春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭「大涌谷と芦ノ湖」

2010-08-31 | インポート
2010/08/31
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(8)大涌谷と芦ノ湖

 26日は、10時に区民保養所をチェックアウトして、ロープウエイで大涌谷へ。硫黄の匂うなか、黒いゆで卵を作っているところを見たり、地面から煙が吹き出しているのを見たり。もとは地獄谷という地名だったのに、明治天皇を迎えるのに「地獄」では恐れ多いと「大涌谷」に改名したのだという説明が書いてありました。へぇ!そうだったんだ。

 芦ノ湖では黒い海賊船で遊覧。娘は「私は青いのに乗りたかった」と言っていましたが、特別船室にゆったり座れて湖の眺めもよかったので満足。息子は、おばあちゃんのおしゃべり相手をしながらまったりすごしていました。残念ながら、山沿いに雲が多くて芦ノ湖から富士山は見えず。九頭龍神社の鳥居が水の中に建っているのが、湖畔の緑に映えてきれいでした。

 船を下りて、復元された箱根関所の建物と関所資料館を見物。歴史大好きの息子はとても興味深そうにゆっくり回って、古地図複製をおみやげに買っていました。私は建築に興味があるので、復元建築のビデオを見ていました。チョウナで削った柱とか、数本の木材を組み合わせて柱を立てて行くようすとか、復元作業が記録されていました。これまでも唐招提寺解体再建の模様や、奈良大極殿復元の記録などをテレビで見て、建築技術の継承に興味がわきました。箱根関所の復元にも石工、板葺き屋根、渋墨塗という塗装の方法まで、さまざまな古来の技術伝承が生かされていました。屋根は栩葺(とちぶき)で、竹釘で打ち付けていきます。渋墨塗というのは、柿渋と煤を混ぜたもので板壁を塗装すること。
 箱根関所復元工事の記録
http://www.hakonesekisyo.jp/db/data_inc/inc_frame/fr_data_04.html

 姑が疲れてしまったようなので、お世話係に息子と娘を残して休憩タイムをとってもらい、私は一人で旧街道の箱根杉並木へ行きました。杉並木の一部分が保存されているのです。夏の日盛りでも、うっそうとした並木道はそれほど暑さを感じません。前後に誰もいないのを見計らって、♪箱根の山は天下の険♪を唄いました。
 ♪昼なお暗き杉野並木 ヨーチョーのショーケイわ、こーけーなめらか。いっぷかんにあーたるや、ばんぷもひらくなし♪これで今回の旅の目標達成です。

 若い男性外国人観光客二人連れがかわりばんこに写真をとっているのを見つけて、「二人をいっしょに写してあげるから、次に私を撮って」と頼みました。なかなかイケメンの二人連れなので、いろいろ話して見たかったのですが、姑を待たせているので、すぐにバイバイしました。
 
 歌詞を調べてみて、「箱根八里」作詞者が鳥居忱(とりいまこと1855~1917)という人だと初めて知りました。この歌を習ったころの音楽のテストに「箱根八里、荒城の月などの作曲者は誰か」なんぞの出題があって滝廉太郎の名は覚えましたが、作詞者についてはテストにも出ず気にも止めていなかった。音楽の時間、歌詞の意味がわからないまま歌っていたのだし。皆さん、♪ヨーチョーノショーケイワーとかって、意味わかってました?

 歌詞、♪前に聳えしりえにさそう♪は「後えに誘う」だと思い込んでいましたが、「後えに支う」だったってのも、ようやくわかりました。♪いっぷかんにあーたるや、ばんぷもひらくなし♪は、「ひとりの武士が関所を守れば、万人といえど、この関を開いて通れはしない」という意味なんだって。知らなかった。
 杉並木近くの恩賜箱根公園の駐車場に箱根八里の歌碑があります。
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箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後に(しりえに)支う(さそう)
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼なお暗き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は 苔(こけ)滑らか
一夫関(いっぷかん)に当るや 万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する 剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に 足駄(あしだ)がけ
八里の岩ね踏み鳴す(ならす)
斯く(かく)こそありしか 往時(おうじ)の武士(もののふ)
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 芦ノ湖からも強羅からも見えなかった富士山。小田原も過ぎたあたりで、帰りのロマンスカーの中から、夕日を背負うシルエットの富士をようやく見ることができました。
 箱根旅行、楽しかったです。娘息子も「また行こう」と言ってくれるので、次はどこにしようかと思案中、、、、ええ、家族ダンラン、(without亭主、姑つき)です。

<おわり>

ぽかぽか春庭「強羅」

2010-08-30 | インポート
2010/08/30
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(7)強羅

 強羅公園には、益田鈍翁(三井物産を設立した益田孝の茶人名)の茶室「白雲洞」が移築公開されています。娘息子が吹きガラス制作の順番を待っている間、私と姑は白雲洞の見学をしました。白雲洞の縁側で姑のおしゃべりを聞く。何度も聞いた話もあるけれど、何度も聞いた話にウンウンと相づちを打つのも姑孝行。
 姑が小原流華道師範の免状を持っているのは知っていましたが、お茶についてはこれまで聞いたことなかった。姑の「お茶も習ったけれど、師範をとるのに家元に納めるお金が華道の比ではなくかかるので、師範とるまではいかなかった」という話を初めて聞きました。坊主丸儲けと言いますが、坊主はお経くらい読むのに比べ、家元ってのは免状与えるだけでホント丸儲けの仕組み。落語に「欠伸指南」というのもありますが、私も「愚痴こぼし指南家元」くらいになりたい。

 茶道具も稽古用のものを揃えたけれど、今は稽古にも行かなくなったから、物置にしまいっぱなしで、どうなってるかしら、と姑。「茶碗なんか、たいしたものは買わなかったけれど、茶釜はね、稽古用の安物でも15万したのよ。邪魔だけれど、売るなら15000円で引き取りますって言われて、そんな値段じゃ売っても何にもならないから、そのままとってあるの」

 あらら、姑が茶釜持っているなんて、知らなかった。私は若い頃、ふくさの畳み方ってのを教わっただけで足がしびれてしまい、二度と茶の湯の稽古なんかするものかと思った、というお作法知らずだから、茶釜ちょうだいなんて言えないけれど、しまいっぱなしになっているなら、留学生の「茶道体験用」に借りだしたいなあと思いました。
 「家具とか電気製品とか、不要品は区内の大学の留学生バザーに寄付するの。こっちも処分できるし留学生にも喜ばれる」と言う姑なので、そのうち茶釜もお伺いたててみましょう。

