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春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭「岬」

2010-01-31 | インポート
2010/01/31
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(22)岬

at 2003 10/17 06:51 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.22(な)中上健次『岬』
 1975年に中上健次が76年に村上龍が芥川賞を受賞して「文壇も戦後生まれの時代」と言われるようになった。
 村上龍『限りなく透明に近いブルー』を一度読んだあとは、「あ、これ私、ダメ、合いそうもない」と、ギブアップ。再び、村上龍を読む気になったのは、『トパーズ』以後である。

 私よりは年長だが、中上こそが「我らの時代の文学」の騎手だった。『十九歳の地図』『枯木灘』『日輪の翼』路地と秋幸をめぐる物語もそのほかの話も「同時代」を感じながら読めた。
 好きな作品は「中上の作品中、一番の駄作と言われたり、「単なるフツーの恋愛小説」と評されているらしい、『軽蔑』。新聞連載小説だから、中上が気軽に書いたのかも知れず、中上コアファンにはイマイチの評価だったみたい。つまり、『軽蔑』が好きという私は、まだ中上作品の本当のすごさがわかっていないのだろう。
 中上紀の『彼女のプレンカ』が世に出れば「中上の娘だもの」と、律儀に読んでしまう、ただのミーハーファンです。

at 2003 10/17 06:51 編集 ルーツ
 先日のハリケーン「イザベル」関連のニュース写真(2003/09/20付夕)に「洪水に流されるクンタキンテの像」というのがあった。クンタキンテは、アレックス・ヘイリー『ルーツ』の主人公。アメリカ黒人である自分のルーツをアフリカまで遡のぼってたどり、記述した本。

 私のまわりにも、年をとると、にわかに自分の先祖さがしを始める人がいて、家系図などをとくとくと見せてくれたりする。
 「どの家も家系図をたどると、だいたい源氏か平氏か藤原の末流という人が多く、日本人の大半は結局のところ、我が家のルーツは天皇家から分かれているって言うんですよ」と留学生に紹介したことがある。

 個人のアイデンティティにとって、自分が何者で、どこでだれから生まれたのか知ることが大きな意味を持つことは、私が知り合った「中国残留孤児」の方々の話からもわかる。
 我が父祖がだれであり、遠い祖先がどこから来たのか、知らなくても生きていける事ながら、知って確認することで自分の来し方行く末を考えるきっかけになることもあるのだ。

 実は、私も父が亡くなる年の夏に、妹と「先祖の出身地」へ行き、父のかわりに先祖菩提寺で住職の話などを聞いてきた。
 父を育てた父の祖母(私の曾祖母)は、田舎の素封家の家付き娘であった。お乳母日傘で育ちながら、入り婿の放蕩などが重なったあげく、破産して夜逃げをした。
 自分が一人子供を背負い、女中にもうひとりを背負わせての夜逃げであったという。

 「どこまでもお供します」と言ってくれる女中がいなかったら、山越えの夜逃げをする勇気はでなかった、と曾祖母(私が12歳になるまで生きていた)の述懐。
 そんな「夜逃げをして出てきた父祖の地」を訪れたのだ。寺には過去帳が残っていた。役場の人は、一家の現在の戸籍簿を持ってくれば、先祖の分の戸籍をコピーして渡しますよ、と教えてくれた。

 でも、家系図を作るほどの家でもない。破産したあと、祖父は頼る者もない土地で、鳶職になって生きた。流れ着いた土地に根を下ろし、頭として町中の信頼を受ける人になった。子供の頃、鳶の頭として祭りの山車を指揮する祖父が好きだった。父は「鉄鋼労連」。
 労働するより他に財産はない家柄である。ただ、こうやって、先祖代々までたどることができるのだとわかっただけで、よかった。どこの馬の骨であろうと、けっこうなのだ。

 しかしながら、私が「家系などどうでもよい。人間は個人として、現在の自分に何ができ何ができないか、だけ」と言えるのは、自分の家が「どこの馬の骨やら」ながら、馬の骨をたどれるからかも知れない。

 下から読んでもマサコサマの家系図が新聞に載ったとき、の人たちが「反対声明」を発表した。このように「由緒正しい家柄である」ということを麗々しく発表するのは「由緒正しくない人々」への圧迫であると。
 それを聞いて、現実に差別を受けている人にとっては、家系図の話もつらいことなのだろうと思った。
 また、同時に、そこに生まれたことを誇りに思えばいいのではないか、とも思ってしまった。出自による差別の痛みを負ったことのない人間の、傲慢な感想かもしれないが、私は、中上健次の「賤と聖との反転による光輝」を好む。

 ちなみに、夫の写真を見せた友人に「そういえば、あなた、中上ファンだったものね」と納得顔で言われたことがある。
 いえいえ、中上に似ているだなんて、そんな大それたこと!正確には「中上健次と北京原人を足して2で割ったような」です!!
 うちのルーツは、北京原人じゃないかしら。もしかして直系?
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2010/01/31
 北京原人直系の夫、本日、誕生日。
 仕事をすればするほど借金だけが増えてきた「趣味の会社経営」ですが、今のところ、借りてきた負債の「利子過払い訴訟」に燃えているらしく、裁判を起こして過払い分を取り戻すと、張り切っています。う~ん、過払い分は取り戻せたとしても、負債はつもりにつもっていて、今年も私は老骨むち打って働かなければなりません。

<つづく>

ぽかぽか春庭「自然と人生」

2010-01-30 | インポート
2010/01/30
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(21)自然と人生

at 2003 10/16 11:08 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.22(と)徳富蘆花『自然と人生』
 詩歌を志す文人にとって、自然は「ネタモト」の大事な存在だったが、一般の生活者が「自然の美」や「自然との交歓」の効用に気づいたのは、明治以後だと言われている。
 自然と闘って生活しているほとんどの人にとって、「自然」とは、眺めて楽しむ以前に「食べ物の調達先」を意味した。風にゆれる穂波の美しさを眺めている暇があったら、今年の稲の作柄を心配しなければならなかったのである。

 物食うよりほかに楽しみがなかった我が父祖に、自然観賞の楽しみを教えてくれたのは、志賀重昂『日本風景論』であり、国木田独歩『武蔵野』であった。
 徳富蘆花『自然と人生』も、その一冊。

 蘆花の前書きにいわく。
 『昔賢猶自ら謙して吾は眞理の海の渚に貝を拾ふに過ぎずと云ひき。今予凡手凡眼、遽に見て急に寫せる寫生帖の幾葉を引ちぎりて即ち「自然と人生」と云ふは、僭越の罪固に(@)かれ難かるべし。讀者幸に恕せよ。』 (@)の文字、官にしんにょう。

 これを読ませても、日本人学生「イミ、ワカンネー」と言って放り出すだろう。熱心に辞書を引くのは、ジャパノロジー研究生、近代日本精神史専攻で論文を書こうとする留学生くらいだ。
 蘆花は『不如帰』の作家として有名。「明治文学史」が試験範囲になっている高校生には暗記マーカー赤丸の本だが、蘆花で卒論を書く人や近代文学を専攻する院生以外で、『不如帰』を原文で読んだ人がいたら、よほどの年寄りかマニア。
 「書名は有名だけど、だれも読む人がいない本」の中の一冊だ。
 私も、大山捨松に興味を持つまでは、「読む気もしない、古くさい本」と思っていた。

 継母(大山捨松がモデル)にいじめられた継娘波子が、結核に冒された胸を押さえながら「なんで人は死ぬのでしょう、千年も万年も生きたいわ」と涙で語ることばだけは、さまざまなパロディになって流布していたが。
 千年も万年も生きられない、限りある命をせいいっぱい謳歌するためにも、自然の中で楽しくすごしましょう!
 (大山捨松については、孫が『鹿鳴館の貴婦人』という伝記を書いています)

at 2003 10/16 11:08 編集  自然と人生
 結婚後東京に住んで20年になるが、生まれ育ちは田舎だから、緑が目に入らないと息苦しくなってくる。新鮮な空気と光と水。私も光合成していたい。
 自然とのふれあい交歓を生き甲斐とする人のサイトを発見するのも、ネットサーフィンの楽しみのひとつ。さまざまな自然、様々なふれあいがある。

 新潟市、78歳になる吉川百合子さん執筆の新聞投書(2003/09/30)より。
 百合子さんは、30キロの装具を背負い、台風の余波でうねる9月初めの佐渡の海でダイビングした。水深5メートルの海底を20分散歩したそうだ。
 「アジ、イカ、アメフラシなどの海中生物を見られて楽しかった」と書く百合子さん。すごいですね。78歳で挑戦するスキューバダイビング。

