春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭「さんまの開き」

2006-04-30 | インポート
2006/04/30 日
やちまた日記>海のごちそう(5)さんまの開き

 生まれて初めて、「さんまの開き」を自分で作ってみました。頭とわたを取り除いて、中骨にそって開き、塩水につけて、天日干し。
 お日様の光りをたっぷり浴びせます。お日様がうまみアミノ酸を増やしてくれるのを楽しみに、裏、表を干して、さあ食べようかというとき、ちょっと目を離したスキに、洗濯物のロープにぶら下げておいた手干し秋刀魚、カラスにとられてしまいました。

 ふと、ベランダを見ると、ロープに並んでぶら下がっていたはずのさんまが見あたりません。一匹だけかろうじて残っていて、あと一匹は網袋に入ったままベランダにおっこちていた。5匹開いたうち、3匹はカラスに盗まれてしまいました。
 ああ、残念。カラスに怒ってもしかたがありません。私が見張っていなかったのが悪かった。

 都会のカラスは、抜け目なくゴミ箱ゴミ集積所をねらっています。
 うちのベランダは「9階で、人の目にふれないからいいや」とばかり、ゴミ箱状態。カラスの目には、ゴミ箱同然。うちの秋刀魚、ゴミあさりのよい獲物に見えたのかも、、、失礼ネッ、ゴミ箱じゃないのよっ!ベランダなのっ、一応。って、怒るくらいなら、片づけなさいって。はい、、、、そのうち。

 ロープに残った1匹を焼いて食べたら、あまりにおいしかったので、ベランダに落ちていた網袋の中の1匹、よく洗って焼きました。これもおいしかったです。

 そして、再挑戦。また5匹開いて、今度はカラスの見張りもぬかりなく。
 
 娘は、高校時代に家庭科の調理実習で魚を料理し、皆で試食。そのとき骨がのどにささって、どうにもならなくなり、学校から病院へ連れて行かれました。
 のどになにやらの機械をつっこまれて、「あんな苦しい思いをするくらいなら、骨のある魚、二度と食べなくてもいい」という騒ぎをしたことがありました。だから、それ以来「魚は刺身にかぎる」と、骨のある魚はあまり喜びませんでした。
 しかし、今回の手干し秋刀魚は、「うまい!」と、食べました。

 一回塩水にくぐらせただけなのに、お日様が味をつけてくれた絶妙な味。
 専門家は、塩分濃度や塩水にどれくらいの長さで漬けるかに、それぞれの蘊蓄があるらしいのですが、私のは、塩分濃度テキトー、漬ける時間も適当。でも、本当に美味しく仕上がりました。
 サンマの手作り「開き」、ぜひお試しあれ。

 サンマの群を追いかけて波の果てを見つめ、雲の動きから天候の変化を知る、そんな秋刀魚漁船の漁師さんの姿を思い浮かべながらおいしく秋刀魚をいただきました。ごちそうさまでした。
 
 好きな仕事を追いかけることにかけては、秋刀魚漁もことば漁も共通した喜びがありますね。
 果てしない海を、漁船にのって仕事する人を尊敬しつつ、私はことばの海を漂流していきます。お互い、好きな道で頑張っていきたいですね。漁師Aさん、ありがとう!

<海のごちそう終わり>

ぽかぽか春庭「みやぎ伊達な若芽生産者の会」

2006-04-29 | インポート
2006/04/29 土
やちまた日記>海のごちそう(4)みやぎ伊達な若芽生産者の会

 ゆでて刻んであるメカブだけ食べてきたので、自分で茹でたのははじめてでした。ゆでると、トロロのようなトロトロがでてきます。このトロトロ部分、特に栄養がたっぷりらしい。
 
 ネットが普及してよかったことのひとつ。産直で野菜も米も直接消費者が注文して、宅配便で送ってもらうことができるようになりました。
 ネットに生産者の顔やことばが載っていると、いっそう作った人の心意気を感じることができます。

 健康にとてもいい、ヘルシー食品、メカブ。上記のURLに注文用のメールも掲載されていますから、どうぞ、健康のためにおいしい海の恵みのワカメとメカブを注文してください。
メールは、date@ryoshi.net

 宮城伊達な若芽生産者の会、会長の青山さんほかの皆さん、メカブ、とても美味しかったです。
 リアス式海岸、外洋でのワカメ養殖、難しいことも多くリスクも多いそうですが、がんばってくださいね。

 世界の食文化のなかで、日本は海草、魚の調理法にかけては、ワールドチャンピオンになると思っています。
 魚を食べる文化は、他の地域にもありますが、そんなにいろんな食べ方を工夫していないところが多いみたい。

 日本にはせっかくいろんな調理方法があるのに、私はあまり魚の料理が得意ではありませんでした。
 山育ちなので、「カヤの実を灰汁につけてアクを抜き、ほうろくで焼いて食べる」などの方法は知っていたのですが、魚に関しては、ほんとうに何も知りません。

 姉に「イカの塩辛」の作り方を教わって、自分で作るようになりましたが、姉のようにスズキでもイナダでも自分でおろして刺身に作る、なんてことはしないで、もっぱら刺身に造ってあるパック入りを買ってしまう。

 「さんま」なら、ほとんどが塩焼き。たまにカバ焼き。新鮮な刺身用が手に入ったときにマリネにしたり、それくらい。
 あまりいろんな食べ方に挑戦することもありませんでした。

 昨年秋に水揚げされ、冷凍された秋刀魚、送ってもらいました。
 冷凍ものは、生に比べて味はおちるかと思いこんでいましたが、そんなことはなく、解凍を上手にすれば、生とかわりなく味わえました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「海のごちそう(3)めかぶ」

