春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

心も頭もポカポカ春庭のおい老い笈の小文「年末ごあいさつ」

2003-12-31 | インポート
(12/31)
おい老い笈の小文「2003年9月10月11月過去ログ再録」 

 9月25日にこのOCNカフェに登録をし、たった3ヶ月の間にたくさんの方と交流することができました。

 これまでの20年間ひきこもり生活を一気にうめる勢いで、あちこちの掲示板にもおじゃまし、また足跡ページにことばを残したり、心うるおう足跡のことばをもらったりして、おしゃべりの楽しさを満喫しました。

 また、娘息子に「そんな日本語の固い話書いても、だれも読まないよ」と、言われながらも、12月はせっせと日本語蘊蓄を続けました。
 宿題に足跡で回答をよせていただくなど、反響をありがとうございました。

 足跡の交流楽しいですね。字数制限の中、日記感想のすべてを言い尽くすことはできないけれど、短いなりに工夫してことばを選んで書きました。

 定型文でのごあいさつのみになる場合のほうが多かったですが、心をこめて足跡をおかえししていることにはかわりありません。

 今日12/30の足跡交流から。
 在五中将の日記を読み、読んだ印象を57577にして在五ページの足跡に残しました。
 すると、さっそくその足跡がpjTAKOさんHP掲示板に再録されていました。それをさらに、この日記に再録。

>(在五日記12/30)真っ白な雪の上に、点々と落ちる赤い雫。下宿の女の子だ。彼女の手のひらにも、二つ、三つ、椿の花が乗せられていた。寒さで紅潮したほほ、白い息。雪をかぶった椿の赤い花とつややかな緑の葉……。などと日記に書いていたら。
 HAL先生に「雪道に散華の椿を二つ三つ手に載せ帰る行く年の家」ともっていかれてしまった。(gt;_lt;)え~ん。ひどいよぅ。

 「ひどいよぅ」というのは「本歌取り」への誉め言葉と受け取りました。こんなふうに冗談を言ったり、ことばを交わしあう楽しさをカフェ日記を通して知ることができた2003年でした。

 日記の内容に大笑いさせてもらったり、へぇへぇと感心したり。

 在五中将ご紹介の川柳で笑って、今年をおひらきにしたいと思います。

宿六心配著「謎解き北斎川柳」より、葛飾北斎の川柳。

年の暮れさてもいそがしさはがしし 卍
掛取の顔鬼と見る火の車      百々爺
三日月の晦日を照らす和布苅鎌   百々爺
色を売る茄子も三九で年ンが明   百々爺
焼て見つ煮て見つ鯛の古さかな   百姓

 最後に運がつく蘊蓄を。「色を売る茄子も三九で年ンが明」について。
 「三九で年が明ける」というのは、「3×9=27」で、27歳が遊女の定年であったことをいいます。

 「ネンが明ける」とは、年期奉公の契約期間が満期となって、拘束される身分が終わりになる」という意味。

 指折り数えて、年(ネン)が明ける、すなわち遊女として人身売買された身がやっと解放されて、遊郭の外に自由に出られる日がくる。

 「色を売る」遊女は27歳になればもはや売り時をすぎたとみなされ、遊郭を定年退職するとされていたんです。
 遊郭「吉原」を定年退職したのちは、身請けをされて「一般家庭」におさまる幸運者もいたけれど、ほとんどは借金を抱えたまま、場末の私娼窟へ流れていったそうです。

 この遊女の年期あけと、初夢で縁起がいいと言われる「一富士二鷹三なすび」の茄子は、色がいいことが売り物であることをかけて、なすびも年をすぎて色香を失ったら売り物にならない、ということを川柳にしたのが上の「色を売る茄子も三九で年ンが明 」という川柳です。

 売り物にならなくなったことを悲しむべきか、解放されて店の外に放り出されることを喜ぶべきか。

 リストラされて、自由時間がふえることを喜ぶべきか、年収がますます減ることを悲しむべきかという春庭の年末雑感と重なる川柳。

 今日、ほとんどが銀行振り込みなので、電気代滞納でもプロバイダー代金滞納でも、掛け取り(借金取り)は押し掛けてきませんが、火の車であることは、川柳といっしょ。

 春庭、27歳の年もとうに明け、新年明けたのちは○○歳になりますが、まだまだ定年退職する気なし。

 色香は失っても「灰になるまで」現役です。なんの現役って、もちろん日本語教師ですよぉ。

 さて、春庭新年の抱負は「色」について。「色好み」の話から始まります。ではまた来年。また明日。

蛇の足跡:
 おい老い笈の小文2003/9月10月11月の過去ログを本宅「ウェブログハウス春庭」ロフト(倉庫)に入れました。

 過去ログの誤変換などを校正すると、文章の位置が編集した日付に移動してしまうことがわかり、校正は当日編集のみとしました。あとで気づいた誤変換は、そのまま。
 毎日更新した記録を残すためです。

そのため、(誤)平畑正塔→(正)静塔
(誤)畑中幸子『ニューギニア高地人』→(正)高地社会
などの重要な人名、書名のミスもそのままになってしまい、とても気になりました。

 また、9月、10月、11月の記事は、行間がつまっていて読みにくいという指摘もあったので、過去ログの行替えなどを修正して、ウェブログハウス春庭ロフトに再録しました。

 こちらのほうが読みやすい編集なので、過去ログをお読みになりたいかた、「話しことばの通い路」ウェブログハウス春庭ロフトへどうぞ。

 おつきあいくださったすべての方々、ほんとうにありがとうございました。
 皆様の2004年がよい年となりますよう、お祈り申し上げ、今年の日記はおひらきです。

 皆様、よいお年をおむかえください。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ④」

2003-12-30 | インポート
(12/30)
春庭のBC級ニッポン語教育研究23「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ④「ル形」と「タ形」

①日本語クイズ:動詞の「ル形」と「タ形」(非過去、過去、完了の形)。

2003/12/29 2: 3 pjtako すごく難しい宿題。
と、考えすぎるとわかんなくなるけれど、

2003/12/29 1:47 donblaco 「来る=まだ見えない」「来た=見えた!」って感じがします
と、感覚でとらえたほうが、わかりやすいかもしれない。どんぶらこさんのとらえ方、正解です。

 日本語教育では、動詞の基本形(辞書形)を「ル形」と表現する。英文法のテンスについて知識を持っている人が「現在形」と言うこともあるが、これは誤解を生む言い方。
 なぜなら、日本語動詞の「ル形」が現在を表すのは、存在をあらわす「ある」「いる」と、昨日「無意志動詞」として紹介した「わかる」「みえる/きこえる」などの」などの限られた動詞。
 無意志動詞というのは、意志のあるなしというより、「自分で制御できるか、できないか」と言い直したほうがいいだろう。

 「わかる」などは、本来は、わかるかどうか自分で制御できない動詞であったが、最近では、「理解する」と同じようにつかわれるため、「あの子の心をわかりたい」などのように、コントロールできる動詞として用いられるようになってきた。

 この存在をあらわす「在る、居る」や、「見える、聞こえる」は、「ル形」が現在の出来事をあらわす。しかし、一般の動詞は、基本的に「ル形」は未来の出来事を表す。
「オレ、昼飯を食べるよ」と言う人は、まだ、食べていない人。
 「しぬ、しぬ」というのは、まだシんでいない人がいう。「イク!イク!」も、これからイク人が叫ぶ。英文法でいえば、willやshallを用いた未来の機能を、日本語の動詞基本形は担っている。

 その出来事が実現したあとでは、現代日本語では「タ形」を用いる。「昼飯、もう食べた」など。
 しかし、「タ」の機能は、過去をあらわすだけではない。

 日本語の「過去形」とみなされている「た」の出自は、古典日本語の「たり」である。過去を表す「き」や「けり」に比して、「たり」は、完了と存続の意味を担っていた。その「たり」が現代語では「た」となっている。

 ゆえに、「た」を「過去形」と名付けてしまうと、他の機能に目がいかない場合もあるので、「過去形」と呼ばずに「タ形」と呼ぶ。

 「食べる」などの動詞基本形を「ル形」と呼ぶ。辞書形という場合もあるが、学校文法のように終止形という言い方はしない。

 現代語では、終止形と連体形は同じ形になっている。終止形と連体形を区別するのは古典文法では必要なことであるが、現代語では必要ない。それより、「食べた」を語幹「食べ」+「助動詞タ」と、とらえるのではなく、「食べた」は、動詞「食べる」の活用形のひとつ、ととらえる。活用の呼び名が「タ」形である。

動詞タ形には、過去を表すという以外の機能もある。
 「ほら、そこ、じゃまだよ。どいた、どいた」と、まだどいていない人に対して「タ形」で言うのも、古典語なら「どいたり、どいたり」であって、「そこから立ち退くという動作を完了させなさい」という完了の意味を含めているのである。

 ホームの向こうのほうに見えた電車に気づいた人が「電車が来た!」と、まだホームに着いていないのに言うのは、「完了」を前提とした「気づき」を表現している。
 「電車の到着」という事象が完了しようとしていることに、今私は気づいた!」と、言って居る。

 どんぶらこさんが「見えた!って感じがする」というのは、まさにその通り。今、現在電車の存在に気づいた人が「来た!」と叫ぶ。

 そして「電車が来る!」というとき、まだ電車の姿に気づいていなくても、「時刻表のとおりなら、まもなくホームに来るはずだ」という予測だけでも、言うことができる。

 普通はこんなふうにいちいち理屈で使い分けをしているのではない。「タ」の機能に過去の意味以外にあることなど、意識はしていなくても、無意識ではあるが、ちゃんと使い分けをしながら話しているのだ。

②日本語クイズ:自動詞に「たい」がつくか?

2003/12/29 2: 7 mysteries 「うんちがでたいんか」と群馬のおばあちゃんが言うのを聞いた

 これは、日本語の自動詞表現に関わる問題
 無生物を主体とした表現は、ふつう無意志表現になるので、欲求形「たい」はつかない。
「川が流れたい」も「山がそびえたい」「家が建ちたい」も、不自然。

 「わかる」「みえる」などの、自分でコントロールできない動詞、可能形もコントロールできないので、「富士山が見えたい」「もっと上手な文章が書けたい」などは不自然。

 群馬のおばあちゃんは、無生物「うんち」を自動詞「でる」の主体として「うんちがでる」と表現した。

 「うんちがでたい」とうんちを主体に欲求の言い方にしている。
 おばあちゃんは、うんちにたずねているのではなく、うんちをする本人に「うんちがでたいのか」とたずねている。

 おばあちゃんは、うんちをする本人とでてくる「うんち」を一体化したものととらえている。うんちは、それを出す本人の代理人として本人とその存在を等しくする存在として出てくるのである。

 I have a sore throat form a cold.(風邪でのどが痛い)
 と、英語ではどこまでも、本人が主体になる表現でも、日本語では「私」という語は出てこないで、ただ、「のどが痛い」と言う。痛いと感じているのは「私」であり、「のど」は痛んでいる場所、もしくは痛む対象であるが、「のどが」と、「のど」を中心にして表現する。

 日本語は「自分が、自分が」と、自分の行為であることを前面に出すことをきらう言語。

 年末の大掃除手伝いをしていて、花瓶にぶつかり大事な花瓶をわってしまったとき、たいていの人は「あ、花瓶がわれちゃった」と言う。

 割ったのは「花瓶にぶつかる」という自分の行為が原因であることが分かっていても、第一声は、ほとんどが「割れちゃった!」になり、最初から「あ、私が花瓶を割っちゃった!!」と叫ぶ人はいない。

 自分の行為であっても、「自分がコントロールして自分の意志で行ったのではない」という意識があるとき、自分が「割る」という行為を行ったのではなく、「自然にそうなった」「この現象は、私が意図して行ったのではなく、自然の推移や偶然として起こったのだ」という意識から、自動詞の表現「花瓶が割れた」と言うのである。