 海中散歩といえば、2003年9月初旬に101歳で亡くなったレニ・リーフェンシュタールも、70歳すぎてスキューバダイビングをはじめた人。
 戦前は、ベルリンオリンピック記録映画『意志の勝利』の監督として知られ、戦後は西アフリカのヌバ族を記録した『NUBA』の写真家として復活したレニ。
 70歳すぎて始めたダイビングで、海中の美を追求し、たくさんの美しい海中写真を撮影した。

 自然大好きな私も、海に関しては、泳いだり眺めたりするだけ。潜るのはまったくできない。
 海の生物を楽しみたいときは、もっぱら水族館散歩。品川水族館、葛西臨海公園水族館、サンシャイン水族館へよく行く。鱗を銀色に輝かせて泳ぐ魚たちを見て、感激の第一声は、「うまそう!」
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2010/01/30
 自然とふれあう時間がないまま毎日殺伐とすごしています。ほととぎすの波子のように「千年も万年も生きたい」と思っているのに、どうにも干からびてしぼみそう。自然の中で生気をとりもどしたいです。

 せめてものうるおいとして、カフェIDmorinoseiさんの本を読み返しましょう。林業担い手がいないまま放置されていた森を買い集め、森林再生を「道楽」にして毎日をすごしているという記録です。
 藤澤和人『森の道楽・自分の森を探検する』
 こんなふうに自然の中で暮らせたらいいのだけれど。

<つづく>

ぽかぽか春庭「花粉航海」

2010-01-29 | インポート
2010/01/29
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(20)花粉航海

春庭千日千冊 今日の一冊No.21(て)寺山修司『句集 花粉航海』
 寺山修司の『花粉航海』初版は1975年深夜叢書社刊だが、2000年に角川春樹事務所から文庫が出た。
 47年の短い生涯の間に演劇、映画、詩、俳句、全方位の活躍をした寺山であるが、もっとも早く始めた活動は、中学時代からの俳句であった。

花粉>十五歳抱かれて花粉撒き散らす
   自らを清めたる手に花粉の罰
母 >蜂の巣の千の暗室母の情事
   母とわが髪からみあう秋の櫛
   出奔す母の白髪を地平とし
蝸牛>家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛
   眼の上を這う蝸牛敗北し
夏> 蟻走る患者の影を出てもなお
   わが夏帽どこまで転べども故郷
   そこに見え遠き世にある団扇かな

 そして、1983年5月に47歳の生を閉じた寺山の人生を象徴する、句集『花粉航海』冒頭の一句。
五月>目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹

 私が23歳のとき、母が死んだ。母亡きあと「母が残した俳句を句集にまとめて、三回忌法事に出版する」という目標がなかったら、私は母のあとを追っていただろう。
 散逸した母の句を、新聞雑誌の投稿俳句欄に入選した句などから拾って、一句一句寄せ集めていく作業を続けて、ようやく「たとえ55年の短い生涯であっても、母にとっては、母なりの充実した人生であったのだ」と思えるようになった。
 母の残した俳句のおかげで、母亡き後の人生を生きることができたのだ。

at 2003 10/14 06:48 編集 「芭蕉の忌」五十代の死と早世について
 春庭は名前を本居春庭に借り、このコラムのタイトルを芭蕉の紀行文『笈の小文』に借りている。大それたことである。
 309年前(1694年)10月12日は、芭蕉が亡くなった日(ただし、旧暦だから、新暦に直すと、季節は11月の初め)。

 芭蕉が『笈の小文』の旅に出たのは、44歳のころ。
 旅立ちの送別会での句
 「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」。
 この後も『更級紀行』『奥の細道』などの旅を続け、永遠の旅立ちとなったときは、51歳。
 辞世「旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る」

 芭蕉というと、頭巾をかぶったおじいさんが、笈を背負い杖をついている旅姿を思い浮かべるが、旅を続けていた頃は、五十前だったのだ。
 人生五十年の時代には、五十代は老人であったが、現代は、「四十、五十は、鼻垂れ小僧」。私は、芭蕉の享年をすでにすぎてしまったが、まだまだ、ひよっこなのだ。
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2010/01/29
 冬のうた(ア行~マ行の頭韻遊び)
老いの背に重さはおいおい増してきて笈の小文をしわぶきつつ負う
きりきりと錬金術師は寒の日につららを明けの明星に刺す
柵(しがらみ)のしがらむ岸に白々と霜を踏みつつ夜明けに向かう
高らかな拍手に答えて真央は立つタチアナ・タラソワ体(たい)揺する前
菜の花の沖なる波に鳴く鳰(にお)の濡れ羽に涙流して寝入る
柞葉の(ははそはの)母の春待つ春庭は花満ちておらむ早よ来い春よ
まっすぐに息子の眼(まなこ)は益荒男の真名古文書に真向かいて読む

<つづく>

ぽかぽか春庭「寵児」

2010-01-28 | インポート
2010/01/28
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(19)寵児

at 2003 10/14 06:48 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.20(つ)津島佑子『寵児』
 津島佑子は、赤ん坊のときに39歳だった父を失い、自らが38歳のときに9歳だった息子を失っている。佑子が1歳のとき、父太宰治は愛人と入水を遂げた。
 悲痛な思いに沈んだのは、夫の命を奪われた佑子の母美知子であり、佑子自身が、父の死を意識したのは、少女から作家へと成長する途上でのことであったろう。父の死の事情を知ったのは13歳のころであったと記している。

 「大夢」と名付けた息子の成長は、佑子にとって文字通り「大きな夢」の存在であり、心の支えとなっていたと思う。その息子までが早世してしまった。
 私が最近読んだ津島佑子の作品は、読書遍歴を語った『快楽の本棚』。このあとがきでも津島は「ある不幸があり、40歳すぎの人生を余生のように感じていた」と、記している。息子の死の衝撃がいかに大きかったか察せられる。

 そんな過酷な運命を経て、津島の近作はますます凄みを増している。『火の山 山猿記』『笑いオオカミ』など。
 私が好きな作品は、娘との二人暮らしを連作短編として描いた『光の領分』、未婚の母として生きる女を描いた『山をかける女』など、比較的明るい感じのものだが、小説家としての津島の本分は、私には読みこなすのがむずかしい果てしなく深い作品群の中にあるのだろう。

 『寵児』は、離婚前後の津島が「想像妊娠」をキーワードにして「母、女、肉体」としての人間の存在をつきつめている作品。
 柄谷行人は『反文学論』の中で、『寵児』について、こう評している。
 『「本当のわたし」なるものこそ冗談なのだ。アメリカのフェミニストの作家たちは、いわば「本当のわたし」があるかのように思いこんでいる。したがって、「母」や「女」を歴史的・社会的におしつけられた意味としてしりぞけ、「本当の生き方」を求めようとする。それはもう一つの「意味」にとらわれることでしかない。
 たとえば、愛は観念であり、確かなのは肉体だけだ、というような人がいる。だが、『寵児』の主人公は、”想像妊娠”をするではないか。いいかえれば、肉体そのものが観念的なのである。すると、人間の存在そのものが「冗談」であるというほかはない。』

 私は「日本語文法研究」を続けるより「母として生きる」ことを選んだ。語学教師として細々と日々のタツキを得ながら、「子供がすべったころんだの毎日」を生きてきた。
 そのこと自体に悔いはないが、子育て中の多くの若い母たちが「本当の自分」を探したい気分もまた、ようくわかる気がする。柄谷が『本当の生き方を求めようとするのは、もう一つの「意味」にとらわれることでしかない』と、言い切れるのは、柄谷が、すでに「自分の意味」の確立をなしえた男だからのような気がするのだが。

at 2003 10/14 06:48 編集
 2003/09/30付富岡多恵子のエッセイで、同時代に生き同時期に亡くなった西鶴と芭蕉にふれている。西鶴も芭蕉も50代での一期であった。富岡自身の50歳になった感慨を語り、今の時代、80歳で逝くとしても、西鶴のように52年の生涯を「我にはあまりたるに」と言って死ねるか、こころもとない、と結んでいる。

 母が55歳で、姉が54歳で亡くなったせいもあり、50歳すぎ、自分の老いと行く末を強く意識するようになった。
 家族の早世というのは、残された者にほんとうにつらく重いものを与える。私の母は心不全をインフルエンザと誤診されて、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診されての早世だった。
 家族が寿命を全うすることなく早世した場合、残された家族の悲痛の思いは計り知れない。しかし、私が生きて母と姉の思い出を語れるうちは、二人はこの世に生きている。思い出をできる限り長くとどめておくためにも、私は長生きをするぞ。

