春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭「女性と婦人」

2010-04-30 | インポート
2010/04/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(4)女性と婦人

 自分の妻を「うちのカカァ」と呼ぶ人、なんとなく昔風の職人気質の人を連想します。「ボクのワイフがねぇ」なんて言う人のイメージもわかります。同じ内容を表していても、時代によって語のイメージはかわります。K先生が「婦」という文字を嫌ったように、現代の一般社会では、「婦人」という表現は、古くさい女性のイメージを持ってしまい、「婦人○○」と呼ばれていた言葉のほとんどは「女性○○」に代わりました。

 「婦」という文字に違和感を感じる層が多くなったことを理由としたのか、「婦人」という語は次々に「女性」に変えられていきました。
 1994(平成6)年に国連「世界婦人会議」の名称が「世界女性会議」に変わり、近年では雑誌などで「婦人」よりも「女性」という表現が目立つようになりました。労働省は1996年度に「婦人局」の名称を「女性局」に変えました。「婦人」が残っているのは、中央公論新社の雑誌「婦人公論」や、雑誌社「婦人之友社」、病院の婦人科くらいのものかもしれません。

1949年から1997まで婦人週間というイベントがありました。女性が参政権を得た記念の行事です。1949年から続けられてきた4月10日からの一週間も「婦人週間」から1994(平成10)年に「女性週間」と変えました。しかし、婦人週間を女性週間と名称変更したものの、「女性週間があるなら、男性週間があってしかるべき」という意見が出されたのかどうか、女性週間は2000年には廃止されました。男女均等法も成立し、21世紀の今、女性のためだけのイベント週刊は不必要という判断だったのかも知れず、事業仕分けにひっかかる前に消滅。

 というわけで、漢字の成り立ちからいうと「女だからって、掃除婦と思われてこの漢字ができた」とK先生が憤慨するのは、少々事情が異なっていたことがわかりましたが、K先生の怒りを聞いていて、昔のウーマンリブの主張を思い出しました。
 ウーマンリブの人たちが、「社内掃除を女だけが当番として早出してまでするのは差別だ」とか「ミスコンテストは女性を顔やスタイルだけで見ようとするから反対」と主張したこともありました。

 確かに「女性だけが○○しなければならない」ということはないと思います。でも、ミスコンテストがあるなら、ミスターコンテストもしたらいいだけのことであって、ミスコンテストを批判してもミスコンがなくなりはしなかった。需要があれば供給がある。ミスターコンテスト、たとえば人気俳優を輩出してきた「ジュノンスーパーボーイコンテスト」。きれいな男の子を見るのは、HALオバハンも大好きです。

 今や家事ができない男など結婚相手として見向きもされない、、、といわれていますが、 現実の女性の地位は、果たしてどれほど男性に追いついたのでしょうか。
 現実はともかく、理念たてまえとしては男女差別をしている企業があったら批判されてしまうし、同一の仕事をしていて女性だけが給料が低いレベルや昇進に不利だったら、法律違反です。でも、現実にはシングルマザーの家庭の収入や生活水準はGNP上位国のなかで最貧ですし、女性の国会議員数や会社役員数でもまだまだ「後進国」です。

 春庭は「ウーマンリブ世代」です。いまやウーマンリブってのも死語の世界に行ってしまいましたが、昨今の論壇界ではフェミニズムバッシングも一段落したらしい。

 ウーマンリブというのは、女性解放運動Women's Liberationの省略外来語。1970年11月14日に第一回ウーマンリブ大会が東京都渋谷区で開催され、アメリカなど世界各地での女性解放運動は、1979年に国連総会で女子差別撤廃条約が採択されるなどの成果をあげました。

 日本での運動は男女雇用機会均等法の制定など一定の役割を果たしましたが、ウーマンリブという言葉そのものは、1980年代に入ると急速に廃れて揶揄の対象になってしまいました。ミスコンテストに反対して各地のミスコンを中止させようとしたり、ウーマンリブの活動家としてマスコミで名前を売っていた榎美沙子(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合、略称「中ピ連」代表)が日本女性党という政党党首として選挙活動を始めるなどして、心あるフェミニストたちが「ウーマンリブ」という言葉に拒否反応を示したためと思います。
 
 一時期、フェミニズムバッシングということが巷に氾濫し、「女は家に戻って子育てしていればいいんだ」とわめくオッサン方やら「子を産めなくなったババァは用なしだから、早いとこひっこめ」という知事とか出ました。

 女性が子育てと両立しながら仕事を続けようにも、夫は会社のサービス残業で帰ってこないし保育園は満杯で待機状態、という具合で、まだまだ女性が生きて行きやすい世の中にはなっていません。

<つづく>

ぽかぽか春庭「かかあ天下」

2010-04-29 | インポート
2010/04/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(3)かかあ天下

 故郷群馬県は、「上州名物、嬶天下(かかあでんか)と空っ風」と言われています。「群馬で強いもん、3雷(ライ)、2風、1かかあ」とか。夏の雷冬の空っ風は、ともにたいへん強い自然現象で、夏は赤城山と榛名山の間に毎夕雷が走るし、冬は谷川武尊から強い北風が吹いてきます。でも、それ以上に強かったのは、上州のカカアたち。
 女偏に鼻をつけて嬶(かかあ)。嫁とか姑とか姉妹とか、女偏をつけた家族関係語は多々あるものの、「嬶」は国字(日本で作られた漢字)だったということを、今頃知りました。
 これまたなぜ故に「かかあ」または「かか」は、女の横に「鼻」がくるのやら、かかあともなるといびきでもかくのかと、由来がわかりません。顔の真ん中にあるのが鼻で、一家の中心にいるのが嬶なのかも。

 一家のなか、嬶座(かかざ)と言えば、家内を取り仕切る「主婦権」を持つ者の座るところを意味し、いろりに面した横座(主人の座席)のわきで、台所に近い席が主婦の座席として定められていました。「北の方」とか「北の政所」に倣って北座と呼ぶ地域もあったし、食べ物を分配する鍋の前に位置することから鍋座(なべざ)鍋代(なべしろ)と呼ぶ地方もありました。

 主婦権の象徴として、「しゃもじ」を受け渡す地方もあり、姑が嫁に家政をまかせることにしたときを、しゃもじ渡し、へら渡し、飯匙渡(いがいわたし)などと呼び慣わしてきました。一家の家長である主(あるじ)の法的な権限は、明治民法で法文化されましたが、一家の家政を取り仕切り、食べ物の分配を司る主婦権は、民俗研究の対象になり柳田国男などが調査したのですが、法的な権限とはなっていませんでした。家庭内のことを取り決める裁量権が主婦にあり、家庭内の事は妻が決定権を持ち、夫は妻に従わなければならない、ということを「嬶天下」の語で表してきたのです。

 群馬県が伝統的にこの権利を強く保持してきたのは、江戸時代から養蚕業、織物業が盛んとなり、家庭内手工業を女性が取り仕切り、現金収入を女性の手で得てきたことが大きいと言われています。上州の女性は、家庭社会において家長に従属的な位置に甘んじることなく、養蚕織物業による自立をはたしていた、ということ。

 私の母の実家も、私が子供のころは桑畑を持ち、屋敷内に蚕棚を作っていました。私は上州で蚕がシャワシャワと桑をはむ音を聞いて育った最後の世代にあたるでしょう。また、家の中で、出荷した繭の残りを使って、祖母たちが屑繭を煮て家族の衣装のための絹糸を紡ぐのを見ていた最後の世代。蚕が育つ時期、「おこさま」というのは「お子様」ではなく、「お蚕さま」を指すことばでした。

 現代は女性も現金収入を持ち、家政を取り仕切るのは当然になっています。父は会社のから給料をもらうと月給袋を未開封で母に渡すのを「男の甲斐性」と思っていたようです。母は、その中から父の小遣いを渡していました。母の世代は「主婦は自分の思い通りの人生を過ごせなくてつまらない」という一方、「嬶座」「主婦権」がきちんと残っていた世代だったとも言えます。

