| エッセイ、コラム

2014/03/02
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(1)外交官の家
1月17日、横浜美術館の下村観山展を見に行きました。美術館に入る前に、「横浜洋館めぐり」を楽しみました。一日天気もよくて、冬の散歩もなかなか楽しいものでした。うれしいことに、横浜市は太っ腹。横浜市所有の西洋館は、すべて見学無料です。
東京で、お金持ち私有のお屋敷見学には、入館料を払わねばなりません。例えば文京区音羽の音羽御殿、鳩山会館(元鳩山一郎邸)は、入場料金500円です。結婚式場運営などで儲けているのだし、去年亡くなったママは、政治家兄弟にポンと選挙資金おこずかい数億円をあげるくらいお金持ちです。実家の石橋家からの相続財産100億円。鳩山家からの相続150億円。ブリヂストン株の配当金だけでも年間3億。由紀夫邦夫への相続はどうなったのやら。見学料くらい無料にしたらいいのに。なんてぶつくさ言いながら、横浜へ。
JR石川町駅のホームから、前方の高台に洋館が見えます。駅で洋館めぐりの地図がもらえます。(インターネットダウンロードもできます。)
ホームからは近くに見えますが、あれだけの高台だとかなりの登りになるだろうからゆっくり歩くことにして、ゆるゆると坂道を上っていきました。
横浜山手地区の高台には、イタリア山アメリカ山などの名がつけれれています。イタリア山には、「外交官の家」と「ブラフ18番館」があります。駅のホームから見えたのは、「外交官の家」でした。

内田定槌(うちださだつち1865-1942)は、ブラジル移民事業などに力を尽くした明治・大正時代の外交官です。福岡県(豊前国)小倉に生まれ、帝大法科卒業後、外務省に勤務してブラジル公使トルコ大使などを歴任しました。
親交があったJ・M・ガーディナーに私邸の設計を依頼して、1910(明治43)年に、渋谷区南平台に洋館が完成。アメリカン・ヴィクトリアン様式にアールヌーボーやアールデコなどの意匠をとりいれた家です。
外交官の家、南面

最初の任地がニューヨークだった定槌と陽子夫人にとって、居心地のいい家となり、1924(大正13)に職を辞してから1942年に亡くなるまで住み続けました。
暖炉

渋谷周辺が東京大空襲で焼けた際も運良く火災にあわなかったため、戦後は例によってGHQによって接収され、米軍将校の住まいに。
米軍から返還後、内田定槌の孫、久子が相続しました。(久子は宮入進と結婚)
老朽化した家を取り壊してマンションを建てる計画が進んでいたとき、建築史家の陣内秀信と出会い、横浜市への寄贈が実現しました。
イタリア山への移築復元後、ガーディナー設計の個人住宅として重要文化財の指定を受けました。貴重な建物が壊されてしまわずに、ほんとうによかったです。陣内さんと宮入久子さんの出会いは偶然のこと。
陣内さんが建物探訪散歩をしていたら、入り口でばったり家の持ち主と出あったのだそうです。建築史にとっては幸運な偶然の出会いでした。

ドアの模様もすてきです。

老朽化して住むには適さなくなっていた家でしたが、資料に基づいて新築当時そのままに復元されています。また、アーツ&クラフツの影響があったという家具調度品も復元展示されていて、ひととき「明治大正の外交官の生活」をしのびました。
階段室

駅のホームからみえる丸い部分の内側は、

明るい談話コーナーです。

<つづく>
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2014/03/04
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(2)ブラフ18番館
ブラフ18番館は、外交官の家の横に移築復元されています。ブラフとは、「切り立った岬」という意味で、横浜山手が外人居留地だったころに、山手地区をブラフと呼んだことにちなむそうです。
1923年の関東大震災で、居留地時代から横浜に住んできた西洋人の家は、ほとんどが倒壊、または火災で消失してしまいました。そんな中、山手町45番に住んでいたR.C・バウデンは、倒壊した材木の中から使用できるものを選んで、新しく家を建て直しました。バウデンはオーストラリア人貿易商として、活躍したそうですが、館が完成してまもなく母国へ帰ってしまいました。そのため、正確な竣工年や設計者施工者が誰であったかなどの記録が失われてしまっています。
震災前の古い木材が再利用されていた、ということも、横浜市が復元のために行った解体作業の過程で判明したということでした。

オーストラリアにバウデンの孫夫妻が住んでいて、このブラフ18番館に来訪したことがあるということなので、もしかしたらオーストラリアに、設計図などの記録が残されているのかもしれません。

