹が翼を広げるときのような「塵を切る」所作。
赤房下で、横綱が塩をつかむときの目は、獲物を狙う鷹の目の鋭さ。

 私はテレビでしかモンゴル相撲も、見たことがない。「鷹の舞」も、無論テレビでのモンゴル相撲紹介でちょっと見ただけ。
 実際のモンゴル相撲の横綱土俵入りで、どのような所作なのか、生で見たわけではないが、朝青龍の両手がひろげられたとき、「鷹の舞」の力強く美しい所作が含まれているように感じたのだ。

 今回、生で見てよかったと思うことのひとつに、日本で横綱になった朝青龍が、モンゴルの魂をしっかり示していたこと。

 習慣文化の異なる日本の相撲社会になじむのはたいへんだったろうが、日本の社会に同化してしまうだけでなく、同時にモンゴル出身の誇りも失って欲しくないと思っていた私にとって、朝青龍の所作から感じ取れた「鷹の舞」などのモンゴル所作は、美しいものに思えた。

 「大相撲の伝統」を狭い意味に解釈し、朝青龍のモンゴル的な所作や行動をとがめる人もいるかもしれない。しかし、現在私たちが知っている「大相撲の伝統」とは、ほとんどがたかだか百年の歴史、明治以後の改革によって「伝統」とされたものにすぎない。

 標準日本語は、明治になって官制として作り上げられた言葉であった。神前結婚式は、大正天皇の結婚式を真似てはじめられたものである。
 これら、私たちが「昔からの伝統」と思いこんでいることの多くは、近代日本を作り上げる過程で、取捨選択がなされ、改変された「伝統」である。

 たった百年前に始められた「伝統」しか知らず、太古からの日本の「本当の伝統」をないがしろにするのはよろしくない。

 大陸の東はじ、太平洋の西はじに位置し、花綵(はなづな)列島と呼ばれる島国の国土。黒潮親潮にのってやってきたあらゆる文物文化を消化し取り入れてきた。

 漢字を取り入れて「ひらがな」を作り出し、自国語を表記するのに適した音節文字として適応させた。五行思想を取り入れれば、現代のコンピュータゲーム、ポケットモンスターにまで、その影響が残る。

 縄文文化以来、われわれの文化は、常に新陳代謝を繰り返しながら新しく生まれ変わっていくのが「真の伝統」なのだ。

 1年の行事でいえば、元旦に新しい「年神さま」を迎えてすべてをリセットする。若水を汲み、初日を拝めば、新しく生まれ変わることができるのだ。去年までの古い年を入れかえ、新しい年をひとつ加えるというのが正月行事であった。

 陰暦では、正月にみながいっせいに年を加えたのは、正月の「リセット新生」を自分の年齢に加える必要があったから。

 今の満年齢では、誕生日に年が増える。皆がいっせにではなく、365日それぞれのリセット新生なので、リセット気分も小粒になる。世の中すべてがいっせいに新生するなかでの自己再生のほうが、壮大なリセットだった。

 子供のうちは、毎年誕生日がやってくるのを心待ちにしていた人も、中年すぎれば、忙しさに紛れて自分の誕生日も忘れてすごしてしまう。たまに鏡をしみじみ見たら、白髪がふえ皺が増え、年を重ねていたことを知る。毎日の代わり映えしない日常の中に、せっかくの誕生日もまぎれてしまうことになる。

 日常生活は、たいてい毎日同じことの繰り返しだ。同じ電車に乗って、同じ場所で仕事。家にかえれば、毎週同じテレビ番組をみて、、、。
 同じことを繰り返すと、日常がすり切れてくる。そして、同じことの連続のため、人生時間の中に、同じ澱が溜まってくる。

