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春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭「洋館編 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅」

2014-03-16 | インポート
   

2014/02/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(12)旧前田侯爵家駒場本邸

 東京駒場にある旧前田侯爵邸は、前田利為(まえだとしなり 1885-1942)が本邸として建てた邸宅でした。戦後は米軍将校公邸として接収されていましたが、返還後、東京が取得。近代文学館博物館として利用されてきました。(1967-2002)
 私は、文学館で興味がある展示があると、ときどき出かけました。

 今では、建物は洋館和館合わせて「旧前田侯爵駒場本邸」として公開されています。
 ここが好きで何度も訪問しているのは、「見学無料」!である点、ボランティアガイドが組織されて丁寧に案内してくれる点、写真撮影が許可されている点。
 ほかの文化財指定建築も、こうして欲しいです。



 旧前田邸は、旧古河邸や旧岩崎邸などと並び、ドラマのなかで「お金持ちの住まい」という設定があると、ロケに使われる家でもあります。私が訪問している間に、この旧前田邸の階段を使ってロケをしているのにであったことがありました。



 旧岩崎邸は、たとえば、『謎解きはディナーのあとで』の主人公お嬢様刑事、宝生麗子が住む屋敷だったり、『明日ママがいない』で、あこがれのジョリピ(ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリー夫妻。いろいろな国から養子を受け入れることで有名)が住む夢の家だったり。
 旧前田邸も、2007年のテレビドラマ『華麗なる一族』のなかで、安田太左衛門邸として登場しました。

 一般公開が休館となる月曜日火曜日のうち、火曜日は撮影場所として公開されているため、映画やドラマロケのほか、結婚式前撮り写真などに人気なのだそうです。(一日借り切って7万、半日だと3万5万円くらい。値段も良心的と思います)





 1階にはカフェがあり、「カフェ・マルキス」という店名。マルキスとは英語で侯爵のことです。コーヒーに小さいクッキーがついてきました。

カフェ店内


 隣に建つ和館もとても落ち着いた雰囲気の近代和風住宅です。前田家では、洋館2階の洋室を家族の住まいとして用いており、和館は客のおもてなし用だったということです。



 竣工は1928年。設計は、日本橋高島屋や学士会館を手がけた高橋貞太郎。共同設計者は塚本靖。東洋一の大邸宅と謳われ、敷地1万坪、洋館建坪600坪というお屋敷です。
 現在公開されているのは、1階2階のみで3階部分は非公開ですが、和館もあわせてゆっくり見て、もとは邸宅の敷地だった駒場公園散策して、休日をのんびり過ごせます。なんといっても、無料!!

駒場公園が広がる庭園側から見た前田邸
赤ちゃん連れの公園散歩のお母さんがベランダのベンチでのんびりしていました。


 邸宅の女主人という気持ちで座ってみましたが、どうみても、「臨時のお手伝いに雇われた物慣れないおばさんが、うっかり椅子に座ってしまったら、すぐに女中頭の老女に叱られて、困っている図」という雰囲気の写真になりました。



<つづく>
| エッセイ、コラム 




2014/02/06
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(13)ワイン王・神谷傳兵衛稲毛別荘

 千葉市稲毛にある旧神谷伝兵衛別荘は、近代和風建築の紹介としてとりあげた「ゆかりの家(愛親覚羅溥傑と浩の新婚の家)」の近くにあります。



 神谷伝兵衛(旧字は傳兵衛1856(安政3)~1922(大正11))は、明治の実業家。家が没落したために幼い頃から丁稚奉公をし、酒樽造りの弟子、横浜にあったフランス人経営フレッレ商会酒類醸造場の従業員などを経て、東京麻布にあった天野酒店で働いて酒取引の実務を学び独立。浅草に一杯銘酒売り「みかはや」を立ち上げます。この店が、現在の浅草「電気ブランの神谷バー」です。