2006-04-28 | インポート
2006/04/28 金
やちまた日記>海のごちそう(3)めかぶ

 魚について、何も知らないアルバイトさんが、店先で「はい、今日はサンマが大安売り」って声張り上げる魚屋もあるし、魚なんか好きじゃないってパートさんが売っているスーパー魚売り場もある。
 そちらのほうが安いとしても、私は魚が大好きっていう雰囲気で売っている魚屋さんの店先に立つ。売っている魚を愛し、誇りを持って売っている店が好き。

 南三陸海岸で育った「めかぶ」を食べました。肉厚でシャキシャキした歯ごたえの、今まで食べたなかで、最高においしいメカブでした。

 別段、宣伝を頼まれたわけではないのですが、私はこのような「誇りをもって生産に励んでいる」という人々が、大好きなので、宣伝します。
 「みやぎ伊達な若芽生産者の会」という漁師さんたちが南三陸海岸の外洋で育てた若芽です。

 三陸のリアス式海岸は、複雑に入り組んだ入江で、さまざまな海の幸が育ちます。栄養豊富な海を利用して、養殖漁業も盛ん。
 「伊達な若芽生産者」たちは、安全な入江の内側でなく、あえて時化のリスクを覚悟して外洋側に若芽の養殖棚を作りました。外洋側の海には、さまざまな栄養に富んだ海流があるからです。

 リアス沖の栄養分をたっぷり吸収したワカメ、メカブ。
 アルギン酸・フコイダン・ミネラル分がたくさん含まれていて、健康にとてもいい。

 HPに生産者のことばと、会員の写真と名前が載っていました。
http://www.datewakame.ryoshi.net/

 私、生まれた県は「海に面していない県」のひとつ。山国育ちで、山菜については少しは知っているけれど、海のこと、海産物のこと魚介類のこと、長らく生きてきたのに、ほんとに何も知らないのです。

 私が子供のころ、田舎町の魚屋の店先で売っていたのは、さんまの開き、いわしの丸干し。鰹といえば、ナマリ節のことでした。
 冷凍車での運搬など普及していないころなので、刺身を食べるのは正月や祝い事のあるとき。お刺身はほんとうにごちそうでした。

 海なし県の田舎町で、母がたまに生魚を買うことがあっても、魚屋に三枚おろしにしてもらってから持って帰っていたので、私は母から魚のさばき方を習ったことがありませんでした。
 生の秋刀魚が手に入ったら、そのまま七輪炭火で塩焼きにする。塩焼き以外の調理法で食べたことなかった。

 めかぶ、発泡スチロールの保冷箱に入って送られてきたのは、茶色い茎のまわりに茶色の肉厚のひらひらがついていました。
 魚屋などの店先やスーパーのパック入りの緑色したものとはだいぶ違う。

 ネットでいくつかのレシピを調べ、とりあえず、さっと茹でた。ゆでたらびっくり、茶色だったメカブが美しい深緑色に変りました。

 茶色のタコをゆでると赤くなったり、黒い海老をゆでると赤くなるのは知っていたんだけれど、今まで茹でてある緑のメカブしか食べたことがなかったので、茶色の生メカブを見て、これは産地がちがうと、色もちがうのかしら、なんて思ったのです。ほんと無知ですね。

<つづく>

ぽかぽか春庭「桜吹雪忌」

2006-04-27 | インポート
2006/04/27 木
やちまた日記>海のごちそう(2)桜吹雪忌

 私は、もともと料理が好きではないので、知らない素材の調理法を調べることも、新しいレシピを工夫することもなく、姉に教わった料理をなんとかこなしているだけでした。

 たとえば、牡蠣の料理を作るとき、姉は貝に入っているのを求めて、貝を開けるところから料理を始めましたが、私は「生食用」とか「調理用」と記載されているパック入りの牡蠣を買ってしまいます。

 今、姉の長女蜜柑は、4人の子を持つシングルマザー。蜜柑はママの料理好きを見て育ったので、牡蠣も貝殻つきを買ってきて、器用に貝殻をこじあけます。

 4月10日は、姉の命日でした。
 4年前、ホスピス病室の窓の外を、雪のように桜の花びらが舞っていました。
 姉は誤診した医者に恨み言ひとつ言わず、不幸な運命を嘆かず、「これほど短い人生とは思っていなかったけれど、私は十分に生き抜いた」と語り、静かに54歳で息をひきとりました。
 私は4月10日を勝手に「桜吹雪忌」と名付けて、私だけの季語にしています。

 4月7日金曜日に、姉の長女蜜柑と蜜柑の4匹の子豚たち(長女小学校6年生長男5年生次女3年生三女2年生)といっしょに、墓参りをしてきました。私の両親と姉がいっしょに眠るお墓です。

 蜜柑は、幼稚園のころ母親がわりに私が世話をしたことがあるし、高校生のときには3ヶ月ほど私の家に同居していたことがあり、姪たちの中で、私が一番手をかけてきたつもりです。
 今では姉以上の「肝っ玉おっかあ」になって、今時めずらしい4人きょうだいの子育てに奮闘中。

 お墓参りのあとの精進料理、姉に料理を教わった私、ママに料理を仕込まれた蜜柑、ふたりそろって、「面倒だから、レストランでいいよねっ」と、意見一致しました。
 料理自慢だった姉、嘆いているかも。
 
<つづく>

ぽかぽか春庭「海のごちそう(1)料理修行」

2006-04-26 | インポート
やちまた日記>海のごちそう(1)料理修行

 私の母は、料理が得意ではありませんでした。
 鍋に湯をかけて「おつゆの具に、もう一品、菜っぱを足そう」と、家庭菜園に出る。「あれまあ、菜の花がきれいだこと」と、しばし見とれて、「次の句会のお題は、菜の花だったよね、、、、、せっかくだから、草むしりしながら、ちょっと一句、、、、、」と、すっかりお鍋のことは忘れてしまう人でした。(煮物が焦げ付いた鍋が台所にごろごろ)

 手打ちうどんはとても上手だったけれど、子どものころは「ああ、またうどん」と思って、ありがたがりもせずに食べていました。今思えば、あんな美味しいうどん、もはやどんな有名店に行っても、食べられません。

