ぽかぽか春庭のへぇへぇ平成(へぇなる)言語文化教育研究
「平成好色一代女・青房赤房、力の色④」
(2004/01/29)
新しいものをとりいれ、常に新陳代謝を繰り返すことによって、新たな生命力を得ている日本の伝統について紹介してきた。
近頃の芸能界でいえば、トップスターをつぎつぎと交代させ、新スターを生み出す宝塚方式。今年は安倍なつみがソロになり、つぎのメンバーがまた入るかもしれないモーニング娘。方式、である。
ときどき新陳代謝をはかり、本質を変えることなく、新しいものと入れ替える。本質は変わらないといえども、内容はしだいに変わる。
ピカイアから人間までDNAの本質は同じ。地球の脊椎生物は共通のDNAを持っているというが、ピカイアと人間じゃ大きな変化をとげてきた。
なぜ、ピカイアは進化したのか。DNAを後代に伝えるのが生物の生きる目的であるなら、単細胞生物が自分の体をふたつに割って、分裂でDNAを残すのが一番効率のよい方法であった。
しかし、生物は雌雄ふたつが合体し、互いのDNAを混ぜ合わせる方法を選んだ。同一のものの繰り返し分裂ではなく、多様なものがぶつかり合い、いっしょに混ぜ合わされた方が、いい子孫を残せたのだ。
植物栽培でも、自家受粉を続けているといい種実がとれなくなる。動物はなおさらだ。多様な組み合わせ、多様なものの取り入れが、新陳代謝をよくする。
変わらない芯を残しつつ、変化を遂げるのが進化であり、歴史である。伝統とは、このような「芯と変化」でできている。
日本語に関しては、縄文語以来、本質に変わらないものがあるとして、発音、語彙とも大きく変化を遂げてきた。
標準日本語は、明治政府の方針で作られた。「全国で使用できる教科書を普及させ、ほとんどの一般庶民やいっぱんの家庭の子供達が天皇の存在をまったく知らない、という現状を変えなければならない。全国の人々が等しく天皇を知り、尊敬するようにしなければ、ならない。さらに徴兵制度によって集められた兵士が共通のことばを話すことができるように」という緊急の必要によって、作らせたものだ。
長い間「標準語が正しい言葉、方言は田舎臭いよくない言葉」という指導がなされ、戦前など教室で方言を使った児童に罰が与えられた、ということもあった。しかし、現在では方言の価値が認められ、方言による言語作品も評価を高めている。うれしいことだ。
国語制定の過程については、さまざまな研究書も出版されているが、楽しく読むなら、次の本をおすすめ。標準語制定の裏事情、てんやわんやの舞台裏を描いた作品。
☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.92
No.92(い)井上ひさし『国語元年』
相撲も、たかだか百年の歴史を「大相撲の伝統」などと思いこまないほうがいい。
もっと多様に力の限りを示すことだ。力技を示すことが、人々の心の安寧を祈念することに通じていた神事以来の「力の伝統」を認めてもいいではないか。
朝青龍は、モンゴル的な横綱でいてよい、と私は思う。
多様な力があり、多様な色合いがある、これが真の「日本の伝統」である。
全員を同じ色に染め、一致団結打倒○○、と突き進むばかりが国益ではない。これまでの歴史が教えるところでは、一致団結して同じことばを叫び、一斉に同じ方向を向いて走り出したとき、この国の行く末は必ず暗いものとなった。
一斉に同じことをやるというのは、この国の真の伝統ではない。多様さを認め、さまざまな文物を取り入れ消化していくことが、この国のやり方だった。
どこかの大国がやれと言うから、言われたとおりに尻尾を振ってついていくというのは、「力」の表し方として、もっともまずい方法であろうと思う。<続く~⑤>
「平成好色一代女・青房赤房、力の色⑤」
ブフ(モンゴル相撲)について。
モンゴル民族は非常に広い地域に分布しているため、その地域によって方言や風俗習慣などが異なる。
ブフも、威容を誇る鷹の舞で有名なモンゴル国のハルハ・ブフ、勇壮なライオンの跳躍で入場する内モンゴルのウジュムチン・ブフ、そしてオイラート・モンゴルに盛んな種牡牛の角突きを模した古典的なボホ・ノーロルドンなど、バラエティ豊かなブフが存在する。ウランバートル出身の朝青龍は「鷹の舞」が横綱の所作。
いずれのブフでも、その身体表現には猛禽や猛獣、強いイメージのある種畜(種馬、種駱駝、種牛)の動きをかたどったものが多く、伝統的な遊牧、牧畜の生業形態との密接な関係がある。
ブフは古来信仰されてきたシャマニズムとも深く関わっていて、祭祀における力士の身体表現は神霊ないしその憑依として認知される。一般的に力士の身体自体、効験があると信じられているほか、シャマニズムの最高神としてのテンゲルに「~ブフ」(力士)の名前を持つ天神がいることからも、力士はきわめて特別な存在としてモンゴルでは尊敬を集めている。