 私?家に寄りつかない瘋癲夫(フーテンヅマ)を持ったために、最初から天下もへったくれもなく、自分で稼いで食べ物の采配をするほかなかったのだけれど、自分の人生、自分で決定してきました。愚痴は言うけれど、それは誰のせいでもなく、自分で決めた人生だからしょうがない、という「嬶天下」の覚悟は受け継いでいました。

 ひたすらナヨナヨと「あなただけが頼りなの」と、しなだれかかる風情を見せながら、結局はしっかりと夫を支配している女性のほうが「生き方上手」だ、と諭されたこともあったけれど、まあ私にはできない芸当だったので、私は私で、空っ風に立ち向かっていくしかありません。

 世間様は空っ風が吹き終わった後、春だかなんだかわからない寒い四月になりました。40年ぶりだかの四月の遅い雪もありましたが、ようやく、五月の薫風を迎えようとしています。しかるに、私の懐具合はいまだ寒風のなか。寒いです。私はカカア天下の地元出身だけど、嬶しているだけで、ちっとも「天下様」にはなれないんです。

<つづく>

ぽかぽか春庭「女と母木」

2010-04-27 | インポート
2010/04/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(2)女と母木

 母は世話好き人好きな性格で、いつもよそ様の相談に乗ったり、愚痴を聞いてやったり、午後のひとときは、近所の人と「お茶のみ」をして話し込むか、知り合いの相談に乗って就職を世話したりもめ事を解決したり、子供のころ私が育った家には来客が絶えませんでした。(今、妹がそっくりその性格を受け継いでいて、「ファミリーサポート」いうNPO活動に参加し、コーディネーターとして、人様の世話をしています)

 いつまでも帰ろうとしない「長っ尻」の客がいると、私と姉は客座敷の裏手に座敷ホウキを逆さまに立てかけておきました。姉が「こうしておけば、お客さんはすぐ帰る」というのです。姉は、母方の実家の祖母やアヤ伯母に教わったにちがいありません。
 今ではすっかり廃れてしまったこのマジナイ、うちの田舎の風習というだけでなく、全国的なものだったようです。東京山の手暮らしのサザエさん一家もやってました。

 なぜホウキなのかさっぱりわかりませんでしたが、バケツでもなく、ぞうきんでもなく、ホウキってことがミソのようでした。姉は「客を掃き出すため」と言っていましたが、だったら、掃き出す形にして置いたほうが効果がありそうなのに、なぜ逆さまに置くのかがわかりませんでした。

 箒は古くから神聖なものとして考えられ、箒神(ははきがみ)という神様が宿ると思われていました。ホウキの古語ハハキが「母木」と見なされたり、「掃き出し清める」ことが「母から子を出す」こととつながるとして、箒神は、産神(うぶがみ=出産に関する神)の一つと考えられていました。出産と結びつき、妊婦のおなかを新しい箒でなでると安産になると言われたり、ホウキをまたぐと罰が当たるという言い伝えもありました。

 茶道では、蕨の茎葉や棕櫚の葉を束ねて作る葉箒を露地にかけておくそうです。実際の掃除には用いられないこの葉箒は、「箒神」に通じるものがあるのかどうか。茶道の奥義を極めた人なら、葉箒の故事来歴をご存じなのかもしれません。教えてください。

 日本最古の箒は、2004年2月に出土した奈良県橿原市の西新堂遺跡の出土品。河川跡から5世紀後半の小枝を束ねたほうきが見つかりました。発掘を行った橿原市教育委員会の発表によると、霊魂を運ぶ鳥形木製品や雨ごいのため殺した馬の歯など祭祀具と一緒に出土していることから、掃除用ではなく、祭祀用と見られています。
 奈良市の平城宮跡からも3本の箒が出土しています。これは8世紀中ごろのもの。
 奈良時代の御物が保存されている正倉院には、孝謙天皇が神事で蚕室を掃くため使ったという箒が2本収蔵されています。

 文献で「ハハキ」の語が出てくる最初の語には、古事記の「帚持ハハキモチ」「玉箒タマハハキ」があります。「玉」とは人間の魂(霊魂タマ)のことを指し、「帚持」とは、葬列を組む際に祭具の箒を持って加わった人を呼び、その役目を指しました。
 万葉集にも帚の神事について詠んだ歌があります。万葉仮名では「多麻婆波伎たまばはき」と表記されています。

・玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため(長忌寸意吉麻呂 巻十六 国歌大鑑番号3830)
(鎌麻呂よ、玉箒につかう箒草を刈り取っておいで。むろの木とナツメの木の下を掃かなければならないから)
・初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒(大伴家持 巻二十4493)
(初春のそのはじめのめでたい今日、美しいほうきを手にとって年魂を掃き集めようとしている。その箒の飾りの玉の緒がきらめいて揺れている)。 

 758(天平宝宇2)年の正月の宴会で、時の権力者藤原仲麻呂が勅命によって宮廷の人々に歌を詠ませたとき、万葉集編者でもあった大伴家持は、揺れる玉の緒を読み上げました。時の天皇は孝謙女帝ですが、実際には女帝の母、光明皇太后の命令であったと想像しています。表面は年初を言祝ぎ、年魂を集める箒を詠んでいるのですが、言葉の奥には、権力者仲麻呂によって九州へ左遷させられるという運命を予感して年魂のゆらぎを詠んだのかも知れず、、、と、これは深読み。

 奈良時代における箒は、祭祀用の道具として用いられるなど宗教的な意味があったものが、平安時代には掃除の道具としての記録も出てきて、室町の文献では「箒売り」が職業として成り立っていることがわかります。ホウキが日常的な生活用品になったあとも、ホウキに宿る神への民俗意識は残り、長居の客にホウキを立てかけるような習俗も、私が子供のころまで実際に行っていました。今では電気掃除機やモップはあっても、ホウキで座敷を掃く家が少なくなってきたから、ホウキの民俗も忘れられていく運命にあるでしょう。

 漢字が作られた古代中国では、棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けて箒状にしたものを「帚(そう)」といい、酒をふりかけるなどして、廟(びょう)の中を祓い清めるのに使用していました。この帚の形を竹で作れば「箒」、「草」で作れば「菷」。「帚」を「手」にとって廟の中を祓い清めることを「掃」という。掃き清めて汚れを除くことが「掃除」。この「帚」の仕事を行うのが巫女などであることから、「帚」を付帯した「婦」の字ができ、女性全般を表すことになりました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「女とホウキ」

2010-04-25 | インポート
2010/04/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(1)女とホウキ

 掃除と片づけに追われた3月。大嫌いな掃除をこれほど集中して連続してした毎日は、結婚以来初めてかも。好きなことをやり続けるのに何の努力もいらないけれど、嫌いなことをやり続けるのはたいへんでしたが、なんとか洪水水浸しの部屋も足の踏み場が見えてきました。
 今の生活で、私自身は掃除が大の苦手ですが、掃除を「つまらない家事」と思って嫌いな訳じゃないのです。洗濯とお茶碗洗いはちゃんとやってます。掃除好きな人がうらやましいですし、松居棒などを考案したりする掃除名人を尊敬しています。
 それにしても掃除が苦手です。

 私と同世代と思われる月曜日の講師室でごいっしょするK先生が、留学生の漢字クラスの話をしていて「私、婦人の婦って漢字、大嫌いなのよ。左側が女偏で、右側はホウキって意味なわけでしょ。なんで女とホウキをくっつけると婦なのかしらって、腹が立つじゃないの。留学生に教えるとき、私はこの字は大嫌い、って言ってから教えるの。女だからってホウキ持って掃除していなさいとか、家事は女がするものって、決めつけるの古いじゃないの。女を掃除婦と思わないでほしいわ」と憤慨口調でおっしゃった。
 あ、それって違うんじゃないの、と思ったけれど、講師室ではいつも黙っている私が急に口を挟んでもよろしくなかろうと思って黙っていました。