 箱根一泊。泊まったところは区民保養所です。区民のための施設、26年も区民税払い続けてきたのに、利用したことがなかった。これまで区民保養所というと、くすんだ宿をイメージして、もしも宿泊してわびしい気持ちになったりしたら、保養のはずが気持ちも晴れないだろう、というワーキングプアらしい感想を持っていたのですが、娘と息子がインターネットチェックして、意外によさそうな施設だということで申し込みました。箱根ケーブルカー駅のすぐ目の前に保養所がありました。部屋からは箱根大文字焼きの「大」の字が正面に見えるロケーション。リゾートホテルのようないたせりつくせりというわけにはいきませんが、2ヶ所の源泉から引いたという大小の浴室からの眺めもよく、部屋もきれいだし、夕食朝食もおいしかった。 私には区民保養所でも十分満足でした。

 これまで箱根に来ることがなかったことの言い分のひとつ、「箱根に泊まるなら、富士屋ホテルのスイートくらい泊まりたいけど、スイート泊まるほどのお金がない」ちなみに富士屋ホテルのスイート「菊」に二人で泊まって30万。都心の有名ホテルスイートよりは安いけど、非常勤講師の時給に換算すると何時間授業することになるかと思えば、お湯につかる気も萎える。

 たった一晩の宿泊で30万も使うなんて、ほとんど犯罪である、30万あれば、バングラディシュのストリートチルドレンが100人学校にいけるぞ、なんぞとつぶやきながら、今回、富士屋ホテルは見学だけ。その計算で行けば、区民保養所だってストリートチルドレンの学費ひとりや二人分にはなるんですけれど、そこはオミット。庶民なんてそーいうもんです。

 第一日、25日昼ご飯前に宮ノ下富士屋ホテルへ。1891(明治24)年に建った本館、1906(明治39)年に建った西洋館など、登録有形文化財に指定されている建物の外観だけでも見ておこうと寄ったのです。泊まりはしないけど、玄関前で写真撮りました。

 「宿泊客でもないのに写真撮るなんて恥ずかしい」という気もありますが、ホテルって、宿泊していない場合でも、ロビーを待ち合わせ場所として利用したり、散歩の途中の休憩地点として利用できるのがいい所と思っています。宿泊しない客、お金をおとさない人にも居心地のよさを感じさせてこそ、ホテルのホスピタリティです。ホテルのクォリティというのは、この居心地よさをどう発揮するか、という点にある、というのが私のホテル評価基準。って、これは石ノ森章太郎の漫画『ホテル』を読んで思ったことであって、あちこちのホテルを泊まり歩いての評価ってことじゃありません。私のホテル利用は、もっぱら散歩途中の休憩か、ロビーでの待ち合わせ。

 富士屋ホテルのフロントでは、パトリックさんが流暢な日本語でホテル前のバス停から出るバスについて私の質問に答えてくれました。
 客商売の基本だから、ホテルの従業員教育はきちんとしたところが多いけれど、どんな丁寧な応対をされても、あ、今、このホテルマンは客の値踏みをして、「この客、金ないなあ」と思われた、と僻むのが私の貧乏性。つーか、お金持ちは路線バスなんかに乗らないのだろう。ヒガむくらいならホテル見物しようなんて思わなけりゃいいのに、物見高いのもやめられない。近代建築を見て歩くのが趣味のひとつです。
 富士屋ホテルの建物写真リンク
http://maskweb.jp/b_fujiyamain_1_1.html

<つづく>

ぽかぽか春庭「箱根」

2010-08-29 | インポート
2010/08/29
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(6)箱根

 娘と息子が企画した「みんなで温泉旅行」に行ってきました。姑の年齢85歳を考え東京から一泊で無理なく行ける温泉ということで、伊豆、熱海、箱根、房総などが候補にあがった中、ワーキングプア一家でも支払えそうなコストパフォーマンス重視で、区の保養所利用箱根一泊ということになりました。8月25、26日の一泊二日のプチ旅行。

 今年の夏、息子は博物館学芸員研修がありました。半月のあいだ地元の博物館に実習に通って、苦手な「慣れていない人と接触すること」も一生懸命やってきたので、息子の「実習お疲れさん会」を兼ねて、姑孝行のための家族旅行です。家族旅行と言っても、夫はいつもの「父さんは倒産しそう。忙しくて旅行どころではない」といういいわけで、いち抜けしています。春庭が「あなたの母親でしょう。自分の親なんだから親孝行自分でしなさいよ」とぼやいても、聞く耳持たず。ふつつかながらヨメが姑孝行を相務めることになりました。

 8月25日朝、娘、息子、姑と、新宿から小田急線で箱根へ。姑は何度も箱根へ行っており、珍しくともない温泉地なのですが、私は箱根には行ったことがありませんでした。温泉に行きたいなら、故郷の群馬に帰省して入ったほうがいい。新しいのは故郷創生資金で掘られた温泉もあるし、古くは万葉集に詠われた温泉もある。
 熱海と箱根は、東京在住者にとって、あまりにもありきたりすぎる観光地という気持ちがあったことも確かなのですが、まあ、一度は行ってみるべきだろうとも思っていました。

 それぞれの箱根への思い入れは、各人各様。
 私は「箱根の杉並木で♪箱根の山は天下の険、と唄う」のが今回の旅の目標です。姑は「孫とすごす時間が持てれば、それでよし」。草食系の息子は「温泉地の宿でまったりすごす」。って、21歳男子としてドーヨ、というところですが、そもそもおとなしく家族旅行について来るってところが、ガールフレンドなし歴21年のわけで。娘「ガラス制作体験をする。芦ノ湖で海賊船に乗る」
 観光地の俗化の象徴がガラス美術館とオルゴール館。このふたつが建ったらその観光地は「大人」の行くところではなく、お子ちゃま&アンノン族ミーハー(という表現も古いが)の喜ぶ程度のものに成り下がる、というのが「通の温泉ガイド」なのだそうなので、娘は逆に、「どこかに出かけたらガラス制作やオルゴール制作をする」ということにしたのだって。

 「箱根に行ったら、ロープウェイに乗って大涌谷の火山噴煙見物をして、芦ノ湖で海賊船に乗って遊覧っていうのをするのが、正しいミーハー観光だ!」というわけで、25日は、ロマンスカーで10時半に箱根湯本到着、強羅公園クラフトハウスで吹きガラス制作がメインイベント、26日は大涌谷見物と芦ノ湖遊覧がメインイベント。

 25日午後、強羅公園クラフトハウスで、娘と息子は吹きガラス制作に挑戦。娘はピンクの色ガラスを散らしたケーキ皿、息子は水色と泡模様のグラスを作りました。指導員の言う通りにガラスが先に付いている吹き棒を咥えて吹いたり棒をぐるぐるまわして形を整えたり。私もテレビでガラス工芸のいろいろを見たことはありますが、間近で見るのは初めてです。ガラスを溶かす炉の熱気以上の指導員さんの熱血指導で、しだいにガラスは形を見せていき、それぞれグラスと皿が完成しました。ふたりは「おもしろかった」と、喜んでいました。
 指導の松本大督さん、完成品は27日に宅配便で届きました。きれいな色に仕上がっていて、娘も息子も大満足です。ありがとうございました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「科博が好きなわけ」