 「うんちしたいんか」と、たずねるとき、うんちをする本人がトイレへ行きたいのかどうか、意志を確認している。

 しかし、おばあちゃんにとって、うんちをすることは、本人がどうこう意志をもつからできるのではなく、自然にもよおすものととらえているのである。

 本人の意志のあるなしではなく、自然の推移のよって、ことが進むので「うんちがでたい」と、うんちの側に視点をおいて表現しているのである。

 日本語では、動作行為の主体をはっきりさせてだれが行うのか主体を明示する他動詞表現より、世の中の事象を自分がコントロールできないことととらえ、自然の推移として表現する自動詞表現のほうが、好まれる。

 ふたりが合意の上で結婚を決めたとしても、結婚報告のあいさつことば、上司への報告として、「来年、結婚の運びとなりました」「結婚することになりました」と、自分たちの意志ではなく、自然に決定したかのように言う「なる」表現のほうが、「来年、結婚することにします」「来年、結婚します」と、自分たちの意志を鮮明にして表現するより好まれる。

 おばあちゃんにとって、「うんちがでるかでないか」ということは、自分自身でコントロールすべきことではなく、「自然の推移」「自分では決められない事象に従っていく」と感じられたから「うんちがでたいんか」と、たずねたのである。

2003/12/29 3:13 mysteries 「この判子はよく押さる」(井上和子)さすがに言えないだろう

 とても押しやすく、きれいに刻印できる判子がある。その判子の性質を説明するために「この判子はよく押せる」「このハンコはきれいにおすことができる」と表現することは可能。
 以上の宿題の答え合わせ。

 では、みなさん、これにて「サルでも出来るnipponia nippin語の教え方」2003年の教室はこれにて閉室です。

 Nipponia nipponn語が「よくわかるようになりました」「文法って、けっこう笑えるって思えました」と、自然の推移的」感想。

 他動詞表現であるならば、「来年もしっかり勉強します」「日本語文章が上達するよう、勉学に励みます」などになる。よい年にしたいですね。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ③」

2003-12-29 | インポート
(12/29)
春庭のBC級ニッポン語教育研究22「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ③動詞のカテゴリー分類

宿題5,「が」を対象格としている動詞
 「が」格を対象格として持つ動詞。初級で扱う動詞は「みえる」「きこえる」くらい。
 「富士山が見える」「子どもの泣き声が聞こえる」、という場合、対象を示すのは「が」になる。「富士山を見る」「音楽をきく」と、どう違うのか、日本語学習者から、必ず出される質問である。あなたなら、どう説明しますか。(ヒント:意志動詞、無意志動詞)
という宿題。

 12/21に「水が飲みたい」「テニスが好きだ」など、「が」を対象格とする表現について説明した。要求や好悪など、心理的動詞の対象は、一般の対象格「を」ではなく、「が」によって対象をしめす、と述べた。

 では「音楽をきく」と「音楽が聞こえる」は、どうちがうか、と留学生に質問されたらどう答えるのか。

 動詞にはさまざまなカテゴリー(範疇)の違いがある。
 意味的なカテゴリー分類。例をあげるなら「変化を表す動詞」「移動を表す動詞」などのカテゴリー。変化動詞の例「焼く、切る、壊す」など、動作の前とあとでは世の中が変化する動詞。移動動詞の例「行く、来る、渡る」など、主体の位置が変化する動詞。

 また、文法的な違いによってカテゴリーを分ける。例として、アスペクトのカテゴリーをあげてみる。アスペクト(動詞の相)による分類では、「状態継続動詞」「動作継続動詞」のカテゴリーに分類できる。(以前は「瞬間動詞、継続動詞」と呼ばれていた)。

 「電気が消えている」は、電気を消すという動作が終了したあと、電気がついていない状態が続いていることを表す。こちらが状態継続動詞。動作は一瞬で終わってしまい、その動作の結果が残存していることを「~ている」という表現で表す。

 「死ぬ」という行為は一瞬で決定してしまい、「死んだ」と、過去形になる。そしてそのあと、「死んでいる」という状態が続くのである。

 一方、「ごはんを食べている」というのは、今現在、動作が継続していて、食べるという動作が引き続き行われていることを表す。こちらが動作継続動詞。

 日本語動詞の、過去形、非過去形、「~ている(アスペクトのひとつ)形」を、ことが起きる順に順番に並べてみると。
 動作継続動詞の場合: 食べる→食べている→食べた
 状態継続動詞の場合: 死ぬ→死んだ→死んでいる  
 と、なる。動詞のアスペクトカテゴリーによって、違いがあるのだ。アスペクトについては、またあとで。

 意志動詞、無意志動詞、という分け方もある。「みる」「きく」は意志動詞。「みえる」「きこえる」は、無意志動詞である。

 「昨日、私はローストチキンを食べた」という表現。「食べる」という動作を行った「私」はその動作を行う意志を持って、自分で口を動かして食べたのである。
 自分でも気づかないうちに、無意識で食べるということは、まず特殊な場合だけ。普通は、自分で意志をもち、自分から動作を行う。

 一方、「きのう、私は財布を落とした」という表現。文の形式は同じ「~は、~を 動詞」というかたち。
 しかし、「財布を落とした」私は、そうする意志をもってその動作を行ったのではない。知らないうちに落ちていたのだ。この場合の動詞「落とす」は無意志動詞。

 意志動詞の表現は「欲求形=~たい」にすることができる。「ローストチキンを食べたい」「ハワイへ行きたい」「彼女と結婚したい」など。

 しかし、無意志動詞の表現は要求の形が不自然になる。「財布を落としたい」と、表現したとき、知らないうちに落ちてしまった、という意味にならない。自分の意志で財布をどこかにわざと落とすことになる。

 「聞こえる」も、無意志動詞なので「音楽がきこえたい」にはならない。「聞く」は意志動詞なので、「音楽をききたい」は、OK。

 「見える、きこえる」は、その動作を行いたいという意志を持たなくても、自然の状態として、目に入ってくる、耳に入ってくるということを表現しているのである。

新幹線の車窓に偶然富士山が、という場合「あ、ほらほら、あっちに富士山がみえる」と言う。「あ、ほらほら、あっちに富士山を見る」とは、言わない。

 以上、今までに課題がでていた宿題の簡単な説明をしました。まだまだ、無意識のうちに使っている日本語で、外国人に質問されるとどう答えようかと悩む表現はたくさんあります。

 新しい宿題。
 むこうから電車がホームに近づいてくる。「あ、ほら、電車が来た、来た」と、友だちに知らせてやりました。
 留学生の友だちが「電車が来る、来る、じゃないんですか。だって、まだホームのところまで来ていないのに、来た!と過去形で言うのはへんでしょう。」

 さあ、あなたは、この「きた!」をどのように説明しますか。冬休みの課題です。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ②敬語」

2003-12-27 | インポート
(12/27)
春庭のBC級ニッポン語教育研究21「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ② 敬語

宿題4,「差し上げる」は、敬語か
 「国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。

 差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった」という宿題。

 待遇表現(いわゆる敬語問題)については、また詳しく論じる機会をもちたいと思うが、とりあえず「差し上げる」について説明しよう。

 学習者は、giveにあたる日本語として、「やる」は子どもか動物に使う、と教わる。「金魚に餌をやる」など。ふつうは「あげる」を使う。「友だちに花をあげる」先生には敬語を使う。「先生にお茶を差し上げる」

 しかし、実際の敬語運用は、学習者にとって、大きな問題。学生が大きな荷物を持って歩いている教師に「先生、荷物をもってさしあげましょう」というのは、なぜ敬意の表現としてまずいのか。敬意をあらわすなら、どう言えばいいのか。

 現代の表現でいうなら、「先生、荷物をお持ちしましょうか」が、ニュートラルな表現。「先生、さしつかえなければ、荷物を持たせていただけませんか」などが、より丁寧な印象を与える。

 「荷物をもって差し上げましょう」というのは、すでに話し手が「荷物を持つ」という行為を行うことを決定し、それを前提として、それを聞き手に承知させようとしている。
 そのため行為が押しつけがましくなり、敬意表現と受け取られないのである。

 「荷物をお持ちしましょうか」「持たせていただけませんか」という表現なら、「持つかどうか」という行為の決定権は、相手にゆだねられている。そのため押しつけがましくない。

 敬語表現には、以上のように複雑な要素がからみあう。
 日本人学生でも、「先生、おりますか」など、謙譲語と尊敬語の混乱した使い方、「来週の授業、やすまさせていただきます」など、の誤用が見られる。
 (やすまさせて、という誤用、20年後には正しい表現とされそうな勢いで広まっている)

 敬語は、人間関係の円滑なコミュニケーションに必要とされるから、古来から形を変えながら生き残ってきた。
 ただし、敬意表現はすぐにすりきれるので、くるくると表現がかわってくる。

 「聞き手(第二人称)」をしめす言葉を例にしよう。
 昔は尊敬の意味を含んでいた「御前(ここにひかえている私から見て、前にいる方」「貴様(貴い方)」などの語が、現在では「オマエ」「キサマ」を目上の人に使うことはできなくなっている。

 このように、敬意表現は価値がすり切れやすいのだ。
 源氏物語ではよく使われる「給ふ」という敬語も、現代では、平社員が課長に「この仕事、仕上げておき給え」と、言うことはできない。

 敬語(待遇表現)には「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」がある。

 「見る」という動詞に「見ます」と「ごらんになります」と「拝見します」がある、というと、母語に敬語システムを持たない学生は「どうして、そんなにつかいわけなければならないのか」と、言う。

 なぜ敬語があるのか。
 では、逆に、敬語が発達しなかった言語を話す社会とは、どのような社会であったか。

 前近代の中国や欧州には、韓国朝鮮語や日本語のような敬語システムはなかった。
 「丁寧な表現」は、どの言語にも、多かれ少なかれ存在する。しかし、尊敬語は発達しなかった。
 なぜなら、身分が上の者と下の者は、決して会話をかわさなかったからだ

 身分が上の者と、身分が下のものが、直接会話することが許されていなかった社会では、敬語など必要がない。同じ階級の中同士で話すのだから。

 身分の上の方と直接口を利ける者は、ただひとりの伝送役のみ。あとの者は、伝送役にことばを伝え、伝送役から上の人のことばが返ってくるのを待つ。

 丁寧な言い方は必要であっても、尊敬語としての敬語(待遇表現)が必要がない社会というのは、身分の上下がハッキリし、上下は決して混じり合わない社会だった。

 日本社会が敬語を必要としたのは、身分の上下を越えて話ができたからである。

 古事記や万葉集などにも、下働きの翁媼が、天皇と直接会話をかわしているエピソードが出てくる。尊敬語を使えば、宮廷の庭掃除の翁が、たまたま御簾をかかげて庭を眺めている高貴な方に許されて、ことばをかわすことができたのだ。

 現代社会においても、敬語を駆使できれば、平社員が社長と直接会話することができる。

 この待遇表現システムさえ身につけてしまえば、相手に不快感をもたせることなく、だれとでも会話ができるのだ。

 便利な表現システムではありませんか。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ①」

2003-12-26 | インポート
(12/26)
春庭のBC級ニッポン語教育研究20「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「宿題答え合わせ」

 12月の「おい老い笈の小文」は、「へぇへぇ平成教育研究」(へぇへぇ、へぇなるきょういくけんきゅう)のBC級ニッポン語教育研究「サルでも出来るHow to teach Nipponia Nippon語」をお送りしてきた。
 前回で、ニッポン語教育研究第1段階は修了。今回は、宿題答え合わせ。宿題を出されてまじめにやってきたよい学生のための解説コーナーである。

 宿題の点検、一番たいへんなことは、宿題を出したことを忘れること。真面目な学生がいるクラスでは、級長タイプの学生が、「先生、先週の宿題、あつめましょうか」などと授業のおわりに声をかけてくれたりするが、教師も学生も宿題があったことなど、とんと忘れて、冗談に笑いころげたまま授業終了となることもよくある。

 漢字の宿題の点検。字形に注意。点や丸の位置ひとつで、別の漢字になってしまうことをわからせなければいけない。作文の宿題の点検。添削はたいへんだが、苦にはならない。それより、ひとりひとりに心をこめたコメントをつける。こちらに気をつかう。同じようなコメントになってしまうこともある。

 今回は、忘れずにきちんと宿題点検を行いましょう。宿題、やってありますか?