 家事は女がするもの、なんて確かに古すぎます。宇宙飛行士山崎直子さんのご主人は、高収入の勤務先を退職して、妻を支えて子育てと家事を引き受ける主夫になりました。(専業主夫じゃなくて、ベンチャー企業を立ち上げた兼業主夫なんですけれど)
 イマドキ、「家事は女がするもの」なんて発言したら、セクハラ・パワハラ発言としてで総攻撃を受けます。

 私が「違うんじゃないの」と思ったのは、「家事=女がする」の部分ではなくて、「女と掃除を結びつけた語が婦人の婦」という部分です。「帚」は、掃除のホウキの意味だけではないのです。
 帚は、箒(ほうき)の異体字であるのはその通りですが、ほうき=掃除ではありません。
 K先生の口調には、掃除は「つまらない女の仕事=家事」で、大学で教えることは「つまらなくない女の高級な仕事」というように聞こえてしまうニュアンスが感じられました。「大学で言葉を教えることは、大学の教室を掃除する仕事より上等」というように言われたと感じて、私の考え方とは相容れない、と感じてしまいました。ちょいと過剰反応だったのかもしれませんが、これは、母が私に厳しく躾たことのひとつに関係しています。

 子供の頃、「屑拾い」という不要物を集めて回る人が我が家に「くず~い、おはらい」と言ってときどき回ってきました。あるとき幼い私は「屑拾いになりたくない、ぼろや屑はきたないもん」と言ってしまった。母は「屑拾いもごフジョウの汲み取り屋も、世の中をきれいにしてくれる尊い仕事なのに、おまえのように人を見下す者の心が一番汚い」と怒った。「百姓家のもんが会社員の妻になって、よかったじゃないの」と農家出身の母を見下す人もいた町の暮らしの中で、「仕事に貴賤はない、百姓生まれで何が悪かろう」と心に繰り返して、なにくそと思っていたころのことだったのでしょう。

 私が掃除嫌いなのは、「女のつまらない仕事」と思っているからではなく、向き不向きの問題。私に「一日中茶碗洗いをしていれば生活していけるようにしてあげる」と言って雇ってくれる人がいれば、私は喜んで一日中お茶碗を洗っている。私は洗濯や茶碗洗いなどの水をジャブジャブする仕事を、移動せずに一か所でしているのが好きなのです。掃除は、部屋の中をあちこち動き回らなければならず、私の好きな「頭をぼうっとしたまま手を動かす」という作業になりません。

 さて、ホウキとは、「掃除の道具」の意味だけではないだろうと私が感じていたのは、子供のころのおマジナイに関係しています。
 帚はなぜ女偏と結びついて「婦」になったのか、次回解説。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ボナペティ」

2010-04-24 | インポート
2010/04/24
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(9)ボナペティ

 4月7日に見た映画2本立ての1本は「ココとイゴール」。ブランコシリーズで紹介しました。もう1本は「ジュリアとジュリー」という映画でした。
 ジュリアとは、アメリカの家庭料理にフランス料理を取り入れたテレビ料理番組の有名料理家ジュリア・チャイルドです。

 メリル・ストリープは、料理好きアメリカ人の記憶に残っているジュリアの印象を再現し、「役になりきっていながらメリルの個性はそのまま」というメリル式演技で、16回目のアカデミー主演女優賞ノミネート。オスカーはのがしたけれど、ゴールデングローブ賞は6回目の受賞を果たしました。
2003年にキャサリン・ヘプバーンが亡くなったあとは、私にとって「特にファンと思っているわけではないのに、どうしてもその出演作を見て、演技を見ておきたくなる女優」のNo.1です。こういうのを隠れファンと言うのかも。

 さて、ジュリア・チャイルドは、40歳近くなってから結婚し、子供には恵まれなかったけれど、夫とはラブラブです。夫のパリ転勤でパリとフランス料理が大好きになり、ル・コルドン・ブルーの料理学校に入ったことから、料理教室講師、料理本執筆、テレビ料理番組出演と人生を広げていきました。食べることが大好き。好きなことを極めたいから料理に夢中になり、料理を通して自分の生きる道を探っていきます。
 ボナペティ(Bon Appetit)は、フランス語で「おいしく召し上がれ」(原義は「よい食欲を!」)です。
 ジュリアがテレビ番組で家庭向けのフランス料理を作った後、「ボナペティ」と言うのがシメになっていました。

 ジュリアの料理本出版から40年後のニューヨーク。
 ジュリーは作家になるという若い頃の夢をあきらめ、政府機関の職員として働いています。ジュリーの仕事は、9・11の衝撃から立ち直れない人々への電話相談係。本当に悩みを抱えて電話してくる人もいるけれど、単なる鬱憤晴らしに電話係を攻撃してくる人もいる。仕事のストレスが大きくなる中、知り合いのブログが出版のチャンスを得たことを知り、ジュリーもブログを書き始めます。ブログのテーマは「ジュリア・チャイルドのフランス料理レシピ524を365日で作る記録」
 夫は、ジュリーのブログにもクッキングにも協力的でした。最初のうちは。

 書き続けるうち、ジュリーは読者が増えていく喜びを知り、コメントに一喜一憂します。ブログに熱中するあまり夫との仲違いも経験し、料理雑誌記者に料理を振る舞おうと欠勤したことがばれる結果にもなりました。このときは「寛大な上司」という評判を得たい上役だったので、危うくセーフ。
 ブログが新聞に取り上げられ、ジュリーは念願の作家デビューを果たしました。ブログが本になり映画にもなりました。その映画が『ジュリア&ジュリー』

 さて、この「ご飯食べた?」シリーズも、ジュリアの決まり文句でシメましょう。「ボナペティ、よい食欲を!」
 「女と料理」話の次は「女と掃除」話です。

<おわり>

ぽかぽか春庭「タケノコ生活」

2010-04-23 | インポート
2010/04/23
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(8)タケノコ生活

 4月6日に大きな筍を買いました。忙しい毎日の夕食では「筍水煮」を買って済ませることが多くなり、皮付きを久しぶりに買いました。娘が調理担当になってから野菜類は煮物が減り、サラダ系が多くなりましたから、筍の煮物も家では作らなくなったのです。私はたまに食べたくなると、おやつ用としてスーパーの出来合い土佐煮を買っていました。

 久しぶりに筍の皮をむくので、息子に「筍生活」という言葉の意味を知っているか尋ねると、案の定知らないという。そこで、皮を何枚か剥かせてみた。「このように着ている着物を一枚一枚はがして質入れしたり家の中のものを売って食いつなぐ貧しい暮らしがタケノコ生活」と教えたけれど、「蜘蛛の子を散らすよう」とか「虱潰しに探す」とかと同じように、シラミも筍の皮を剥くこともトンと生活の中に無くなってしまい、これらの比喩も死語になっていくのでしょう。私だって、蜘蛛の子が巣から四方八方に散るのを現場で見たのは一度だけです。

 筍を買うに当たって、ハタと困ったことに、「筍は米のとぎ汁でまたは糠をひとつかみ入れてウデる」という母の教え。「ウデる」は、母の言葉で「ゆでる」のこと。米糠は筍のえぐみを取るために必要なのですが、うちのお米は無洗米。糠がついていません。それで、筍といっしょに糠漬け用の糠を一袋買いました。筍を煮るのに使った残りは糠床を作ってキュウリでもつけようと思うけれど、たぶん、ぬか漬けはいい味の糠床が仕上がるまでに手入れが悪くて捨てることになるのがオチ。
 
 筍は、ゆでたあと冷めるまで糠入りのまま鍋においておくって手間をおかずに、すぐに湯から引き上げて煮てしまったためにエグ味が残ってしまい、娘も息子も食べてくれません。ひとりで一鍋分あった筍、全部食べました。3食たけのこ。こういうのも「たけのこ生活」?