 母が作る料理は、いわゆる「おふくろの味」でした。どの料理も「砂糖と醤油で煮付ける田舎風」の調理。生まれてから10歳くらいまで、この味付けオンリーで育ったので、今でも私にとってのおふくろの味は、「煮っ転がし」や「煮付け」です。

 山育ちの母なので、特に魚料理は苦手。他の調理法を知らず、ただ塩焼きにしたり、甘辛に煮付けるだけ。和風料理以外の献立は、カレーライスくらいのものでした。

 私の妹が幼稚園に入って、母はようやく昼間自由な時間を得て、料理教室へ行くようになりました。
 「魚からあげの甘酢あんかけ」や「八宝菜」「海老炒飯」だのを教わってきたのです。和風田舎料理から、中華料理洋風料理へと我が家の献立がにぎやかになってきました。

 母が八宝菜を覚えてきた当座、珍しくて、毎日「今日も八宝菜にしてね」と、頼んだことを覚えています。さすがに毎日は作ってくれませんでしたが。

 世の中は高度成長期。東京タワーがそびえ立ち、遠からず東京オリンピックも開催されるという時期、食卓は一足早く「いんたーなそなる」していました。

 姉は、父に似て手先が起用で、編み物でも裁縫でも、どんなことも上手にこなしました。料理も母の手伝いをしているうちに、母より料理好きになりました。

 東京の専門学校へ通うために上京した姉、友達が経営する食堂でアルバイトをしました。姉の親友の嫁ぎ先が飲食店だったんです。
 もともと料理好きなので、姉はいろいろな料理を習い覚えました。

 姉を追って上京した私は、姉と一室のアパートで暮らしたのですが、料理を覚えようという気もなく、ただ姉が作ったものを食べていました。そのかわり、姉が嫌いな皿洗いは一手ひきうけ。
 姉が嫁いだあとは嫁ぎ先へ追っかけをして、姉の住まいの二階に住み続けました。
 またまた、姉の作った料理をうまいうまいと食べるだけ。

 私がお茶碗洗い以外の料理を手伝うようになったのは、姉の二番目の子が長期入院することになり、上の子の世話を引き受けることになったから。
 幼稚園への送り迎えをし、予防接種に連れて行き、ピアノのレッスンに付き添い、姪の蜜柑を世話をしました。

 姉は、不器用な私の包丁さばきにイライラしながらも、料理を教えてくれました。私は料理学校などへは行ったことがありません。姉が私の料理の先生です。
 見ようみまねで料理も覚え、やっと魚をおろせるようになりました。
<つづく>

ぽかぽか春庭「花が好きな花屋が好き」

2006-04-24 | インポート
2006/04/24 月
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(20)花が好きな花屋が好き

 うちの近所のスーパーの中にある花屋の出店。よっぽど緊急のことでもないと、ここで花を買いたくない。
 パートのおばちゃん、花が好きだから花屋でパートをしているのではなく、時給のもっといい働き口があれば、そちらを選ぶって感じで、花への愛がない。

 私は「何でも知りたがり」なので、花屋の店先に知らない花があると、その花の名や、原産地などを知りたくなる。
 知ったからどうということもないのだけれど、はじめて見る野菜でも花でも、せっかく出会ったのだから、名前くらいは知っておきたい。

 そんなとき、スーパー店内花屋のおばちゃんは「さあ、なんていうんでしょうねぇ、私らには、わからない花ですよね」
 わたしら、って言ったって、あんた仮にも花屋さんじゃない、店先の花の名くらいは、買い手に教えてやれるくらい、花に興味を持ってもいいんじゃない?

 花の名前にまったく興味のない花好きな人っていうのもいるのかもしれないけれど、少なくとも花を売る仕事についたのなら、花の名に興味を持ってほしい。

 何かが好きな人、好きなもののことは、いろいろ知りたくなって、知るともっと好きになる。
 世の「マニア」とか「○○好き」と言われる人たちは、たいてい好きなもののことはとことん詳しく、愛するもののことを知り尽くそうとする。
 蒸気機関車好きもミジンコ好きも駅名マニアも手打ち蕎麦愛好家も。

 知らない花の名前をたずねたとき、教えてくれた花屋で買いたい。
 買うのはスイセンだったり、チューリップだったり、フリージャだったり、なじみの花が多いけれど、一つでも新しい花の名を知るとうれしい。
 家に帰って、ネットの植物図鑑を開いたりして、楽しめる。

 私が日本語学や言語学について、あれこれ書き散らしていること、専門の研究者から見たら中途半端な知識を知ったかぶりで書いていて、噴飯物なのかもしれない。

 魚屋が魚について知識豊富であるのに比べたら、私の日本語知識など知らないことだらけなのは、わかっているけど。
 でも、自分の商売物「ことばと文化」について興味を持ち、追求し続けたいと願う情熱においては、サカナくんや虫くんに負けないと思っている。

 百科事典のようにすべてのことがらについて頭の中に入れているわけではない。一般の人よりは、日本語と日本語言語文化及びその周辺のことについて、疑問があったときの調べ方を知っている、という程度。
 花屋が「花について詳しい人」であってほしいのと同じこと。「日本語を教える者として当然」と言われる程度は、ことばへの追求を忘れないようにしたい。

 日本語と日本語の言語文化、文学や演劇が大好き。これからも好きなことを追いかけて、きらきらした顔で好きなことの魅力を語っていきたい。

<「好きなことは楽しいこと」シリーズ終わり>

ぽかぽか春庭「虫くんとサカナくんとブタゴリラ」

2006-04-23 | インポート
2006/04/23 日
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(18)虫くんとサカナくんとブタゴリラ