宿題1,象鼻文(03/12/03の宿題)
 「足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。」という宿題でした。

 「象は鼻が長い」という文の、主語はどれか、というhawkさんからの質問であった。
 これは、副助詞(トピックマーカー)「は」と、格助詞「が」の機能解説のところで、おおよそは理解してもらえたと思う。

 「は」は文全体の話題をしめす、文レベルの主題を表し、「が」は行為・事象の主体を表す格助詞。「は」と「が」は、同じレベルの助詞ではなく、たとえていえば「フルーツとりんご、どっちがおいしいですか」みたいな、レベルの異なるものを比べる、という一面があります。

 「象は」というのは、「私がこれから聞き手に話すことの話題の中心は象に関してです」ということを表す。

 「鼻が」は、「長い」という述語の主体を表す。長いって表現していることの主体は何か。「鼻」である。「鼻」というものが「長い」んである。

 象鼻文に限らず、「は」というトピックマーカーで表現される部分は、あえて英語に翻訳するなら「~に関して申し述べるなら」「~について説明するなら~」という意味で、「As for~」を用いる。「As for the elephant it has a long nose.」
「私は 教師です」という単純な文も、正確な翻訳をしようとするなら、「As for my job I am a teacher」と、言ったほうがわかりやすい。

宿題2 助詞「に」と助詞「で」
 「会社で働く」「会社に勤めている」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができなのは、どうしてか

 「に」は、存在するものや事象の状態が続いている場所を示す助詞。現在、実際に動いて活動している場所を示すのが「で」
 「タコが海で泳ぐ」というとき、泳ぐという動作を行っている場所が「海で」として示される。「タコ」は、活動している行為動作の主体。
 「タコが海にいる」というときは、活動ではなく、存在を示している。タコは「存在している」ことの主体。状態の主体である。

 「働く」は、個別的具体的な活動を表現する動詞なので「会社で」になる。「勤務する」は、その人の職業の状態、会社員としてその会社に存在していることを表現しているから「会社に勤めている」となる。

 「会社でつとめている」と言ったばあい、何か特別な活動をしていることを表現することになり「会社員として勤務している」という状態を表現するのとは異なってくる。
 「彼は最近、会社で大きなプロジェクトをまかされ、いっしょうけんめいつとめている」という場合、「勤める」ではなく「努める」という動作を表す動詞のほうがふさわしい。

宿題3「に」と「で」のちがいの教え方
 「日本語学習者が「いすに座る」と「いすで座る」というのは同じですか?と質問してきたとき、あなたなら、どう説明しますか。
 学習者は、日本語を学びはじめたばかり。ひらがなは読めるようになったけれど、日本語の文は「わたしは、がくせいです」くらいしか、習っていません。
 日本語もできない、英語もできない学生、学生が知っている言語ポーランド語もロシア語もわからない教師。
 こういう状況で教えることができるのが、「直接法=ダイレクトメソッド」という教え方です。
 春庭の場合、体をはって教えます。「いすに」と「いすで」の違い、宿題にしておきます。知ってしまえば簡単な教え方があるんです。でも、まだ秘密。」という宿題。

 別段、もったいぶって秘密にしておくほどのことでもなく、助詞の機能の違いがわかっていれば、その違いを学習者に教えられる。
 「で」は、上記の宿題2と同じ、活動の場所をしめす。
 「に」の別の機能、「目的地を示す」を思い出してほしい。(「駅へ行く」と「駅に行く」の違いについて、すでに説明した)

 以下、春庭方式文法説明。

① 教室に椅子を用意し、学生の前に置く。椅子から少し離れた場所に立つ。
② 「That chair is my goal place.」と言って、椅子を指さす。
③ もう一度「あの椅子は私の目的地です」と言って指さしてから、椅子に座る
④ 椅子の上に立つ。「Here is my action place.」と言って、椅子を指さす。「I do some action. Here is my action place」「ここは、私の活動する場所です」と説明してから、椅子の上に立っている状態から、「いすで すわります」と言って、しゃがむ。
⑤ もう一度②と③を繰り返す。

 この一連の動作で、「で」で示された「椅子で」は、「椅子」が活動を行う場所として限定されることと、「椅子に」は、椅子を動作の目的地としていることが、学習者にわかってもらえる。

 英語でスラスラ文法用語を駆使して説明する先生に教わるより、春庭が下手な英語で説明した方が、学習者に日本語文法の説明が「よくわかる」と好評である。
 これは、どのような文法説明の場合も、春庭は、具体的な動作や絵で違いを目に見える形にして教えているから。

 単純なことのように思えるかもしれないが、実際の教室で、靴を脱いで椅子の上に立ち、立ったり座ったりして体をはって教える教師は少ない。
 他の教師がしないから、春庭が好評を得ることになる。たいていの行儀のいい教師たちは、ここまでやらない。

 人前で靴を脱ぐことを行儀が悪いと感じる欧米系の学生がいるときは、ついでに、部屋へ入るときや、椅子やソファに足を載せるときは、日本の習慣として靴をぬぐことも教える。日本の生活文化だから。

 あなたの家、靴を脱いで入りますか?
 くつを脱がない文化を持つ人々にとって、靴を人前で脱ぐのは、あなたが人の家に入るときに、コートを脱ぐだけじゃなく、上着もセーターも脱いで、ステテコ一枚になってください、と言われるような気がするそうです。最初はちょっと抵抗を感じるとか。

 でも、日本には日本の生活文化があることを知らせるのも、日本語教師の大切な役割。押しつけることはしませんが、日本にいる間は、日本の文化を尊重する気持ちを持ってほしいと思っています。

 日本の「うち」と「そと」の文化のちがいも、おおきな問題。敬語もこの「うち」と「そと」の使い分けが関わってきます。
 
 「うち」「そと」の問題はまた後の課題にして、あしたは、敬語の宿題つづきを。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」

2003-12-25 | インポート
(12/25)
春庭のBC級ニッポン語教育研究19「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール②」

 たたけよ、さらば開かれん。いつでもオープンの春庭教室。クリスマスの今日も、滞りなくオープンです。パンと葡萄酒もございます。
 おひとつワインなど飲みながら、こころと心をつなぐ授業の話、聞いてくださいな。
 

 はじめて習う言語。緊張している学生を前にして
「あなたは、この教室に受け入れられている」
「ここでは、言語の練習過程で、どんな間違いをしても許されるし、まちがえるのは当然のことだ」
「まちがってもいいから、できるだけたくさん日本語を口にしてほしい」
「教師は、あなたがまちがえながらも成長していくのを応援するし、必ずあなたの味方になる」
ということを、最初に教室内に浸透させることが、教師の仕事のいちばん基本。

 これを教育学では、「ラポール作り」と言う。

 日本語文法を日本語を使ってわからせながら、日本語の基礎を教えていく日本語教育。「文型つみあげ方式」である。

 直接法(日本語だけを用いて、日本語を教える教授法)で日本語を教えるには、教授者が日本語の文型、文法を熟知している必要がある。

 しかし、私は、日本語教授法を学ぶ学生にいう。
 どんなに言語学を修得しようと、日本語文法を完全マスターしていようと、ラポール作りができない教師は、教師ではない。

 これは、日本語教師だけじゃなく、あらゆる教育者に共通することだと、春庭まじめに信じております。

 教育の基本は、教師と学習者の間に生まれる、心とこころのつながり「ラポール」です。超まじめに、叫ぶ春庭。

 12月は、日本語教育のさわりをお話してきた。まじめに。
 日本語教育とは、何か。「日本語を母語として成長しなかった人に、第二言語としての日本語を教えること」

 日本語文法とは何か、についても、もうおわかりいただけたと思います。
 「文法」は、言葉を効率よく学ぶのに必要な、ことばの規則。
 ひとつひとつの単語を覚えることが、クラッチやブレーキの働きを知ることに相当するなら、車の構造や交通ルールを覚えることに相当するのが「文法」です。

 そして、「ことばの学習」「語学の勉強」とは。
 基本は「人と人がコミュニケーションをとろうとする、つながりあいたい、という欲求」からはじまる。

 私は、あなたと、つながりたいのです。もちろん心とこころで。あなたのこころ、受け止めます。

 場合によっては、成り成りて成り余れるところのもので、成り成りてなり合わざるところを刺しふたぐという、古事記が書き残した「あなたと私がつながる方法」も、有り得ます。ただし、この方法、春庭、辺見庸が相手の場合のみです。あんたじゃなくて、辺見庸がいいのよう!

 あなたには、春庭からの「愛」をおくるからね。
 自称マリアのごとき、慈母観音のごとき春庭からの深い愛を、今日のこの夜、あなたへ届けます。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」

2003-12-24 | インポート
(12/24)
春庭のBC級ニッポン語教育研究17「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール①」

 前回紹介した初級漢字のクラス。12名が、とても仲良く助け合っているので、教師としては大助かり。クラスの雰囲気がいいか悪いかは、教育効果が上がるかどうかに一番大きな影響を与える。

 教師がどれほど言語学の大家であろうと、第二言語習得理論の専門家であろうと、クラスの「助け合って学んでいこうとする雰囲気」が形成されていなければ、ザルに水を汲むような授業になる。

 最新の教授法理論の中では「ピアラーニング」がもてはやされてきた。
 ピアカウンセリング=専門家と患者という関係のカウンセリングでなく、立場を同じくする仲間同士による助け合いカウンセリング。
 同じように、ピアラーニングというは、仲間同士の「教えあい育てあい」によって教育効果を高めようとする教授法である。

 最新の教授法と聞いて、春庭「ワッハッハ、ついに時代が私に追いついてきた」と思う。

 教師と学生の関係を築くことから授業をスタートさせる、学生同士が知り合い仲良くなることで教育効果が高まる。
 15年前に日本語教師になったときから、私が実践していることだ。

 日本語教育に携わるようになったとき、私はハンディ以外もっていなかった。英語は下手。第二言語教育理論の専門家でもない。日本語学をかじったとはいえ、博士号もない。

 英語やフランス語など、外国語に携わることから日本語教師になる方が多い業界の中で、中学校国語教師から転身した私の日本語教授法の基本は、「ラポール形成」「ピアラーニング」につきた。

 クラスの中を楽しいいい雰囲気にすること。間違えても大丈夫、自分の居場所はここにあるという安心感。どんな質問をしても共に考えようとする教師の姿勢。このようなことが教育の基本であると信じてやってきた。

 教師にとって教える教科の知識は基本事項。しかし、知識だけもっていても授業は成立しない。教師が学生に関わっていこうとする態度、学生同士の助け合い学び合おうとする心を呼びおこすこと。よい授業のために必須の条項はたくさんある。

 楽しい雰囲気にするため、私は何でもやる。ときどきやりすぎて顰蹙もかう。
 これまでに紹介した日本語教授法クラス。どのように授業を行うかを実演してみせる私のデモンストレーション授業の中でも、おおいに受けたのは、すもうのジェスチャーだった。

 学生のひとりが、「日本語教師はジェスチャーの練習もしておかなきゃなりませんね」というので、「日本語教師は芸人を目指さなければ、やっていけません!」という、私の持論を披露。

 日本語の歌を歌って文法を導入するときもあるし、映画や小説の一部分を、シナリオにして、教師がひとり二役で演じてみせることもある。「朗読が上手」などは、芸のうちにも入らない。