2010-08-28 | インポート
2010/08/28
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏の自由研究(4)科博が好きなわけ

 なぜ私が龍涎香に興味を持ったか。理由があります。日頃香水などには縁がない春庭ですが、「香り研究」にはかって縁があったのです。
 およそ理系はすべて苦手だった私なのに、高校時代、友達に誘われて「科学部」に所属していました。

 高校2年生の夏休み、秋の文化祭の準備「香料の研究」というのをやりました。香料の化学式を模造紙に書いたり、香水の製造過程などを調べたり、発表時のパフォーマンスなどを考えたのですが、どうも地味です。酢酸ゲラニル 英名geranylacetate 化学式C12H20O2 、安息香酸メチル 英名methylbenzoate 化学式C8H8O2、、、、これだけじゃ、観客が興味を持ってくれそうにない。

 そこで、香料を扱っていそうな会社に「文化祭で香料の研究をやります。資料があったら、ください」というおねだりの手紙をだしました。化粧品や香水の会社などからは無視されましたが、ただ一社、お菓子メーカーが「食品香料のサンプル」というのを女子高校あてに届けてくれました。ロッテさんありがとう!あれ?グリコだったっけな。

 小さなサンプル瓶のふたを開けると、合成バニラとかいろいろな香料が香りました。私ともう一人の「香料担当」ハヤシセッちゃんは、文化祭でサンプルの香料を見学者に嗅がせて、何の食品に使われているのか当てさせるという企画をたて、たいへん好評でした。他のグループは汗水たらしてさまざまな実験を続けて得た結果を、模造紙に書いて貼りだしていました。それらの地道で地味な発表より、食品香料サンプルもらっただけの私と節ちゃんは、たいした実験もしていなかったのに、大活躍のように見えたのでした。手紙は私が書いたのだけれど、資料をどこかの会社からもらっちゃえ、と思いついたのは節ちゃん。節ちゃんの実家は山間の町の駅前食堂でした。いつも愛想良くにぎやかな楽しい人でした。

 節ちゃんは、私が中学校国語教師になったのと同じ県で小学校の先生になりました。寿司屋の板前さんと結婚。お寿司屋さんは大繁盛で、自社ビルを建てるほどになりましたが、小学校の教師はずっと続けていました。私がただ一度参加した女子高校クラス会で、彼女の話を聞きました。「うちの市の教育委員会や学校関係の宴会は、全部うちの寿司懐石店でやらせてもらっているの。教師の給料なんてたかが知れてるけど、学校関係の宴会シェアを確保するために教育委員会に食い込んでおくと便利だから教師続けているんよ」と自慢していたっけ。
 というエピソードは何回か書いたことなのだけれど、やっかみひがみ春庭は、何度でも繰り返して言う。自社ビル、、、、うらやまし。
 私ときたら、その「たかが知れてる」教師の給料さえもらえずに、非常勤講師パート仕事でウン十年。

 龍涎香を拾うようなウンのいい結婚をする節ちゃんもいれば、犬のウン○拾ったごとしの、、、、と、何を思いだしても、あいかわらずの妬みヒガミそねみやっかみに終わるのが、私の夏休みです。

 まあ、そんなこんなで、もともとは理系人間じゃなかった私ですが、今でも新聞の科学関係記事や、ニュートンなどの一般向け科学雑誌を熱心に読むサイエンスファンになりました。龍涎香に興味を持つとあれこれ科学記事をさがして読みたくなります。

 子供をつれて、科博に通った日々も遠くなりましたが、科学博物館、大好きです。
 以上、夏休み龍涎香蘊蓄でした。ほんとは、龍涎香どころじゃないのに、ほんとに書かなくちゃならないことが遅々として進まないことからのしばしの逃避でした。

<おわり>

ぽかぽか春庭「)「龍涎香を拾うコツ」

2010-08-27 | インポート
2010/08/27
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏休み自由研究(3)「龍涎香を拾うコツ」

 万が一、海岸で拾うかも知れないときのための、龍涎香の見分けかた講座。
1)形は、やや乾燥した牛馬の糞の固まったような物。表面はアバタ状の凸凹で蝋分に富んでギラギラ光っている。「汚ッタネェ!何の糞だ」と思って捨ててしまっていはいけない。
2)匂いは最初は悪臭がして、次第に青臭くなり、やがてかび臭い匂いに変わり、この後は表現しようもない海の香り、麝香(じゃこう)に似たかぐわしい香りに変わる。
 最初に、「わぁ、臭い、なんだこりゃ」と思って捨ててしまってはいけない。
3)色は、黒から灰白色までさまざま。上質なものほど色が薄い。

 現在は、合成の「龍涎香」が開発されており、春庭が科博で嗅いだガラス箱の中の龍涎香も、この合成品でした。
 本物の「龍涎香」の香りが欲しい人は、今日から海岸をうろつきましょう。ほら、見た目に牛や馬の糞のような形を探して、ウンがよければ手に入るかも。おっと、あなたが拾ったそれ、ただの「犬のウン○」ですよ。お間違いなく。

 なお、お子さんお孫さんから「龍涎香に催淫効果があるってどういうこと?」「性的不能の治療薬って何?」などの質問が出た場合、春庭には説明いたしかねますので、それぞれよしなにお答え下さい。

 以上の龍涎香蘊蓄をさらに極めたい方、以下の本をご参照ください。本気で夏休み自由研究に提出したい方、参考書名をあげておくと、自分で調べたっぽく見えますが、小学生には難しい本なので、「私が読んでわからないところは親に解説してもらった」なんて但し書きなどつけておくと、先生も感心すること請け合い。夏休み作品展の自由研究努力賞くらいはもらえるはずです。「催淫効果」など、きちんと解説してあげた努力賞。

<参考書>
・秋道智弥1994『クジラと人の民族誌』東京大学出版局
・加藤秀弘1995『マッコウクジラの自然誌』平凡社
・山田憲太郎2002『香談 東と西』法政大学出版局

・大槻平泉1830『鯨史稿』(1976年に復刻出版された、江戸科学古典叢書のうちの第二巻。恒和出版 ただし絶版。古書は¥ 84,500もするので、どうしても見たい人は、国会図書館へ行ってください。国立文書館に行けば、原本が展示されているかもしれない。「鯨史稿」の中の鯨の図版などをコピーした1枚を添えれば、上等な夏休み自由研究となりましょう。『鯨史稿』がコピー可能な本かどうかは、直接お問い合わせ下さい。国会図書館の本は国民みんなの財産です。(ついでながら、大槻平泉(おおつきへいせん)は大槻玄沢の従兄弟の子。辞書『言海』の編者大槻文彦の親戚)

<つづく>

ぽかぽか春庭「龍涎香」

2010-08-25 | インポート
2010/08/25
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏休み自由研究(2)龍涎香