ブフが近代スポーツへ脱皮していくなかで、そうした象徴的意味と儀礼性が次第に失われてきているが、土地神を祀る宗教的行事・オボ祭りでは依然としてその原型は残されている。
日本の大相撲でも、近代スポーツとして再編成された明治以後、力士の力への信仰は失われてきたが、地方巡業場所などで、赤ん坊を力士に抱き上げてもらったりする親がいることに、力士の強い身体と心を分けてもらおうとする親の心が感じられる。
今回、春庭が赤房側でみた、大相撲初場所十日目。人気の高見盛は負け、綱取場所といわれた栃東も負けたが、横綱朝青龍はモンゴル相撲の大横綱「バットエルデン」が得意としていた「つりおとし」で勝った。琴光喜を大きくつり上げてから投げ落とす豪快な技だった。
この朝青龍の「つりおとし」を「大相撲伝統のつりおとしではなく、変則的な技」などと評する「相撲通」もいるらしい。しかし、朝青龍は、反則をして勝ったわけではない。彼らしい形のつりおとしを決めたのだ。それがこれまでの「つりおとし」とは少し型がちがうものであったとして、「青龍つり」とでも名前をつけて、登録すればよい。
日本語がどんどん変化し、平安時代の日本語とも江戸時代の日本語とも違うことばを話しているからと言って、私たちが現代話していることばは、「伝統的な日本語じゃない」ととがめられることもない。現代は現代に通じる日本語を話していればよい。
現代の日本語に方言があったり、中国語や朝鮮韓国語訛りの日本語があったり、それはそれで多様な日本語の表現が楽しめる。
相撲の技も、四十八手を狭くとらえることはない。四十八それぞれにバリエーションがあって、百手でも千手でも、強い技を土俵の上で披露して欲しい。
春庭、四十八手を全部使いこなせないうちに土俵から遠ざかってしまった。春庭の得意技。がっぷり四つに組んでから、組んずほぐれつ、寝技あり、手技あり。
対戦相手の「有効」「効果」などの技が決まれば、「ああ、いい!」と、その優れた技を褒め称えることも忘れず、新たな技も開発してきたが、最近新しい技の開発に協力者がなくて、残念である。
年取ったといえども、引退したつもりはなし。ただ、あらたなるフロンティア開発のためには、ちょっと心身がおとろえたのかも。
やはり「心・技・体」の三つを常に鍛えて、力の限り頑張らねばならぬですなあ。
<青房赤房、力の色終わり>
2月は<四股名あだ名本名ID>について&「へぇへぇへぇなる好色一代女」
「平成好色一代女・青房赤房、力の色④」
(2004/01/29)
新しいものをとりいれ、常に新陳代謝を繰り返すことによって、新たな生命力を得ている日本の伝統について紹介してきた。
近頃の芸能界でいえば、トップスターをつぎつぎと交代させ、新スターを生み出す宝塚方式。今年は安倍なつみがソロになり、つぎのメンバーがまた入るかもしれないモーニング娘。方式、である。
ときどき新陳代謝をはかり、本質を変えることなく、新しいものと入れ替える。本質は変わらないといえども、内容はしだいに変わる。
ピカイアから人間までDNAの本質は同じ。地球の脊椎生物は共通のDNAを持っているというが、ピカイアと人間じゃ大きな変化をとげてきた。
なぜ、ピカイアは進化したのか。DNAを後代に伝えるのが生物の生きる目的であるなら、単細胞生物が自分の体をふたつに割って、分裂でDNAを残すのが一番効率のよい方法であった。
しかし、生物は雌雄ふたつが合体し、互いのDNAを混ぜ合わせる方法を選んだ。同一のものの繰り返し分裂ではなく、多様なものがぶつかり合い、いっしょに混ぜ合わされた方が、いい子孫を残せたのだ。
植物栽培でも、自家受粉を続けているといい種実がとれなくなる。動物はなおさらだ。多様な組み合わせ、多様なものの取り入れが、新陳代謝をよくする。
変わらない芯を残しつつ、変化を遂げるのが進化であり、歴史である。伝統とは、このような「芯と変化」でできている。
日本語に関しては、縄文語以来、本質に変わらないものがあるとして、発音、語彙とも大きく変化を遂げてきた。
標準日本語は、明治政府の方針で作られた。「全国で使用できる教科書を普及させ、ほとんどの一般庶民やいっぱんの家庭の子供達が天皇の存在をまったく知らない、という現状を変えなければならない。全国の人々が等しく天皇を知り、尊敬するようにしなければ、ならない。さらに徴兵制度によって集められた兵士が共通のことばを話すことができるように」という緊急の必要によって、作らせたものだ。
長い間「標準語が正しい言葉、方言は田舎臭いよくない言葉」という指導がなされ、戦前など教室で方言を使った児童に罰が与えられた、ということもあった。しかし、現在では方言の価値が認められ、方言による言語作品も評価を高めている。うれしいことだ。