 日常を「ケ」といい、「ケ」の対極にあるのを「ハレ」という。「ケ」が連続してつづくと、日常の澱がたまり、「ケ」の生命力が枯れてくる。これが「ケ枯れ」の状態。

 ケガレが大きくなると、悪いことも重なるから、ケガレは清めなければならない。このために人は「身をそそぎ=禊ぎ」を行う。1年の連続で「ケ」が枯れた年を、新年行事でリセットする。「ハレの日」を設けて、祭りや神事をおこなって、ケガレを払う。

 水垢離やら滝行、海につかって心身を清める「禊ぎ」も、心身リセットのひとつのやり方である。
 「ミソギ」とは、政治的に失敗した代議士が、ほとぼりさめるのを待って再出馬するための方便用語ではない。人生のケガレを払い、生き生きとした日常を取り戻すための行事なのだ。

 成年行事(文化人類学でいうイニシエーション儀礼)も、年を加えたことで人生の別の階梯へ移る「生まれ変わり」の儀式だ。子供の時代をリセットし、成年として生まれ変わる。

 縄文時代は、この成年儀礼イニシエーションとして、身体に入れ墨をいれたり、歯の一部分を削ったりした。部族により、入れ墨の文様や歯のどの部分を削るかが決まっている。世界には、これらの儀礼を大切に守り続けている民族も多い。
 書いたり消したりあそび半分の「タットゥ」などとは意味が異なる。

 わが青春の地、ケニア。マサイ族は、かって「ライオンを一頭自分の力で倒したら一人前」という成年儀礼をもっていた。ライオンの数が減少し保護動物となったため、もはや行えなくなった。
 また、洞窟にこもり、真っ暗ななかで数日をすごし、穴からでてきたときが「再誕生」という儀礼など、さまざまな成人儀礼が世界各地に残されている。

 多くは、なんらかの苦痛や鍛錬を伴って、自らの肉体の力が十分成年として仕事ができることを示し、鍛錬された心を示すことによって、成年儀礼が完成した。

 何の鍛錬もしてこない嬢ちゃんや坊やに対して、いくら自治体が「20歳すぎたから今日からあんたは大人」と言ってやっても、大人になれないのは当然のことだ。

 その点、大相撲に入門した若者は、料理当番、挨拶言葉遣い、所作振る舞い、書道まで、相撲学校や各部屋できっちり指導を受ける。

 かって、若衆宿・娘宿などは、村ごとに若者を鍛え上げる「成人するための学校」であった。明治以後、この「村ごとの教育制度」は、「近代国家成立のための近代学校制度」によって、駆逐され廃止されていった。官制の学校だけが「子供を教育する機関」になってしまったのだ。

 この制度が、今「金属疲労」にきしみ始めてきた。音を立てて崩壊していく学校もある。全国一律カリキュラム、どの学校も硬直した「右へならえ」しかできない教育。

 かって、村ごとに特色ある「若者の鍛え上げ」が行われた。ある地方では、祭りの御輿をかついて走ることが心身の鍛練であったし、ある地方では鬼剣舞の練習が、訓練として課せられた。ある地方では「ばんえい競馬」に出場するための努力が若者を成長させた。何らかの「自分を鍛える努力」を必要としない民族はない。

 相撲部屋の「スパルタ式」が全面的にいいと言っているのではない。しかし、厳しい鍛錬をやりぬいて己の肉体を鍛え上げた力士たちには、最近の若者からは失われた目の輝きや肉体の美しさがある。   
 
 百年前からの伝統だけでなく、四百年前のことも、千年前のことも、私たちの生活に生かせるものは生かしたらいい。

 そして、モンゴル相撲の技も韓国相撲の技もとりいれて、強くなっていったらいい。
 多様さは、硬直した「ケ枯れ」を救う。同じことだけを続けていることのケガレをリセットして、新しい生命力を得るためには、「常に新しいものを取り入れ、自身をリセットしつつあたらしいものを生みだしていく」というのが、我々の「一万年」の伝統なのだ。
 
たかだか百年の伝統に、一万年の伝統が押しつぶされる必要はない。<続く~⑤>

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