 何歳まで生きたとしても、果たして「我にはあまりたるに」と言えるかどうか。120歳まで生きたとしても、「まだまだ、、、」と、はいずり回っている気もする。
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2010/01/28
 天寿まっとうしての大往生なら、逝く人を愛して止まない家族も、さながらオリンピック行きの壮行会のように見送ることができる。
 三谷幸喜が、昨年末の祖母の大往生を描写している。三谷の母親たち、子にあたる人たちは順番に枕元でしみじみと思い出を語り、生んでもらい育ててもらった感謝を述べた。孫達は最初はしみじみ祖母と過ごした日々の思い出を話していたけれど、孫同士いとこ達の間でしだいに「いかにユニークな別れの言葉を述べるか合戦」のテイとなり、にぎやかに楽しく見送りをすませたのだと朝日新聞夕刊の連載エッセイに書いていた。

 それに比べて、寿命いきとどかず理不尽に家族を奪われた者にとって、何年経とうと別れに納得ができず、悲しみはあとを引く。津島佑子の息子大夢は、呼吸発作によって9歳で帰らぬ人となった。息子の成長をたのんできた母親にとってその悲しみはどれほどのものであったろうか。「夢の記録」などに津島佑子は息子を失った母の心を書いている。

 私が津島佑子を最初に読んだのは1979年発表の『光の領分』で、1978年発表の『寵児』を読んだのは、そのあとになる。1977年以前に読んだ本を並べるというコンセプトの「おい老い笈の小文」であったのだけれど、『寵児』はたぶん1980年以後に読んだはず。
 「女性が自分らしい生き方を探す」ということをようやく世間が認めるようになった時代となってきたころでした。

 私は1983年に娘を生んだ後、85年に国立大学に入学した。私立大学を卒業してから11年たった大学再入学だった。さび付いた頭をもう一度磨き直すのはたいへんでした。子育て家事をひとりでこなし日本語講師もして学校が休みの日には夫の会社を手伝いながらの勉学で、学部入学から大学院修了まで8年かかった。学部4年生のとき生まれた息子は今21歳になり、学部3年生のとき日本語教育能力検定試験に合格して日本語教師を初めてから22年たちました。大学で留学生に教えるようになってから15年。日本人学生に日本語学を教えるようになってから10年。ほんとうに月日はあっというまに過ぎていくもんです。

 あれよあれよと言う間に過ぎる月日のなかで、何ということもできないまま、ただ、母や姉に呼びかけつつ生きてきました。母を思いだし姉とすごした日々を忘れないことが一番の供養と信じています。

<つづく>

ぽかぽか春庭「小説熱海殺人事件」

2010-01-27 | インポート
2010/01/27
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(18)熱海殺人事件

at 2003 10/13 09:12 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.19(つ)つかこうへい『小説熱海殺人事件』
 唐十郎、鈴木忠志、寺山修司など、私が学生時代に見た「アングラ」は、私より少し上の世代の演劇人たち。つかこうへいが演劇界に登場し、怒濤の活躍を始めたとき、私は、国語教師兼演劇部顧問として中学生クラブ活動の世話で手一杯。自分の楽しみのために演劇を見る余裕はなかった。

 だから、つかの作品は、テレビで見たくらいで、リアルタイムで初演を見た作品はない。もっぱら小説作品を読むだけだった。
 つかの芝居をよく見たのは、息子が「つかこうへい劇団児童教室」に在籍して、「教室在籍児童保護者への招待券、割引券」などを使えたころのことである。『幕末純情伝』などを見に行った。この時は筧利夫が主演だった。

 初演から何年たっていても、つか作品は古びない。すごいな。もっとも、近松、シェークスピアは400年たっても古びないし、世阿弥は600年雅楽伎楽は1000年たっても古びない。
 年ごとに古びていく、我が顔の皺がうらめしい。

at 2003 10/13 09:12 編集 シルバー劇団
 映画『ぷりてぃうーまん』を見逃してしまった。淡路恵子主演『ぷりてぃうーまん』は、名古屋の実在の”おばあちゃん劇団”「ほのお」をモデルにした話。
 「ほのお」だけでなく、シルバー劇団で活躍している人、市民ミュージカルに参加する人など、演劇は老後の生き甲斐として、人気の高いものの一つ。私もやりたい。

 転職13回を数える私の職歴の中で、最も短い期間ではあったが、最も印象に残っている仕事は旅回り一座の役者。
 小学校を廻って、小学生にミュージカルを見せ、九州山陰を巡業した日々のこと。演じる場所は体育館、楽屋は体育館の道具置き場、という一座だった。

 一座の中で一番好きだった役者森下由美さんは、今も「だるま食堂」というコントトリオの一員として活躍している。
 由美さんは、1987年NHK新人演芸コンクールで優勝したあと、即席麺のCMに出演していた。持ちネタの「金髪女」の扮装でパレードカーから愛嬌をふりまく由美さんにテレビのこちらから声援をおくりました!
(だるま食堂ホームページはhttp://hw001.gate01.com/darumashokudou)
 由美さんは、本当にすぐれた才能と役者魂をもつ人だったが、私には、役者稼業もアフリカ縦断旅行の資金をかせぐためのアルバイトにすぎなかった。

 アルバイト気分で始めた仕事だったが、演劇に一生をかけている由美さんたちといっしょに日々を過ごし各地をまわるうち、一瞬一瞬が出会いであるということを教えられ、二時間の舞台を真剣勝負で生きることの真髄がわかった。「一期一会」の字句の意味が心身に染みた。
 たった半年足らずではあったが、「役者をして食べている」と言える生活をした思い出は、私の来し方の中で、誇りに思うことのひとつだ。
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2010/01/27
 女性3人組のコントトリオだるま食堂。コントライブ出演中心で、テレビに出ないので地味ですけれど、1987年、NHK新人演芸コンクールで優秀賞を受賞、テレビ朝日「テレビ演芸」10週勝ち抜きでデビュー。1990年代前半まで、舞台・TV・CM等で活躍。2005(平成17)年度、国立演芸場花形演芸会審査員特別賞受賞というお笑い界では知る人ぞ知る森下由美さん。
 2009年5月10日に久しぶりのテレビ出演として「笑点」に出演したそうですが、私は中国滞在中だったので、見ることができませんでした。
 由美さん、これからもご活躍ください。

 2010年1月25日の報道によると、つかこうへいは、9月から肺ガンの治療を続けている。舞台の演出は、稽古のビデオを病室に持ち込んでダメ出しをしていたのだそう。劇団四季の浅利慶太1933年生まれ77歳、蜷川幸雄1935年生まれ76歳らに比べても、1948年生まれ61歳、演劇人としてはまだ若い。闘病たいへんでしょうが、応援しています。息子が児童教室でお世話になった御恩、忘れていません。北区つかこうへい劇団の団員さんたちに、演技やダンスの基本を教えてもらい、ひ弱な息子の小学校生活、なんとか無事に過ごすことができました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「言語学の散歩」

2010-01-26 | インポート
2010/01/26
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(17)言語学の散歩

春庭千日千冊 今日の一冊No.18(ち)千野栄一『言語学の散歩』
 『言語学の散歩』を読んだときには、ただただ、言葉というものの面白さを無心に楽しんだ。
 70年代はじめ、徳永康元に言語学を教わったとき、言語学とはなんて面白い学問なのだろうと思い、期末レポートとして「サピア・ウォーフの仮説」について書いた。徳永先生から優をもらった。
 しかし、言語学をやるためには、言語に強くなければならない。いかんせん、私は日本語以外のことばには、まったく弱かった。大林太良の神話学の方法でやろうとした卒論の『古事記』は大失敗作だった。

 千野栄一は、日本の中でも最も「言語に強い人」の一人。
 私が千野先生に言語学を教わっていた80年代後半、先生から「言語学徒、語源と学生に手をつけるな」「不倫と日本語起源論に嵌ったら命取り」と諭された。
 しかし、まもなく先生は離婚を成立させ、ふた回り年下の教え子と結婚!教え子に手をつけるな、という戒めは、先生自身にはあてはまらなかった。我々素人が手を染めたら泥沼になることだから、と諭してもらった訓戒だったが、先生にとっては逆転のレトリックなどお手のものであった!