 神谷伝兵衛は、輸入ワインを日本人の口に合う甘口に仕上げ、1885(明治18)年に「蜂印葡萄酒」、翌年1886年に「蜂印香竄葡萄酒」 (はちじるしこうざんぶどうしゅ)の名で売り出し大成功を収めました。
 一般の日本人が口にしようとしなかった「血の色の酒」を、家庭内でも飲める飲み物にして普及させ、ワインを日本に定着させる第一歩となりました。第二歩目は、壽屋(現在のサントリー)が1907(明治40)年に売り出した甘味果実酒、赤玉ポートワイン(スイートワイン)になりましょう。

 伝兵衛は輸入ワインでの成功に満足せず、さらにワイン醸造へと向かいます。1898(明治31)年に、茨城県牛久にぶどう畑を開き、1903(明治36)年には醸造場を設立。ぶどう畑から一貫して醸造するワイン酒造家として「シャトーカミヤ」を建てました。シャトーという名が与えられるのは、ぶどう畑を持つ醸造所のみなのだそうです。

 稲毛の別荘は、伝兵衛が「迎賓館」として使用しました。邸内の意匠には葡萄模様があしらわれており、館内で「ここにも葡萄発見!」ゲームをするのも楽しいです。

ぶどうの古木を使ったという床柱


欄間もぶどう模様






 外から見える円形の壁。内部は廊下の突き当たりでした。


 ベランダは、カフェになっていましたが、私が訪れた時は休業時でした。


<つづく>
 
 
2014/02/08
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(14)旧福本邸、江戸東京博物館

 東京に保存された個人住宅の紹介、つづきです。
 ひとつは、博物館の建物の中にすっぽりと収まって復元された旧福本邸。
 もとの所有者は、福本貞喜。福本は、山下新日本汽船の役員だった人です。(1917年の山下合名会社設立のときは、副支配人、のち専務)

 東京五反田に建っていた旧福本邸は、江戸東京博物館の東京ゾーン「モダン都市東京」の展示の一つとして博物館の館内に一部復元され、解体をまぬがれその姿をとどめました。
 復元された木造の近代住宅、外見はハーフティンバー(半木骨造り)風ですが、それほど目を引く外観でもなく、「モダン東京」の代表的住宅だと解説を読んでも「ああ、こういうのが、モダンだったのね」と、思うくらい。多くの見学者はさっと、家のなかを覗いて、写真を一枚パチリ、それでおしまし。

 武蔵小金井公園にある分園の江戸東京たてもの園は、たてものがメインの展示ですから、建築好きの見学者も多いですが、江戸東京博物館は、歴史好きの人と「東京観光のついで」の人が多いので、建物には特に興味を示さない人もいます。

 一般の個人住宅とはいっても、福本貞喜は、山下新日本汽船の専務でしたから、東京の中でもお金持ちの家、と言えるでしょう。でも、外観はほんとにそんな「お屋敷風」でもなく、「一部のみ復元」のせいもあるけれど、こじんまりした印象を受けました。



 旧福本邸は、建築家大熊喜英(おおくまよしひで1905-1984)のデビュー作(1937)です。大熊は、大熊喜邦の息子。父の喜邦1877-1925)は、国会議事堂建設の統括者でしたから、良英も父と同じ建築家の道を歩んだものとみえます。喜英は、今和次郎の弟子として、全国各地の民家を研究し、モダン都市東京にふさわしい住宅を数多く手がけました。

 よく「デビュー作は、一生の作品の原点」と言われますが、福本邸も大熊らしさがよく表現されているのだそうです。むろん、これは受け売りで、私は大熊の他の作品を見ていないので、「大熊らしさ」は、この福本邸を見て想像するしかありません。
 解体されて消滅してしまうよりはずっとよかったと思うものの、博物館の空間の中に押し込められた邸宅は、もともと個人住宅だったとはいっても、外観はなんだか縮こまっているようで、私には「大熊らしさ」のいいところがどこなのか、外観からはあまりわかりませんでした。