 「龍涎香」は「催淫効果」があると信じられ、「性的不能」、「精液の漏れ」、「淋病」、「失禁」、「陰嚢の湿疹」などの男性の性的な能力増加、生殖器の疾患をなおすためにもちいられる漢方薬の貴重な材料でした。
 漢方薬のほか、伝統印度医療でも「龍涎香」は薬効がうたわれ、性欲を刺激する「催淫剤」の効き目があるとされました。20世紀前半出版の印度伝統医薬品目には、刺激性の薬物で「けいれん止め」のほか、「虚弱体質」、「てんかん」、「ひきつけ」、「神経衰弱」などに効くと書かれており、西洋医学が伝わったのちにも珍重されていたことがわかります。

 さて、日本では、博物学が盛んになった江戸後期に、動物学書として『鯨史稿』が出版されました。全6巻。大槻平泉(清準)が、文化・文政年間(1804〜1830)に表した博物学の書です。鯨に関しても図解入りで具体的な記述が残されています。鯨の名義・種類や、捕鯨業の実情などを論じました。

 「龍涎香」の説明もあります。西のはるかかなたのアラビヤに龍涎島があり、春になると龍が交尾して、その時に滴りおちた「よだれ」が固まったものと記述されています。薬効高いものと評価され、「てんかん」や「チフス」の特効薬、「腸閉塞」や「下痢」、さらに「寄生虫」や「悪霊払い」にも効能有りとされています。

 では、マッコウクジラの体内でどのようにして龍涎香ができあがるのか。実は最先端の動物学でもまだ解明できていないのです。龍涎香の中には、カラストンビ(タコやイカの硬い嘴=顎板)が含まれていることが多いことから、消化できなかった硬いエサを消化分泌物により結石化させ、排泄したもの、というのが、最も信頼できる説と考えられます。

 これまでに出された説はたくさんあります。
1)糞石のような結石が腸内にできたもの。
2)排泄物、不消化物が科学的な変化によって固まったもの。
3)寄生虫が引き起こした病気の産物。
4)小腸後端部にあるクチクラの内層から特殊な分泌によって出来たもの。
などの説がありました。

 ではなぜ、鯨の腸の結石が芳香を放つようになるのかなど、決定的なことはわかっていません。結石が海を漂ううち、日光や海のミネラルなどのさまざまな物の影響で化学反応を起こし、変化が起きるのだろうというのですが。

 龍涎香の構成成分の大部分はステロイドの一種であるコプロスタノールとトリテルペンの一種であるアンブレイン。このうちアンブレインの含量が高いものほど品質が高く、高値となる。 このアンブレインが龍涎香が海上を浮遊する間に日光と酸素によって酸化分解をうけ、各種の香りを持つ化合物を生成すると考えられています。

 今まで世界最大の「龍涎香」は、イギリスがインドを統治していた植民地時代、東インド会社が1880年に扱った421.3kgの塊です。次いで旧ソ連が南極海で採取した200kgの「龍涎香」。フットボールくらいの大きさで水より軽く、海面に浮いているところを採取されました。龍涎香は、見かけは大理石のようですが、水より比重が軽いので、浮きます。

 現在、天然龍涎香を手に入れるのは難しい。龍涎香はオスのマッコウクジラにしかなく、しかも捕獲された鯨のうち、体内に龍涎香を持つのは、100頭に一頭か二頭。1%程度しか発見できない上、現在ではマッコウクジラは捕獲禁止。海面に浮遊していたり、浜に流れ着いた物を利用するという偶然に頼るしかない。

<つづく>

ぽかぽか春庭「アラビアンナイトのアンバル」

2010-08-24 | インポート
2010/08/24
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏休み自由研究(1)アラビアンナイトのアンバル

 夏休み自由研究「龍涎香りゅうぜんこう」、3回連続の1回目です。

 龍涎香は、マッコウクジラの腸の分泌物が結石し、大理石状になったものです。香料の「保存剤・保香剤」として用いられています。「保香剤」とは、色々な香料と混ぜると香り全体を引き立て、長く香りを保つ性質をもつ物資のことです。

 古くから珍重された稀少な品で、中国語では「龍涎香ロン・エン・シャン」、フランス語はアンブル・グリ(ambre gris)、英語はフランス語がアングロ語風に訛ってアンバーグリス(Ambergris)。アンバーAmberは琥珀(こはく=原始の樹液が化石化した宝玉)のことで、アンバーグリスは灰白色の琥珀という意味です。「灰色の琥珀」という名ですが、琥珀とは関係ない海の産物。

 Amberの語源はアラビア語のアンバル[a m ber]です。アンバルとはアラビア語で「匂いの王者The King of Perfumery」の意味で、アラビアでは早く7世紀にはアンバルの採取利用が始まっていたそうです。
 
 アラビヤ人は、海岸に漂着したアンバルを見て、樹液が固まった琥珀と同じように、海岸に生えている木の樹脂が海中にまで長くのびた根から分泌して固まったものと考えました。この他、海底から噴出する泡が固まったもの、海底の海綿状の植物などの樹液が固まったもの、海中に生息する「サラ」という牛の糞が固まったものとされました。

 (仏教説話に沙渇羅(サラ)龍王という神が出てくる。その娘をめとったのが牛頭天王(ごずてんのう)ですが、このアラビア海中のサラと沙渇羅龍王牛頭天王が関わりがあるのかどうか、追求すればそれはそれで面白い自由研究になると思いますが、今回は省略)

 そのほか、山中の蜂が作った蜂蜜が海中に流れ込んで蜜蝋が固まったもの、など諸説が流布していました。貴重なアンバルがどのように作られているのか、わからないまま珍重されてきました。

 アラビアでは香炉に「龍涎香」や「乳香」、「没薬(もつやく)」を入れて焚き、その香りを衣服に移すのがハーレムでの最高のおもてなしであり、おしゃれとされ、アラビアン・ナイトの世界は、アンバル香る中、シェヘラザートの語りとともに更けていきました。

 アンバルはコーヒーに入れたりシャーベットの香りつけ、肉の匂いつけにも使われ、古代中世各地の人々はこの香りに夢中になり、アラビア商人から高値で買い入れました。商人の取引記録によると、時代によっても異なりますが、龍涎香の高級品は、金と同じ値段で取引されたといいます。

 アラビアのアンバルはシルクロードを経由して中国へも伝えられました。アラビアの商人にも何からできている品かわからないのですから、中国では、よくわからない貴重なものはなんでも「龍」の賜(たまもの)とみなされました。架空の動物である龍の涎(よだれ)が海の中で固まったものと思われ「龍涎香ロンエンシャン」と名付けられました。