 晩年をふたまわり年下の人を愛してすごすのは、男性だけではない。フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ、作家のマルグリット・デュラスなども、晩年を若い恋人と共にすごした。
 日本でも、漫才師の内海桂子師匠は、60代のとき20歳年下の方のファンレターから愛をはぐくみ、正式に結婚した。
 新婚をからかう若手漫才師の「師匠、夜のつとめは?」という質問に「そりゃあ、結婚したんですから」と自信たっぷりに答えて、からかいを堂々とかわしていた。
 散歩と雑学、そして晩年の恋!

at 2003 10/12 08:52 編集 散歩と雑学が好き!晩年の恋も好き
 現在の趣味で老後も続けようと思っているのは、散歩と自転車ポタリング。
 読書は趣味ではない。人が酸素を断たれると5分で死んでしまうように、水を断たれると1週間余で死んでしまうように、食を断たれると1ヶ月余で死んでしまうように、私にとって、読書は趣味ではなく、「活字を断たれたら死んでしまう」生きるための「絶対必要物」なのだ。

 小学校のころは、欠食児童のごとく、一日にルパンとホームズとベルヌを三冊読むというようなガツガツとかっ込む読書をしたが、今はさすがに「絶対必要物」の読書とは言っても、ぽっくりぽくぽく散歩を楽しむのと同じように、楽しくゆったり読むのが好き。
 「散歩と雑学」は、生きる糧。本を読み散らし、トリビア雑学を仕入れては孫に披露して「それ、トリビアの泉でやってた、もう知ってる」なんて、うるさがられる晩年もいい。
 しかるに「晩年は雑学蘊蓄」もいいけど「晩年の恋」のほうがもっといいですぞ、というご意見にも一票!です。
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2010/01/26
 2003年に、「晩年の恋」へ一票を投じたにもかかわらず、我が晩年にいっこうに一票は訪れず、老い花散らす夜半の風。
 ただし、樋口恵子が老残廃棄物の老夫を、妻にぺったり張り付いてうっとうしい「濡れ落ち葉」に例えたのに比べれば、我が家の落ち葉は、もともと張り付くこともなくフラフラと舞い上がっているばかりで、「存在の耐えられない軽さ」に満ちている。
 千野栄一の訳した『存在の耐えられない軽さ』は、集英社文庫。千野先生が2002年に亡くなったあと、千野亜矢子夫人はチェコ語講師の仕事やチェコ語翻訳を引き継いで、千野先生晩年の恋の実りを育んでいらっしゃる。

 内海桂子師匠は、米寿。今も24歳年下のご主人と仲良く仕事も家庭も共にすごしている。
 やっぱり晩年の恋に一票。 

<つづく>

ぽかぽか春庭「ロンリーウーマン」

2010-01-25 | インポート
2010/01/25
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(16)ロンリーウーマン

at 2003 10/11 09:42 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.17(た)高橋たか子『ロンリーウーマン』
 高橋和己夫人、高橋たか子は、夫和己と共に文学活動を始めていたが、私が彼女を知ったのは「高橋和己の思い出」というような、「夫を語る未亡人」としてだった。
 夫と関係のない彼女自身の作品として読んだのは女流文学賞を受けた連作短編集『ロンリーウーマン』から。そのあと、『ロンリーウーマン』より前の『彼方の水音』『空の果てまで』へ戻り、『没落風景』『人形愛』へと読んでいった。

 たか子は、キリスト者となり、女の孤独と絶望を深い思いの底から描き出している。一番好きなのは『誘惑者』
 フランスへ行って修道女になってしまったときは驚いた。帰国後の作品は読んでいない。精神の高みへと登ろうとする高橋に対し、私は「精神のごみため」のような日常。
「ごみを捨てらず、ごみにまみれて暮らすおばあさん」が、時々テレビに映ったりする。我がロンリーウーマン暮らしは、ああなるかなぁ、と思って見ている。

at 2003 10/11 09:42 編集 ロンリーウーマン
 時々聞く、老人の孤独死ニュース。だれにも看取られず、気づかれず死んでいるお年寄りのニュースは胸にせまる。高齢者にとって、孤独は一番いやなもの、おそろしいものなのだろうか。

 友人の何人かは、自身の子育てや親の介護を卒業した後、ホームヘルパーの資格をとって、老人介護の専門家になっている。また、昔中学校で同僚だった友人は、民生委員になって、町内の老人宅を訪問している。彼女たちに話を聞く機会があると、孤独がどれほど老人たちの心をむしばみ、つらい思いにさせているか、ひしひしとわかる。
 確かに、老後を孤独で過ごすより、友人や孫子といっしょににぎやかに過ごせたら、こんなありがたいことはない。でも、私は「老い支度」のひとつとして、「孤独を楽しんですごす準備」も怠りなくレッスンしておきたい。

 大勢で楽しく過ごすことも必要だが、一人自分をみつめ、一人遊びもできるように。女の一人暮らしで、身ぎれいに、食生活もきちんとして、、、などなど思うのだが。
 今でも子どもたちが出かけていない日など、面倒くさくなると、昼も夜も同じTシャツとジャージですごし、スーパーで買ったおかずを食器に入れ替えるのさえせずに、パックのまま食べているのだから、「おしゃれで、かわいい生き生きしたおばあさん」になることは「夢」かもしれない。
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2010/01/25
 2009年の読書のひとつが上野千鶴子『おひとりさまの老後』であったことは、2009年12月末に書いたのだけれど、上野が「おひとり様でも寂しくない老後」を目指したい気持ちはわかる。ただ、「老後を支える資金と多数の友人ネットワークが必要」ということを強調されると、資金もなく友人もごくわずかな私としては、ロンリーウーマンでもいいか、という気になる。

<つづく>

ぽかぽか春庭「日本の悪霊」

2010-01-24 | インポート
2010/01/24
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(15)日本の悪霊

at 2003 10/10 06:44 編集 
春庭千日千冊 今日の一冊No.16(た)高橋和己『日本の悪霊』
 高橋和己が癌を患って入院したとき、私は彼が入院している病院で働いていた。友人の一人は毎日病室の近くに行って、中に高橋が横たわっているであろう病室の窓を見つめていた。当時、高橋和己は「ファンにとっては神様以上の存在」だったのだ。
 半年後、高橋が亡くなったとき、友人はビルの屋上から飛び降りて死んだ。
 友人が死んでから半年後、私は病院勤めをやめた。

at 2003 10/10 06:44 編集 罪と罰、悪霊の町
 「とはずがたり」二条は、全半生の激しい愛欲生活を罪と感じ、自身の浄化を求めて仏道遍歴の旅をつづけた。
 年をとれば、「未熟なころのあれもこれも、罪なことやったなぁ」と思うことが、いくつも出てくる。
 高齢になるまで、生涯に一度も罪を犯したことはない、という人がいるだろうか。私なぞ、罪だの罰だのが、いっぱい!

 「罪と罰」「犯罪」「資本主義という妖怪」とか、「悪霊退散!」などという言葉を聞くと、私の目の前には、生まれた町の古びた警察署が頭に浮かぶ。「悪いことするとお巡りさんに連れて行かれるよ!」という大人のおどしが効いていたころ、罪人、悪者、悪霊!などがすべて、この警察署の中に詰まっているように思っていたからである。

 小学校の「社会科見学」で訪問した警察署の内部は、カビくさく、薄暗く、罪と罰の匂いに満ちていた。この庁舎は取り壊して、別の場所に新庁舎を建てる予定があったから、署内は古くさいままにしてあったのだ。
 警察署の隣には「スター小間物店」があり、化粧品やアクセサリー、リボンなどの小間物類、女の子があこがれるような品物がたくさん並んでいた。そんなに高級品でない小間物とはいえ、子どものこずかいではめったに買えない品物だった。「鉄鋼労連」の娘には敷居の高い「資本主義という妖怪」の象徴のように思える店だった。

 1度だけ、この店の小さな化粧水の瓶を「黙って借りて」しまったことがある。化粧品のおまけとして販促キャンペーンでついてくる、化粧水見本品のガラス小瓶が気に入ってしまい、欲しくてたまらなかった。母は、クリームひとつ顔につけない人だったから、販促おまけつきの化粧品など買うはずもない。それで化粧品は買わないで、販促おまけを「ちょっとだけ借りて」しまったのだ。
 私が犯した生涯最初の窃盗罪。最初である故40余年たっても罪悪感が消えない。20代のある日、新宿にあった喫茶店の小さな灰皿が気に入って、煙草も吸わないのに、「黙って借りて」しまったこともあるが、こちらは、まったく罪悪感が残っていない。

