春庭パンセソバージュ

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ぽかぽか春庭「行動の河」

2009-12-05 | インポート
2009/12/05
ぽかぽか春庭ことばの海を漂うて言海漂流記>寒紅と剣と切腹-仮面の人三島由紀夫(14)行動の河

 「息子の作品の一番の理解者」を自認する母に、孝行息子は、編集者などより先に書き上げた作品を見せました。人気作家となった息子の作品をだれより先に読む特権を持ち、息子に作品の感想を述べることを生き甲斐にしていた母。その母にとって、息子のセクシャリティはどのように感じられていたのでしょうか。
 母倭文重(しずえ)は、三島の友人村松剛に「同性愛だっていいじゃありませんか」と発言していたと、村松の『三島由紀夫の世界』に書かれています。

 三島がゲイであることを隠して表向きはヘテロとして結婚し、男色はあくまでも陰の快楽にしていたことについて、母は知っていたのだと思います。愛する息子を理解してやろうとしない母はいません。男色は、文学者にとって「栄光ある禁断の愛」であるが、家庭の生活者としては「女を妻とし、子をもうける」ことが母を安心させてやれることであるという三島の生き方は、おそらくこの時代のセクシャルマイノリティの生活の仕方としてよくある選択ではあったでしょう。実業家にも芸能人にも「隠れゲイ」は少なくなかった。三島の場合「自分はゲイではない」というポーズを世間に向かってアピールし続けなければならず、「結婚生活をマスコミにみせつける必要」がありました。

 外部に向かっては妻の存在をアピールしながら、美青年との恋愛関係を続ける息子。母は、息子のために「離婚したほうが息子が精神的に楽になるのではないか」と感じたことはなかったか。嫁瑤子が人前でもヒステリーを起こして息子を困らせているという噂は、倭文重の住む狭い交友範囲の社会で、すぐにも耳に入る出来事だったでしょう。現在、三島夫妻が家の外でも派手な夫婦喧嘩をしていたという話は、目撃談が語られています。週刊誌ネタなどの活字にはならないまでも、倭文重の耳に届いていたでしょう。

 息子が自分を安心させるために結婚したのだとしたら、孫を得たあとは無理に結婚生活を続ける必要はないと倭文重が感じたことはなかったか。しかし、息子三島は、『サド公爵夫人』を書き上げ、母のモントルイユ夫人から自立するルネを描きました。「この作品は嫌い」と倭文重が言ったにもかかわらず、上演させました。

 1965年、40歳で母の精神的な緊縛を解き棄てたあと、三島は「男の世界」へとのめり込んでいきます。インタビューを受けると「大義のために行動する」というような説をとうとうと述べるようになっていきました。
 youtubeには、三島がインタビューに答えている場面やさまざまな人の証言がUPされています。

 インタビューを聞き、市ヶ谷自衛隊バルコニーでの演説を聞いても、三島の思いはさっぱり伝わってきません。市ヶ谷の演説など、自衛隊員のヤジや怒号の大歓声の中、拡声器も使わず、それほど大音声の持ち主とは思えなかった三島の声は現場ではほとんど聞き取れなかったろうと思います。録音されたものでさえ、何を言っているのか、よくわからない。伝えることをあらかじめ拒否しているかのような、自己完結の演説。

 バルコニーで手を振り上げ、自衛隊員に向かって「ついて来る者はいないのか」と決起を呼びかけているのですが、隊員達は三島の演説を聞きながらヤジをとばし、笑っていました。この時、三島は「静聴せい!聞けぇ!」と呼びかけているのですが、きちんと演説を伝える気持ちがどれほどあったのか。一人でも「ついてゆくぞ」という隊員が出たら「自分が祖国防衛を呼びかけたのに、自衛隊はただひとりも決起しようとしない、こうなったら死ぬしかない」というシナリオが崩れてしまう。切腹して死ぬというシナリオは、あらかじめ介錯者も決めて、綿密にうち合わされていたのですから,自衛隊員がひとりも呼応しないこと、という筋書きは守られなければなりませんでした。
 届かないことばを叫びながら、三島はバルコニーに立ち、腕を振り上げました。

 三島は池袋東武の展覧会で、自身の生涯の最後を「行動の河」と名付けました。彼は最後に行動をした。しかし、河は流れなかった。河が「ワジ」すなわち涸れ河であることは承知の上での行動であったのだろうと思います。

 普段涸れ河であるワジは、雨期になると突然水が流れる本当の河になることがある。三島は雨期になれば、行動の河が奔流となると信じていたのでしょうか。それともこのまま枯渇していると見据えた上での行動の河だったのでしょうか。

<つづく>

1 コメント

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Unknown (アイアムジャップ)
2022-02-09 20:04:58
三島由紀夫の市ヶ谷での演説がさっぱり分からないとの事でしたが、それはあなたの理解力が些かかけているだけと...
確かにあの演説だけでは理解しづらいとは思いますが、当時の社会情勢や彼の言説をみれば自ずと伝えたかったことは理解されると思います。

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