 当時のモダンな家の多くがそうであったように、和洋折衷で、和室と洋間が並んでいます。

和室

 洋間の内部は、モダン!と思えるすてきな空間を作っています。昭和後期にはこんなふうな「名曲喫茶」みたいな店があったなあ、みんなこういう空間に憧れていた時期だったのだなあと思います。
 山小屋風のロフト付きの居間です。



 家の所有者福本貞喜が山下汽船専務であったと知ると、なにがなし、ご縁があったのかも、という気がします。私は、1972年ごろ、半年間だけ山下新日本汽船の「英文タイピスト」として働いたことがあるからです。

 毎日「Dear Captain」で始まる英文レターをタイプし、船長あてに「シンガポールでの荷あげは、延期になった」とか、「香港で○○を積込め」などの指示書を書いていました。書くといっても、新米の仕事は、雛形に従って、もとのレターの数字や荷物の名を書き換えるぐらい。でも、このころにタッチタイピングを身につけたおかげで、いまワープロ打つのが、人の会話のスピードでできる。

 そのころ、会社は皇居お濠端のパレスサイドビルの最上階にあり、皇居の景色を毎日見てすごしました。私がいま、近代美術館の4階休憩室で休むのが好きなのは、このお濠端のビルからの眺めを思い出すっていう理由もあります。

 英文タイピストとして働いていたころ、専務なんて雲の上の人であり、むろん顔も知らない人でした。と、いっても、私が働いていた頃は、福本専務は何らかの事業不審の責任をとって、とっくの昔に辞任していたらしいですが。
 福本貞喜さん、こんなモダンな居間で家族とすごしたなんて、きっと「モダン紳士」として暮らしていたんでしょうね。1937年の新築から福本一家が50年をすごした家、今は博物館のなかで人々に見つめられて、「モダン都市トーキョー」の姿を示しています。

 1952年、我が家の父は、借金をしてようやく「ささやかなマイホーム」を建てました。畳の和室、縁側、納戸という家。娘3人は「こういう和風の家じゃなくて、暖炉のある洋間の居間で暮らしたかった」なんて文句ブーブーたれながらこたつに集まっていました。
 あこがれのロフトも暖炉もない家で、暖房といえばこたつと石油ストーブだけ、という居間でしたが、両親、三姉妹、犬のコロと猫のクリ、寄り集まってあったかく過ごせた子供時代を思い出すにつれ、今は亡い父母姉の顔が思い浮かびます。

 福本さんのご家族も、ときには博物館に顔を出して、過ぎ去った日々を思い返すことがあるのでしょうね。

<つづく>
2014/02/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(15)山本記念館(旧山本有三邸)

 私邸の保存、所有者が自治体や博物館に建物を寄贈することで保存が決まることが多いですが、元の土地にそのまま保存し記念館博物館文学館などとして利用する方法、別の公園やテーマパークに移築復元する方法があると述べました。

 記念館として保存されているひとつが、三鷹の土地にそのまま保存され、所有者山本有三の記念館として公益財団法人が管理している山本有三記念館。



 この洋館、当初は清田龍之助邸でした。清田龍之助(せいたりゅうのすけ1880-1943)は、立教大学を卒業したあと、米国オハイオー州ケニオン大学とエール大学に留学。帰国後は東京高等商業学校(現・一橋大学)教授として、英作文・英文購読・商業英語の指導にあたりました。一度退職し、キッコーマン醤油の濱口商事で総支配人して働き、実業家として成功しました。しかし、濱口商事の事業がうまくいかなくなったのち、再び東京高等商業学校で教職についたとのことです。
 清田は、1926(大正15)年にこの家を竣工、1931(昭和6)年まで住みましたが、清田が事業から引退する際、競売にかけられました。