 スター小間物店の娘とは、中学で同じクラスになり、文芸部でもいっしょだった。高校でも2年間同じクラス。中学、高校を通し、美貌と頭のよさでスターだった彼女は、今「明治女性文学研究」のトップ研究者となっている。

 新警察署庁舎ができて、署長署員一同が移転した後、スター小間物店の隣の旧警察署が一度だけ脚光を浴びたことがある。高橋和己原作の『日本の悪霊』が映画化されたとき、ふるさとの田舎町がロケ地に選ばれからだ。刑事落合が勤務している警察署として、旧警察署が登場した。
 私は一度だけ映画を見たが、ストーリーよりも「知っているあの場所」が、画面のどこにでてくるかに気を取られて見ていた。

 映画は、黒木和雄監督。刑事落合と六全協活動中に地主を殺す罪を負ったやくざ村瀬の二役を佐藤慶。ほか、観世栄夫、渡辺文雄、舞踏の土方巽、フォーク歌手岡林信康(ファンだった)が出演している。原作と脚本は、別の作品というくらい内容が異なると評されている。DVDで、見直したいと思っている。
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2010/01/24
 スター小間物店の娘レイコさんは、現在A大学の教授。A大学の最寄り駅と、私が月木に出講している母校へ行くときの乗り換え駅は同じ駅。2007年にいっしょに中国に赴任したアクアフレスコ先生は現在A大学の専任になっていて、同じ駅でばったり出会ったことがある。レイコさんにも新任の挨拶をしたと言っていました。「次に会ったら春庭元気でやってます、と伝えてね」と伝言したのだけれど、さて、2010年の春庭はあまり元気じゃない。

<つづく>

ぽかぽか春庭「余白の春」

2010-01-23 | インポート
2010/01/23
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(14)余白の春

at 2003 10/09 07:23 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.14(せ)瀬戸内晴美『余白の春』
 私の若い頃の「アイドル(偶像神、崇拝物)」、外国人女性ではローザ・ルクセンブルグ、日本の女性では、菅野須賀子、伊藤野枝、金子文子(すごいラインナップ!)男性では、チェ・ゲバラ。最近ではアフガニスタンのマスード(ゲバラに風貌が似ている気がする)。

 須賀子や野枝は、歴史上の人物として、瀬戸内の評伝『遠い声』や『美は乱調にあり』を読む前から知っていたが、文子については、この『余白の春』を読むまで、遺書となった獄中手記『何が私をかうさせたか』の書名のみを知っていて、その生涯についてはあまり知らなかった。
 須賀子、大逆罪により刑死。野枝、関東大震災の混乱の中、甘粕中尉により虐殺。文子大逆罪により逮捕、獄中で自殺。あまりにも激しい生を生きた女性たちを前にして、私は、ただ、自分のふがいないぐうたら人生をぼやくだけで五十余年がすぎた。

at 2003 10/09 07:23 編集 出家という老後
 『源氏物語』のヒロイン紫の上が、晩年に強く願ったことが「出家」だった。極楽浄土へ旅立つことが、人生究極の望みとして人々の意識にのぼってきたのが、紫式部のころから。
 現代も「老後は仏門に入りたい」という言葉を聞くことがあるが、私の知る限りでは、女性には少なく、男性に多い。男性の出家者は、多くの宗派の住職が妻帯し、普通の家庭生活をおくるのに対して、女性の出家者は、文字通りの「出家」を求められることが多いからではないだろうか。だったら、在家の優婆夷(うばい=清信女)のままでいいかと。

 僧籍をもつ作家で、思い浮かぶのは、立松和平、玄侑宗久、寺内大吉、今東光。
女性では、今東光を得度の師として晴美から名を変えた瀬戸内寂聴。
 瀬戸内は五十を境に、前半は激しい愛憎の中に生き、後半は仏門修行と文学を両立させた。
 寂聴は『源氏物語』の現代語訳や、『女人源氏物語』の中で、出家願望に共鳴しつつ紫の上の姿を描いている。平安時代の一夫多妻制度の中で、紫の上が真に自分だけの精神的自立を求めるには、出家しかありえなかったと。しかし、光源氏は最後まで紫の上を手放すことを拒み、出家を許さなかった。

 「とはずがたり」をもとにした、瀬戸内の『中世炎上』の主人公二条も、前半生は激しい愛憎の生活、後半生は仏門へ。瀬戸内と通ずる人生だった。
 瀬戸内の作品、前半生の自身の激しい愛憎生活を描いた自伝的小説類よりも、後半生の仏教エッセイや源氏などの古典エッセイが好き。そして、激しい生を生き抜いた女たちの評伝作品が好き。
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2010/01/23
春庭千日千冊 今日の一冊No.15(そ)曾野綾子『誰のために愛するか 』
 戦後ベストセラーの中の一冊。春庭は「ねたみそねみひがみやっかみ」をおかずに生きている。美人で才女で夫とも息子ともうまくいっているなんていう出来過ぎ閨秀作家に反発を感じて、ベストセラー当時には読む気がしなかった。のだけれど、夫は曾野綾子エッセイをお気に入りにしていたので、ベストセラーになった当時からだいぶたってから読んだ。けれど、なぜこれほどのベストセラーになったのか私にはピンとこない内容だった。
 う~ん、日本財団会長とか日本郵政取締役とか、そういう活動もどうも私には合わないみたい。(そ)の作家がほかに思いつかなかったので出したけれど、好きじゃないのに無理に出すことはないよね。

<つづく>

ぽかぽか春庭「コルシア書店の仲間たち」

2010-01-22 | インポート
2010/01/22
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(13)コルシア書店の仲間たち

at 2003 10/08 07:33 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.13(す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』
 若い頃出会い、共にすごした仲間たちを、30年のときを隔てて回想し、生き生きと描き出している。熱い議論を交わす仲間たち、キリスト者による社会変革をめざして苦悩する仲間たちが、一行一行から、行間から、立ち上がる。
 須賀は、棚卸しをする本の革表紙の匂いまで伝わるように、思い出をいとおしみつつ書き綴る。「珠玉のような」というありきたりの形容しか思いつかない自分がなさけなるような、美しい日本語。

 『コルシア書店の仲間たち』あとがきから。書店をともに切り盛りしたイタリアの友の死の知らせをうけて。
 『ダヴィデの死を電話で知らせてくれた友人にたのんで、私は新聞の記事を読んでもらった。葬儀のミサ参列者の名を、彼は、ひとりひとり、ゆっくり読んでくれた。カミッロをはじめ、この本に出てくる人たちの名が何人もあった。記憶の中の、そのひとたちの、ちょっとした身振りや、歩き方のくせが、ゆっくりと私の中を通って行った。』

 亡くなった友を思い出す、友人たちの名を聞き、彼らのしぐさや姿を思い浮かべる、そういうひととき、私たちは遠くへ去ってしまった人々と共に生き、今はそばにいない人たちが私たちの中によみがえる。
 須賀敦子も、その死後なお、どんどん作品が出版される作家のひとり。味わいつつ、いとおしみつつ、読んでいきたい。

 須賀敦子の本を読み始めたのは、1990年発行の『ミラノ霧の風景』が出会いの一冊。須賀敦子、たった十年余の作家活動だったが、亡くなるまで次々とすばらしい本を私たちに与えてくれた。
 イタリアのこと、育った関西での思い出、東京での学生生活、フランスへの留学。何を語っても、須賀の日本語で読むと、イタリアや関西が自分のふるさとであるかのごとく、親しくなつかしく目の前に現れる。『トリエステの坂道』『ヴェネツィアの宿』『地図のない道』などなど。

 『遠い朝の本たち』、いつか私もこんなふうに読んだ本のことを語れるようになりたいけれど、ま、こればっかりは、身の丈にあわせて、才無き者は才なきままに、おしゃべりしましょ。

 須賀敦子は、『コルシア書店の仲間たち』の中に、亡くなった友人を永遠に描き込めたけれど、私はただ、早く亡くなった母や姉の面影を追うばかりで、嘆きに沈むことが多い。母が死んで40年近く経つのに、未だに母の死が悲しくてならない。
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2010/01/22
 2002年4月に、姉が医者の誤診のために54歳で亡くなった。子宮肉腫という難病であったのを、「子宮筋腫が見つかった。放っておいても心配ないけれど、心配なら、切りましょう」という医者の診断を信じて手術を受けた。1年後に具合が悪くなって、同じ病院で診てもらったら、医者は「筋腫は切っちゃったんだから、悪くなるはずがない!」と怒鳴った。