 私がよく学生に披露する芸は、バレエのポジション。一番得意なのは、足を前後開脚して、180度に完全に開くこと。また、「パ・ド・シャ」という、「猫の足」の形でくるくる回転するのも得意。

 そんなもの披露して、日本語と何の関係があるのかって。な~んもありゃしません。
 ただ、学生の興味を授業に集中させるとき、「はい、はい、こっちを見て、集中して!」と叫ぶより、学生のひとりに「足を前後に開いてみせて」と、やらせて、開かないのを確認してから、私がぱっと開いて見せると、いっぺんに学生の注目があつまり、次の授業項目へ向かって、集中させることができる。

 留学生に対する日本語授業に限らず、教育の基本は「教室内のコミュニケーション」をいかになごやかに、いい雰囲気にするかが、重要。

 逆に、この雰囲気が壊れたときは修復がむずかしい。
 あるクラスで、全員が先週とうってかわってギスギスした雰囲気になっており、授業の進行がうまくいかないことがあった。

 連絡ノートに先週のクラスの報告があった。
 ディベート授業で、「それぞれの国の印象を話し合う」というトピックが出された。国の第一印象、私たちもよく話題にすることだ。
 エジプト=歴史の古いピラミッドの国。サウジアラビア=石油がとれる砂漠の国。フィンランド=森と湖とサンタさんの国。タイ=仏教寺院とほほえみの国。などなど。

 ある学生が、ペアになった学生の国の印象を「麻薬の輸出国」と言ったことから、ふたりが反目し合い、クラス内が対立してしまったのだという。
 結局このクラスは、仲直りできないままコースを終了する結果となった。

 私もディベートのトピックには気をつかい、国際問題になりそうな話題は避けているが、まさか、「国の印象」から対立が始まるとは、このトピックを提出した先生も予想がつかないことだったろう。

 クラスの雰囲気を作るための方法は、教師それぞれの個性。

 書道師範の資格をもつ先生が、最初のひらがなの練習のとき、筆と墨を用意し、「日本文化体験授業」として、ひらがなを半紙にかかせてクラスを盛り上げることもある。

 学生がひらがなの書き練習をしている間に、折り紙でひとりひとりに様々な形を折ってプレゼントする先生も。(私が本を見ないでできる折り紙は、つると兜だけ)
 春庭は、挫折したとはいえ、元ミュージカル役者なのだから、唄や踊りが主要ツール。

 日本語教師とは、かくも芸に精進するものなのだ。
 といっても、授業中にすもうのジェスチャーやったり、足を180度に開脚してみせたりする日本語教師は、日本で私だけである!

 春庭、「50代の日本語教師の部、餃子早食い暫定日本一(10/20『をんなとおんな』参照のこと)」の座のほか、「授業中に足を180度に開くことができる唯一の日本語教師」の座、も保持している。

 イブの夜。またもや「膝っ小僧が、寒うかあろうぉおお」の夜である。膝は寒いが、せめて、ジングルベルでも歌いながら、前後開脚180度。開き直るのが春庭の人生。

Dashing through the snow 
In a one horse Open sleigh
 
 オープンスレイ!オープンマインド!、開きっぱなし。今夜も、あなたのために、スプリングガーデン、開けてあります。
 よい聖夜を!!

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「漢字クイズ」

2003-12-22 | インポート
(12/22)
春庭のBC級ニッポン語教育研究18「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー漢字クイズ」

12/19、年内最後の授業。最後のクラスは初級漢字クラス。
 授業が終わったらその足で成田空港へ向かい、帰国する留学生もいて、じっくり初出の漢字を覚えるには、あまりよくない時間。明日からの冬休みを前に、皆浮き足だっている。

 本当は、字形に注意しながらゆっくり書き練習、音読み訓読み気をつけて熟語や漢字交じり文の読み練習をしなければならないのだが、どうやら、いくら練習しようとしても、右の耳から入った説明が左の耳から出ていってしまう状態。
 新出漢字の導入はちゃっちゃっと終わりにする。練習は「冬休みの宿題」ということにしてしまった。

 10月に来日して「あいうえお」から習い始めたクラス。これまでの3ヶ月、とても仲がよく助け合って勉強してきた。
 最後くらい漢字詰め込みはお休みにして、ちょっと遊びましょう。

 今日の初級漢字クラスのメインイベントは、「Five hint 」というクイズ。見たことのない漢字や、忘れている漢字を出題し、3つのヒントで答えをいう。

 3つのヒントだけで答えられたら3ポイント。当たらなかったらひとつ追加の質問ができる。ここであたったら2ポイント。当たらなかったらさらに追加の質問。ここで当たったら1ポイント。はずれたらゼロ。ポイントなし。

 最初に私がデモンストレーション。私の例題は「兎」と「象」「薔薇」など、初級クラスでは、教えない漢字。見たこともない漢字に頭をひねったあと、ヒントを言って答えさせる。

 例題第1問。「兎」と書いた紙を見せる。誰も読めない。それはそうだ。「うさぎ」という日本語は知っていても、漢字はまだ知らない。

 「First hint、最初のヒント。動物です」
 学生「?」
 「二番目のヒント。小さくてかわいいです」 学生「Cat? ねこですか?」
 「いいえ、ちがいます。最後のヒント。耳が長いです」
 学生「わかりました。Rabit」
 「日本語でどうぞ」「えーと、うー」
 別の学生「うさぎ!」
「正解です」という具合。

 ラビットはわかったのに、うさぎが答えられなかった学生はくやしそう。

 次に、クラスを半分に分け、赤チームに赤いマジックペン、青チームに青いマジックを渡す。二人ずつペアを組み、ペアワークで、正解にする漢字とヒントのことばを考えさせる。

 赤チームは、赤いマジックで紙に正解を書いておく。赤チームが考えた正解は「日本酒」「東京タワー」「鎌倉の大仏」「日本、酒、東京、大」は既習漢字だが、「鎌倉、仏」は未習。未習の漢字は、学生に聞いて私がこっそり書いておく。
 「タワー」と、カタカナで書くと簡単にわかってしますから、塔という漢字も教える。

 青いマジックを使う青チームが考えた正解は「新幹線」新は既習。幹線は未習。「年賀状」年は既習、賀状は未習。三問目の正解は「私たちは漢字、書けます」と言って、正解を見せてくれなかった。

ふたつのチームがかわりばんこに出題。

 青チームの学生が自分たちで考えたヒントを言う。
 「長いです」「とても速いです」「安くありません、高いです」
 冬休みに旅行を計画している学生から「しんかんせん」という正解が出た。3ポイントゲット。

 赤チームのヒント。「とても大きいです」「いつも座っています」「外に座っていますが、寒くありません」正解が出ない。

 青チームからの質問「動物ですか」「いいえ、どうぶつじゃありません」
 ここでちょっと私の助け船。いすの上にあぐらで座って手で印を結び「I'm a buddist」それで「ダイブツ」という答えが出た。ここでもめた。
 「ナラのダイブツは外にいません。かまくらと言わないから、正解じゃない」という赤チーム。「ダイブツ」があたったのだから、正解だという青チーム。「じゃ、1点だけ」と、仲裁。

 青チームの第二問「日本の人はこれが好きです」「フィフィさんも好きです」「飲み物です」
 赤チームの答えは、すぐに出た「お酒」「日本酒」。みんなどっと笑う。フィフィさんの日本酒好きはクラスで有名らしい。

 年賀状は、「じゅうしょとなまえを書きます」「お正月にもらいます」「郵便局へ行きます」というヒントで正解が出た。

 東京タワー。「一番高いです」「きれいです」「のぼります」というヒントで出た答えは「ふじさん」

 「ちがいます。東京タワーです」と、正解が発表されると、青チームは「ふじさんはきれいです。東京タワーはきれいじゃないです」と、ヒントの出し方が悪いとブーイング。
 「夜、ライトをつけるときれいですよ」と、私のヘルプ。

 青チーム、最後の問題。出題者はやけにうれしそう。
 「きれいです」おや、また「きれいです」というヒント。あとでブーイングがでないといいけれど。「かわいいです」ますますブーイングが出そうなヒント。
 「いつも冗談を言います」

 赤チームは、「わかった、わかった」と大喜び。声をそろえて「春庭先生」と言い、みな大笑い。
 青チーム「正解です」。私も大笑いして「春庭先生はきれいです。かわいいです。わあ、それは冗談ですねぇ」

 めでたく正解がでたところで、漢字クイズはおしまいにした。

 私の冗談好きも、クイズにしてしまう学生達の機転に、日本語の上達を確かめて、「みなさん、たのしい冬休みをすごしてください」と、ごあいさつ。

 「よいお年を」「よいお年をおむかえください」という年末のあいさつも上手に言えるようになって、今年の授業おさめ。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「が」の機能

2003-12-21 | インポート
(12/21)
春庭のBC級ニッポン語教育研究17「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「が」の機能。納得するまで疑問を持ち続けることの価値

 12/03に、英語のことばの並びかたと日本語の並び方の違いについて、述べた。英語の基本的な文型SVOでは、動詞の前にあるのが主語(subject)動詞のうしろにくるのが対象語(object目的語)

 「Subject」の形容詞や動詞としての意味が「服従する」「受け入れる」「従属させる」ということからわかるように、動詞で表現される行為行動や事象を、我が身に負う、受け入れる主体という意味。「Object」は、Subjectの対象となるもの、動詞で表現された行為をはさんで、主体と対極に存在し、行為の対象となるもの。

 日本語では、語の順番ではなく、どの助詞(particle)が単語にくっついたかによって、文の中での機能が決定する。
 ここでは便宜的にparticleと言っているが、英語のparticleには前置詞、冠詞、接頭辞などがすべて含まれるので、英語圏の学生に対してparticleという文法用語を使うときは、前置詞や冠詞とは異なることを言っておく必要がある。

 日本語の助詞には、日本語独特の働きがある。
 初級で最初に教える助詞は、副助詞の「は」。「わたし は がくせい です」などの「(名詞)は(名詞)です」という文が、どの初級教科書にも、第1課で扱われる。

 「は」は、文のトピック(話題、これから話し手が述べたいことの主題)をあらわす。
 聞き手が承知している話題について、説明をくわえるときに用いる。

 「私」という存在が目の前にいて、聞き手は「私が今ここにいること」を承知している。そのとき、「私は 春庭です」とここに存在している「私」がどのようなものかを説明する。

 もし、「私」の存在を、話し手が知らないときにはどうするか。
 病院の受付で、受付係が名前を確認している。「鈴木さん、内科の受付をなさった鈴木さん、いらっしゃいますか」
 このように受付係が呼んだとき、話し手が承知しているのは、「鈴木さん」という氏名のほうであって、「私」を見たことはない。
 そのとき、「私は 鈴木です」とは、言わない。「はい、わたし が すずきです」という。相手にとって、新情報であるとき「は」ではなく、「が」を用いる。
 「は」は、話し手聞き手が承知しているものを話題としてとりあげるときに用いるからだ。

 「昔むかし、おじいさんとおばあさん が 山の中に住んでいました。」と、話をはじめるとき、おじいさんとおばあさんのことを新情報として提出するので、「昔、むかし、おじいさんとおばあさん は 山の中に住んでいました」とは言わない。

 しかし、一度おじいさんとおばあさんの存在が読者に提示されたあと、おじいさんとおばあさんが新たに行う動作は、「は」で示す。「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」
 もう、おじいさんとおばあさんの存在がわかっているのに、「おじいさんが山へ芝刈りにいきました。おばあさんが川へ洗濯に行きました」というのは、不自然になる。

 副助詞「は」の機能はまだ、たくさんあり、たとえば、対比をしめす「は」。
 「ビールは飲めるが、ウィスキーは飲めない」のように、ふたつのものを対比させて述べるときの助詞。
 「チューリップは咲いているが、桜はまだだね」なども、対比。