 湘南の風かおる文章を読ませていただいているf*******さんの4月16日付けカフェ日記に、すてきな「昆虫大好きっこ」のことが書いてあり、うれしくなりました。

 幼いころから虫が大好き。学校の勉強は嫌いだったけれど、虫のことなら夢中になって遊んでいた少年がいました。f********さんの友人の息子さん。
 「成績がよくなくても入れる高校」への進学後も、虫好きの仲間との出会いがあり、昆虫について学べる専門学校へ進学。国立公園に就職して独り立ちしていった、というお話です。
 http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/florentmy/diary

 テレビの中で活躍している「サカナくん」。テレビ東京(東京では12チャンネル)の番組「テレビチャンピオン」の初代サカナチャンピオンになった、魚大好きっこ。サカナのことなら、何でも知っているし、知りたがる。

 サカナくんがうれしそうにお皿にのせる魚、ほんとうにおいしそう。
 魚や海の生き物が好きですきでたまらないようすが、テレビ画面から伝わってきます。

 サカナくんは、サカナの解説を始めると夢中になってしまい、つい「テレビ的だんどり」を忘れてしまうらしい。分担の時間をオーバーして、ときどき「はい、もうけっこうで~す」なんて、司会者に言われたりしています。

 私は、聞いていたいけれどね、他のテレビ慣れしているバラエティタレントの悪ふざけを見ているより、一途にサカナの魅力を語るサカナくんの表情、好きです。

 藤子不二雄のアニメの中で、ドラエモンより好きだったのが、キレテツ大百科でした。
 さまざまな発明品を工夫することが大好きな主人公のキテレツ君もいいが、キテレツの友だち、ブタゴリラこと熊田薫くんが好きです。

 カオルくんは、ドラエモンのジャイアンポジションのキャラクターですが、乱暴者でいじめっ子型のジャイアンとはだいぶちがうキャラ。

 どこが好きかって言うと。家業の八百屋が大好きなところ。薫くんは、野菜のことを実によく知っています。
 お父さんの仕事を手伝って、野菜を自転車で配達するのも好きだし、何より野菜のひとつひとつについてとても詳しくて、野菜を愛している。
 おいしい料理法も研究している。熊田青果店のりっぱな跡継ぎになれるでしょう。

 八百屋は野菜が大好きな人、魚屋は魚が大好きで海産物を詳しく知っていて、店先で産地についてや、調理法を教えてくれるような人から買えたらうれしいな。

 どの分野であれ、それが好きで好きでたまらないって人が語るとき、目が輝いて、その分野をまったく知らない人にも、魅力を伝えることができます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「踊る大肥満線」

2006-04-22 | インポート
2006/04/22 土
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(17)踊る大肥満線

 好きなこと、いろいろあるうち、一番困っている「好きなこと」は「食べること」
 食べることが大好き!
 でも、好きなことを続けてきた結果、、、、今の太さに。

 WHO世界保健機構(だったっけな)が、示している肥満ライン「体重÷(身長×身長)」の値が25以上になると、「肥満」の烙印が押される。
 で、私は、このところの健康診断では、大肥満線、ラインオーバーです。
 ナッツ類・チョコレート・ケーキといった太る食べ物に目がないし、すしも餃子も大食い選手権に出られると思うし。基礎代謝は落ちる一方だし。

 「ダイエットは明日から」と言いながら、どうしても食べ続けてしまいます。昨日はいちごタルト(市販品)、おとといは草餅(ダンス仲間の手作り)。そのまえはチーズケーキ(うちの娘が作るチーズケーキ、世界一と思っている親バカ)
 
 世をあげて「ダイエット時代」であり、アメリカビジネス界では、「自分の体重管理健康管理もできない者には、ビジネスを管理できるはずがない」とされて、仕事をまかせてもらえない、という時代に入って久しいらしい。
 アメリカは世界に冠たる肥満者増大の国ですが、統計上で、肥満層は貧困層に多いことがわかっているそうです。
 今や肥満は「ジャンクフードを食べ続け、自己健康管理ができない階層」の代名詞ともなっているんですって。

 日本の就職戦線においても「肥満体は採用されない」というアメリカ的現象が、おおっぴらにはされないものの、現実に起きてきているようです。
 でも、日本ではまだアメリカほどには肥満が「悪徳視」「差別化」されるには至っておらず、相変わらず、「おデブに、悪い人はいない」という「肥満を許容する空気」が残っています。

 テレビのバラエティ番組にも、ホンジャマカ石塚英彦、松村邦洋、内山信二、安田大サーカスヒロ、などなど、ひきもきらずデブタレは登場し、テレビキャラとして目立つ存在になっています。

 おやじダンサーズを率いるパパイヤ鈴木となると、「踊れる肥満体」として大活躍。
 振り付け師でありダンサーであるパパイヤ鈴木。太っていても踊り続けたい人にとっては、目指していきたい存在です。
 私も「女パパイヤ鈴木」めざして、踊り続けているのですが。

 私、若い頃は「モダンバレエ」「モダンダンス」のレッスンを受け、クラッシックバレエもかじる程度やったし、踊りは何でも好き。
 今は、ジャズダンスサークルに入って、毎週練習しています。指導の先生の方針で、さまざまなジャンルの踊りに挑戦しています。
 フラメンコを練習することもあるし、ハワイアンフラもやる、アイリッシュダンス、日本民謡でも踊ります。

 一週間後の4月29日、地元商店街のお祭りに、サークルが参加します。駅前の会館、客席1300のホールで、サークルメンバーといっしょに踊ります。
 私は、アイリッシュダンス風の「足踏みダンス」と、ミュージカル『ヘアー』のナンバーから「レット・ザ・サンシャイン・イン」のコーラス・ライン(その多大勢組)です。

 他のメンバーが40代50代とは思えないほどのスラリとした容姿を保っているので、女パパイヤ鈴木は、目立たないように、身を縮めて踊らねばなりません。我がダンスサークルでは、「肥満体を許容する空気」が限りなく薄いんです。くすん。
 私、うしろのほうで隠れるように、小さくなって踊りますから。

 デブおばはんダンサーも堂々、肥満を気にせず踊れる日がくることをねがいつつ、、、、ってその前に、ダイエットしたらどうなのっっ!と、サークルメンバーからの声、、、、、はい、その通りだと思います。肥満に伴う病気もいろいろ心配だしね。
 ま、今回はとりあえず「デブダンサー」として踊って、ダイエットは明日から、とは思ったんですが、そこへ朗報が。

 FoxO1というたんぱく質の働きを調節する物質が発見され、食欲をコントロールできる可能性があるって報道されていました。
 Fox01によって食欲コントロールできるようになれば、肥満解消問題なし。ノープロブレム!