 記念館の建物説明でも、設計者施工者不明とあります。屋根裏ロフト利用の地上2階建て、地下1階。一部は木造で、他の部分はRC(鉄筋コンクリート)の混構造。



 山本有三(1887-1974)は、『路傍の石』『女の一生』『米百俵』などの作品で知られ、参議院議員も努めて文化勲章を受けた、功成り名遂げた文学者です。
 山本有三は、1936(昭和11)年に土地建物込で購入。それまで住んでいた吉祥寺から隣町の三鷹に引っ越しました。当時の三鷹は、1930年に中央線三鷹駅が開業して、田畑や林が広がる田園地帯から東京のベッドタウンへと変貌を遂げている最中。駅の南口から徒歩10分ほどの山本有三邸の周辺にも家が立ち並ぶようになりました。

 山本が1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで家族とともに暮らした洋館は、戦災にあわなかったために、戦後は米軍によって接収されましたが、返還後山本一家はこの洋館には戻りませんでした。
 一説によると。米軍将校が他の接収住宅でも行われたように、ペンキを家中に塗りたくったことに辟易し、もとの状態に戻すには修復費用だけで新築の一軒家が買えるくらいかかるらしいと聞いて、居住をあきらめた、ということですが、まあ、そういうこともあったかもしれないと思うものの、山本の日記とか家族の証言記録で確認したわけではありません。



 1956(昭和31)年山本有三は家を東京都に寄贈。東京都の施設(教育研究所分館、都立有三青少年文庫など)として利用されできました。

 現在の管理者は、公益財団法人です。自治体所有の建物が財団法人管理になると、とたんに内部撮影禁止措置となります。写真をめぐっていろいろ面倒なことになるよりは、一律撮影禁止にしてしまったほうが、管理が簡単だ、ということだろうと思います。


おうちの前に座っている家なき子HAL

 三鷹の山本有三記念館も、内部撮影禁止でした。内部写真を見たいかたは、下記HPへ。
http://mitaka.jpn.org/yuzo/about.php    記念館公式HP

建築関係者とかなら、許可されて写真撮影ができるみたいです。
http://yuwakai.org/dokokai3/idesanzuihitu2007/idesan20080105/YamamotoYuuzou.htm 
 (山本有三記念館の建物紹介) 
http://isidora.sakura.ne.jp/aries/ken270.html

<つづく>
2014/02/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(16)番外、建物の写真撮影について

 くちかずこさんからのコメント「写真、どなたかに撮影してもらったのですか?」というお尋ねがあったので、お答えします。「春庭が建物写真をUPする場合、基本、春庭撮影の素人写真」です。
 しかし、建物によっては、内部写真の撮影が禁止のものも多く、どうしても内部の写真を紹介したいときは、ネットから写真をお借りした写真を「借り物」としてUPしています。

 春庭自身を撮した写真は、石や切り株などの上にカメラを置いてセルフタイマーで撮影したか、周囲の人に「すみません、シャッター押してください」と頼んだ写真。旧前田邸の室内で撮影したのは、新人ボランティアガイドさんが移してくれました。旧山本邸の前の写真は、たしかセルフタイマーだったように思います。自分が写っていない建物の写真は、春庭撮影です。古いほうのデジカメで撮したときは、日付の入れ方をしりませんでした。今のカメラは、息子に日付が出るように設定してもらったので、撮影日がわかります。自分のメモとして写真を撮っているので、日付が入ったほうが記録としてはいいと思っています。

 ここでちょいと、公益財団法人の建物管理について、文句を言っておきたいです。
 建築写真は、専門家のすばらしい写真集も出版されています。適切な照明と見やすいアングルで上手に撮れている写真。美しい建物のようすがわかります。

 でも、私は私自身がこの目で見た記録として素人なりに建物の写真を撮りたい。
 しかし、自治体が直接管理している施設は「撮影自由」のところがあるのにたいして、財団法人管理だと、「撮影者の心無い行為によって建物が痛んだりしたら大変。財産である建物の価値を減じてはならじ」と、思うのか、やたらに「内部の写真撮影禁止」という措置をしているところが多いです