 セカンドオピニオンを求めたのに、診断書を出そうとしなかった。子宮筋腫と診断した医師は「もう一度手術しなおす」と、再手術し、腸も胃もほとんど摘出した。
 実は、肉腫が転移してもう手遅れなのだった。肺へも転移していた。医者は「抗ガン剤を使う」と主張したが、その医者をもう信用できず、故郷のホスピスへ転院した。

 最初の診断時に肉腫と診断できていれば、助かる道もあった。でも、肉腫は癌よりももっとたちが悪く、ごくわずかな症例しかないので、藪医者には診断がつかない難しい病気だった。
 がんセンターへの紹介状を知り合いの医師からもらい、転院を希望したのに、藪医者はそれを許さず、再手術した。自分たちの誤診が他病院で明らかにされることを恐れたからだった。患者のことより、自分の保身を優先した医者だった。

 母は心臓病をインフルエンザと診断され、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診された。つくづく運がなく、藪医者に殺されたのだった。

 再手術前の家族への説明で、医者はわざと「ユーテリン・サルコーマ」という病名を言い、「あんたらシロートは、どうせわからないのだから、黙って医者の言うとおりにしていればよい」という態度だった。
 私は、インターネットを使って、ユーテリン・サルコーマとは子宮肉腫のことだと知り、病状を調べた。姉は、1年前なら1期で、このとき正しい診断がでていれば助かる道もあった。病名がわかった1年後には4期に進んで、転移しており、抗ガン剤を使ってももう助からないとわかった。

 姉と話し合い、姉はホスピス転院を選択した。覚悟を決めた姉の最後は見事なものだったが、残された家族は、どうして最初に「子宮筋腫」と言われたときセカンドオピニオンを求めなかったか、悔いが残った。

 姉が亡くなって、落ち込む気持ちを奮い立たせようと始めたのが、ホームページ作りだった。2003年の夏、ホームページをネットにUPし、2003年9月から毎日更新のカフェコラムを書き出した。この「毎日更新」を続けることで、私は姉の死からも立ち直れた。
 「毎日更新すると、筆が疲れるから、休憩を挟んだほうがいい」というネット先輩の忠告を真に受けて、「休載日」というのを設けたころもあったけれど、別段、むりやり休載する必要なんてなかった。

 無理に書いているなら「筆が疲れる」ということもあるのだろうけれど、私にとって、書くことは息をすること、おしゃべりすることと同義で、おしゃべりする速度、すなわち1分間にローマ字変換で400字詰め原稿用紙1枚強をワープロで打ち込むことができる。ニュース原稿の音読が1分間に400から500字分だから、ほぼしゃべる早さで書くことができる。一日に5分10分のおしゃべりは誰でもできる。私にとって、一日に1600字分の文章を書くことは、門口のまえで5分ほどかわす立ち話と同じ。
 母や姉と、心の中でかわすおしゃべりを、私は指先でキーボードから打ち出している。

 お母さん、梅がさいたよ。ねぇちゃん、大寒なのに、ぽかぽか陽気だったよ。でもまた寒くなるんだって。

<つづく>

ぽかぽか春庭「歴史を紀行する」

2010-01-21 | インポート
2010/01/21
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(12)歴史を紀行する

at 2003 10/07 08:28 編集
 春庭千日千冊 今日の一冊No.12(し)司馬遼太郎『歴史を紀行する』
 たくさん出版されている司馬の歴史エッセイの中で、比較的早い時期に読んだ一冊。風土と、風土が育てる人物について、人物が織りなす歴史について。初出は1968年に文藝春秋に連載された。私が読んだのは1976年発行の文庫本。
 あと何年かして旅行三昧の日がきたら、旅を楽しみつつ、旅先で歴史の本、エッセイ、小説を読み散らしたい。旅から帰ったら、写真を見せながら、孫たちに知ったかぶりで蘊蓄を披露してうるさがられる、そんな旅がしたいです。

at 2003 10/07 08:28 編集 歴史紀行
 「子育て卒業後または定年退職後にしたいことは何ですか」という質問への回答として、多数派のひとつが「旅」。
 旅のテーマにはいろいろある。「温泉でのんびり」「よい景色をながめる」「鉄道の旅」「百名山を登る」など、ファンが多いテーマもあるし、「おいしい地酒を探す旅」「マリア像に出会う旅」「世界の動物園を巡る」など、自分の趣味を極めるテーマもある。
 私がテーマにしたいのは、「巨樹に会う旅」「橋めぐり」と「歴史・文学紀行(世界遺産の旅を含む)」

 歴史をたどる旅に、携帯したい本がある。いっしょに旅をしたい作家がいる。その中のひとりは司馬遼太郎。
 「たくさんの人に、自分の歴史を語り、残してほしい」と、願うと同時に、何人かの作家が書き残した歴史小説や歴史エッセイを順々に全集で読みたいと思っている、その作家のひとりが司馬遼太郎なのだ。『この国のかたち』は全冊読んだが、『街道をいく』シリーズは、まだ半分も読んでいないし、歴史小説で未読のものもたくさん。

 一番最近読んだ司馬の小説は2001年文庫発行の『ペルシャの幻術師』だが、初出は1956年「講談倶楽部」。雑誌に掲載されたまま、本にはなっていなかった。
 専門的な歴史家の著作でも網野善彦のように、素人にも面白くわかりやすく書いてくれる人もあるが、専門的なことは、歴史好きな方にまかせて、私は、楽しく読める歴史小説から。

 今や「国民的歴史作家」と桂冠がつく司馬遼太郎なので、亡くなったあとも、どんどん著作が増えていく。通勤の電車内しか読書時間がとれない読者としては、新しい本を横目に、「悠々晴耕雨読」の日が来るのを待つしかない。
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2010/01/21
 2003年のころは「あと何年かしたら旅行三昧の日々を送って、孫に旅の話を聞かせる老後がおくれるかも」と甘い考えを持ったのだけれど、私の老後には旅行三昧ですごすお金もなければ、孫の顔を見ることもなさそうだとわかりました。せめて百円古本で見知らぬ地方を旅しましょう。
 2009年12月に買った百円本のひとつが司馬遼太郎『長安から北京へ』(中公文庫) でした。長安(現代の西安)と北京なら、行ったことがある町。まだ読む時間がとれませんけど、「街道を行く」シリーズは、全巻読みたい本です。

 歴史を学び初めて3年たつ息子。このところ連日、期末レポート書きをしていました。
 「母、このレポート添削して年寄りの教授に受ける文章に直して」と、私にレポート直しを命じて添削後のものを提出していた娘に比べて、息子はいっさい書いたレポートを見せない。どんな文章を書いているのやらと心配もあった。リサイクル古新聞の上にプリンターの印刷不良となったレポートが載せてあったので読んでみた。なかなかしっかりまとまっているのでほっと安心。

 20日の夜、息子は、退官教授の最終講義に出席したあと、歴史の学科コンパに参加したと言って帰宅し、「コンパでお酒は飲まなかったけれど、つまみを食べたから」と、夕食はとりませんでした。母が安ワインを飲ませたせいで、アルコール嫌いになったのかな。
 中世戦国史を学びたいという息子も、4月から卒論執筆へ向けて歴史にチャレンジしていきます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「妻たちの二・二六事件」

2010-01-20 | インポート
2010/01/20
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(11)妻たちの二・二六事件

at 2003 10/06 04:49 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.11(さ)澤地久枝『妻たちの二・二六事件』
 石牟礼道子、須賀敦子と共に、女性作家の中で、愛読してきたひとり。
 『妻たちの二・二六事件』は、澤地久枝がノンフィクション作家として世に出た最初の作品。長年の『戦争と人間』の資料助手の時代を経て、独り立ちしたデビューだった。
 この後の作品、文庫本になったものは、ほとんど読んでいる。中国へ行く前は『もうひとつの満州』に感銘を受けた。
 戦争ドキュメンタリーや『石川節子』の評伝など、歴史に翻弄されながらも自分の生き方をつらぬいた女性を描いた作も好きだが、彼女自身の自伝エッセイも好き。

 澤地さんは、67歳のときにスタンフォード大学で1年間聴講生として学び、続けてさらに琉球大学の大学院で2年間、国際関係論を学んだ。72歳になった2003年3月には卒業した早稲田大学から、芸術功労者表彰を受けた。
 授賞式(2003年/3月の早稲田大学卒業式)での、記念スピーチから