 踊る大肥満線、Fox01が手に入るその日まで、あくなき食欲とともに踊り続けます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「スティル・ライフ」

2006-04-21 | インポート
2006/04/21 金
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(16)プラド美術館展「スティル・ライフ」

 若桑先生の端切れのよい解説のおかげで、それまでは敬遠してきた近代以前の絵画も好きになりました。

 若桑先生から聞いた静物画の解説。
 「静物画で描写される花は、美しい花もいつかは色あせ、枯れていくのだ、という命のはかなさの象徴イコンとして描かれている。みずみずしい果物もやがて腐っていくものの象徴として、西洋画イコノロジーに基づいて描かれている。
 そもそも美女の描写も、やがてはうつろい消えゆく美として描かれるのが、キリスト教を思想基盤とする西洋画なのだ」

 中学生の頃、西欧の静物画から「命ある物」の存在だけではなく、果てしない遠いところへ落ち込んでいくような暗い悲しさも感じていたことは、これだったのか、と思いました。静物画から死を感じていたことがやっと納得できました。
 ああ、静物画とは、「静かに生きている命」を描くのじゃなかったんだ、「今この瞬間を生きて、やがては死にいくものの象徴」を描写したものでもあったのだと。

 静物画について納得したことを、今回改めてことばとして感じ取ったのが、スティル・ライフの訳語についてです。
 英語の「Still lifeスティル・ライフ」は「静かな生き物の絵=静物画」と訳されます。しかし、辞書をひらくと、「Still born=死産の」「Still birth=死産」という語があります。

 私は、今回の展覧会で「ボデゴン」の数々を眺めながら、英語の「スティル・ライフ」も、本当はフランス語の「ナチュレ・モルト=死せる自然」も、同じことを意味している言葉だったのではないか、という気がしてきました。

 ヨーロッパ絵画の静物画は、生と死の象徴の描写であり、「ナチュレ・モルト」を描くことは、神にゆだねられた「生と死」を画面に描くことなのだ、と、ボデゴンの傑作をみつめながら心に感じました。

 スペイン絵画のボデゴンも、人物を配した風俗画としてのボデゴンは別として、果物や花や花瓶を描いたいわゆる「静物画」は、スルバランのボデゴンも、エスピノーサやアレリャーノの静物画も、ナチュレ・モルト(死せる自然)であり、神に与えられた生、今をいきるみずみずしい命が、神の手のもとにやがては召されていく存在の象徴なのなのだ、と感じたのです。

 「生と死」の静物画は、きっとキリスト教美術の真髄を含み、深遠な教理をイコンとして表わしているのかも知れません。

 近代以後の絵画でも、たとえばルドンの花の絵、美しい花が画面いっぱいに咲き乱れている花瓶の描写などでも、私は死せる自然「ナチュレ・モルト=スティル・ライフ」を感じます。神を自然の中に感じ、神につながる生と死を感じるのです。しかし、他のおおくの近代以後の絵画の静物画、たとえばセザンヌの静物には、このような「神に召される命」の象徴だけではない、生きてあることそのものの生命のほとばしりを感じました。

 ルネッサンス以後、人が「人間の自己決定権」を神の手から取り戻したことと連動する絵画表現の進展が、静物画の変化のなかにもあらわれているのだろうと思います。

 近代以前の西洋美術に関しては、ギリシャ神話&文学やキリスト教の教理を知らないと、表面的な鑑賞しかできないと若桑先生に教わりました。

 でも、私はそれらに理解の及ばないまま、ただ「美しいなあ」とか「どうしてこんなに悲痛な顔のマリアばっかりなんだ」とか「十字架とか、ピエタとか、キリストが血をながしている残酷なシーンばっかりだ。血を流して死ぬ光景を見ることで、西洋人はキリストを「人間の罪を負って身代わりになった」と、身近に感じるのかな」とか、勝手な思いこみで鑑賞してきました。

 深い鑑賞はできないけれど、ま、いいかな、って思います。
 私は私なりに絵をみる楽しみを探して、また美術館めぐりをするつもりです。

 春休みのプラド美術館展。すばらしい絵を楽しみ、そしてボデゴンという語を知りました。
 ことばの海を漂流し、「スティル・ライフ」は、「静かに生きているもの」ではなく、「死にゆく命」なのではないか、と思ったこと、私にとっては、ひとつのことばに思いを巡らせる「ことばの海をただよう」ひとときになりました。

<プラド美術館展 スティルライフの項終わり>

ぽかぽか春庭「静物画」

2006-04-20 | インポート
2006/04/20 木
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(17)プラド美術館展「静物画」

 スペインのボデゴンが、英語スティルライフ、フランス語ナチュレ・モルトと同じような静物画の意味で用いられるようになったのは18世紀後半になってからで、それ以前は風俗画と静物画の両方を表わしていました。
 したがって、18世紀以前のスペイン・ボデゴンは、「静物画」と翻訳するより「厨房画」と言ったほうが、適切な場合が多い。

 スルバランやサンチェス・コタンのボデゴンの傑作をながめながら、「静物画」を見始めた小学校中学校のころのことを思い出しました。

 小学校図画や中学校美術の写生の授業で、静物画を描くには、「目の前に存在し、今を生きている」ことを表現した色づかいで林檎を描写したり、花を描いたりするものだと指導されました。
 上手な人の絵をクラスに示して、先生は「この絵は生き生きとしているね」「花の命が描き込まれているね」などと評したものでした。