 絵画や彫刻ならば、作者の死後50年で著作権が消滅します。西洋美術館、近代美術館、東京国立博物館では、それらの作品の撮影について「フラッシュ禁止、三脚禁止」などの条件をつけながらも許可し、撮影してはならない作品の前には「撮影禁止」のマークを出しています。私は、この措置は「人類公共の文化」のありかたとして、妥当なものと思います。
 ルーブル美術館は、モナリザでもミロのビーナスでも、撮影自由ですし、申し込みをして許可されれば、模写も自由です。人類財産の公開は、こうあるべきです。

 公益財団法人の管理下にある美術館博物館は「申し込みをして身分証明しえた者」には、模写も撮影も許可すべきだと考えます。
 前にも書きましたが、私は、文化財として公開している家や、国や自治体から文化財認定を受けて家の補修改築に補助金を受けている建物は、少なくても外観の撮影は許可すべきだし、内部公開している建物については、フラシュや三脚の禁止と、人物の撮影禁止を盛り込めば、撮影していいのではないかと考えています。
 ですから「館内撮影禁止」と書かれている場所でも、顔認識ができるような人物が入り込んでいない場合、「確信的」に、室内などを勝手に撮影してきました。

 前後左右、まったく車の影も見えない道路でも、きちんと「赤信号は止まれ」という交通規則を守る人がいます。「決められた規則には従う」ことを実践している人たち。私は、自分自身の考えでそうしているなら、その信念は尊重すべきだと考えます。

 しかし、「いま渡って危ないか危なくないか」ということを自分で判断するのが面倒だから、いつも信号通りにしている、というだけならば、1930~40年代の「大日本小市民」がそうであったように、「ごく普通に暮らしていたのに、あらまあ、いつのまにか戦争になっていたなあ」ということにもなるやもしれません。自分で考えること、自分のことは自分で決めること。という基本がこのごろ崩れてきて、「上意下達」だったり「自己決定の放棄」に見える出来事が続いています。

 私は、「法律は弱者を守るために存在する」という考え方の持ち主です。憲法は、国民にたいして圧倒的な権力を持つ国家権力が暴走しないよう、国民を苦しめないように、規制をかけるための最高の法規です。他の法律も、常に弱い立場の者の見方をするために存在するのだと思っています。

 弱者にとっての悪法は、法律ではない、ということを「障害者自立支援法」の成立のときに思い知らされました。「自立支援」を標榜しながら成立したこの法律によって、真に自立できた障害者を、私はまだ知りません。単に障害者援助金を減らしたい、という予算のためだけの法だったように思います。

 現在は高齢者への予算がどんどん減らされていく時代になりました。高齢者の医療補助は健康保険介護保険、2倍になるそうですね。

 話が広がってしまいました。もとにもどすと、私は、「人類文化は皆で享受し、皆で守るもの」という信念のもと、保存運動や維持活動にもエールを送り、作品を保護しつつ写真を撮りたいと思っています。

 先日訪問した鎌倉近代文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)も、館内撮影禁止でした。バチバチ自由に写真を撮っている女性がいたので、お尋ねすると「私は新聞記者ですから」と胸を張っておっしゃる。報道機関には撮影を許可が出るのを知って、係りの人に「身分証明書などで姓名明らかにして申し込みをすれば、撮影許可が出るでしょうか」と質問したら「いいえ、一般の方の撮影はご遠慮願っています」という説明でした。

 「一般人は”報道を行う記者”に比べると下等生物なんだわあ」と、思いましたが、「ご遠慮願う」ということなら、遠慮しなけりゃいいんじゃん、と思って、人がいない時、室内を撮影しました。なぜならば、「この建物のお部屋を撮影した絵葉書があれば買いたいのですが」という申し込みに対し、「ありません」というそっけないお返事だったので、絵葉書もない、ということなら、写真撮っちゃダメって言われても、遠慮しないことにしたのです