 中国の皇帝は「後宮3千人」の美女を相手に夜な夜な励まなければなりません。貴重な「龍涎香」は皇帝の専用品とされ、「媚薬」として後宮で用いられました。さらには「不老長寿の薬効」もあると期待され、元王朝時代、13世紀にはアフリカ沿岸にまで「龍涎香」を買い求める使節を出しています。アラビア産として輸入された「龍涎香」の実際の産地は、アラビヤ海だけでなくベンガル湾からアフリカ東海岸まで。皇帝の専用品といっても、そこは腹黒い宮廷廷吏や宦官が跋扈していた中国の後宮、ずいぶんと横流しもあったことでしょう。

 海に漂う「龍涎香」を偶然に採取するだけでなく、捕鯨が行われるようになるとクジラから採取する「アジアの龍涎香」も使われました。元朝皇帝につかえたマルコポーロは、「アジアの龍涎香」についてヨーロッパへ伝えています。夏休み自由研究「龍涎香」は次回へ続く。

<つづく>

ぽかぽか春庭「自由研究の勾玉作り」

2010-08-22 | インポート
2010/08/22
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(5)自由研究の勾玉作り

 息子の学芸員研修、地元の博物館実習では「夏休み子供自由研究」の「勾玉作りの手伝い」を担当することがスケジュールに入っていて、2週間の研修の最後の2日間がこのイベント手伝いに当てられていました。博物館側も、学生の手伝いを当てにして夏休み中の研修計画を立てているみたい。

 子供が苦手の息子、やんちゃ坊主たち相手に「勾玉作り指導」ができるのかしら、私は科博での勾玉作りのイベントに参加したことがあるので、「小学生を指導する息子の指導係」として、ついていきたい気分でした。あ、こういうのを「いつまでも子供離れできない母」と言うのでしょう。

 4人の研修学生が20人の小学生を分担して、館内のご案内やら勾玉作り指導やらやって、お子様苦手の息子は疲れ果てましたが、2週間の研修はなんとか8月15日に終了。
 息子は「もう、当分人間と関わりたくない」と、すっかりくたびれた様子ですが、勾玉作りが子供たちの思い出に残り、自由研究の成果として夏休み作品展などに展示されたなら、今までできるだけ世の中と関わらないように生きてきた息子にとって、初めての「少しは世の中の役に立った経験」になったのかも。

 息子の「人間関係苦手」は、伯母や私と共通する遺伝子なので、仕方がありません。高いところが平気な私が「何で高いと言うだけで恐いのだろう。落ちちゃうわけでなし」と言ってやっても、高所恐怖症の人の「高いところが恐い」という気持ちが消えることはないのと同じく、人間関係形成不全症の私や息子に向かって、誰とでもつきあえる人が「仲良くなってしまえばいいんですよ」なんて説教してくれたとしても、人間関係苦手意識がなくなることはない。ただ、高所恐怖症の人は高いところに近づかなければいいだけなのに対して、人間として生きて行くには、人間に近づかないではいられないところが不自由です。生きづらい。リアルでヒトとまじわれない私なので、ネットで愚痴こぼしてストレス解消しているってわけです。

 科博「海の哺乳類展」の「自由研究」組のお子様たちは、巨大鯨が巨大な大王烏賊を飲み込もうとしているところの模型とか、イルカが丸い泡を吹き出す様子などの展示に群がっていました。
 私もお子様方に負けじと「触ってみよう」コーナーに手を出し、ヒゲ鯨のヒゲ標本に触ってヒゲがたいへん固いこと、歯鯨の歯にタッチできるコーナーでは、歯先がするどいことなどを実感しました。鯨の皮下脂肪がどれほど分厚いのかという展示もありました。昔、イギリスやアメリカが捕鯨大国であったころ、この良質な脂肪だけを目当てに乱獲し、肉は食べることなく鯨を捕りまくりました。当時、鯨油はもっもと熱効率のよい燃料だったのです。

 私が今、小学生の子を持っていたなら、夏休み自由研究は科博の展示の中の目玉のひとつ、「龍涎香(りゅうぜんこう)」をテーマにしたいと思います。雄のマッコウクジラの分泌物である龍涎香。ガラス箱の中に本物の龍涎香展示のほか、合成龍涎香が置いてあり、蓋を開けて香りをかぐことができます。
 「王様だけが使用できた香り」という説明があったのですが、それほどいい匂いとは思いませんでした。

 なぜ王者の香りかというと、これを身につければ、必ずや女性を虜(とりこ)にして、王者になにより必要な世継ぎがわんさかと作れる、というのが理由であったよし。
 おお、そういうことなら、研究してみなければ。

 そろそろ8月も残り少なくなり、夏休みの宿題が親の手にも余る時期。小学生自由研究に何をさせたらよいか、お困りのご両親&じいちゃんばあちゃんに贈る、春庭の「夏休み大研究・龍涎香」。

 3回シリーズで掲載しますから、春庭の蘊蓄をそのままコピペして、そこらにある龍の絵や鯨の絵でもへたくそに写しておけば、「絵は下手だけど、文章はまあまあな」夏休み研究の出来上がりです。あら、お宅のお孫ちゃん、絵が上手なの?まあ、それでもいいけれど、ちょっとくらいヘタなほうが、文章コピペがバレなくていいんですけど。あは、コピペの元文章がへただから、小学生の自由研究にちょうどいいかもしれないって?ま、そうでしょう。お役に立てるといいんだけれど。次回から「自由研究・龍涎香」

<つづく>

ぽかぽか春庭「夏休み自由研究in博物館」

2010-08-21 | インポート
2010/08/21
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(4)夏休み自由研究in博物館

 上映中止騒動など大騒ぎになったドキュメンタリー映画『コーブ』。
 日本のイルカ漁や鯨捕りの漁師たちは、鯨を取り尽くすようなことをせず、生態系にあった海の哺乳類利用をしてきたことは、歴史を学べばわかること。真に海の哺乳類を追い詰めているのは何か、という事実を追求している作品なら評価したいですが、どうもそうではない映像のようなので、アカデミー賞をとったといっても『コーブ』を見にいく気持ちになりません。
 捕鯨が鯨の数を減らすのではない。タンカー事故原油流出や生活汚水工業廃水の垂れ流しが海を汚し、鯨やイルカを追い詰めている、というドキュメンタリーを『コーブ』の監督の次回作にお願いしたいです。

 出口近くの展示に「ストランディング」の報告がありました。鯨やイルカが数頭ときには何十頭も浜に打ち上げられて身動きできなくなり、死んでしまう現象をストランディングといい、今、世界各地の海岸で起きている、というレポートです。泳ぎの達人のはずの鯨がなぜ海辺に打ち上げられてしまうのか、磁力の乱れのためとか、温暖化による海流の乱れのためとか、原因探求がなされていますが、理由はまだわかっていないそうです。なんらかの地球の異変が生態系に影響しているのでしょうか。