国語制定の過程については、さまざまな研究書も出版されているが、楽しく読むなら、次の本をおすすめ。標準語制定の裏事情、てんやわんやの舞台裏を描いた作品。
☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.92
No.92(い)井上ひさし『国語元年』
相撲も、たかだか百年の歴史を「大相撲の伝統」などと思いこまないほうがいい。
もっと多様に力の限りを示すことだ。力技を示すことが、人々の心の安寧を祈念することに通じていた神事以来の「力の伝統」を認めてもいいではないか。
朝青龍は、モンゴル的な横綱でいてよい、と私は思う。
多様な力があり、多様な色合いがある、これが真の「日本の伝統」である。
全員を同じ色に染め、一致団結打倒○○、と突き進むばかりが国益ではない。これまでの歴史が教えるところでは、一致団結して同じことばを叫び、一斉に同じ方向を向いて走り出したとき、この国の行く末は必ず暗いものとなった。
一斉に同じことをやるというのは、この国の真の伝統ではない。多様さを認め、さまざまな文物を取り入れ消化していくことが、この国のやり方だった。
どこかの大国がやれと言うから、言われたとおりに尻尾を振ってついていくというのは、「力」の表し方として、もっともまずい方法であろうと思う。<続く~⑤>
「平成好色一代女・青房赤房、力の色⑤」
ブフ(モンゴル相撲)について。
モンゴル民族は非常に広い地域に分布しているため、その地域によって方言や風俗習慣などが異なる。
ブフも、威容を誇る鷹の舞で有名なモンゴル国のハルハ・ブフ、勇壮なライオンの跳躍で入場する内モンゴルのウジュムチン・ブフ、そしてオイラート・モンゴルに盛んな種牡牛の角突きを模した古典的なボホ・ノーロルドンなど、バラエティ豊かなブフが存在する。ウランバートル出身の朝青龍は「鷹の舞」が横綱の所作。
いずれのブフでも、その身体表現には猛禽や猛獣、強いイメージのある種畜(種馬、種駱駝、種牛)の動きをかたどったものが多く、伝統的な遊牧、牧畜の生業形態との密接な関係がある。
ブフは古来信仰されてきたシャマニズムとも深く関わっていて、祭祀における力士の身体表現は神霊ないしその憑依として認知される。一般的に力士の身体自体、効験があると信じられているほか、シャマニズムの最高神としてのテンゲルに「~ブフ」(力士)の名前を持つ天神がいることからも、力士はきわめて特別な存在としてモンゴルでは尊敬を集めている。
ブフが近代スポーツへ脱皮していくなかで、そうした象徴的意味と儀礼性が次第に失われてきているが、土地神を祀る宗教的行事・オボ祭りでは依然としてその原型は残されている。
日本の大相撲でも、近代スポーツとして再編成された明治以後、力士の力への信仰は失われてきたが、地方巡業場所などで、赤ん坊を力士に抱き上げてもらったりする親がいることに、力士の強い身体と心を分けてもらおうとする親の心が感じられる。
今回、春庭が赤房側でみた、大相撲初場所十日目。人気の高見盛は負け、綱取場所といわれた栃東も負けたが、横綱朝青龍はモンゴル相撲の大横綱「バットエルデン」が得意としていた「つりおとし」で勝った。琴光喜を大きくつり上げてから投げ落とす豪快な技だった。
この朝青龍の「つりおとし」を「大相撲伝統のつりおとしではなく、変則的な技」などと評する「相撲通」もいるらしい。しかし、朝青龍は、反則をして勝ったわけではない。彼らしい形のつりおとしを決めたのだ。それがこれまでの「つりおとし」とは少し型がちがうものであったとして、「青龍つり」とでも名前をつけて、登録すればよい。
日本語がどんどん変化し、平安時代の日本語とも江戸時代の日本語とも違うことばを話しているからと言って、私たちが現代話していることばは、「伝統的な日本語じゃない」ととがめられることもない。現代は現代に通じる日本語を話していればよい。
現代の日本語に方言があったり、中国語や朝鮮韓国語訛りの日本語があったり、それはそれで多様な日本語の表現が楽しめる。
相撲の技も、四十八手を狭くとらえることはない。四十八それぞれにバリエーションがあって、百手でも千手でも、強い技を土俵の上で披露して欲しい。
春庭、四十八手を全部使いこなせないうちに土俵から遠ざかってしまった。春庭の得意技。がっぷり四つに組んでから、組んずほぐれつ、寝技あり、手技あり。
対戦相手の「有効」「効果」などの技が決まれば、「ああ、いい!」と、その優れた技を褒め称えることも忘れず、新たな技も開発してきたが、最近新しい技の開発に協力者がなくて、残念である。
年取ったといえども、引退したつもりはなし。ただ、あらたなるフロンティア開発のためには、ちょっと心身がおとろえたのかも。
やはり「心・技・体」の三つを常に鍛えて、力の限り頑張らねばならぬですなあ。
<青房赤房、力の色終わり>
2月は<四股名あだ名本名ID>について&「へぇへぇへぇなる好色一代女」