 管理している財団法人が「写真を撮るな」と規定するのは、管理の都合上必要なのだろうと察します。しかし、禁止を承知で、「ここなら誰にも迷惑をかけることもなく、建物を傷めることもない」と確信して写真をとるのは、私の自主的な判断によります。
 自分で、考えて自分で行動するので、何らかの責めを負うのも自分です。責任はとります。

 ときには、「決まりを守ることは金科玉条、絶対のものである」と考える人がいて、「おい、ここは撮影禁止だぞ!」と、大犯罪者を見つけたという勢いで注意してくださる御仁がおられます。外国で軍事施設の写真を撮っていると逮捕されることがありますが、それとは事情がことなりましょう。
 決まりを破るものを告発する人、きっとこういう人は、ナチ時代、隠れ家にひっそり暮らしているユダヤ人を告発したり、スターリン時代に「ここに反スターリン的な言動をしている者がいるぞ」と密告した人と同じ体質なんだろうなあ、と思います。
 こういう人には、吉野弘(1926-2014)の『祝婚歌』を朗読してあげることにしましょう。

 「互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい
  正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
  正いことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい 」
という詩を読んであげることにすればよいだけ。むろん、自分でも繰り返し読んで自戒しなければなりませんけれど。私、どうして「もひかえめにするほうがいい」というところがうまくできないんでね。いつも大音声。

 先日見た再放送の「知られざるロシアアヴァンギャルド」にとても勇気づけられました。スターリン時代に弾圧され粛清されていったロシアアヴァンギャルドの画家たち。多くの芸術家も市民もスターリンの権力を恐れていたなか、弾圧をかいくぐってロシアアヴァンギャルド画家の作品を収集し続けたひとりの男、イゴール・サヴィツキー。

 サヴィツキーは、抑圧されたロシア・アヴァンギャルドの作品を収集し、中央アジアのカラカルパクスタン共和国の首都ヌクスに美術館を建てて保存しました。
 多くの画家が「反スターリン的である」として銃殺刑に処せられたり、シベリア強制収容所送りになったとき、危険を冒しても作品を保護し続けたサヴィツキー。スターリン側から見たら、「スターリンの意向に違反する行為」だったわけです。
 また、別の例をあげれば、杉原千畝は外務省からの訓令に違反して、ユダヤ人たちにビザを発行しました。

 こういう崇高な例とはいっしょにすることもできないですけれど、「撮影はご遠慮願います」なんて言われたって、私はめげない、ってことです。
 まあ、早い話が、私が撮影したい時に「ここは撮影禁止ですよ」なんて言われることに腹が立つ、というだけのことでして。

 最後にひとこと、私の信念では、本日は決して「建国の日」ではなく、「神話と伝説の日」です。

<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(17)和敬塾本館(旧細川護立邸)

 東京近辺「おやしきめぐり」のつづきです。以前に紹介した洋館和館、写真を掲載したお屋敷もあるけれど、2012年以前のカフェ日記へには写真をUPしていなかったので、改めて写真を載せたいと思って、古いファイルを引っ張り出しています。

 今回は、2011年の東京文化財公開のおりに、ウェブ友yokoちゃんといっしょに訪問した和敬塾本館の写真をUPします。
 このときの訪問記は、以下ををご参照ください。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_8890.html
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_1e5c.html

 旧細川邸であった和敬塾本館


 和敬塾は、東京文京区に建つ男子学生寮です。地方の由緒正しき良家の子弟を預かり、東京大学早稲田大学などに進学した坊ちゃまたちを卒業まで寄宿させます。
 村上春樹(芦屋の坊ちゃまだった)のように、自ら「合わない」と感じて出て行く学生もいますが、おおむね共同生活のなかで生涯の友を得たり、年に一度の大運動会に熱を入れたり、楽しい学生生活を送るようです。