 我が家の献立メモ4月上旬。
4月1日(木)昼:スクランブルエッグ トースト おやつ:クッキー、煎餅、ゆでキャベツ 夜(娘)ビビンバ(牛肉、もやし、菜、人参、ゼンマイ他)キャベツコーンミニトマトサラダ お吸い物

4月2日(金)昼:ビビンバ(夕べの残り) 夜:ステーキ、ポテトソーセージ

4月3日(土)朝:おじや(たけのこ、椎茸、人参、鶏肉)昼:(留学生とのお花見ピックニックに、教師として自作お弁当をみなにふるまいました)五目寿司(いくら、サヤエンドウ、卵、人参、筍、椎茸、鶏肉、油揚げ)、鶏と椎茸のコチジャン焼き、大根キャベツ浅漬け ツナサンドイッチ おやつ:卵焼き おにぎり 夜:(娘)海鮮丼(いくら、鮪、ウニ)、揚げ出し豆腐、大根とキャベツの浅漬け

4月4日(日)朝:卵雑炊 昼:花見弁当(飛鳥山公園前ほかほか亭ひとつ500円。キンキン司会のアドマチックで紹介されていたので買ってみましたが、まあ、味はそこらのホカ弁屋とかわりません。醤油味のご飯の上にピンクの桜花びらのはんぺんと錦糸卵がのっているほかは、コンビニ弁当のおかずと変わりなし。海老フライ。肉より衣が大きい鶏唐揚げ、煮物蓮根人参がんもどきひとつずつ、肉団子、枝豆3つ) 夜:ホワイトシチュー(牛肉、じゃがいも、人参、大根) キャベツ漬け物

4月5日(月)昼:ホワイトシチュー残り 夜:(娘)生ラーメン(メンマ、(生協)豚角煮 牛肉細切り(シチューで煮たのをほぐしておいたもの)(生協)蕪漬け物 (生協)冷や奴(商品名・波乗りジョニー)

4月6日(火)ブランチ:雑炊(ごはん、人参、椎茸、油揚げ) ハイティ:筍姫皮サラダ 煎餅&クッキー 夜:(娘)ソテー盛り合わせ(チキンソテー 豚肉ワイン漬け焼きはんぺんチーズ ニラ饅頭) ほうれん草とベーコン炒め物 筍土佐煮 

4月7日(水)朝:バナナ ほうれん草ベーコン炒め(夕食のこり) 昼:(椿山荘)さくら御膳(桜エビのかき揚げ 蕗の薹とタラの芽の天ぷら)胡麻豆腐 柴漬け 味噌汁 羊羹) 夜:(娘)刺身(まぐろ ほたて)(姑からのお持たせ)南瓜煮物 ひじき炒め煮 筍土佐煮(私だけ食べた) デザート(コージーコーナー)4種チーズのチーズケーキ

4月8日(木)朝:焼き芋三分の一(姑が自慢の「石焼き芋と同じ仕組みでおいしく芋が焼ける鍋」を使って焼いたもの)昼:キャベツ味噌汁 おやつ:マコロン クッキー 椎茸チーズ焼き 夜:(娘)ごはん もやしと豚肉の炒め物 大根とキュウリの浅漬け 

4月9日(金)朝:バナナ(夕食残りもの)もやしと豚肉の炒め物 昼:(上野駅構内イタリアンの店レモネッロ)前菜・牛肉煮込みソーススパゲティ・ベリータルト、コーヒー 夜:(生協)チャーハン (生協)揚げ出し豆腐 (生協)グリーンサラダ

4月10日(土)ブランチ:日清チキンラーメン 卵  おやつ 饅頭(あんこ)ひとつ 煎餅3枚 夜:(娘)海鮮丼(まぐろ サーモン いくら トビッコ 卵)(生協)白菜漬け物 (生協)胡麻豆腐 デザート:(生協)チーズケーキ

<つづく>

ぽかぽか春庭「いつまでもデブと思う、、、、よ」

2010-04-20 | インポート
2010/04/20
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(7)いつまでもデブと思う、、、よ

 我が家のメインディナーは、主菜一品を娘が調理し、副菜は生協から配達してもらう市販品のおかず、というのが基本です。メニューの中、(生協)と書いてあるのは、この出来合いおかずです。生協品の漬け物やサラダを並べたり、副菜類を袋から出してチンして盛りつける係は息子。春休み中は私が調理することもありましたので、メニューを書き留める気分も出てきました。3月下旬からのメニューを書いておきます。

 夜遅い夕食なので、私はデザートを省略することもある。娘と息子は私が寝たあとに夜食としてデザートを食べています。有名パティシエのケーキ、なんていうときは、我慢できないからつい食べてしまいますけれど、今年の目標は「デザートは我慢」です。おやつはたいてい毎日食べているけれど、食べていないつもりにしているので、書かない。見て見ぬふりってところです。
 調理者の名が書いてないのは私が作ったもの、娘担当のときは(娘)と書いてあります。(生協)とあるときは、息子が袋から出してそのままお皿に出したりチンしたりして並べた物。

3月22日(月)ブランチ:キャベツ蒸し煮 長崎角煮まんじゅう(冷凍品を解凍してチン。K子さんから届いたもの) 夜:ごはん、豚汁(豚肉鶏肉大根人参ジャガ芋キャベツ葱こんにゃく豆腐油揚げ)、肉巻きチーズ(チーズを鶏肉で巻き、その上から豚肉薄切りで巻く。油で焼き付けて周囲を固めたあと蒸し煮)、トリ煮物(鶏胸肉と生姜を微塵切りにして油揚げに詰めて煮た)、(生協)蕪の甘酢漬

3月23日(火)ブランチ:チーズトースト 夜:(娘)生ラーメン(チャーシュー、メンマ、ノリ)、かに玉甘酢あんかけ、(生協)チーズはんぺん

3月24日(水)ブランチ:トースト&コロッケ(近くのスーパーの揚げ物コーナーの男爵&牛挽コロッケ) 夜:(娘)バラちらし寿司(鯛・いくら・まぐろ・ほたて・卵)、(生協)玉こんにゃく醤油煮、(生協)春野菜漬け物、お吸い物(小袋の粉をお湯で溶く「松茸風味吸い物」)

3月25日(木)ブランチ:煮込みうどん(豚肉人参キャベツ市販品つゆ)夜:(娘)ごはん、もやし鳥肉炒め物、(生協)冷や奴と湯葉、(生協)キュウリぬか漬け、デザート:(生協)心斎橋チーズロールケーキ(大阪のパティスリーセイロワンスタージュの直経8cm、長さ12cmくらいを3人で分けた。パティシエの西園誠一郎さんは、1981年バレンタインデー生まれ29歳という若くてイケメンの関西では有名な人なんですと。「デザートは我慢」のつもりが我慢できなくなってしまうではないか)

3月26日(金)ブランチ:もやしキャベツ蒸し煮、チンしたジャガイモのマヨネーズ和え 夜(スパゲティ屋でダンスサークル仲間と食事)老醤(ラオジャン)スパゲティ(ラオジャンというピリ辛の調味料が入ったクリームソース、アスパラガスと小エビのスパゲティ)

3月27日(土)ブランチ:(娘)トマトと豆のペンネ(缶詰のうずら豆、大豆、ひよこ豆を利用) おやつ:クッキー 夜(娘)ご飯、刺身(生協品刺身セットを解凍。まぐろ、サーモン烏賊巻き、ホタテ、えんがわ、海老)、(生協)白菜漬け物、(生協)桜豆腐(ほんのりピンクの豆腐の真ん中に桜の塩漬けが載っていた)、デザート:(生協)エクレア

3月28日(日)ブランチ:塩ラーメン(人参、わかめ、卵)おやつ:羊羹、クッキー 夜:(娘)玉葱ごぼう春雨牛肉の炒め煮、(生協)ポテトサラダ、(生協)チーズかまぼこ、デザート:チョコクッキー(台湾土産としてもらったのだけれどポーランド製)