 夏休み自由研究の親子も、身の回りの環境を守ることが地球の生物を守ることになるってことに気づいてくれたでしょうか。

 春休みの「陸の哺乳類展」は、ハワイの日系人コレクターが寄贈した動物剥製展示が中心になっていました。それと比べると、海の哺乳類展は生態学的な解説が多く、やや専門的な展示になっていたので、小学生には難しいのではないかと思えました。しかし、自由研究の宿題を科博レポートですませようともくろむ親子が大勢いて、母親のほうが熱心にメモをとっていたり、小学生はケータイで展示や説明を写真撮影したりしています。

 科学博物館で夏休み自由研究に励む親子連れを見て、「うちらもあんなふうに親子で自由研究ネタ探しをやってきたんだなあ」と往時をなつかしみました。
 夏休みの宿題の自由研究っていうのは、子供の好奇心を広げるチャンスでもあるけれど、親子して「自由研究、何を提出するの?」という悩みのタネだという話はよく聞きます。最近は「自由研究提出用、子供の手作りであるかのように見える工作作品」まで売っているそうですが。

 私は小学校1年生の夏休み工作があまりに下手だったので、9月新学期の「夏休み作品展覧会」でクラスメートの出品作に見劣りがしました。
 そこで2年生の夏休みは父に手伝ってもらいました。そしたら父がはりきってほとんど一人で作ってしまって、あまりに立派な工作になりすぎました。親の作品であることがバレバレ。3年生からは自分で何とか仕上げました。

 3年生の夏は、菓子折の空き箱の中を水色に塗って水族館にして、魚のモビールを上からつるし、下には海で拾った砂と貝を並べるという定番お手軽工作を出品。以来、海岸にでると、どこの海岸であれ必ず砂と貝を拾っておくのが、私の習い性となっています。去年の夏は、中国の渤海湾でも貝拾いに励みました。お手軽工作でも水族館を作った縁で、今でも水族館大好き。子供にとって、毎年の夏休みの経験は、一生の宝です。

<つづく>

ぽかぽか春庭「海の哺乳類展」

2010-08-20 | インポート
2010/08/20
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(3)海の哺乳類展

 今年は夏休み中の8月に息子の「学芸員資格取得のための博物館研修」が入り、9月の頭には英語の試験もあるというので、息子といっしょにお出かけするなら7月中に、というので、7月28日に上野の科学博物館で開催されている「海の哺乳類展」を見学してきました。

 科博は、子供たちが小さい頃は「ファミリー会員」になり、足繁く通った所です。今も貧乏ですが、今よりもっと貧乏暮らし、喰うや食わずの赤貧だったころのことで、値段が高いテーマパークにはそうしょっちゅう連れて行けないし、遠出は電車賃がかかるし、電車15分で行けて、いろいろなイベントが楽しめる科博は、一番お金をかけずに子供を遊ばせることのできる施設でした。夏休みに「小学生縄文土器作り」などのイベントに参加して、宿題の自由研究に提出したりしました。

 春の「陸の哺乳類展」のとき娘息子と「招待券」で見学し「あ、夏休みには海の哺乳類展やるんだね。次も招待券3枚手に入れてね」とリクエストされたのですが、招待券は2枚のみ入手。息子の分は、「キャンパスメンバーズ」という大学生博物館利用制度で、1400円のチケットが800円になる割引入場券を買いました。800円の出費だったから3人で来たけれど、これが1400×3=4200円の出費をするのであれば、来られないという程度の、今の貧乏具合。
 館内は夏休みの子供たち家族連れで大賑わい。「陸の哺乳類展」よりずっと混んでいます。

 科博の展示「海の哺乳類展」は、巨大な鯨の実物骨格標本などがメインの展示です。花火も直径が大きいほど歓声が大きくなりましたが、人類は、大きなものに対して畏怖と尊敬を感じるように脳ができているのでしょう。恐竜の大きさや鯨の大きさに魅力を感じる本能のようなものが人の心に存在していると思います。

 科博の外には、シロナガスクジラの実物大模型が常設展示されているのですが、外にあると30メートルの哺乳類最大の巨体もビルの横にあって「ああ、大きいな」くらいの感じです。しかし、屋内に展示されている骨格標本は、すぐ近くまで寄って見ることができるせいか非常に大きく感じ、迫力満点でした。鯨は哺乳類だから骨盤があるのですが、それが巨体に比べて極小に退化しているのが、よくわかりました。

 陸の哺乳類展も海の哺乳類展も、生物多様性が地球にとって大切なことを伝えようとしていました。海が豊かさとは、海の生物が多様であること。海が汚れれば海の生態系が変わってしまう。鯨の餌になるプランクトンが減れば、大量のプランクトンを餌にしている鯨も減ってしまう。温暖化によって海水温が変化しても、生態系が乱れる。

 わが家は、揚げ物の油の残りをぼろ布に吸わせる、皿のよごれも布や紙で拭き取ってから洗うようにする、という「海へ流れる水を汚さない工夫」をしているつもりなのですが、どのように川や海を守り、海の生物を守ることになるのか、一人一人の意識が問われる時代になっていると思います。

<つづく>

ぽかぽか春庭「大江戸銘華競演」

2010-08-18 | インポート
2010/08/18
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(2)大江戸銘華競演

 「東京湾大華火大会完全攻略」には、花火スタートの7時近くになると、入場整理券を持っていても、満員だと入れないこともある、という注意書きがあったので、早めに列に並んだのですが、実際に7時近くになると、5万人入れるという「整理券が必要なエリア」の晴海第一会場は満員になりました。この一番打ち上げ場所に近いエリアの外側には、晴海第二会場などの「早い者勝ちのエリア」があります。そちらだと、朝から場所取りしている人もあるみたい。徹夜の場所取りは禁止されているそうで、早朝からOKといってもいったい何時から場所取りしているのやら。周辺地域に集まった花火観客はおよそ70万人にもなったと、新聞にありました。

 7時に打ち上げスタート。カウントダウンが終わると明るく華やかな花火が打ち上げられました。花火は、目の前いっぱいに広がり大迫力。ドンという打ち上げの音がおなかに響いてくる感じがします。配布されたパンフレットに、スターマイン、虎の尾、牡丹、柳、千輪菊などの花火の名前と写真が掲載されていたので、花火の名前を娘とあてっこしながら、「ああ、きれいね」とさまざまな花火を楽しみました。

 スタートの第1部から第6部のグランドフィナーレまで、1時間20分。12000発。
 第4部は、各地の花火師の名前と作品名がアナウンスされる「大江戸銘華競演」という時間。花火師が腕によりをかけた自信作が次々にうちあがりました。三重芯散花、八重芯錦牡丹紫光露などと名付けられた作品。「八重芯菊」という同心円で色が変わる打ち上げの難しい花火が中心で、どれもすばらしい色と光でした。