 文京区の元細川侯爵邸跡地の7000坪に東西南北と乾(いぬい北西)巽(たつみ南東)の6寮が建ち、600名の男子が学生生活を送っています。
 6畳か7畳の部屋に2食つき光熱費込み1ヶ月10万の寮費は、東京の物価では良心的な寮費ですが、我が家が応募しても決して息子を預かってはもらえないでしょう。我が家の息子くん、良家の子弟ではないんで。(ひがみ全開)



 春庭が数年前に和敬塾のなかを部外者としてうろうろしたときも、寮生たちは寮の決まりをきちんと守って、「こんにちは」と気持ちのいい挨拶をしてくれました。みな、育ちのよさそうな賢そうな坊ちゃまたちでした。

 本館は、1936 (昭和11)年に竣工した細川家第16代当主細川護立侯爵(1883-1970)の邸宅。現在は、寮生の教養講座や結婚式が行われています。
  設計は、大森茂・臼井弥枝(ひろし)。地上3階・地下1階、建坪は約300坪。

食堂

階段室1階から

階段室2階




 芸術家のパトロンとして画家や作家との付き合いが深かった細川護立侯爵。その孫が、細川護煕です。芸術好きな遺伝があったとみえて、政界引退後は陶芸三昧なんぞの趣味に生きていました。なのに元ライオン宰相に背中押されて木に登ろうとして、あえなく落下。

 う~ん、意気込みはよかったと思うけれど、なにせ殿が首相をやめたときの原因が、年末にやめた知事と同じく「金をもらったのもらわなかったの」ということだったから、それについてはっきりした経緯を示さないままでは、なんだかすっきりしなかった。また、わけわからないお金もらって「やめる」となっても、困るし。
 話がそれました。どうも、品性のない育ちだもんで。

 おやしきは品格たかい、立派な邸宅です。

玄関ホール

 居間(暖炉の上には「和敬」の額が。どなたか、立派な御仁の書でしたが、誰のだったか忘れました)(*ご一緒していただいたyokochannからのご指摘がありました。満州国ラストエンペラー溥儀の書だそうです2014/02/13)


 一番気に入ったのは、3階の天井木組み。トラス構造が美しい。


 そう、美しいものは万人がタダで楽しめるようにしていただかないと。
 ちなみに和敬塾本館見学料は、お茶つきで千円でした。日頃は結婚式などに利用されている大食堂でのおちゃ、、、招待客の気分でいただきました。

<つづく>
2014/02/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(18)飛鳥山の渋沢栄一邸

 岩崎家など明治時代に財閥としてのし上がった家や、華族皇族の残した大邸宅にいささか斜めに構えた見方をしてきたひねくれ者の春庭。明治の財界人のなかで、なぜか渋沢栄一(1840-1931)にだけはあまり反感を持たず、素直にその事跡を受け止める気になります。
 明治財界人のなかで、栄一は「自家の繁栄」だけに執着せず、社会活動に力を注いだということもあります。著書『論語と算盤』のなかで「道徳経済合一説」を述べ、晩年は福祉や教育に力を注ぎました。

 栄一の後を継いだ孫の敬三(1896-1963)も社会文化への貢献を果たし、特に民俗学民族学への寄与は大きいものでした。民俗文化研究を続けた宮本常一(みやもとつねいち1907-1981)らは、敬三のもとで在野の研究者として民俗調査を続けました。研究拠点であった日本常民文化研究所は、神奈川大学移管後は、網野善彦らに受け継がれています。

 一方、栄一の長男篤二は、公家華族橋本伯爵家出身の妻と結婚したものの、一子敬三をもうけたのちは、放蕩三昧。ついには廃嫡され、芸者玉蝶を囲う気ままな暮らしを選びました。廃嫡されたといっても、篤二が玉蝶と遊蕩生活を続けた家は、のちに実業家松岡清次郎が買い取り、現在の松岡美術館になっている土地ですから、庶民のせがれが放蕩して勘当されたというのとはケタが違いますが。