 副助詞の仲間には、「も」「さえ」などがある。「わたしも がくせいです」などが第1課で提出される。「副助詞」という呼び方のほかに「取り立て助詞」というときもある。

 「は」の次に扱う助詞が、格助詞「を」や「へ」「で」。
 格助詞は、単語について、文節(文の成分)の機能を確定する。ひとつの助詞がさまざまな機能を担う。
 
 初級教科書の第2課第3課あたりで扱う「毎日、私は がっこうへ 行きます」「毎朝、わたし は たまご を たべます」など。

 助詞「へ」は、方向、目的地をしめす。
 「に」との違いが必ず質問で出てくる。「学校へ行きます」と「学校に行きます」は、どう違うのですか、という質問。

 「へ」は、方向の移動性を頭に置いて、今存在する場所から、目的地へ向かって移動していく過程を念頭におく場合使う。
 「に」は、移動の過程を念頭におかず、目的地の存在を強く意識するときに使う。「学校へ」というとき、家を出て電車に乗って、最寄り駅から歩いて、という過程が念頭にある。「学校に」というときは、移動の過程ではなく、「学校」という場所が、話し手が到達したいと思っている目的地であることが意識されている。

 「毎日、会社へ行きます」というとき、会社までの道のりや、乗換駅のことなども念頭にあり、「毎日、会社に行きます」というとき、目的地としての会社、自分が働く場所としての会社が意識にある。

 格助詞は、このように、語と語がどのような関係で述語に結びつくかを表す。ひとつの格助詞は、多様な機能を持つ。

 たとえば、対象を表す「を」。「パンを食べます」「彼女を愛している」など、述語の対象を表すのが第一の機能。
 第二の機能として、「橋を渡る」「公園を通る」など、移動を表現する動詞と結びついて、通過地点を示す、という機能がある。

 「に」「で」なども、多様な機能をもつ。
 「で」の機能のいくつか。
 「で」の基本機能は、場所の表示。「郵便局で 葉書を買う」「北海道で 大雪になった」など、「で」は、行動・事象が行われる場所を示す。

 「電車で 会社へ 行く」このときの「で」は、手段を表す。「はしで ごはんを 食べる」の「で」も手段。
 「人身事故で 電車が 遅れた」の「で」は、原因理由を表す。
 さらに、「市役所で 住民登録をした」というときの「で」は、場所を示しているが「この問題については、市役所で調べているところです」というときの「で」は、「動作主体
」を示す。「事件は 警察で 処理するから、素人はひっこんでいろ」などと言うときの「警察で」は、処理するという動作を行う主体を表現する。

格助詞「が」は、代表的な格助詞が提出されたあとで、教えられる。「は」との使い分けの説明がかなり難しいからだ。

 格助詞「が」の第一の機能は「述語predicate」が表す行為・事象の主体を示すこと。
 話し手も聞き手もその存在を知っている「桜」について述べるとき「桜は きれいだよね」「今年の桜は、いつが見頃だろう」など、「は」で、話題にだす。

 しかし、今現在目の前で展開している事象に気づいて話すとき「あ、ほら、あそこ見て。もう桜が咲いているよ」と言う。新しく気づいた現象についてその主体を示すときは「が」が用いられる。

 格助詞「が」の、もうひとつの機能は、心理的な対象、欲求が向けられる対象を示すこと。「あの子が好きだ」「テニスが上手だ」「酒が飲みたい」など、話し手の心が向けられる対象をしめす。

 対象を示す助詞は「を」であるので、最近の若者は「あの子を好きだ」「酒を飲みたい」など、「が」格でなく、「を」格で対象を表す傾向にある。あと、20年くらいすると「酒が飲みたい」より「酒を飲みたい」のほうが一般的な言い方になるのではないか。

 また、「が」は、「の/が」変換といって、文の中、特に従属節においては、「が」で表示される機能は「の」に置き換わって使われる。「私が好きなあの子」は「わたしの好きなあの子」と、「が」が「の」に変換されて使われる。この場合の「の」は、「が」の機能と同じ。
 
 ドクターからの質問。『どうやら「が」と「の」は、後ろに来る述語によってその前の言葉が主語にも目的語にもなるらしいのだが、なぜなんだろう』

 「なぜなんだろう」の回答としては
1,「が」は「の」と変換できる。
2,「が」の機能のひとつとして、「行動行為のむけられる対象」を示す。
3,「が」によって対象を示すときの述語は、心理的な愛憎や要求などがむけられることを示す述語である。

 ドクターがお気づきのように、「が」が、対象を示す述語は「好きだ/上手だ(ナ形容詞)飲みたい食べたい(動詞の欲求形、活用はイ形容詞と同じ)」などの、述語に限られ、動詞の欲求形(~たい)以外の動詞述語の場合は「パンが 食べる」などにはならない。

 「が」格を対象格として持つ動詞。初級で扱う動詞は「みえる」「きこえる」くらい。
 「富士山が見える」「子どもの泣き声が聞こえる」、という場合、対象を示すのは「が」になる。
 「富士山を見る」「音楽をきく」と、どう違うのか、日本語学習者から、必ず出される質問である。あなたなら、どう説明しますか。(ヒント:意志動詞、無意志動詞)

 ふだん、何気なく使っている母語を意識化するのは、むずかしいことだ。あたりまえの用法としてしゃべっているから。

 その母語を意識化できるということは、ほんとうにすばらしいこと。ドクターが「なぜ、こういうんだろう」と疑問に思ったということが、私がいう「文法というのは、ことば不思議発見のこと」と、以前に話したことなのだ。

 「なんで、こういうんだろう」「どうしてこういう表現をするんだ」と気になることが、文法意識の出発であり、日本語を教えるということは、こういう「なんで日本語ではこういうんだ」ということを、意識化して外国人に伝えること。

 mitubaさんの日記に学校へ行くことを拒否した15歳少年の話が出ている。

 彼は「なぜ、縦と横をかけると面積になるのか」と教師にたずねたが、答えてもらえなかった。彼にとって、学校教育が意味のないものに思えたのもしかたがないことだろう。

 教師とは、「縦と横をかければ面積になる」という計算方法を教える役目も担うが、もっと大事なことは、「なぜ?」という素朴な疑問に答えてやることだ。

 私は数字に弱く、数学は大の苦手。中学1年生のとき、マイナスをマイナスをかけると+になる、ということがどうしても理解できなかった。

 教師は「そんなこと考えてないで、決まっていることなんだから覚えればよい」と言った。テストではマイナスかけるマイナスはかならず+にして答えを書いたから、点はとれた。

 どうしてマイナスかけるマイナスが+になるのかをおしえてくれたのは、中学校国語科教諭になったときの同僚の先生。

 水道方式という教授法をマスターしている先生だったが、出産したあと、教師をやめることになった。生まれてきたお嬢さんの治療養育に専念するため。

 今でも、数学でわからないことがあると、この友人に手紙を出して素朴な疑問に答えてもらう。このような先生に巡り会える人は幸福だ。

 多くの場合、このような教師に巡り会わないまま学校教育の場で「がまんしながら」すごすのではないか。

 わたしが「なぜ、英語では、いちいち一個の林檎とふたつ以上のりんごを区別するのか」という疑問をもったときに「ヘリクツ言わずに覚えろ」と叱られた思い出をもつように、ほとんどの子どもは、素朴な「なぜ」をつぶしながら学校の勉強を強要されているのではないだろうか。
 
 少なくとも、私は、学生から「どうして日本語ではこういうふうに言うのだ」と、質問されたとき、「つべこべ言うな。日本語ではこう言うのに決まっているんだ」と、答えることはしたくない。

 自分でも、わからないことなら、学生といっしょになって考える。答えが出ないときもある。それでも、「先生は質問したことを絶対に無視しない。いっしょに考えてくれる」という姿勢を示すことが、教師の基本だろうと思う。

 ドクターから、「が」の機能について、質問を受けて、とてもうれしかった。まだ全部説明しきれたわけではないけれど、ドクターの疑問にいっしょに考えることができて、楽しいひとときだった。

 「不思議に思う、疑問をもつ、いっしょに考える」これは、世界を共有しようとする人間と人間の関わり合いの基本ではないかと思っている。

 社会のなかであたりまえとされていること、当然だからといわれること、これらのことも、なぜなんだ、なぜ当然のことにされているんだ、と考えることは相当なエネルギーを要する。
 長いものに巻かれて生きる方が、はるかに楽である。

 chiyoisozakiさんの日記。
 「入会するのが当然」とされている地域の「自治会」への疑問から、脱会を決めた。相当な圧力、地域からの圧迫もあったことだろうと察する。

 しかし、納得のいかない自治活動なら、長いものに巻かれて楽を決め込むより、納得できるまで考えてみようとする態度。ここから何かがスタートするのだと信ずる。

 有無を言わさず「決まったことだから」と、遠い戦地へ出かけていくこと。「なぜ?」という素朴な疑問を持ち続けたい。

ほかに、貢献できる方法はないのか、現地の人々にとって、一番必要なことは何なのか。疑問を持ち、考え続けたい。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「の/こと」

2003-12-20 | インポート
(12/20)
春庭のBC級ニッポン語教育研究15「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー動詞の名詞化を教える②」

 12/19に、形式名詞「こと」助詞「の」による動詞の名詞化(Verb nominalization)の理論編を書いたところ、dionさんから「『体言止め』と同じですか」という足跡質問をいただいた。
 いいえ、「体言(名詞)止め」と、「動詞の名詞化」は、同じではありません。

 体言止めというのは、文のおわりが名詞で終止することを言います。「働けどはたらけどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」という短歌は「見る」という用言(動詞)で終わっています。これに対して「今年も何もいいことがなかった。泣き濡れて砂をつかむ私の手。」という文では、「手」という名詞で文が終わっています。これが体言止め。

 動詞の名詞化とは、動詞の形を変えて名詞にすること。「こと」をつけると、動詞「する」が、名詞「すること」に変化します。これが動詞の名詞化。

 もうひとつ動詞を名詞化する方法は、動詞の連用中止形名詞。「行く」が「行き」という名詞になり「行きも帰りも立ちっぱなし」と、名詞として用いることができる。「のぼり、下り」「読み書き」なども、動詞連用中止形名詞です。

 いつもならパソコンの前でいつまでもメールをやりとりしている学生が、明日からの冬休みめがけ、一目散に帰っていったので、留学生センターのパソコンがめずらしく使われていませんでした。
 それで、仕事が終わってから学生用のパソコンで足跡をチェックでき、dionさんの質問に気づきました。足跡ページに書いてあるとおり、昼間は春庭授業中、質問が書いてあっても、足跡をチェックできず、答えられません。質問があるかたは、ミニメールでお願いします。

 敬愛する九州のドクターからも、助詞「が」について説明せよとの御下問が。明日お答えします。
 年末年始特別更新。12/20、12/21,12/22 更新します。12/23,、12/24,更新しません。12/25,12/26、更新します。12/28、12/29,12/30、更新しません。12/31、2004/01/01,01/02,、更新します。01/03,01/04,01/05,01/06,01/07 、更新しません。
 2004/01/08から、通常の平日更新、土日祝日更新なし。

 さて、「動詞の名詞化を教える授業」の続き。
 「私が、『こと』と『の』を導入するときは、こうやります」というサンプル。あくまで一例であり、さまざまな授業方法が存在する。

 以下の授業実践は、直接法(日本語だけで授業をする)に、媒介語(このクラスでは英語)を加えた、「折衷直接法」の授業である。

1,文字カードを準備。
 カードに「ピンポン」「バレーボール」「バスケットボール」「テニス」「ボクシング」「すもう」「Swimming」「Walking」「Watching」「Standing」「Taking photograph」などと書いてある。

2,日本語学習者をふたつのチームに分ける。カードを配り、ふたり一組になってジェスチャーを出題し、相手チームに何をしているか、あてさせる。あたったら、ポイントゲット。
 これは、カードの語句の意味を理解しているかどうか、確認するための遊び。