 『私は、卒業論文が万葉集十四巻の東歌の研究でございました。ご存じのように、これは東国の無名の人たちの歌を短歌の形式に採取したものでございます。考えてみますと、私はいつも名前の知られないような底辺の人たち、しかし、その人たちを抜きにしては歴史は一日も成り立たなかったという人たちのことに心を惹かれ、そういう人たちのことを文章にする仕事をしてきたという感じがいたします。

 しかし、これは地味な仕事でございます。私自身としては、だれも認めてくれなくても自分の気持ちが済むようなきちんとした仕事をしたいという思い一筋に生きてまいりましたけれども、今日こういう席にお招きいただいて、母校とは何とありがたいものかというのが私の実感でございます。(中略)
 私たちの身近なところで、歴史はさまざまな人間の物語を刻んでいるんでいるということを思わずにはいられません。』

 どうぞ、あなたの近くにいる歴史の語り部から、さまざまな人間の物語を、受け取ってください。そして、受け止めた物語をインターネットで世界に発信してください。

at 2003 10/06 04:49 編集 歴史の語り部
 赤ワイン効果に続けて、脳の老化を防ぐよい方法をもうひとつ。
 思い出を語ることが、高齢者の生活活性化にたいへん良い影響があることが、最近の研究の結果、明らかになっている。
 『100歳回想法』(黒川由紀子著)には、100歳前後のお年寄りの回想が記録されている。遠い過去のできごとを、生き生きと思い出し、語り続けるお年寄りたち。

 心理療法として開発された「回想法」であるが、専門家だけの療法ではなく、家庭でもできる。「家庭でもできる回想法入門」。自分の周囲に高齢の方がいたら、回想法を取り入れよう!
 私は、舅が残した「山東省出征記録画集」という、中国戦線をスケッチした画集を、いつかまとめて公開したいと思っている。「

 私など、実家の父には「おじいちゃん、その話、もう何回も聞いた!」などと、冷たく言ってしまったこともあり、亡くなった後になって、「もっと熱心に話を聞いておくんだった」と後悔している。
 高齢の方や、そのご家族にインターネットホームページを活用してほしいことのひとつに、「歴史の語り部」がある。
 21世紀の今、高齢となっている方々は、先の戦争や戦後復興を体験した、それぞれが貴重な経験の持ち主。来し方の思い出を、ご自身の文章、家族の聞き書き、語りおろしの録音などで、残してほしい。小さな思い出も、些末に思える記憶も、貴重な歴史の証言。
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2010/01/20
 2010年の現在では、「傾聴ボランティア」という仕事に注目が集まっている。老人ホームなどで、お年寄りのおしゃべりに耳を傾け、気持ちよく話しをしてもらう役割を果たす。あいずちの打ち方、興味の示し方などに訓練を受け、つじつまがあわない話であっても、そう語りたいのがお年寄りの気持ちなら、その話をそういうものとして受け止める。語る人の気持ちを尊重し、敬意をこめて話を聞く。

 回想法、年寄りの話には繰り返しも多く、矛盾もあるけれど、それを「また、おじいちゃんの自慢話が始まった」などと冷たくあしらわずに、耳を傾けて、1時間話を受け止めることで、お年寄りは記憶を生き生きとさせて脳を活性化できるし、聞く方は貴重な時代の証言を受け止めることができる。家族だと何度でも同じ話を聞かなければならない、という人のために、傾聴ボランティアがある。順番にローテーションで話を聞いて回れば、毎回違う人の話を聞ける。

 「生きている本の貸し出し」という図書館活動もある。貸し出される「生きている本」は、自分の体験を語る。かり出したほうは、サークルやグループ活動の場でひとりの人の語りを聞き取り、一冊の本を読むように、ひとりの生きた証言を聞く。もっと広がってほしい活動です。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ランボオ」

2010-01-19 | インポート
2010/01/19
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(10)ランボオ

at 2003 10/05 07:56 編集 
春庭千日千冊 今日の一冊No.10(こ)小林秀雄『ランボオ(「作家の顔」所収)』
 高校の国語教科書で『面とペルソナ』を読んで以来、晩年の大著『本居宣長』まで、読みふけった。私が生まれるころまで、日本の文壇では志賀直哉が「小説の神様」と呼ばれ、小林秀雄は「批評の神様」だった。
 私が読み出したころには「小林の批評の方法はもう古い」と言われ、小林を乗り越えることが批評をめざす人の目標になっていた。

 フランスの詩人、アルチュール・ランボーの評論「ランボオ」は、1948年に発表。
 ランボーが『酩酊船』を掲げて登場し、フランス文学界の旋風となったのは1870~1873年、ランボー16歳から19歳の間のたった3年間だった。
 19歳で「文学的な死」を遂げたランボーは、アフリカの地で病に倒れるまでの20年、アフリカアジアヨーロッパを放浪し、ときに探検家、ときに志願兵、ときに隊商の頭、としてすごした。アフリカからマルセイユの病院へ移され、足を切断する手術を受けたが、1891年12月10日に死去。看取ったのは、妹イザベルただ一人だった。

 『彼(ランボー)は、あらゆる変貌を持って文明に挑戦した。然し、彼の文明に対する呪詛と自然に対する讃歌とは、二つの異なった断面に過ぎないのである。彼にとって自然すら、はや独立の表象ではなかった。
 或る時は狂信者に、或る時は虚無家に、ある時は風刺家に、然し、その終局の願望は常に、異なる瞬時における異なる全宇宙の獲得にあった。定著にあった』

 このような小林の批評のことばに、我々は酩酊し、悪酔いし、ときに吐いた。小林の言葉を乗り越えようと多くの「自称、批評の革命家」が飲み比べに挑戦し、あえなく破れた。
 学生コンパ。これから大いに飲むぞ、といういうときには「アル中の乱暴!」と、わめいたりするのが当時のオヤクソクだった。

 1995年の映画(私が見たのは1997年)、デカプリオがランボーを演じた『太陽と月に背いて』では、ベルレーヌとランボーの関係が私の想像と逆だった。映画では、ベルレーヌが女役、ランボーが男役だった。そ、そうだったのか、、、、、。

at 2003 10/05 07:56 編集 アルツハイマーには赤ワイン
 フランスなどで、定期的に赤ワインを飲んでいる人にアルツハイマー病を含む痴呆症の危険が少ないということは、従来からの疫学調査で報告されていた。この調査が、「神経化学」の研究によって証明された。(2003/09/29付)
 痴呆症のひとつアルツハイマー病の患者の脳には、βアミロイドというたんぱく質が繊維状になって沈着する。赤ワインに多く含まれるミレセチンなどのポリフェノールは、βアミロイドを分解するという実験結果が確認されたのだ。赤ワインのポリフェノールは、アルツハイマーの予防治療に応用できる可能性があるという。

 1日に500ccの赤ワインで効果が上がる。私もビール党から転向しようかな。でも、ビールも研究が進めば、きっと何かの効果があると思うよ。緑茶のフラボノイドやカテキン、コーヒー、ココアにも、医学的効果。「1日にりんご1個で医者いらず」「骨粗鬆、牛乳飲んで骨太に」など、食べ物飲み物はすべて天の恵みなのだ。
 ただし、酒を飲んでも飲まれるな。「アル中の乱暴」は、アフリカに死す。
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2010/01/19
 1月13日の新聞に、赤ワインの効果についての科学的研究が報道されていた。フランスの研究チームが、「美食家のフランス人は、赤ワインをとることによって高血圧を防ぎ、心筋梗塞や虚血性心臓病での死亡率が低い」という疫学的事実の解明に取り組んだ。女性ホルモンのエストロゲン受容体アルファを持つマウスにポリフェノールのデルフィニジンを与えると、血管内皮細胞から一酸化窒素が作り出されて血管を拡張し、血圧が下がるということをつきとめた。
 アルコールだから飲み過ぎれば身体に悪いのは当然だけれど、適度に飲めば高血圧防止に役立つ。これは朗報。

 ビールが大好きですけれど、飲むなと言われるし、リンゴは一日1個だと糖分が多いから半個にせよといわれたのだけれど、守れるはずもなく、、、、、。アル中の人が「このままだと死ぬよ」と脅されても飲み続け、ニコチン依存症者が「肺ガン必至」と言われても吸い続けてしまう気持ちがわかる、「食うなと言われても食べてしまう、大食依存症のわたし。