3月29(月)ブランチ:ジャガイモチーズ焼き(チンしたジャガイモに味噌マヨネーズをかけてスライスチーズをのせてオーブントースターで焼いたもの) ハイティ:カップラーメン(生協、沖縄そば) 夜:(娘)カレーうどん、(生協)揚げ出し豆腐、(生協)長いもの梅酢漬け デザート:(生協)富良野雪解けチーズケーキ(富良野市菓子司新谷)

3月30日(火)昼:コロッケパン(近所のパン屋カンパネルラ製) おやつ:カシューナッツ1袋120g 夜:(娘)ごはん、小エビのオーロラソース和え、ゆでキャベツハーブレモンソース和え(生協)チーズはんぺん、鶏肉ハンバーグ、(スーパー市販品)春巻き デザート:いちご(とちおとめ小粒)ヨーグルト&メープルシロップ

3月31日(水)昼:チーズトースト(8枚切りの1枚) おやつ:おせんべい、クッキー 夜:(娘)生ラーメン(チャーシュー、コーン、のり)、大根サラダ(胡麻油醤油)、椎茸チーズ焼き

<つづく>

ぽかぽか春庭「今朝の麺麭」

2010-04-18 | インポート
2010/04/18
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(6)今朝の麺麭

 食べたつもりで一首詠むってことで、食べる量を減らせるかしら。
食べたたつもりで、春庭も「食べ物の歌」。 
・慶州の旅より戻りてビビンバは吾子の得意の料理となりぬ(我が家のシェフは娘)春庭
・コロッケに揚げるジャガイモ潰すとき娘の指に力みなぎる(握力は私のほうがあるのだけれど) 春庭
・ツナ缶はパッカンと開く缶切りもいらずサラダは出来上がりけり(サラダ担当は息子) 春庭
・春キャベツのサラダは息子が刻みます千切りならず百切りまたよし 春庭
・惚け伯母が最後につぶやく「ビーフストなんとかってのをも一度食べたい」 春庭
・亡き母のひとつ話よ嫁に来て烏賊さばき方知らずに泣いたと 春庭
・八宝菜が亡き母自慢の料理ゆえ八宝菜は今も宝菜(パオツァイ) 春庭
・朝鶏が産んだ卵を飯にかけ命いただき命に感謝(うちのは無精卵だったけど) 春庭
・今朝の麺麭(パン)昼餉の饂飩(うどん)小麦粉の生まれし大地は地球の裏とふ 春庭

 食べ物短歌、、、、なんだか余計おなかがすいてきました。

 休みの日、朝はコーヒーを飲んでから布団に戻って二度寝しながら新聞を読み、ゆっくりしてから起きて10:30~11:30にブランチをいただきます。3時~4時にハイティ(しっかりおなかにたまるおやつを食べるティータイム)のメニューは、ホットケーキだったりバナナだったりします。最近は「キャベツをチンしてポン酢をかけたもの」など食すようにして、カロリーに気をつけてはいますが、甘い物の誘惑を完全排除したらストレスになるからと、自分に甘い食生活管理。

 休日の食生活。ブランチ、ハイティ、夜ごはんという3食、結局は朝ごはん、昼ごはん、夕ごはんと3食食べているのと同じことに思えるのですが、3時ごろ食べるものはどうしても食事というよりおやつという感覚です。3月27日土曜日のハイティは、ひとりでテレビを見ながら、「ナッツクッキーと、タイみやげの固形トムヤムクンスープの素でコンニャクを煮たもの」という自分でもおかしな組み合わせと思うメニューだったのですが、これも一食食べたという感じにはならず、おやつ。

 夜のご飯は8時~9時ごろです。娘の生活リズムで、7時頃からテレビを横目で見ながら作りはじめ、ゴールデンアワーに好きなテレビ番組を見ながら食べたい、という。
 日曜日なら、「ダーウィンが来た」という動物番組を見ながら作って、「龍馬伝」を見ながら食べる、という具合。1月~3月の月曜日、9時からのゴールデンアワーのドラマ『コードブルー』では、緊急手術シーンとか災害救助シーンでは、「血を見るとごはん食べられなくなるから」と目をつぶってしまうこともあり、「そんなくらいなら9時からのテレビ見ながら食べる」という方針を変えたらいいのに、娘は「みんなでワイワイしゃべりながら食べながらテレビ見るのが好き」と言うのです。救助シーンで目をつぶってはらはらしながら「あの人、助かるよね、助かってほしいなあ」なんて言いながら、口にぱくっとご飯を放り込む、そんな「消費される日常」がわれらの生活なので。

 今年の元旦。「書き留めるだけダイエット」をしようと思い立ち、食べたものをを書き留めることにしたのですが、たった一日だけの記録であとはなし崩し、、、、
 毎日のメニューを書き留めておくことで「あ、昨日はちょっと食べ過ぎたから今日は節制しておこう」という気分が生まれて、ダイエットできる、と、岡田斗司夫が『いつまでもデブと思うなよ』に書いてあったのを実践しようと思ったのですが、作る人にとっては自己表現ともなるメニュー記録、食べるだけの人が書き留めるのは案外たいへんなのだとわかりました。食べることの情熱に比べると、メニュー記録は強い意志がないと続かない。

<つづく>

ぽかぽか春庭「たのしみは」

2010-04-17 | インポート
2010/04/17
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(5)たのしみは

 19世紀末のイギリスや、昭和時代の日本の庶民の食事からみると、現在の日本人の食卓は王侯貴族の食事のように思えます。
 我が家のメニュー、贅沢をしているつもりもなく、飽食のつもりはありませんが、若い頃に比べ太ってきたことは事実。必要なカロリーより余分に摂取しているから太るのに違いない。

 「隣の晩ご飯」という番組は長寿番組のひとつになっています。みな、お他所の家の食卓にどんなおかずがのっているのかは気になるから、番組も長く続いているのでしょう。春休み夏休みに昼のテレビをつけて、たまに「隣の晩ご飯」を見ることがあるのだけれど、アポなし突撃というにしては、どの家もたっぷりのメニューでおいしそうなおかずがテーブルの上に並びます。我が家のように買ってきた出来合いお総菜や生協レトルト食品が貧相に並んでいる、というような家庭はテレビには登場しないみたい。

 2007年に私が中国に単身赴任して「我が家シェフ」は、娘と交代いたしました。以来、娘が夕食係です。朝ご飯と昼は起きる時間もまちまちなので、それぞれが勝手に食べたいものを食べることになっているのですが、夕食は娘が作り必ず息子と私といっしょに食べます。

 我が家の献立は、ご飯に一汁二菜(汁・スープがないときはおかず3品)が基本。肉または魚のメインディッシュに、野菜のおかずが1品(煮物、温サラダなど)。ミネストローネやけんちん汁、豚汁などの汁物、または付け合わせとして揚げ出し豆腐などの副菜。プラス漬け物など。
 栄養のバランスはよいと思うのだけれど、問題点は量。確実に消費カロリーより多い。飽食のつもりはないといいながら、これはやはり飽食なんでしょう。減らすべきです。はい、了解してはおります。

 食べる喜びは生きる喜び、、、、ですが、これからは食べる意欲をもう少し別の意欲にかえていこうかと思います。
 道浦母都子が食べ物をテーマにして詠んだ歌を集めた本、絵本のような体裁の歌集(短歌とイラストのコラボ)を持っていたはずなのですが、水害騒動で廃棄したほうに入っていたのか、見当たらなくなりました。あれ?道浦ではなくて俵万智の歌だったかしら。こんなふうに、記憶も曖昧になるので、たとえ読み返すことはしなくても、本は持っていたいと思うのです。

 2009年度芸術選奨を受けた柳宣宏歌集『施無畏』から、食べる喜びに溢れる歌を抜き書き。
・コロッケを肉屋に買ひて歩みつつ少年の日のよろこびを食ふ 柳宣宏
・セロファンに包まれたるを春の野に光らせながらほどくおむすび 柳宣宏
・饅頭の白きを食ひてニッと笑む死にさうもない母に寄り添ふ 柳宣宏