 「泳ぐこと」「写真をとること」などは、ジェスチャーで当てられるが、「立っていること」「見ること」などは、ジェスチャーが巧みでないと、答えが出にくい。ただ、じっと立ち続けるジェスチャーでは「立っていること」という答えが出ないのだ。

 「すもう」のジェスチャーなどは知らない学生もいるので、できそうな人にあてておく。学生ができないときは、教師がジェスチャーすると、みな大喜び。私は調子にのると、横綱土俵入りのジェスチャーまでサービス。

3,「Please answer. Do you like sports. 答えてください.スポーツが好きですか」スポーツが好きそうな学生に質問する。学生は「好きです」と答える。

①テニスが好きそうな学習者に質問「テニスが好きですか」学習者の答え「はい、好きです」

②女子学生に質問「ボクシングが好きですか」好きだと答えたら「ボクシングができますか」「いいえ、できません」「そうですか、○○さんは、ボクシングができません。○○san can not play boxing.」

① わざと、すもうができるか聞いてみたりする。冗談で「できる」と答える学生がいたら、「Let's play the game. I am Takamisakari You are Asashoryu.」と、のせる。ふたりで、立ちあい「みあって、見合って、はっけよいのこった」と、立つまでをジェスチャーでやったり。がっぷり四つに組むのは、ちょっと遠慮。(昼間だからね)

4,教師「○○san do you like TV watching ?」
  学生「Yes I do」
 教師「そう、好きなのね。日本語で言ってください」
 学生「好きです」
 教師「Please say full sentence.」
 学生「わたしはテレビを見るが 好きです」

5,教師「今の日本語は正しい日本語ではありません。もういちど、言ってください」
 学生「わたしはテレビをみるが、、、、」
 教師「ちがいます。『みるが』は、正しい日本語ではありません」
 学生「Ah!わかりません」

6,学生が間違えたら、すかさず、「こと」「の」を導入する。「日本語動詞の名詞化 Japanese verb nominaraization」の説明。「の」と「こと」の使い分けなどを説明する。
「私は テレビを見るのが 好きです」

7,「こと」を用いた、動詞の名詞化の練習。カードをみせながら、あるいは口答練習で「Walking →あるくこと」「Watching →みること」の変換練習

8「動詞~のが好きです/~のは好きじゃありません」の代入練習。「公園を歩くのが好きです」「テレビを見るのが好きです」「電車の中で立つのは好きじゃありません」などの文型を練習。

9「趣味は、動詞~ことです」の代入練習。
①「趣味はお酒を飲むことです」「趣味は映画を見ることです」「趣味は絵を描くことです」などの例文を練習。

②調子にのりやすい男子学生がいるクラスだと、「趣味は、女の人の写真をとることです」「趣味は女の人と話すことです」などと、うけねらいの短文が続出。

②乗りやすいクラスと、そうでないクラスでは、例文を使い分ける。やたらに「うけねらい」の文を発表しようと、はりきる学生がいるクラスがある。
 また、ちょっとでもふざけた文を言うと、ブーイングを出す、まじめ学生のいるクラスも。

 教師も、クラスの個性にあわせて臨機応変に。

 あなたの趣味は?「趣味は、女の人といっしょにホテルへ行くことです」あ、そう、いい趣味ですわね。春庭も同じ趣味です。共通の趣味を持っていて、気が合いますこと。おほほほ、、、
 「春庭の趣味も、女の人といっしょにホテルへ行くことです」ホテルのレディスサービス、エステ料金無料などのサービスがある。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「日本語教授法」私の趣味は日記を書くことです

2003-12-19 | インポート
(12/19)
春庭のBC級ニッポン語教育研究14「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー動詞の名詞化を教える①」私の趣味は日記を書くことです

 春庭が「ニッポニア教師日誌」に書いた一番新しい授業実践報告の中から、日本語文法「動詞の名詞化」を、どのように学習者にわからせるか、というのを転載紹介しましょう。

 日本語教師の資格取得をめざす日本人学生の「日本語教授法」というクラスで紹介した、春庭日本語授業のデモンストレーションです。

 日本語教授法は、「どのようにして日本語を教えるか」を教えています。教員免許の「英語科教科法」とか、「国語科教育法」などに相当する授業です。

 以下は、『話しことばの通い路』フリースペースちえのわ『七味日記2003/11/26 ニッポニア教師日誌』に記載した授業実践の転載です。興味が持てたら、七味日記の他の「ニッポニア教師日誌」も、どうぞご覧ください。

 「動詞の名詞化」を教える授業。直接法(ダイレクトメソッド)と、媒介語(この授業の場合は英語)を用いて文法を説明するのを組み合わせた折衷直接法による授業例

 最初に、基本の理論から。
 英語の動詞はrun がrunning に、walk が walking に、という現在分詞の形で、動詞を名詞としてもちいることができる。
 日本語はこれを取りいれ「ランニング」など、そのまま外来語として使用している。

 日本語の動詞を名詞的用法で文にするには、助詞「の」形式名詞「こと」が用いられる。
 泳ぐという動詞を名詞化(nominaraization)すると、「泳ぐこと」「泳ぐの」どちらも使う。
 「こと」と「の」の使い分けなど、留学生には混乱が起きやすい文法項目だ。
 
 「泳ぐのが好きです」は、「泳ぐことが好きです」と、言うことができる。しかし、「私の趣味は泳ぐことです」という文を、「私の趣味は泳ぐのです」と、言うのは不自然だ。

 そのあたりの文法事項を、きちんと把握していないと、もし、留学生が「私の趣味は泳ぐのです」という発話をしたときに、教師として対処できなくなる。
 「日本語ではそう言わないんだから、つべこべ言わないで覚えろ」と言うしかなくなる。

 名詞化の「の」は、コピュラ「だ」「です」と共起しないことを、教授者が把握している必要がある。

動詞の名詞化の説明(「S.F.J」文法解説に基づく)

1,Attaching「の」 or「こと」(tha fact)that ro V-ing to the end of a sentence in it's plain form allows it to function like a noun.
動詞の基本形(辞書形=国文法でいう終止形)のうしろに、「の」、「こと」(できごと、事実の意味)を附属すると、名詞と同じ機能を持つ。

2 ナ形容詞(国文法でいう形容動詞)や、名詞+ナの単語は、「の」を附属させる方が、「こと」を附属させるより、好んで使われる。

 例:「春さんが元気なことを知りませんでした」より「春さんが元気なのを知りませんでした」のほうが、よく使われる。

3 「の」is preferred to 「こと」in sentences involving ~好きだ/嫌いだ/いやだ/上手だ。
~好きだ/嫌いだ/いやだ/上手だ/下手だ、と、組み合わせるばあい、「こと」よりも「の」の方が好まれる.

例:雨の日にでかけるのはいやですね。>雨の日にでかけることはいやですね

4「こと」only is used in the following type of sentence. ( N は N です)

例:私の趣味は本を読むことです(「私の趣味は本をよむのです」は、不適切)

 cf:「だれがなんと言おうと、私はいくのです」という場合の「の」は、また別。「いくんです」「だれが撮っても上手に写るんです」の「の」や「ん」は、説明的終助詞(explanated finel particle)の、「の」である。

あ、話がややこしくなった。逃げないで次に展開する授業実践を読んでね。春庭、授業中に「横綱土俵入り」を披露しているから。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「直接法」

2003-12-18 | インポート
(12/18)
春庭のBC級ニッポン語教育研究13「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「直接法(ダイレクトメソッド)の語学教育」

2003/12/18 0: 1 katuyuki22 中国の学生の話をきくと「大地の子」を思いうかべます。
という足跡をいただきました。

 「大地の子」は、春庭にとっても特別な思い出の作品。春庭が出演しているからです。
 出演といっても、俳優としてではなく、ただのエキストラ。長い作品の中で、ほんの5分間くらい画面に映ります。

 中国の大学で教えていたとき、大地の子のロケが行われました。
 仲代達矢と渡辺文夫が、家族の墓参りをするというシーン。

 日本に戻ることなく満州の地に倒れた妻や子をしのんで、皆で泣きながら家族が埋められていると推定される場所に墓を建てる、という場面です。
 春庭は、日本からの墓参訪問団の一員という役まわりのエキストラでした。

 エキストラが中国の方ばかりだと、日本からやってきた訪問団という設定が本物らしく見えない、というNHKの判断で、急遽日本人の教師がエキストラにかり出されたのです。

 ほとんどの先生はテレビドラマのエキストラなどに興味をしめさず、やりたいという人に限って、はずせない授業があったりして、私のところまで話がまわってきました。

 春庭は、好奇心のかたまり。喜び勇んでエキストラに参加しました。

 私と男の先生がふたり。男の先生にはひとことずつセリフが与えられたけれど、私は「墓参団に参加するという設定と年格好が合わない」というので、セリフなし。

 セリフなしでもめげない春庭。主役のうしろに立てば必ずカメラワークに入ると計算して、仲代達也のうしろに立ち、墓参りのシーン撮影に臨みました。

 結果、今年の夏再放送されたロングバージョンの回では、5分間くらい写っています。
 ショートバージョンのビデオの場合、満州墓参団のシーンはカットされているので、映りません。

 25年前、ケニアに滞在していたときは浅野ゆう子の友だち役で『熱中時代スペシャル版』にエキストラ出演。
 10年前の中国では『大地の子』にエキストラ出演。家族へのなによりのおみやげです。

中国で半年間教えている間、中国語を勉強したのですが、最後まで上手になれませんでした。

 え、中国語できなくて、どういうふうに中国の大学で教えるの?と、質問されることもあります。
 中国語ができなくても、英語ができなくても、日本語教えられるのです。

 日本語の授業って、いったいどんなふうにして、外国人に日本語を教えていくのか、見たことある人もいるだろうし、まったく知らない人も。

 一番わかりやすいたとえとして、子どもが中学校に入学して英語を習う際に、英語圏から来た「TA=ティーチングアシスタント」がついたクラスを思い浮かべてください。

 私たちの世代では、日本人の先生が、英語をカタカナ読みした、日本語なまりそのままの英語。カムカムエブリバディ世代の先生に教わりました。

 現在では、英語教育理論をきちんと身につけた外国人教育者を採用している学校が少なくありません。

 TAは、英語だけで、英語の授業を行うことが多いです。少しは日本語を知っているとしても、授業ではなるべく日本語を使わないで、英語だけで教えるのです。

 また、小学校での英語教育も始まろうとしているところです。英語の先取り研究授業、または総合学習「異文化理解教育」として、英語の授業を行っている学校もあります。
 この場合も、TAが英語だけで英語教育を行う場合があります。
 
 日本語教育では、この「英語だけを用いた英語教育」を逆にした「日本語だけを用いた日本語教育(直接法)」が最も広く行われています。

 どのように日本語だけで日本語をわからせていくか、については、「話しことばの通い路」のウェブログハウス春庭「ステップバイステップ日本語教授法」の「最初の授業」に、くわしく書いてあります。読んでね。

 私は、サバイバル日本語として、最初の日に、自己紹介「わたしは○○です。どうぞよろしく」と「○○、ください」を導入する。そして、日本語の音節の発音練習と、ひらがなの読み方(あ行からな行くらいまで)をインストールする。

 英語は、第二言語習得理論の上で、音声から導入する方法が確立しているが、日本語と英語は異なる。

 10/18「いろは歌留多」で説明したように、日本語は開音節の発音で、音節文字であるため、文字と発音を同時に、最初から指導するやりかたが、効率的。

 2日目に「いくらですか」と、数字の数え方を導入(導入というのは「インストール」の教育用語)ひらがなの「な行~わ、を、ん」
 3日目に濁音、拗音、促音、長音。

 「ひらがな」導入のとき、最初はあ行とか行だけでできている名詞を練習する。色カードをみせながら「あか」「あお」、「貝」の絵をみせながら「かい」自分の顔を指し示したり、顔の絵を見せて「かお」を練習する。駅の絵や写真を見せて「えき」