 さっそく安ワインを買ってきて飲んだ。輸入果汁による醸造。酸化防止剤入り、という身体にいいんだか悪いんだかわからない赤ワインだが、キッコーマン傘下のマンズワインという会社が醸造している。
 なぜこれを選んだかというと、値段がすごい。一本数十万円とかいうワインもある中、720ml入りで313円だったから。や、安すぎる、、、なぜ315円でないのかはわからないけれど。

 とにかく愛飲する第3のビールだって500ml入りが200円するのだから、いくらチリとアルゼンチンから輸入したブドウ果汁で醸造したといっても、醸造の手間暇人件費はかかるだろうに、と、まず息子に毒味をさせた。息子がぶっ倒れもしなかったので、私も飲んでみた。息子が「うまいとは思えないが、ポリフェノールをとるためにチョコレートをかじるよりは身体に悪くなさそうだ」というので、これからはチョコの一箱一気食いはやめて、300円赤ワインにする。

<つづく>

ぽかぽか春庭「えぞ松の更新」

2010-01-18 | インポート
2010/01/18
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(9)えぞ松の更新

at 2003 10/04 06:41 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.9(こ)幸田文『えぞ松の更新』初出「學燈」『木』所収 

 山中に倒れた松の朽ちた幹から、新しい芽が生い立ち、幹の形そのままに新木の列ができる。これを倒木更新という。私は幸田文のエッセイでこの倒木更新という現象を知った。
 死すべき生物の運命を享受し、いのちの輪廻を納得するために、何度でも読み返す一文。幸田文のすばらしい日本語文体を堪能し、倒れ伏した老木が若木の栄養となって、新しい命を育てる永遠のめぐりを味わえる。
 読んでないけれど、たぶん『葉っぱのフレディ』も主題は同じじゃないかしら。フレディも勿論、いい本だろうが、幸田文の日本語は、「言文一致」以後の言語表現のひとつの到達点。

at 2003 10/04 06:41 編集 ラグナグ国とえぞ松の更新
 中願寺雄吉さん逝去の報と同じ日の夕刊(2003/09/29付)に掲載された富岡多恵子のエッセイ「ラグナグ国」について。
 ラグナグ国は『ガリヴァー旅行記』に出てくる架空の国。その国では稀に「不死の人」が生まれる。不死の運命を持つが、不老ではないため、200歳300歳ともなると、記憶も失い「ただ生きているだけ」の状態になる。
 「作者スウィフトは不死人間の凄惨さをくわしく書いてゆく」と富岡の記述。
 私は、おおかたの人と同じく、子ども向けの「ガリバー」しか読んだことがなく、巨人と小人の国くらいしか覚えていなかった。ラグナグ国を知ったのは阿刀田高の『貴方の知らないガリバー旅行記』による。

 富岡多恵子のエッセイのラスト
 『高齢の人に、「いつまでもお達者で、、、」などと何気なくいったあとで、「いつまでも」の残酷に慄然とすることがあるが、ここはラグナグ国ではないので、怒るひとはいない』

 伯母がいろいろ忘れていっても、それでも楽しく生きて欲しいと願うのは、周囲の者のわがままだろうか。本人は失われていく記憶におびえ、自分が自分でなくなっていく過程におののいているのだろうか。天の采配によってお迎えがくるその日まで、命のかぎり生き抜いてほしいと願うのみ。
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2010/01/18
 母の姉、あや伯母は、2005年の夏に90歳で大往生を遂げた。88歳からの2年間は、姪たちの顔も名前もわからなくなっていた。惚けてよかったと思えるのは、最愛の姪が54歳で伯母より先に亡くなったことがわからなかったこと。我が子のようにかわいがり、母代わりに育てた姪(私の姉)が、あや伯母より先に死ぬなんて誰も思っていなかったけれど、伯母にも信じられないことだったろう。でも、姉が先に亡くなったことを伯母は理解できなかったようだった。

 伯母が亡くなった1週間後に、妹モモの次女が出産し、まさに「えぞ松の更新」を実感した。だれかが死に、だれかが生まれる。命はこうして続いていく。
 私の姪たち。2009年にモモの次女は二人目の男の子を出産。モモはふたりの孫のおばあちゃんになりました。モモの長女は、保育園の保母さんとして働きながらバンド活動を続けています。姉の長女がシングルマザーで育てている4人の子豚たちも中学3年生から小学5年生の末っ子まで、元気に成長しています。姉が亡くなったとき、おばあちゃん子だった末っ子がどう生い立つのか不安でしたが、兄妹の中で一番背が高くなりミニバスケットの選手になりました。車椅子の青年と結婚した夫の姪も1歳になった息子との家族写真を2010年の年賀状にしてくれました。えぞ松は更新されています。

<つづく>

ぽかぽか春庭「光と翳の領域」

2010-01-17 | インポート
2010/01/17
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(8)光と翳の領域

at 2003 10/03 09:16 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.8(く)串田孫一『光と翳の領域』
 若い頃、あんなに熱心に読んだのに、今、本を手にとって目次を眺めても、どんなことが書いてあったのか全然思い出せない、という本もある。
 山登りが好きだった頃、せっせと読み、味わい深く心にとめた串田孫一のエッセイ類。
 伯母が姪の顔を忘れるように、私も好きだったエッセイの内容を忘れている。
 でも、いいのだと思う。全部が全部記憶にあって、すべてのことをくっきりと思い出さなくても。ぼんやりとしている記憶。おぼろげな思い出。それもこれも自分の一部。
 「忘れちゃってもええやんか」と言いながら、ページを閉じる。

at 2003 10/03 09:16 編集 長寿世界一と「元気がなくてもええやんか」
 ギネスブックに載っている長寿世界一、女性は116歳本郷かまとさん、男性は114歳中願寺雄吉さん。男女とも日本人だったが、残念ながら、雄吉さんは、2003/09/28に永眠された。家族が見にいったら、布団の中で大往生をとげていた、という114年の見事な生涯。
 でも、だれもがこんなふうに大往生できるわけでもないし、晩年までシャンシャンと過ごせるわけでもない。

 私の伯母も米寿を超えて、姪たちの顔や名前がわからなくなってきた。それでも伯母に最後まで楽しく生きていってほしいし、好きなものを食べておいしいと感じてほしい。もう、がんばらなくてもいいから、ふんわりとゆったりと、すごしてほしい。
 そんな思いでいるとき、数学者森毅さんの近著『元気がなくてもええやんか』の紹介と著者インタビューが2003/09/14の朝日読書欄に載った。
 天声人語にも引用されたことば、「みんなが毎日ハイになることないやんか。元気がない人もいてええんや」
 こんなふうに言ってもらうと、年中落ち込み、しょっちゅう元気をなくしている私は、ほっとする。元気出さなくちゃ、と自分にはっぱをかけつつ、「元気がなくてもええやんか」とつぶやいて、明日を迎えることにしよう。

 次回(け)はなし。かわりに(こ)を2回連続で。
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2010/01/17
 京都でご主人の介護を続けておられる染織家のウェブ友びるまさん。カフェ日記に、ご主人が妻のことがわからなくなった、と書いていらっしゃった。
 『 12月26日深夜、夫、私の事が判らなくなり、不安にかられて、興奮して、皆を起こしてしまいました。息子は「そんな悲しい事を言わんで~な、あんたの嫁さんやろが!」私、息子に小声で、「今が、正気なんよ!」
 「お父さん、全部忘れてもいいんよ~、ずっと、側に居るからね~~」「二人とも、お父さんの事を覚えているから、心配無いよ~~~」夫、少し、安心したようで、眠りにつきました。 』

 「忘れてもいいんよ、お父さんのこと覚えているから、心配ないよ」という声かけは、なんとすばらしい言葉かと感服しました。姪の顔も忘れてしまった伯母に対して、私は「私のことわかってもらえないなら、見舞いに来ても無駄なんじゃないか」と感じてしまった。今思うに、伯母に「忘れてもいいんだよ。私たちは伯母さんのこといつも思っているから、大丈夫だよ」と声をかけてやるべきだったと、びるまさんのご主人への深い愛を読んで反省しました。伯母が逝って5年たちます。

 認知症の介護方法やアルツハイマー型の治療法へのさまざまな新しい方法が紹介されてきているので、私が自分の名前を忘れるころには、よい治療方法ができていると楽観しています。「脳トレ」とか自分を鍛える努力は他の方におまかせして、私は今日も「忘れちゃっても大丈夫」と開き直っております。
 あれ、私のめがね、どこ?さっきはここにあったのに。あれ?鍵がない、さいふも。と、一日の半分は「失せ物探し」で日が暮れる。

<つづく>