 次は、食べる歌の古典。橘曙覧(たちばな あけみ1812~1868)。あけみの「たのしみ」は食べることだけじゃなかったですけれど、食べる歌だけ抜き書き。
・たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時
・たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき
・たのしみは門(かど)売りありく魚買(かひ)て煮(に)る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時
・たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
・たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時
・たのしみは木芽(きのめ)煮(にや)して大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき
・たのしみはつねに好める燒豆腐うまく煮(に)たてゝ食(くは)せけるとき
・たのしみは小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時
・たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時
・たのしみは客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時

<つづく>

ぽかぽか春庭「19世紀末イギリス荷馬車屋の食事」

2010-04-15 | インポート
2010/04/15
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(4)19世紀末イギリス荷馬車屋の食事

 『戦下のレシピ』は捨てずに取っておくことにしたのですが、古い料理本などはだいぶ処分しました。そのほか、いろんな紙が積み重なっていた中のプリントに、イギリス都市労働者の食事の記録がありました。面白いと思って取っておいたのですが、別段資料として活用したことはなかった。ちょっと湿気たけれど、文字は読めるので、この際コピーしておきます。ネタ元の本の名前が書いてないので、出典がわからないので、記録としては不完全ですが、そのうち出典を探します。

 産業革命後のイギリスでは、食生活が格段に向上したのですが、それでも以下のように単調なメニューであり、ごちそうは日曜日に食べるだけです。また、夜の食事は無しであるか、食べてもパンくらいで、ディナー(一日の中心の食事)は昼にとっています。
   
 19世紀末から20世紀初頭のイギリス都市労働者の食事の記録。
A:荷馬車屋(週給20シリング)
・月曜日(朝):パン ベーコン バター 茶 (昼)豚肉 ジャガイモ プディング 茶 (ハイティ=4時前後のティータイム)パン バター 茶 (夜)茶 
・火曜日(朝)パン ベーコン バター コーヒー (昼)豚肉 パン 茶 (ハイティー)パン バター ゆで卵 茶 (夜)パン ベーコン バター 茶
・水曜日(朝)パン ベーコン バター 茶 (昼)ベーコンエッグ ジャガイモ パン、茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし
・木曜日(朝)パン バター コーヒー (昼)パン ベーコン 茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし
・金曜日(朝)パン バター 茶 (昼)パン バター トースト 茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし  
・土曜日(朝)パン ベーコン コーヒー (昼)ベーコン ジャガイモ プディング 茶 (ハイティー)パン バター ショートケーキ 茶 (夜)パン ニシンの干物 茶
日曜日(朝)パン バター バター入り焼き菓子 コーヒー(昼)豚肉 玉葱 ジャガイモ ヨークシャープディング (ハイティー)パン バター バター入り焼き菓子 茶(夜)パン 肉

 イギリスの都市労働者の食事、つづき。
 週給20シリングの荷馬車屋は夜の食事を抜く日があったのにくらべ、週給25シリングの研磨工は、夜も焼き菓子などでおなかを満たしています。ディナー(一日の中心の食事)は昼ご飯で、肉類の摂取も荷馬車屋より多くなります。

B:研磨工(週給25シリング)
・月曜日(朝)パン バター ジャム チーズ 茶 (昼)パン 牛肉 ジャガイモ キャベツ 茶 (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン ジャム
・火曜日(朝)パン バター ジャム 茶 (昼)ミートパイ ジャガイモ (ハイティー)パン バター ジャム パイ 茶 (夜)バター入り焼き菓子 
・水曜日(朝)パン バター ジャム 茶 (昼)細切れ牛肉 パン ライスプディング茶(ハイティー)パン バター バター入り焼き菓子 茶 (夜)フサスグリ入り焼き菓子
・木曜日(朝)パン バター 茶 (昼)パン ベーコン ジャガイモ (ハイティー)パン バター 茶 (夜)パン バター
・金曜日(朝)パン バター パイ 茶 (昼)パン ビーフステーキ コーヒー (ハイティ)パン チーズ 茶 (夜)パン 缶詰肉 
・土曜日(朝)パン ベーコン 茶 (昼)パン 牛肉 茶 (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン バター 
・日曜日(朝)小麦粉焼き菓子 バター 茶 (昼)ローストビーフ ジャガイモ キャベツ ヨークシャープディング (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン ジャム

C:職工長(週給38シリング)
上記と同様の献立に、昼はスープと肉またはソーセージ、サーディンなどが加わる。飲み物は茶、コーヒーのほか牛乳も加わる。

 19世紀末(1800年代末)週給20シリングの家庭では、しばしば夜の食事は抜きになったけれど、38シリングもらえる職工長になると、チーズが食卓に上ることも増え、肉類も多くなることがわかる。いずれにせよ、現代からみると単調なメニューであり、食べる楽しみはどれほどであったろうか。
 メニューは書いてあったけれど、量が書いてないので、果たしてこの食卓が家族みなに十分行き渡っていたのかどうかわかりません。

<つづく>

ぽかぽか春庭「満州火鍋」

2010-04-14 | インポート
2010/04/14
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(3)満州火鍋

 戦中戦後に盛んに「家庭で作れる食べ物」として推奨された南瓜とサツマイモ。食べ物が出回るようになると、「芋と南瓜はもう一生食べなくてもいい」と言う人もいたようです。私はいろいろな食材が出回るようになってから物心ついたおかげで、今でもサツマイモもかぼちゃも大好きです。食べ物の記憶というのは、それぞれの人にそれぞれのものですが、戦下にフスマパンとか芋雑炊とかを食べ続けた人にとって、なつかしいというより、「もう二度と食べないでもいい」という味になっているのでしょう。何を食べても、おいしい思い出が蘇る私は、幸福な時代を生きてきたと言えます。お金持ちの家ではなかったけれど、家族5人団欒の食卓を用意してくれた両親に感謝。

 わが家は田舎でしたから、私の子供時代にはもう野菜も十分に出回るようになっていましたが、農家出身の母は「八百屋の野菜なんて新鮮でない」と言って、家の裏手で家庭菜園を作っていました。味噌汁の菜っ葉などは、作る直前に摘むのですから、新鮮そのものです。庭に鶏も飼っていて、毎朝産み立ての卵で「卵かけご飯」を食べましたが、今思うと、野菜やトウモロコシなどの自然の餌で育てた鶏の卵は、現在の配合飼料と抗生物質を食べている鶏の卵とはずいぶん味が違っていたはずです。当時はそれが贅沢とも思わずにいましたが。

 私はタラの芽、蕨、コゴミなどの山菜が好きで、芹、蕗の薹などのちょっと苦みがあるような山野草が好物のひとつです。「あかざ」という雑草のおひたしも好きでした。母が家庭菜園で作った菜っぱのお浸しをゆでているとき、わざわざ私の分だけアカザをゆでてもらって食べました。アカザはそこらの畦や空き地にいくらでも生えていました。
 野菜も豊富に出回る頃になってからアカザを食べるのは、野趣があっておいしいと思えましたが、ほかに食べるものがないときに、おおばこやイタドリなどを食べさせられた子供たちにとっては、「野草をおいしく食べませう」と指導されても、有り難くはなかったことでしょう。

 『戦下のレシピ』続き。
 中国大陸に戦火が広がり、満州では皇帝溥儀が傀儡の身とわかって憤懣をつのらせていたころ。1939(昭和15)年の『婦人倶楽部』2月号には、「満州料理」が紹介されています。
・ホウコウズ(火鍋)
 内地の寄せ鍋の一種ですが、寒い寒い満州の冬、暖かい暖炉の前に集まって頂く夕食に、ホウコウズの美味しさは第一級の食味がございます。
材料(五人前)
 春雨一束、白菜半株、豚肉または兎肉50匁(180g)、竹輪一本、烏賊一尾または鰯五尾、人参一本、葱三本、筍少々