 発音練習ができたら、音声と文字を結びつける。

 さ行、た行の発音ができれば、音の組み合わせもふえて、いろんな単語を絵カードで教えられるようになる。

 そうしたら、「~ください」を導入。八百屋や肉屋、コンビニにいることを想定して「とりにく、ください」「はむ、ください」「ぱん、ください」などを練習する。私が店員の役をして、買い物ごっこをする。

 留学生が、うまくできたら大いにほめて「Now you can buy anything at the Japanese shop.」などと、おだてます。

実際には、まだまだ運用できないことがたくさんあるのだが、「日本語で買いたい物が注文できた!」という喜びを味わうことが大事。

明日は、授業の実践例を紹介しましょう。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「猿が教える日本語クラス」

2003-12-17 | インポート
(12/17)
春庭のBC級ニッポン語教育研究12「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「サルが教える初級日本語クラス」

 12/10に書いた、元就学生郭さんの未亡人へ、見舞金が贈られるという。遺されたお子さんがすこやかに成長できるよう祈るばかり。

 郭さんが、最初は日本語を学ぶ就学生として来日したのに、次は不法入国せざるを得なかったのはなぜか。
 来日ビザの取得がきわめて厳しい条件下で発給され、国の権力者とコネクションがない一般人にとって、ビザをとることが難しいからだ。

 今年度も、某大学が受け入れを予定していた数百名の留学生が、来日できないことになった。外務省がビザを出さないことに決定してしまったからだ。

 12/16朝のNHK番組で、就学生への入国管理事務所の管理強化と、来日書類の審査強化が特集されていた。留学生就学生16万人。日本語学校350校を越える現状。

 日本人が16万人いる市があるとして、その中にひとりの盗人も詐欺師もいない、ということがあるか。必ずよい人もいるし、悪い人も存在する。

 留学生就学生も、基本は「日本で学びたいという強い願い」を抱いて来日している。だが、16万人の人がいれば、その中に、ひとりの悪人も存在しないということは難しい。しかし、その16万人が、余所からやってきた人々ゆえ、たった一人でも犯罪に巻き込まれたりすると、留学生就学生全体が迫害を受ける結果となる。

 春庭の教えている学生の中で、日本政府の招聘により日本で学ぶ国費留学生は、文部科学省が留学費用を給与するエリートたち。もっとも恵まれている立場。設備のいい寮の個室。家族が来日すれば家族室。平均的な留学生の生活費を上回る奨学金の給与。

 一方私立大学の私費留学生たちは、ほとんどがアルバイトをしている。
 ある学生は日本語作文にこう書いた。
 「コンビニとラーメン屋のアルバイトをかけもちでやって、毎週作文の宿題、日本文化のレポートや、自国と日本との交流史の発表。ほんとうにきつかった。
 作文は毎週書くことで、今は400字くらい楽に書けるようになった。
 発表は調べるのがたいへんだったが、日本語ワープロとパソコンが上手に使えるようになった。
 そして、アルバイトは私にとって、第二の大学。店長さんや仲間から、たくさんのことを学んだ」

 はじめて親元を離れて日本に来たまだ幼さの残る顔立の留学生を、大きく成長させたもの。大学の勉強と同じようにアルバイトの体験が大きかったことが、伝わる。

 よい日本人とめぐり逢った留学生の話を聞くと、ほんとうにうれしい。しかし、逆も多い。心ないひとことに傷つき、全部の日本人がそうではないと承知していても、留学の志が冷えた日を体験した留学生は少なくない。

 ほとんどの学生はまじめに、いっしょうけんめい日本での生活をおくっている。

 留学生就学生の話を書いたら「イラクからの留学生に思いをはせます」という足跡をいただいた。しかし、現在イラクからの留学生は、はたして日本にいるのだろうか。

 少なくとも、この15年の間に世界各地120余国の留学生に教えた私の教え子の中には、イラクからの留学生はひとりもいなかった。(春庭の教えた学生の国名は10/25の笈の小文「遊行期放浪」参照)

 ノースコリアからの留学生が日本に存在していないのと同じくらい、イラクからの留学生は外務省が受け入れていないのではないだろうか。日本の外務省は、臨時大使館関係者以外にはビザを発給しないだろう。
 
 現在の日本のように、お金さえ準備できれば、世界中どこにでも留学することもお望み次第、という恵まれた国は、そうはない。

 日本にやってくる留学生の中には、さながら明治時代に津田梅子大山捨松らが、初の女子留学生としてアメリカに渡ったときのような、国家をあげてのプロジェクトとして送り込まれてくる人もいるし、国の威信を背負ったエリートもいる。

 また、中には、自国の大学に合格しなかったから「寄付さえすれば入れる日本の大学」に入学してくる学力不足の学生も。留学生の事情もさまざまだ。

 日本の大学に留学する場合、大学学部への正式な入学のためには、日本語がある程度できることが必要条件となっている。

 日本人の受ける英検にたとえると、英検2級、または1級準1級に合格している、というレベルに相当する、「日本語能力検定1級または2級」に合格していないと、留学が許可されない。

 しかし、大学院院生や、研究留学生の場合、日本語は必須条件ではなく、英語ができること、研究能力があることが優先される。

 また、大学院学生のほか、各国の優秀な教師を選んで日本で教育研究の機会を与える「教員研修」の人も、日本語能力より、教師としての資質、研究能力が必要条件であって、日本語は来日後に学ぶことが多い。

 春庭が日本語初歩を教えているクラスは、これらの大学院学生や、教師が集まっているコースのクラスである。

 自国で成績優秀、英語は得意な学生たちだが、日本語を学ばずに来日したばあい、日本で初歩から日本語教育を受ける。
 4ヶ月のコースで、日常会話に不自由ないレベル(英検でいうと3級程度)になるまで、指導するのはかなりたいへん。

 教える春庭の身分が「非常勤講師」にすぎないのに、教わる留学生のほうは、自国では大学教授をしている、という場合も少なくない。

 しかし、「日本語能力サル以下」と評される春庭でも、十分に教師がつとまる。学生があまりにも優秀なので、「教師がサルでも、学生は日本語を覚える」と、言われているのだ。

 相手の身分が大学教授であれ、業績のある研究者であれ、春庭が教える以上、日本語に関しては、春庭が教師です。サルではあるが、きっちり教える。

 サルでもできる日本語教育、あなたも、やってみようという気分になってきましたか?
 春庭ができるんですから、あなたもできそうです!
 あなたの日本語もサル組らしいので、春庭と組めばうまくいくかも。
 サルもおだてりゃ川くだる。
 あれ?豚もおだてりゃ、、、河童の川くだり、、、、サルも木から、、、、おや、みんなごちゃごちゃですね。ま、こんな程度の日本語です。
 
 なんと言っても来年の干支はサル。サルには発声器官が発達しなかったので、音声言語のコミュニケーションは難しいが、教えこめば、プラスチックの文字かわり小片や手話によってコミュニケーションができる。

 今、サルのコミュニケーション研究で興味が集まっているのは、言語的コミュニケーションが行える京都大学研究のさる「アイ」が自分の子どもにことばを伝えるかどうか。アイの子どもアユムの成長は順調のよう。もしかしたら「猿の惑星」はここから始まる?

 サル年に「サルでもできる日本語教育」はじめてみませんか。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「日本語教師養成」

2003-12-16 | インポート
(12/16)
春庭のBC級ニッポン語教育研究11「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「BC級④ 日本語教師養成講座」

 12/15の愚痴ぼやきに、足跡やメールをいただきました。
2003/12/15 22:16 tyuusann テレビの1ヶ月1万円生活から見ればまだましだ~
という、励ましありがとう。
 テレビの一万円伝説生活は「やらせ」で、ほんとに1万円で生活しているワケじゃないって話ですが、、、、。我家もテレビ見習って無駄は省くようにしているし、服はもともとお下がり専門だし。今年はさんまが1匹50円で買えたので、秋刀魚ばかりたべていたし。

 さすがに12/15の夜、ようようストーブに石油をいれました。今年はじめての石油ストーブ。冷たい手足、寒いふところを温めてくれます。

2003/12/15 21:46 mysteries 気分一新、ネット講座の続きを・笑
という継続への励ましをいただいて、続けます。ニッポニアニッポン語講座。

 12/16は、日本語教員養成講座の授業について。

 一般の日本人学生に比べ、日本語教師の資格を取得しようとして授業を受ける学生は熱心な人が多く、春庭のハードな要求に応えてけんめいに取り組んでくれる。

半年の間に
1,レポートを3本提出
 「日本学校授業、大学別科日本語授業見学報告」
 「コースデザイン」
 「50分ヒトコマの授業指導案」を期日までに提出。
 期日に遅れた者は、「芸」をクラスメートの前で披露しなければならない。スピーチ、歌、踊り、朗読などなんでもよい。

2,各人、模擬授業実践2回。教師役、学習者役を決めて、交代で模擬授業練習をして、 留学生相手の教育実習前に、教壇にたつ準備。

3,スピーチ1回以上。(日本事情日本文化紹介の模擬授業)
 各人の自慢話や失敗話など。皆、意外な特技を持っている。人前でパフォーマンスができることは、日本語教師の大切な資質。

4,他学生の模擬授業を見た側は、その実践へのコメントを400字以上書く。

5,春庭の超スピード早口の日本語学概論、日本語教育概論、その他の復習解説を聞き取る。聞き取れないと、皆が笑っているときに、笑い損ねてソンをする。

6,ビデオに撮影されている「日本語教育界権威」の先生方の模範授業を見て、つっこむ。けなしどころ、ツッコミどころを見つけるのは、批判的にものごとを考える訓練。

というスケジュールをこなす。

 授業の最終回には、「授業評価」コメントを書いてもらう。授業の良かった点をひとつ以上、これから改善すべき点をふたつ以上書くことを義務づけている。
 良かったことだけ書き、批判点を書かない学生に対しては、減点にすると申し渡しておく。

 春庭が行っている程度の授業を受けて、批判点改善点を見つけられないような人は、自らが教師になる資格はない。教員養成講座を受講するからには、人の授業を見て、きっちりよい点悪い点を評価できる批判力を身につけるべきだと学生には伝える。

 最近は、大学側がアンケート用紙を作成し、学生による授業評価を行う学校も増えてきているが、このアンケートはあまり私の役にたたない。

 アンケートでは「授業を担当した教師は遅刻休講が多かったか」「授業は熱意あるものだったか」などを学生に書かせる。
 一度も休講しなかったことは私自身がすでに知っていることであり、熱意あふれすぎていることも知っている。大学作成のアンケートは、私にとって自分の授業をよりよいものにする資料にはならない。

 これまでの私自身が実施した授業評価で、いろいろ改善点が見つかって、よりよい授業にすることができた。
 しかし、なかなか改善できない点もある。早口。これが、なおらない。
 気をつけるようにしているんですが、、、

 授業を受けて良かった点のコメント。
 『今まで眠い授業を受けることが多かったが、この授業では眠る暇がなかった。盛りだくさんで、調べたり発表したりするのがたいへんだったが、大学に入って初めて「勉強するのが楽しい」と感じた』などが、典型的なコメント。
 楽しいと感じてもらうと、こちらも嬉しい。
 
 悪い点の評価、早口への批判は必ず出る。ごめんなさい。なおせなくて。それから、「先生は、やさしすぎるところがあって、よくない。遅刻してきた学生にびしっと叱らないと、ちゃんと無遅刻無欠席でがんばっている自分たちが、ソンをしているような気になってしまう」というのもあった。

 しかし、「遅刻や欠席は本人の問題」と考えるので、他者の学習権を妨害しない場合は、注意しない。授業中のケータイ着メロ、バズセッションやペア会話練習タイム以外の声高なおしゃべりなどとは異なると思う。