  渋沢家の本邸は、深川から三田に移築されましたが、篤二廃嫡後は敬三が引き継ぎ、洋館を増築しました。現在は青森県三沢市に移築されているので、見学に行きたいと思っています。
 栄一は、1901年(明治34)に飛鳥山に渋沢家別邸「曖依村荘(あいいそんそう)」を建て、亡くなる1931年(昭和6)まで住みました。

 曖依村荘は東京大空襲で焼け落ち、現在は跡地に渋沢史料館が建てられています。
 飛鳥山別邸内の建物のうち、「晩香廬」と「青淵文庫」は戦災をかろうじてかいくぐり、一般公開されています。

晩香廬は、栄一喜寿の祝いに贈られた洋風茶室で、清水組技師長田辺淳吉の設計。


 晩香廬の室内。2012年に訪問したとき、下の写真を写しました。この時は「建物の外からフラッシュを使わずに撮影するのは許可」といわれたのですが、2013年には、外から内部を写すのも不可」と変わっていました。



「青淵文庫」は栄一の傘寿祝いに、弟子たち「竜門会」に集う人々から贈られた書庫(1階は閲覧室)
 栄一が収集した論語はじめ漢籍が書庫に収められています。



 渋沢栄一は、賓客を晩香廬でもてなしました。渋沢史料館の保存フィルムには、タゴールらが訪れたときの記録が残されており、史料館1階のホールで上映されています。
 
 2013年11月に青淵文庫でミュージアムコンサートが開催された際は、氏名住所を書いて申し込みをした人々の集まりであったためか、室内撮影が許可されました。









 こんなお部屋で一日読書をしていたら、がさつな私も少しは落ち着いた気分になれるんじゃないでしょうか。

青淵文庫1階閲覧室

 建物めぐり、2月後半から3月くらいに「横浜と鎌倉の洋館」シリーズと「コンドル、レツル、ヴォーリズ、ライト、レーモンド、ル・コルビジェ」シリーズを予定しています。

<つづく>
2014/02/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(19)番外・スタジオジブリ社屋

 明治大正昭和前期に個人の住宅として建てられたおやしきのある町を徘徊し、写真を撮ってきました。
 時代別に並べたり、地域別に並べたりしたほうがわかりやすいと思いましたが、アトランダムに紹介してきたので、少々ごちゃごちゃしたおやしきシリーズになってしまいました。ごちゃごちゃついでに、個人住宅でもない会社の建物を紹介して、都内のおやしき紹介をひとまずおひらきにいたします。

 一番最近に訪問した建物、スタジオ・ジブリ。
1992年夏、小金井市梶野町にジブリの新社屋が完成しました。



 2月12日の夕方、まだ駅前に雪のなごりが残っている東小金井駅前からぶらぶらと歩いて5~10分くらい。スタジオジブリの社屋を見にいきました。



 すてきな外観でした。正式な書類上では専門の設計者が図面をひいたのでしょうけれど、「このような外観、このような間取り、内装」という実際の設計を手がけたのは、スタジオ所長の宮崎駿ご本人だということです。

第二スタジオ   

 夕方、もう社内の人もあらかたは退社したところだったのか、夜に備え晩御飯を食べに行っているときだったのか、私が中を覗いた時には、社内の製図台のようなデスクに張り付いている人は見当たりませんでした。
 NHKのドキュメンタリーで、夜まで仕事をしている人たちに宮崎駿がラーメン作っているようすなどが撮影されていました。もしかして、みんなしてラーメン食べていたのかしら。

 ジブリ社屋は、なかなかすてきな建物でした。近くにジブリ社員のためのかわいらしい外観の保育園があると聞いていたのですが、保育園まで行き着かないうちに、東小金井駅に戻りました。講師仲間の今期打ち上げ食事会の時間が迫っていたので。

 まだ、「風立ちぬ」も「かぐや姫」も見ていませんけれど、これからもジブリのアニメ、よい作品が生まれてくることを期待しています。



<おわり>

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