 2007年2009年の中国赴任中も、火鍋は教師達に人気のメニューでした。ありがたいことに、私が行った店の多くは、火鍋がひとりひとり別鍋仕立てになっていたこと。大鍋を前に、いちいち「すみませんが、直箸つっこまないでね。鍋の中にいれるのは取り箸限定にしてください」とお願いせずにすみました。鍋に直箸が入ると食べられないというのは、私のビョーキですが、これは豊かな現代だからこそ言えるわがままであり、食べ物のない時代だったら、直箸だろうと残飯だろうと食べざるを得なかったのかも知れません。

 果たして昭和15年に満州に暮らしていた人々のうち、どれほどがこの「第一級の食味がございます」というレシピで「暖かい暖炉の前に集まって頂く夕食」を味わえたのか、と感じます。『婦人倶楽部』などの雑誌は満鉄勤務のご亭主を持つ奥様方などが購買層だったでしょうけれど、満州の荒野を開拓していた人々は、コウリャンの雑炊をすすっていたのではないでしょうか。

<つづく>

ぽかぽか春庭「戦下のレシピ」

2010-04-13 | インポート
2010/04/13
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(2)戦下のレシピ

 水に濡れて捨てた本多数の中、斉藤美奈子『戦下のレシピ』は、濡れずに残った。仕事の資料として直接使用しない本は処分すると決めて、捨てようかどうか迷ったけれど、本箱に戻しました。留学生への「日本事情」の授業を担当しなくなってから、歴史関連の本もだいぶ処分したのですが、岩波アクティブ新書の一冊『戦下のレシピ』、そんなに場所もとらないし。

 『戦下のレシピ』には、昭和初期から敗戦時期までの農村と都会の食生活が紹介されています。
 振り返ってみれば、私が生まれる前、戦争中の日本また敗戦後の日本で一般庶民は飢えていた。ただひたすら「おなかいっぱい食べたい」という望みを抱えて生きていた。現代では、飢えて死ぬ人がニュースとして特別な存在になり、飢えた記憶は戦中戦時下、敗戦後の思い出の中に語られるだけ。以下、『戦下のレシピ』一部紹介。

 『戦下のレシピ』に掲載されているメニュー。
 たとえば1940(昭和16)年、太平洋戦争が始まった頃の献立として『主婦之友』12月号に食糧新報国会常務理事・中澤弁治郎が書いている都会向けと農村向けの「国民食」献立。以下の献立に主食は一人米400g麦その他雑穀100gを摂取するのが「栄養献立」とされているのですが、そもそも都会の家庭には、昭和16年の時点ですでに米麦雑穀あわせてもひとり一日300g以下しか配給がなかった。どうやってこの「理想的な栄養献立」を満たせというのだったか。

(1940年12月都会向け)
朝:味噌汁 金平牛蒡(きんぴらごぼう) 漬け物
昼:うどん 汁 薬味
夜:鯖のハンバーグ 清し汁 漬け物
(農村向け)
朝:里芋と大根葉の味噌汁 いなごの佃煮 漬け物
昼:味噌パン 漬け物
夜:打豆飯 ごった汁 漬け物

 1931(昭和6)年頃に成立したと見られている『雨にも負けず』は、「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」と書いています。「玄米4合」は、宮沢賢治流のずいぶんと控えめな食事です。副食物が少なかった戦前の食事では、一日に米飯を6合摂取しないと肉体労働に必要なカロリーを供給できないとされていました。味噌、佃煮、漬け物などをおかずにして、穀類を大量にとるのが、この時代の中心的な食事でした。
 『写真で見る日本陸軍兵営の食事』などの本によると、日本陸軍の食事規定では、一回の食事につき、主食として三食とも麦飯2合(ひとり一日6合)、副食として朝食は汁物(味噌汁・すまし汁など)と漬物。昼食および夕食は、肉や魚を含んだ少量のおかず一品。

 中央物価統制協力会議の資料(法政大学の調査による)と、1944年1月、東京都の労働者世帯の野菜入手状況は、ひとり当たりの配給量は一日平均約25匁(90g)、配給以外に買出しその他で約50匁(180g)を入手。同じく魚介類の配給は一日平均7匁(25g)弱にすぎず、魚の半分は生いわしと丸干しいわし。配給以外に買い出しで入手できる魚介類も10匁(36g)強。1ヶ月後の1944年2月ごろには、東京都における野菜配給量は一人一日当たり平均20匁(72g)、魚は5匁(18g)に減り、戦火が激しくなるとその配給も滞っていきました。

 そうなると、道ばたの野草雑草も貴重な食材。いたどり、おおばこ、はこべ、すべりひゆ等、なんでも食べることに。婦人雑誌などでは「野草をおいしく頂く調理法」などを特集しています。

 1945年に戦争が終わってからさらに厳しい食糧不足が続きました。冷害が続いて国内の穀物生産が危機に瀕した上、戦前のように台湾や満州、朝鮮半島などから食料を調達することは出来なくなったからです。食料の配給制度ではどうやっても生き延びることはできませんでした。食料統制法による闇米販売を犯罪として裁かなければならない裁判官の中に、統制法を守って闇米を拒否し、栄養失調で亡くなった人が何人かいました。(一番有名なのは33歳で亡くなった山口良忠判事)
 と、いうことは、大多数の死ななかった法律家や警察官は法を守ってはいなかったということになります。

 現代の食料自給率は40%に満たない。輸入食料に頼っている中、輸入ができなくなって、もし食料統制法なんてものができたとしたら、、、、闇米を買おうにも、わが家にはお金もないし、一家で栄養失調になるしかないでしょう。集合住宅住まいだから庭でさつまいもを栽培することもできないし。

<つづく>

ぽかぽか春庭「チーラファンマ?」

2010-04-11 | インポート
2010/04/11
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(1)吃了飯[口馬]?チーラファンマ?

 上階からの漏水事故のあと、2日間は体調落として寝込み、食欲減退。いくらか痩せたような気もしましたが、「水害見舞い」として、ウェブ友からうどん、リア友(現実社会で行き来するリアルな友達)から角煮饅などを送ってもらい、もりもり食べましたから、今はたちまちリバウンド。(館林うどんも長崎角煮まんじゅうもおいしゅうございました。感謝)

 ストレス解消のためにこれまで無謀喰いを続けてきました。「チョコ数箱一気食い」「ケーキ丸ごとホール喰い」なんかは禁止されてはいるのですが、まあ、ときには禁を犯すのも人生。片付けの合間に甘納豆一袋一気食いなどはやりました。
 漏水後かたづけから復活後、ブランコで揺れておなかをすかせたあとの話題は「食べること」。春庭の喰うや食わずの人生、なんとか食い繋ぐことがメインの生活ですから、食べることについての話をします。

 昨年の半年間、中国で仕事をしました。三度目の中国赴任だったけれど、中国語はさっぱり上達しませんで、挨拶と食堂の注文が出来る程度でおわりました。
 中国語の挨拶、一番よく使われるのは「你好ニーハオ」です。しかし、你好は、実は方言のひとつであったものを普通話(プートンファ=標準語)として採用されて以後広まったものだそうです。人民共和国になるまでの中国で日常の挨拶ことばは「ごはん食べた?」你吃了飯[口馬]?ニー、チーラファンマ?