 打ち上げ方にも花火師の工夫がこらされ、東京周辺では一番大きいという尺五寸玉(直径45センチの筒を使ってあげる玉)という大型が上がると、周囲の人、皆いっせいに「大きい!」と歓声をあげていました。新潟などの地方で打ち上げられる世界最大という4尺玉(120センチの筒を使ってあげる玉)は、上空で直径800メートルの大きさに広がるとのことですが、東京都内にはさまざまな規制があって、規制内で最大なのが、尺五寸玉になるのだそうです。上空では直径400~500メートルの大きさに広がり、晴海第一会場の観覧場所で見ていると、空いっぱいに広がる感じ。

 大きさももちろんですが、花火の組み合わせや打ち上げ時間の調整が花火師の腕の見せ所。現在ではコンピュータによる打ち上げ構成管理ができるということですが、最後は現場の花火師のカンも必要なようです。さまざまな花火が次々に花開く演出はとても見事でした。

 花火師さんの修行には長い修練が必要と聞きます。絵画や彫刻のように後世にモノとして残る芸術と異なり、花火は美しく花開いた次の瞬間には消えてしまうものです。一瞬の美のために日夜工夫をこらす花火師の技に感謝しつつ夜空を見上げました。

 帰りは大混雑になると「東京湾大華火完全攻略」に書いてあったのですが、想像以上の大混雑。最寄り駅の勝どき橋駅まで来ると、駅入り口のはるか手前から入場規制が行われていました。駅の中に入るまで1時間待ちというので、警察官の指示に従って、月島西仲通りのもんじゃ焼きストリートを通って月島駅へ向かいました。

 もんじゃ屋はどの店にも行列が出来ていました。待たずに入れそうな店があれば、休憩がてらちょっと寄って見たくもあったのですが、入店まで外で待っていたらさらに疲れてしまいそうなので、行列を横目で眺めるだけで観覧会場から1時間も歩いて月島駅に着きました。普段なら歩いて30分なのだそうですが、人混みの上、帰りの足は重い。帰りの地下鉄もぎゅーぎゅー詰め。来年も晴海で見たいなら、帰りの対策をもっと練っておかなければ、という結論に達しました。

 次回おでかけリポートは「海の哺乳類展」

<つづく>

ぽかぽか春庭「東京湾大華火大会」

2010-08-17 | インポート
2010/08/17
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(1)東京湾大華火大会

 8月14日に行われた東京湾大華火大会は、中央区の主催で、今年23回目。毎年、見たいなあと思ってきたのですが、人出の多さを考えると躊躇が先に立ち、手近な地元の荒川で花火大会を楽しんできました。晴海の見物会場は抽選で、めったに当たらないそうだし、応募の往復ハガキを書くのもめんどうくさい。10枚ハガキを書いてやっと1枚あたった、なんてのを聞くと、文字を手書きするのが大嫌いな私、ああ、めんど、と思ってしまっていた。

 今年はじめて、ネットで応募する方法に気づきました。これなら少しも面倒でない。キーボードを打つのは、しゃべるのと同じ早さでできるので。家族全員の名で応募して、娘の1通分が当たりました。娘は福引きだと、最下等ティッシュではなく、そのひとつ上の「石けん1個」とかが当たる「プチラッキー」の運の持ち主なのです。

 当選ハガキ1通で、ふたり入れます。
 娘と息子二人とも行きたいならどうしようかというところですが、息子は、半月間の学芸員資格取得のための博物館研修最終日が8月15日。「8月14日土曜日なんて、疲れ切っているから、花火どころじゃない」というので、娘と私とふたりでお出かけしました。

 「東京湾大華火大会完全攻略」というサイトをながめて、当たった整理券で入場できる晴海第一会場のどこらへんで見るのがいいか、開場のどれくらい前から待つべきか、などの情報を仕入れ、いざ出発。

 開場は5時ですが、オープンを待つ人の列が多くなると開場時間が早まることもあるというので、トリトンスクエアでランチを済ませるとさっそく行列に並びました。すでに大勢の人が警察官やガイドボランティアの人の指示で道路沿いに並んでいます。私は並木の脇に並び、木にもたれかかって本を読んだりいねむりしたりして待ちました。

 「東京湾大華火大会完全攻略」が「待っている間の必需品」と書いていた日焼け止めは1回塗っただけ。曇り空でそれほど暑くならないのと、海風が吹き抜ける通りだったので、思ったほどつらくもなく、待っていることができました。

 次に観覧スペースの晴海第一会場の前に移動して、また待ちました。この場所は後方にホットプラザはるみという中央区のゴミ焼却場&焼却熱利用の温水プールジャグジーなどの施設があるので、海風の通りが悪く、暑かった。

 30分早めの4時半に観覧エリアの開場となりました。一番打ち上げ場所に近いエリアに行きたい人は、警官がハンドマイクで「走らないでください」と言っているのに、観覧場所めがけて走っています。

 私と娘は、「走るのもたいへんだし、一番近いところでなくてもいいよね」と、晴海運動公園の駐車場スペースの中程に、二人が寝て過ごせる場所を確保しました。花火スタートまで2時間半もあるので、昼寝してすごす作戦です。花火を盛り上げようとするアナウンスや連絡などの音量が大きくてうるさかったですが、そんな中でも「どこでもいつでも寝られる」特技を発揮できました。

 私と娘が陣取ったところは、打ち上げ場所の晴海埠頭公園から200メートルほど離れた場所です。打ち上げ地点に一番近い場所ではないのですが、それでも「風が強いので、花火の燃えカスや火薬の粉が会場にふってきます」と、アナウンスがありました。「東京湾大華火完全攻略」にも、「打ち上げ場所に近いので、黒い火薬カスなどが落ちてくるので、食事は花火開始前にしたほうがよい」と、書いてあったので、私と娘は、会場の売店で買ってきたかき氷やビール缶と、持参のシュウマイなどを、6時半までには全部食べてしまいました。トリトンスクエアでのランチでけっこうおなかいっぱいになっていたのに、食べようと思えばいくらでも詰め込めるおなか。

 さて、いよいよ打ち上げです。

<つづく>

ぽかぽか春庭「今日の確認」

2010-08-15 | インポート
2010/08/15
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>今日の確認

『日本国憲法前文 第二段』
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

『日本国憲法第9条』
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ぽかぽか春庭「」長安の留学僧空海」

2010-08-14 | インポート
2010/08/14
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海を漂うて> 融合文化の歴史-日本文化における融合・隠れキリシタンのオラショを中心として-(9)長安の留学僧空海

 空海が留学僧としてすごした長安は、当時の国際都市であり、キリスト教宗教会議で異端とされたネストリウス派キリスト教(景教)の寺もあったことは、歴史的事実です。唐の太宗(599-649年,在位626 - 649年)の時代に、ペルシア人司祭「阿羅本」(発音はアラボン、オロボン、アロペン等の説)らによって景教が伝えられており、840年に唐の武宗の断行した道教以外の宗教の廃止(会昌の廃仏)までは長安に景教寺院(大秦寺)も存在していたので、空海が景教寺院を見た可能性はあります。