 私は写生が大の苦手で、「見たままをそっくりに写生すると上手だって誉められるのなら、絵なんか描かないで、写真うつすのが一番いいじゃないか」と思っている生意気な生徒でした。

 「静物画」とは、教わった通り「果物や花や花瓶などの目の前に存在しているものを、見た通りそっくりに描く」ものだ、と思ってきました。

 絵を自分で描くのは苦手でしたが、絵を見るのは大好き。近代絵画の楽しみ方を中学3年生のとき、美術科教師の松岡先生に教わりました。
 絵を見る楽しさを知り、写実派、印象派以後の絵画を見て歩くようになりました。
 野獣派立体派表現派、、、、近代現代の絵画を画集でみたり、美術館めぐりをするようになりました。

 印象派の描く自然光景は、光りに満ちあふれ、生命の謳歌を表現しているように感じました。
 印象派や後期印象派の静物画、生き生きとした色遣いの果物や台所用品などが画面に並んでいました。

 松岡先生は美術教師退職後も長く地元で「松岡美術研究所」を主宰し、美術指導にあたっていた方です。絵を見る楽しさを教えてもらったことへの感謝を先生にお伝えすることもなく、もう亡くなってしまいました。
 でも、教師の仕事って、そういうものかと思ってもいます。ひっそりと人生の喜びの種をまき、自分が知らないところに出てきた芽も花も見ないままのこともある。

 2度目の大学生活のとき、1985年86年にルネッサンス、マニエリスム、バロック、ロココ絵画の見方を、若桑みどり先生に教わりました。
 『薔薇のイコノロジー』など、若桑先生の著作に感銘を受け、前は好きではなかった印象派以前の作品も見るようになりました。

 近代絵画以前の西洋画の静物画、いつも黒っぽい背景のなかに描かれています。
 暗い背景から浮かび上がってくる花も果物も、私にはなんだかこわい感じがするのです。

 狩猟の獲物として吊されている兎や鳥だけでなく、今をさかりに咲き誇っている花々も、つややかな果物も、ひっそりと静かにたたずんでいるようす、私には「花や果物の命の謳歌」とは感じられず、なにか、よくわからないまま遠い世界にひきこまれていくように感じることが多かったからです。

<つづく>

ぽかぽか春庭「プラド美術館展・ボデゴン」

2006-04-19 | インポート
2006/04/19 水
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(16)プラド美術館展「ボデゴン」

 桜日和の上野公園。東京都立美術館で、「プラド美術館展・スペインの誇り、巨匠たちの殿堂」を見ました。(6月30日まで東京都美術館、7/15~10/15大阪市立美術館で展示されます)
 エル・グレコ、ティツィアーノ、ゴヤ、ベラスケス、ルーベンスなど、プラド美術館所蔵の名画81点を鑑賞し、重厚かつ美しいヨーロッパ美術を堪能しました。

 エル・グレコ「十字架を抱くキリスト」、ベラスケス「道化ディエゴ・デ・アセド、エル・プリモ」、ティツィアーノ「ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド」、ルーベンス「フォルトゥーナ」、ゴヤ「カルロス4世」などの傑作だけでなく、今回、スルバラン、サンチョス・コエーリョなど、これまで私が鑑賞したことがなかった画家の作品にもふれました。

 今回新しく覚えたことば「ボデゴン」
 スペイン語で静物画のこと。

 英語では静物画のことを「スティル・ライフstill life」という。
 「静物画」は美術の専門用語ですが、学校の図画美術教育でも使われてきたから、もともと知られていることばでした。
 けれど、「スティル・ライフ」というカタカナことばが、広く活字になったのは、池澤夏樹の1988年の小説タイトルからだと思います。
 スティル・ライフは、直訳すれば、「静かな生き物」「静物」となる。
 ところがフランス語では静物画をナチュレ・モルトnature morte と呼ぶ。直訳すると「死んだ自然」

 英語の静物画は、画家の目の前で静かに生きている林檎や花や壷などをカンバスに写し取ることを意味しているのだろうし、フランス語では、自然の中に生きて存在していた草花が切り取られて花瓶などに納められている情景、狩猟によってしとめられた動物や肉、壷や皿などの陶器、それらを「今は生きていないもの、死して美の対象となって存在しているようす」として描いている、と、私は勝手に解釈してきました。

 そうではない!スティルライフの語の解釈、これまで勘違いしていたのかもしれない、と思ったは、ボデゴンという語を知ったからです。
 スティル・ライフもフランス語のナチュレ・モルトと同じ意味であり、両方とも日本語に翻訳するなら「死せる自然、死に至る自然を描いた絵」とすべきだ、と気づきました。

 スペイン語では静物画を一般にボデゴン(bodego'n)と呼びます。
 このボデゴンという単語のもとの語は、ボデガ(bodega)=「酒蔵」です。
 ボデガを、大きく表現する言い方(増大辞)が「ボデゴン」。

 ボデゴンは、酒蔵が拡大されたもの。ワインセラーや、酒のツマミを作る台所や、居酒屋の内装まで全部含みます。
 台所で働く料理人や、酒や水を売る売り子までの描写を含めて、「台所絵画」「厨房画」=「ボデゴン」と呼ぶのです。

 スペイン語でボデゴンというときは、英語やフランス語の「静物画」も含みつつ、さらに、台所の食材や器具、台所仕事を描いた絵画、食事の様子などまで描写されます。
 ベラスケスのボデゴン「セビージャの水売り」や「卵を料理する老婆と少年」も「静物画」と呼ばれるのは「静物画ボデゴン」というよりも「風俗画ボデゴン」「厨房絵画ボデゴン」なのです。

<つづく>

ぽかぽか春庭「松井やよりが残したもの」

2006-04-17 | インポート
2006/04/17 月
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(15)松井やよりが残したもの