 だいたい、教師自身がおしゃべり大好きなんだから、学生のためにもおしゃべりタイムバズセッションの時間はとってある。おしゃべりしたり、ゲームをしたりしながら、「日本語の教え方」が学べる、超おとくな授業なのだ。

 欠席して、おもしろい体験をしそこねた学生が「休んでソンをした」と思うような授業を展開しているのだ。

 授業での学生からのコメント、また、このカフェ日記への
2003/12/15 22:19 ezoo4241401 日本語の深さを知りました。
という反響で、春庭、また話をつづける気力がわいてくる。
 
 こうして、春庭がカフェ日記で拙いことばを届けるのも、足跡やメールのことばをうれしく感じたりできるのも、私たちが言葉をもっていて、言葉の意味を理解できる共通コードを持っているからだ。

 ことばは時に、誤解を招く元になったり、人を刺すとげになったりする。ことばは「もの」と異なる特別な存在だからなのだ。

 一匹のさんまは、私にとっても「おさかなくわえたノラネコ」にとってもほぼ同じ意味をあらわす。
 食うと美味い。「具体的な食物」としての意味。ノラネコにとっては「具体的な食物」という以外の意味はない。

 人は「直接の事物」として受け取るほか、物を記号に置きかえる。音声記号、文字記号、手による記号(手話)など、物と「音」や記号を結びつける。

 音声記号のばあい、日本語なら/sa/ /N/ /ma/ 」という三つの音節から成立している「単語」として脳内で認識する。

 「さんま/sa/ /N/ /ma/ 」という三つの音節からできていることばは、ノラネコがくわえて逃げる「物」としてのサンマとは別の価値をもつ。

 魚屋の店先に一匹50円で売られていて、焼いて食うとうまい魚という意味がある。「さんま」と聞くと、まず第一に明石家さんまの軽妙なトークを思い浮かべる人もいる。「秋刀魚」という漢字が最初に思い出されて、佐藤春夫の詩「さんまにがいかしょっぱいか」が胸にのぼる人もいよう。

 両手にサンマの尻尾をもって家人の目の前にぬっと差し出す。家人は「あ、今夜のおかずはさんまか」と、考える。このとき、「今夜」「おかず」「さんま」などの言葉を知らないと心に思うこともできない。

 ことばは人間にとって二つの側面を持つのだ。
 ひとつは思考の道具。母語によるものごとへの認識がないと、「考える」ことができない。「今夜はさんま食べよう」と夕ご飯のおかずについて考えたとき、「今夜」「さんま」「食べる」意志形「~よう」という四つの言語をあやつるすべを知らないと「今夜はさんま食べよう」と、心に思うことができないのだ。

 声にださなくとも、日々私たちはさまざまなことがらについて考え、心にいろいろな思いが浮かぶ。

 ことばの二つ目の役割は「伝達」。「ねぇ、魚屋で1匹50円だったの。だから今夜もさんまよ」と、家族に伝え「またかよ、たまにはマグロのさしみくらい買えよ」と答えが返ってきたら伝達は成功している。
 「よくいうよ。さしみが買えるくらいの給料貰ってきてから言いなさいよ!」「なんだと」と、ケンカになっても、言語コミュニュケーションとしては成功なのだ。

 「1匹50円だったの。だから今夜もさんまよ」という家人のことばに「またかよ、今夜はサッカー見るよ。からくりなんか、いつだって同んなじようなことやってるもん、飽きたよ」という返事がかえってきたのだとしても、誤解は誤解で一種のコミュニケーションが成立している。
 「なに、言ってんのよ。人の話をちゃんと聞いていないで、新聞読みながら聞いていないで、ちゃんと聞きなさいよ」と、ケンカになっても、言語コミュニケーションとしては成立。

 お互いに共通の理解コードを持っている人同士の間で、話し手と聞き手の間にコミュニケーションが成立する。
 
 しかし、共通の言葉を使っているにもかかわらず、お互いの言葉がすれ違い、ときには言葉が刺となって相手に突き刺さる。そんな言葉のやりとりもうまれる。

 ことばは思考と伝達の道具。たかが道具ではあるが、使い方によっては人を傷つける武器にもなり、人の心を温める存在ともなる。

 春庭の授業、留学生の日本語クラスも、日本人学生の日本語教授法のクラスも、初日はエンカウンターというカウンセリングの手法で「学生同士がクラス内で知り合う」というところからスタートする。

 お互いが知り合うこと。わかりあいたいと感じること、これがコミュニケーションの基本だと思っている。

 あなたと知り合うために、春庭はすべてオープン。あけっぴろげです。
 ほらほら、押さないで押さないで順番だよ。こらこら、横から覗くんじゃないよ。木戸銭払いな。

 なんだい、大股開きご開帳ショウっていうから、覗いたら、体操服着て前後開脚しているだけじゃないか。見てそんした。

 授業中に前後開脚をしてみせることもサービスのうち。春庭、脚を180度に前後開脚できる日本でただひとりの日本語教師。っていうか、だれも授業中にそんなことする人いないだけなんだよね。

心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「リストラ」

2003-12-15 | インポート
(12/15)
春庭のBC級ニッポン語教育研究10「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「BC級③ リストラされた!!」

 プロフィールページの更新、ごらんいただけましたか。
 春庭の好み、信条、生活指針、座右の銘などすべてが明らかにされております。ラストには、今年の春庭ニュース、ベストとワースト。

 ベストワンは自分のホームページを持ったこと。
 ウェブ友ができ、メールのやりとりもするようになった。これまでは、娘のいうように「顔も知らない人とメールやりとりして、何が面白いっていうのか」という考えに近かったのですが。メールを頂戴した方、足跡をつけていただいた方、すべての人にありがとう。

2003/12/14 13:26 florentmy ありがとう。じっくり読ませて頂きました。餃子にも感動。
 このような反響をいただくと、本当に励みになります。特に、餃子で笑ってもらうとうれしい。

 何を隠そう、春庭「自慢じゃないけど」と、言いつつ何度も、「餃子早食い・50代女性大学講師の部・暫定日本一」の座を誇っている。プロフィールページにもしっかり書き込んだ。
 ベストツーは、この暫定日本一にすべきか。来年は「他に自慢することはないんかい」というお言葉にも応えるべく、努力します、、、、たぶん。

 ワーストワンは、リストラされたこと。泣き泣き涙。
 春庭が出講している国立大学は、来年4月から、独立行政法人への移行が決定。経費削減のため、非常勤講師の授業受け持ちコマ数が減らされることが決まった。

 春庭は、私立と国立ふたつの大学を卒業し、大学院も私立と国立の両方で学んだ。合計14年間という長い間、学生として大学大学院に在籍した。
 暫定日本一は、餃子早食いだけでない。一番長い期間、授業料を払い込んだ50代女性講師!なのである。授業料払う期間が短いほど優秀なのだから、一番ドンクサい講師の暫定日本一。

 講師として出講するのは、国立のほうが先だったから、私立大学への出講が決まったとき、さんざん経験者から脅された。

 「近頃の学生は、授業を聞かない。遅刻居眠りはあたりまえ。授業中にケータイメール。ときには派手な着メロ。私語がつづく。化粧をはじめる女子学生も。」などなど、、、、
 「もう、ほとほと授業をするのがいやになってしまって、もう、来年は出講をことわりました」と、なげく同僚先生。

 どんなにひどい状況になるかとおそれつつ、授業を始めた。しかし、春庭の授業、私語やメールの暇はない。じゃんじゃん活動。どんどん発表。どしどし発言する、参加型。

 日本語教授法を教えているクラスで、「日本事情、日本文化」を教える練習として模擬授業実践させている。「私の自慢」を学生が発表。

 着物の着付けを発表したり、茶の湯のお手前を披露したり。殺陣の構えを見せる学生もいれば、書道師範級の腕前を披露したり。アロマテラピーの資格をとった学生あり、貧乏旅行の真髄を語ってやまない学生あり、、、実に個性豊かな学生たちだ。

 1週間に90分連続2コマ(180分)の授業で、居眠りできるのは「日本語教育界権威先生」のモデル授業のビデオ視聴時のみ。「批判点をつっこめ」と言ってあるが、つっこむ前に睡魔にやられる学生もいる。たしかに、ビデオにうつっている日本語授業、おもしろくない。

 こんなつまらん授業をしていて、これでも業界権威なんだからなあ、、、、。教える教師もあまり楽しくなさそうだし。
 
 春庭の授業では、皆、自己表現をしたり、春庭の話に笑い転げたりしているので、私語やケータイメールの暇がない。春庭、学生とともに過ごすことを楽しんでいる。

 「授業中に私語をやめなかったり、お化粧を始めたり。少しも授業に身が入らない学生ばかりなので、もう教えるのがいやになった」と、やめて済む先生は、そんなにたいへんな思いをしてまで、無理に教える仕事をしなくてもよろしい。ゆったりおうちで研究をなさっていてください。

 春庭、生活がかかっている。夫が自営する会社の借金は雪だるま式に増える一方。親子の食い扶持は稼がねば。授業をするのは、春庭の楽しみでもあるが、それ以上に、生活の糧でもある。ほかに働く能がない。

 ところがぁああ!!リストラされたあああ。
 こんなに仕事が好きな春庭なのに。学生からは大好評を得ている春庭なのに!!!

 「来年の授業コマ数は非常勤講師ひとりにつき2コマのみ。それ以上授業をもっていた先生、全部カット。」「ヒトコマあたりの講師料は、四分の一カット」すなわち、来年の年収は、今年の三分の一になる。

 もともと、非常勤講師の年収は少ない。時給なんぼの身売りである。
 私の場合で言えば、もしも中学校教諭を続けていれば、今の年齢で得ているはずの年収の半分以下しか稼いでいなかった。

 夏休み、春休みの授業がない期間は収入もない。

 人様の半分以下の年収でも、がんばって仕事を続けてきたが、来年からは今年の三分の一。すなわち人様の六分の一の年収になるということ。一家心中しろってか。

 リストラクチュァリングというのは、再構築・再建設の意。
 しかし、カタカナ日本語「リストラ」になると、とたんに「不況、合理化を理由にした会社からの一方的な解雇通告」という意味になってしまう。

 「痛みを分け合って」といいながら、結局痛みをおわされるのは、一番弱い部分。一番の底辺層が一番痛みを負うのが「合理化」ということ。
 大学を合理化する、という場合、痛みを担うのは、一番立場の弱い非常勤講師なのだ。

 教授達は自分の学部学科の既得権益を守ることに汲々とし、生活に苦しむ非常勤講師は「来年度、収入三分の一になることを承知の上で、再任を希望するか、よその仕事をさがすか、どちらかです」と通告される。

 よそで仕事をさがせと言われても、50代の子連れ中年女。博士号もなし。誰がやとってくれようか。クスンぐすぐす、、、、。

 というわけで、春庭、来年のことを言うと鬼が笑うと知りつつも、「わらいやがれ!!」と、唇かみしめながら、暗澹たる未来に思いをはせ、涙にくれておりまする。
 
 今日はシモネタもカミネタもなし。ギャグはいらんよ。仕事ください。

 リストラされて、涙に濡れるは花のかんばせ。濡れてよいのは、もっと下方だけにしておきたいのに。あ、こういうくだらないこと言っているから、リストラされちゃうんだな。
 反省!!来年からは上品な日本語教師になりますから、、、、たぶん。

 っても、もう仕事減らされちゃったから、今更反省してもおそかりし由良のスケ。
 12月14日は、討ち入りの日(旧暦ですが)でしたね。

 ううっっ、無念である。必ずや吉良のミシルシ頂戴つかまつって、この無念をば、、、仇討ちには2年かかったし、資金もかなりかかったという。

 春庭、仇討ち資金、募集中。