 しかし、「ひらがなは弘法大師(空海)が作った」などの俗説と同じく、空海が景教の教典を持ち帰ったとか、景教寺院に出入りしていたというのは、俗説の域を出ず、文献などで確認はできていないことです。景教が中国に伝わったことの傍証として、中国西安で景教碑文が発掘されています。碑文には、漢文とシリア語でネストリウス派景教について記されており、781年という建立年も確認できました。しかし、高野山域内にこの景教石碑のレプリカ建立が許されたからといって、空海が景教を学んだかどうかの証拠にはなっていません。

 佐伯好郎(1871-1965)は、古代の渡来系「秦氏」(応神天皇の時代4~5世紀頃に朝鮮半島より渡来)を「大秦寺」に結びつけ、秦氏は日本に大秦教(景教)を伝えたと主張しました。「秦氏の先祖はイスラエルの失われた十支族のひとつ」とする説なども主張し、「とんでも日本史」の俗説としてはおおいに受けたのですが、推測のつみ重ねは、推測にしかすぎません。推測で歴史上の出来事を述べることができるなら、源義経が大陸に渡ってチンギスハーンになったなどの説も信じて良いことになります。
 空海と景教のつながりを主張するのであるなら、彼の著作全巻を読み解き、ネストリウス派の文献などと比較する必要があるでしょう。単に、「彼の法名のひとつが「遍照金剛」であり、これは聖書にいう「神の光があまねく照らす」を翻訳したものだ」というようなことから、空海が景教の影響を受けたというような説を採用するのであるならば、「とんでも説」から出ることはなさそうです。

〈若水汲み〉の件。空海が入唐して修行した近くにキリスト教の修道院があって、キリスト教の洗礼の儀式から空海は〈水〉の儀式を発想したかもしれないという推察があるのですが、このこと〈若水汲み〉はなんらかの関連があると思われますか。それともまったく関係ないことと考えるのが常道であると思われますか。
 に対する結論として「関係ないことと考えるのが常道であると思われる」と考えます。
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 以上、オラショ考察と追加考察。検証不足の部分もありますが、外部から取り入れた精神文化が、在来の文化と融合してそのどちらとも別の新しい形を生みだしていく過程を見てきました。8月は私にとって祈りと鎮魂の月なので、人の罪と許しを考えるなか、オラショの文言を書き取ってみました。

 キリシタン弾圧の時代を描いた『沈黙』をスコセッシが映画化するというニュースをきいたときは、2009年末にニュージーランドでクランクイン、2010年には公開、ということだったと思いますが、資金調達不足のため企画が足踏み状態になっているとの噂。このシリーズ、別段スコセッシ『沈黙』の応援として書いたわけではないのですけれど、作品完成を心待ちにしています。篠田正浩監督作品もよかったですが、スコセッシの解釈がどうなのか、興味しんしんです。

 イエスの声を聞いて十字架を踏んだフェレイラやロドリゴ神父にも、神父を裏切ったキチジローにも、許しと安らぎが訪れますように。
 罪ある肉体から離れたすべての死者に平安が与えられますように。
 共産圏との勢力争い優位に立つために「戦争を早く終わらせるため」という口実を設けて、日本の降伏準備を知りながら無辜の数十万の市民に上に放射能の黒い雨を降らせる命令を出した人や、民草の命よりも国体護持を優先した人をも許せるのかと問われると躊躇してしまう私ですが、「許そう、しかし忘れるな」という言葉をもう一度つぶやくことにします。

<おわり>

ぽかぽか春庭「罪」

2010-08-13 | インポート
2010/08/13
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海を漂うて> 融合文化の歴史-日本文化における融合・隠れキリシタンのオラショを中心として-(9)罪

(1-2)日本語の「罪」
 『古事記』『日本書紀』には、天つ罪、国つ罪の規定があります。(「つ」は、現代日本語では連体助詞「の」にあたる)。
天つ罪は、主に農耕共同体における農耕妨害の罪。国つ罪は、共同体維持に反する罪、たとえば埋葬儀礼に従わないこと(死体損壊など)、獣姦、近親相姦、など。アルビノやハンセン氏病、落雷災害などもこの国つ罪の表れとみるなど、現代の「罪」とは意味合いが異なる。病気や自然災害を人間の「罪」が反映したものとみなされ、入水、焼死などの死に方も「罪」の表れとされました。

 「罪」は汚れ(気枯れ)であり、汚れは「祓う」ことによって浄化される。共同体の秩序に関わる「つみ」に対して、対人的な「非難されるべき行い」「過失・不用意な行い」は「咎(とが)」と呼ばれました。
 したがって、古代日本語の「罪人」とは「共同体維持に反する行いを犯した者」であり、キリスト教の「罪人」とは、意味が異なるのではないかと思います。

 (現代のキリスト教社会においても「キリスト教共同体を維持するための殺人」は罪ではなく、アフガニスタンやイランイラクの非キリスト教徒(おもにイスラム教徒)の非戦闘員殺害は罪に問われることはないようです。2001.9.11のテロで亡くなったおもにキリスト教徒であった死者数6000人に対して、「テロ撲滅のため」という理由でアフガニスタン・イラン・イラクのモスレム非戦闘員死者は9・11以後、10万人以上とされていますが、これらの死者は、USA共同体維持のために必要とみなされたので殺人ではないらしい)。
 
(2)
 若水汲みは空海入唐とは関係ないと思います。なぜなら、空海が唐へ留学増として赴く前から農耕社会の新年行事として定着していたからです。
 新年の若水汲みは、農耕儀礼から発生したもので、仏教伝来以前から行われてきた古神道や民間信仰に基づく民俗行事です。

 仏教行事としても、東大寺の修二会などの「お水取り」は奈良時代から行われており、空海入唐(平安初期)より前にはじまっています。仏教行事には農耕儀礼に発する民俗行事も取り入れられていますが、東大寺お水取りの起源はさだかではありません。東大寺の伝承では、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)によってはじめられたと伝えられていますが、伝承であって、文献による実証ではありません。

 空海(774 - 835)が約2年間中国に滞在したのは804年8月から806年8月まで。唐の時代の長安を中心に仏法を学びました。本来は20年滞在して学ぶべき留学僧であるのに、たった2年で帰国したために、桓武天皇の帰国許可がでるまでの2年間808年までは京都に帰ることを許されませんでした。正規の上級僧侶だった最澄に対し、一学僧だった空海が留学僧に選ばれたいきさつと、なぜたった2年で帰国してしまったのかという歴史的事実を説明するに足る文献は出現していません。空海については「弘法大師」の事跡という伝説は各地に残されていますが、空海が書き残した仏教関連書以外に、彼の実像を明らかにさせる文献は少ない。実在した人物であることは確かだけれど、伝承からの推測による事柄と歴史的事実を混同してはならないと思います。

<つづく>