 やよりさんの最後のことば
 「 あきらめないで闘い続ける人同士のつながりというのは本当にすばらしい。これまでいっしょに活動してきた人、一人ひとりがどれだけかけがえのない存在だったかと思います。最初からあきらめて何もしなかったら、そういうすばらしい出会いというものもないじゃないですか。(死去の一週間前に発行の「週刊金曜日」掲載)」

 松井やよりの意志を伝えていこうとする女性達が、「女たちの戦争と平和資料館」で、やよりさんの残した資料の整理や展示をするために、働いています。

 「好きなことは楽しいこと」と題して、「お気楽な楽しみ」を書き殴ってきた私ですが、やよりさんの命がけの報道と「女たちの戦争と平和資料館」設立の情熱を見てくると、自分のあまりの「しょうもなさ」にシュンとしてしまいます。

 もちろん人にはそれぞれの生き方、表現のしかたがあり、やよりさんの68年の人生は、苦難の中にも、好きなことを「全力疾走でやり遂げることの楽しさ」に満ちていたと思います。

 私はわたしで行くしかないかな。
 さてさて、夏休みまで、仕事全力疾走です。

 月曜から金曜まで5日間、週に10コマ(90分×10)、5つの大学(国立大学2校と私立大学3校に出講)。6つのクラスで、9種類の授業を受け持ちます。
 日本人学生対象の日本語学概論、日本語音声学、日本語教育学。留学生対象の日本事情(日本の歴史と文化)、日本語上級文章表現(作文)、日本語中級文章表現、日本語中級口頭表現(会話)、日本語初級口頭表現、非漢字圏留学生のための漢字教育

 こう並べてみると、自分でもちょっと「無謀な多忙」の1年間になりそうだと、心配になってきます。
 授業をする時間は1日に90分授業を2コマですが、授業準備や作文の添削など事後処理を含めると、土日をすべて注ぎ込んでも、時間が足りません。
 ま、なんとかなるでしょう。仕事だって「好きなこと、楽しいこと」のうちですから。

 幅広い活動を続けた松井やよりさんの遺志を受け継ぐ人々。平和資料館の活動を継続する人、アジアの女たちの連帯活動を続けていく人、さまざまな継承のしかたがあるでしょう。
 私にとっては、世界中から集まる留学生に対して誠実に日本語を教えていくこと、日本人学生に日本語の豊かさすばらしさを伝えること、これが私にとっての、松井やよりの後に続く者の生き方です。

 国際ジャーナリスト松井やよりを尊敬しつつ、私は自分のできる範囲で、彼女のともした火を見つめていきます。
 松井やよりの残したことばを、こころの中にともし続けたいです。
 「最初からあきらめて何もしなかったら、すばらしい出会いもないじゃないですか」

<松井やより扁 おわり>

ぽかぽか春庭「国際ジャーナリスト」

2006-04-16 | インポート
2006/04/16 日
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(14)国際ジャーナリスト松井やより

 松井やよりさんが就職した当時の新聞社に女性記者はごくわずかで、女性は「毎日のおかず」のような料理記事を担当するなど、活躍できる部署は限られていました。
 食事は大切なことだけれど、私はお料理記者には向かない、と、やよりさんは社会的な題材でスクープをねらおうと考えました。

 高度成長時代に入り、おりよく、世は東京オリンピックに向かって、国際的な取材が急増していました。やよりさんは得意の語学を生かして、男性記者をしのぐスクープを続けて、しだいに認められるようになりました。

 まだセクハラということばもないころ、男性中心の新聞社体制のなかで、女性差別の言動をかわしながら、社会部記者として実績を積み重ねていきました。

 1970年代になると、女性問題に関心をふかめ、「男に負けない記事を書く」から「女性の視点で女性にしかかけない記事を書く」と、意識革命、方向転換がありました。

 1977年には「アジア女たちの会」を設立し、1981~85年シンガポール・アジア総局員として赴任。広く女性問題やアジアの問題にかかわり、発信し続けました。

 内戦で荒れ果てたカンボジアの取材を続けました。
 ポルポト派による大虐殺など、悲惨な体験をしてきたカンボジアの人々が「どうか私たちの状況を日本の人に伝えてください」と願うことばを受けて、記事を何本も書き送りました。

 しかし、ほとんどがボツ原稿。カンボジアの人々の思いを伝えられないことが、なにより悔しくつらいことでした。

 バブル景気で浮かれている日本。「カンボジアがどんなに悲惨な状態であっても、日本の読者はそんなこと読みたがらない。読者が喜ばない記事を増やしても、部数は伸びない」という時代でした。

 1994年朝日新聞社定年退職後も、国際ジャーナリストとして八面六臂の活躍を続け、一貫して、女性問題やアジアの戦争と平和問題に関わってきました。

 やよりさんは日本の戦時性暴力問題に関わり、戦後も続くアジアでの日本男性による買春などを告発してきました。そのためやよりさんの考え方とは異なる立場の人々から、執拗な攻撃を受けました。
 しかし、脅しや揶揄、中傷、どのようなことばの暴力にも屈せず、信念を貫きました。

 晩年、やよりさんは、「女性国際戦犯法廷」での論議に精力を注ぎ、2001年末、勝訴となりました。
 2002年10月、末期癌と診断されていたことを公表。
 12月末に亡くなるまでの2ヶ月間、自伝執筆と「女たちの戦争と平和資料館」の設立のために力をつくしました。

 全財産と資料を資料館に寄付する遺言状を作成し、12月27日永眠。享年68歳。
 壮絶な生涯であり、後に続きたいと願う女達に、ともし火を示し続けた一生でした。

 やよりさんが人生最後の2ヶ月間をどのように過ごしたか、というドキュメンタリーを資料館のビデオモニターで見ました。やよりさん自身が、死までの全てをビデオカメラに記録するよう希望したのです。最後の最後までやよりさんは意志的な活動を続けました。