 中国で一般民衆がともあれ毎食の食事を十分に取れるようになったのは、20世紀後半以後のこと。現代は、貧富の差が大きくなって不満も渦巻く中国大陸ですが、「人民共和国になってから飢える人がいなくなった」と、中国の人々は信じています。お年寄りの中にはおなかをすかせていた記憶を残している人々も多く、昔話をしてもらうと「子供の頃はいつもおなかがすいていたけれど、毛主席のおかげで今は幸福です」と、模範的な回答をします。外国人に何か尋ねられたときは、とりあえず毛沢東をたたえておけばあとのたたりはない、という教育が徹底しているだけかも知れませんが。

 日本では、「空腹に耐えられなかった」という時代を覚えている人たち、高齢化していますが、記憶を語って残してほしいと思います。
 敗戦後占領下の日本に生まれた私の場合、物心ついたころには皆が食べられるようになっており、成長の過程で空腹に泣いた記憶がありません。芋や米を母の実家から分けてもらったことや母が家庭菜園で野菜を作ったり、鶏を飼ったりしていたから、一般の勤労者家庭よりは食材が豊富だったのかもしれません。
 今、泣くのはおもに「肥満道一直線」の我が身体にであって、食欲のままに食べ続けるとどうなるか、という結果に涙するばかり。

 21世紀の今、東京のレストランでは世界中の料理が食べられます。世の家庭では毎食毎食、豊富な献立が食卓に上り、メニューのレベルはさまざまなれど、みなおなかいっぱい食べている。世界的にみても、歴史的にみても、これほどの飽食社会は未曾有のこと。毎日のメニューやその日作った料理のレシピをブログに記録する人が大勢いる。こんなに毎日ごちそうを食べ続けていいのかしらと思うくらい。

<つづく>

ぽかぽか春庭「秋千」

2010-04-10 | インポート
2010/04/10
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(10)秋千

 現代、短歌を趣味とする人々は多いので、万葉集も古今集もよく読まれていますけれど、漢詩つくりを趣味とする人は、明治以後極端に少なくなってしまいました。漢詩漢文を味わう能力を培うことをしなくなって、日本語言語文化の一端を私たちは失ってしまったのではないかと思います。

 李白杜甫の詩は高校教科書に載っていますが、嵯峨天皇はじめ平安の漢詩人たち。また江戸の漢詩人、たとえば女流詩人の江馬細香(大垣藩侍医江馬蘭齋の娘、多保)の詩など、教科書でなじんだ、ということはありませんでした。江馬細香の漢詩を読みたいと30年来思っているし、現代語訳がついた漢詩集も出版されているのに、なかなか手にとることもしないでいるのは、漢詩文に幼い頃から親しむ機会のなかった者の悲しさ。
 江馬細香と日本の漢詩文については2003/11/12の春庭コラム「おい老い笈の小文」に書きましたので、興味があったらどうぞ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d44#comment

 漢詩文は日本語言語文化のひとつとして復権すべき時期だと思います。漢文を旧制高校などで学んだ世代がいなくなってしまい、戦後教育を受けて漢文を敬遠してしまった私たち以後の世代になると、和歌連歌、俳句にも影響を深く残している漢詩漢文を「自分たちの文芸」として味わうことのできる人々がいなくなってしまうでしょう。
 論語の素読とか、意味もわからず漢詩文を暗唱する、という教育を、私の世代は「封建的な形だけの教育」と考えて敬遠してしまいました。しかしながら、千年の日本語文芸史を考えるとき、漢詩文は日本語文芸の大きな部分を占めているのです。

 「春宵一刻値千金」も「春は曙やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」も、も声に出して柔らかい脳にしみこませておけば、日本語の響きや意味をおろそかにしない子供が育つという齋藤孝らの主張。
 この主張に批判も多いですが、まずは音として日本語を身につけるというのは、日本語の豊かさを知るひとつの方法と思います。

 「読む」という言葉を聞いたとき、多くは目で活字を追うことをイメージします。明治期までは「読む」といえば、声を出して音読することを意味しました。私は3.歳ころ文字が読めるようになって音読していましたが、あるとき、声を出さないと早くストーリーが追えることに気づき4歳では黙読になってしまいました。確かに黙読は早く読めるので速読には向くので、必要はあります。同時に音読、朗読、子供のための読み聞かせ、ということの必要も考えるべきです。

 英語優勢のグローバル化社会の中で、自分のアイデンティティを保ちつつ国際的に存在感を持って生きるには、母語の豊かな感性を受け継ぐことを成長の基本に置きたい。そのためには、母語による表現の多様性を味わって育つことが必要です。
 下手でもいいから、俳句でも短歌でも詩でもカラオケで歌うのでも、ことばに親しんですごすこと。その見本として下手な短歌を作ってみます。春庭ブランコ文芸。

ブランコ文芸その12 
・アカ族の秋千(しゅうせん)祭りの子供らは蒸かし餅米食いながら漕ぐ 春庭
・平安の春昼の風を裳にはらみ宮女鞦韆雲間へと跳ぶ(嵯峨天皇御製によせて)春庭
・公園にブランコひとつ建ててきて市役所課長の一生を漕ぐ(「生きる」によせて)春庭
・行ったり来たり宙ぶらりんの一生だったブランブランとブランコを漕ぐ 春庭
・「もっと高く!」我子の叫びし公園に、今一人来て思秋期を漕ぐ 春庭
・ふらここの頂より見るビルの間にスカイツリーは天めざし建つ 春庭
・ふらここや「今ここ私」の現在形未来へ向かって飛んでいけ今 春庭

 以上、日本語言語文化のブランコに揺られつつ、春庭は、1漢詩文の復権 2朗読の復権、声を出して読む時間を作ろう 3下手でもいいから言葉で表現しよう、この3つを主張いたしました。
 ハイジの時速60キロのブランコにはかなわないものの、あがったり下がったりお楽しみいただけたでしょうか。最後の春庭駄歌で、だいぶ気分が下がってしまったことと思いますが、これから高く漕ぎ上げるのは、それぞれの足で、空へ向かって蹴り上がってくださいまし。

<おわり>

ぽかぽか春庭「ふらここ」

2010-04-09 | インポート
2010/04/09
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(9)ふらここ

 歳時記に載っている春の季語、「ふらここ」「ブランコ」「ふらんど」。私は「ふらここ」という響きが好き。「鞦韆」は「ふらここ」または「ぶらんこ」などのルビがついていない場合、「しゅうせん」という音読でよい。

 BSの「俳句王国」の中で ブランコの兼題で句会をしてましたと、ろくじょうさんからのコメントありがとうございました。番組の中で紹介された句は「ふらここや ぐんぐん漕げば 無敵なり」「ふらここや 影も日向も 風の中」などだったそうです。
 私はこの番組を見逃してしまいましたが、数種類の歳時記を繰ってネット検索もすると、江戸の小林一茶、炭太祗から、現代の句まで「ブランコ俳句」「ブランコ短歌」が集まりました。

ブランコ文芸その10 俳句
・ふらここの会釈こぼるるや高みより 炭太祗
・ふらここや隣みこさぬ御身代 炭太祗
・ふらんどや桜の花を持ちながら 小林一茶
・ふらここのきりこきりこときんぽうげ 鈴木詮子
・ふらここや花を洩れ来るわらひ声 三宅嘯山
・日の暮れのぶらんこ一つ泣き軋る 渡邊白泉
・ぶらんこや坪万金の土の上 鷹羽狩行
・夜のぶらんこ都がひとつ足の下 肥あき子
・ぶらんこを漕ぐまたひとり敵ふやし 谷口智行
・鞦韆に腰掛けて読む手紙かな 星野立子
・鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ 加藤楸邨
・鞦韆の綱垂る雨の糸に沿い 堀葦男
・鞦韆を父へ漕ぎ寄り母へしりぞき 橋本多佳子
・鞦韆に夜も青き空ありにけり 安住敦
・鞦韆にしばし遊ぶや小商人 前田普羅
・鞦韆の月に散じぬ同窓会 芝不器男
・鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
・鞦韆は垂れ罠はいま狭められ 藤田湘子
・鞦韆は垂るオリオンの星座より 山口青邨
・鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ 山口誓子

ブランコ文芸その11 短歌
・月光の中より垂れて鞦韆がわが前にあり 死後もあらむ 塚本邦雄『驟雨修辞学』より
・カシミールカレーにしびる舌をだし鞦韆のごと垂らしあぬ午(ひる) 加藤孝男『十九世紀亭』より
・生きてこし生命かすかに揺らしつつ鞦韆に細き月をみてをり 志垣澄幸
・さっきまでムーミンがいたように揺れ鞦韆のあわき影もゆれたり 江戸雪『駒鳥ロビン』より
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 俳句も短歌も音読したとてたいして時間がかかるわけでもなし。大きな声だして読みましょう。「ふらんどや桜の花を持ちながら」「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」

<つづく>