 葬儀のシーンで、95歳96歳になるやよりさんのお父さんとお母さんは、バラの花に包まれてお棺の中に眠るやよりさんに向かって「よく働きましたね」「やより、いっしょうけんめい、がんばったね」と声をかけていました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「新聞記者・松井やより」

2006-04-15 | インポート
2006/04/15 土
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(13)新聞記者・松井やより

 やよりさんは、肺結核療養のために高校卒業を断念しましたが、回復後、大学入学資格検定試験(大検)に合格して大学進学を果たしました。
 国際的な視野を広げたいという意欲に燃えて、英語を専攻しました。

 大学後輩からのインタビューに答えて、やよりさんは、英語を専攻した理由を述べています。
 「ひとりで生きていけるように、翻訳でも通訳でも、手に職をつける必要があったことと、なぜ原爆を落とすようなことをやったのか、直接アメリカ人と議論したかったから」

 大学在学中、1956年にアメリカのミネソタ大学に1年間留学。
 女性の留学が珍しかった時代に留学を志した理由のひとつとして、「やっと大学生になって、議論もできると思ったのに、女が自分の意見を述べると、怖い女、生意気な女として見られる。そういう閉鎖的な中にいるのがいやになったから」と、述べています。

 奨学金に応募して採用されたので、アメリカでの1年間は留学費用が支給されました。
 しかし、1年間の海外生活は、やよりさんには十分な時間ではありませんでした。

 ヨーロッパ経由での帰途、お金がなくても、なんとかしてもう少し海外で勉強を続けたいと思いました。帰国してしまえば、二度と海外へでることはできないかもしれない。一般の人にとって、海外生活は夢のまた夢の時代でしたから。

 ベビーシッターをしながらパリでフランス語を習得しました。
 フランスで得たことは、フランス語だけではなく、人種差別と偏見への強い反発心。

 フランスからアジア経由船便で帰国するなか、アジアへの視点をひらかれました。
 帰国後のやよりさんは、「二度と戦争の時代にしない」「国際的な視野で平和を考える」ということを願いながら勉学を続けました。

 ミネソタで習得した英語と、パリで習得したフランス語、ことばはやよりさんにとって、自分を生かす技術であり身を守る武器でもありました。

 大学卒業を前に、就職は大きな問題でした。やよりさんが大学卒業した当時、大卒女性に就職の門戸を開いていたのは、教職くらいしかありません。自分は教員には向かないと考えていたやよりさんに、就職先は限られたものとなりました。

 新聞社を受験したのは、女子学生に門戸を開き、男子と同条件で就職試験を受けさせてくれたのは、新聞社だけだったから。
 新聞記者になりたいと願ってなったのではなかったけれど、結果としてやよりさんは天職を得ることができました。

 朝日新聞に記者として入社後は、たくさんのすぐれた記事、レポートを紙面に掲載し続けました。
 社会部記者として、女性問題、福祉、公害、消費者問題などを取材。
 几帳面なやよりさんは、無署名の記事も含め全て、自分の書いた記事はスクラップブックに記録しておきました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「松井やより展」

2006-04-14 | インポート
2006/04/14 金
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>好きなことは楽しいこと(12)松井やより展

 春休みの最後、友人Kさんと早稲田アバコビル内の「松井やより展」を見ました。

 Kさんは、企業内翻訳セクションで仕事を続けながら、小学生の男の子を育てています。子育てにも仕事にもすり切れ気味の私にとっては、子育ての愚痴も言い合える貴重な友人です。
 Kさんと私にとって、松井やよりは「同窓の大先輩」にあたります。

 1934年生まれの松井やよりは、1954年20歳のときに大学に入学しました。
 敗戦から9年、まだまだ「戦後」が色濃く残る時代でした。
 戦前には、女性が大学教育を受ける機会はごく限られたものでしたが、戦後、各大学が女性を受けいれるようになり、勉学を続けたい女性は、気を張りつつ大学の門をたたきました。

 まだまだ、大学進学は「もう嫁には行けないと決意した女」が入るところ、と見られていたころでしたので、やよりさんが入学したときも「とにかく一人でも生きていける人間になりたい」という気持ちが強かったといいます。
 やよりさんが、「自立して生きたい」と願うようになった背景のひとつには、お母さんの影響があります。

 やよりさんのお母さんは、「私は牧師と結婚したけれど、牧師夫人になりたいと思って生きてきたのではありません。自分自身が牧師として人々に関わりたい」と言って、子どもを育てながら猛勉強して牧師資格をとった人です。
 「夫をささえる妻」としてではなく、「夫とともに仕事をする妻」として、教会の運営にあたりました。

 松井さんのご両親平山照次さん秋子さんは、渋谷に山手教会を設立した牧師夫妻です。長女やよりさんの下に弟妹5人がいるにぎやかな一家でした。
 やよりの本名「耶依」は「耶蘇に依る=イエスに帰依する」という意味で名付けられたそうです。

 日中戦争太平洋戦争中、平和を祈り続けた一家は「クリスチャンは、戦争に批判的な非国民」という非難を受け、疎開先でも「キリスト教組織によって敵国に通じているスパイ」と噂され、苦しい時代をすごしました。
 照次さんは中国戦線に送られ、戦争の悲惨さを体験しました。

 敗戦は、一家にとって「自由への解放」でもありました。平山夫妻は焼け野原になった東京に戻り、渋谷に土地を求めました。
 ふたりは、ゼロから教会を作り上げていきました。

 最初は一部屋からスタート。日曜日、子どもたち6人のふとんを大急ぎで片づけて、集会スペースを作り、人々がつどう、というぐあいでした。
 少しずつ支援者も増え、教会はしだいに大きくなっていきましたが、収入はすべて教会のために使ってしまう貧しい暮らしの中、やよりさんは奨学金を受けて高校に進学しました。

 しかし、高校に通えたのは1年だけ。結核を発病し、16歳から4年間、闘病生活を余儀なくされました。

<つづく>