窓
食堂
戦後は、現カトリック横浜司教区の所有となり、教会の司祭館として使われてきました。イタリア山に復元後は、「横浜外国人の暮らし」を再現する展示となっており、横浜に集まっていた「西洋家具職人」たちが制作した「横浜家具」のテーブルと椅子、箪笥などが室内に配置されています。
復元された横浜家具
赤い屋根に緑の窓。横浜に「異人さん」たちが住んで西洋の生活スタイルを見せていた頃、それを近隣で見ていた人にとって、どれほどの驚きであり、魅力的な光景に思えたことでしょうか。風に窓の白いカーテンがゆらめく。そんな光景を遠くから見ただけで、自分たちとは異質な世界に胸ときめいた人もいたのではないかと思います。
世界は近くなり、飛行機に乗ればあっというまに世界中のどこにでも行ける時代になった現代ですが、「自分とは異なる世界へのあこがれ」を持ち、「どこかここではない場所」を夢見ることができた人たちは、それだけでもしあわせだったのではないかと思います。
<つづく>

2014/03/04
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(2)ブラフ18番館
ブラフ18番館は、外交官の家の横に移築復元されています。ブラフとは、「切り立った岬」という意味で、横浜山手が外人居留地だったころに、山手地区をブラフと呼んだことにちなむそうです。
1923年の関東大震災で、居留地時代から横浜に住んできた西洋人の家は、ほとんどが倒壊、または火災で消失してしまいました。そんな中、山手町45番に住んでいたR.C・バウデンは、倒壊した材木の中から使用できるものを選んで、新しく家を建て直しました。バウデンはオーストラリア人貿易商として、活躍したそうですが、館が完成してまもなく母国へ帰ってしまいました。そのため、正確な竣工年や設計者施工者が誰であったかなどの記録が失われてしまっています。
震災前の古い木材が再利用されていた、ということも、横浜市が復元のために行った解体作業の過程で判明したということでした。

オーストラリアにバウデンの孫夫妻が住んでいて、このブラフ18番館に来訪したことがあるということなので、もしかしたらオーストラリアに、設計図などの記録が残されているのかもしれません。

窓

食堂

戦後は、現カトリック横浜司教区の所有となり、教会の司祭館として使われてきました。イタリア山に復元後は、「横浜外国人の暮らし」を再現する展示となっており、横浜に集まっていた「西洋家具職人」たちが制作した「横浜家具」のテーブルと椅子、箪笥などが室内に配置されています。
復元された横浜家具

赤い屋根に緑の窓。横浜に「異人さん」たちが住んで西洋の生活スタイルを見せていた頃、それを近隣で見ていた人にとって、どれほどの驚きであり、魅力的な光景に思えたことでしょうか。風に窓の白いカーテンがゆらめく。そんな光景を遠くから見ただけで、自分たちとは異質な世界に胸ときめいた人もいたのではないかと思います。
世界は近くなり、飛行機に乗ればあっというまに世界中のどこにでも行ける時代になった現代ですが、「自分とは異なる世界へのあこがれ」を持ち、「どこかここではない場所」を夢見ることができた人たちは、それだけでもしあわせだったのではないかと思います。
<つづく>
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2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(3)ベーリックホール
イタリア山から山手本通りを歩き、代官坂上に出ると、横浜洋館の中で最大のベーリックホールがあります。イギリス人貿易商B.R.ベリック(1878生まれ)氏の邸宅として建てられたスパニッシュ様式の邸宅です。
J.H.モーガン(Jay Hill Morgan 1873- 1937)の設計により、1930(昭和4)年に建築。
ベリック氏は52歳から8年間この家に住みました。1938年にカナダに移住。
戦後は、GHQ接収、米軍将校の住まいとなりました。米軍より返還後、遺族から1956年に宗教法人カトリック・マリア会に寄付されました。2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されてきました。壁には寄宿舎時代の記念写真なども資料として飾られていました
玄関
ベリック邸設計者のモーガンは、アメリカ出身の建築家。1920(大正9)年に来日して以来、横浜を中心に建築の仕事をつづけました。存続の危機にあるという横浜外人墓地の入口正門もモーガンの設計によります。モーガン自身もこの墓地の中に眠っています。
モーガン作の横浜外人墓地正門

夫人の寝室
窓
浴室
2001年横浜市が元町公園の拡張区域として土地を買収し、カトリック・マリア会から寄贈された建物は、横浜市が復元・改修工事を行いました。2002年から建物と庭園を公開、建物は、コンサートなどのイベント会場や結婚式場やなどとして使われています。
食堂
私が見学したおりには、ピアノの演奏が行われていました。これから先のコンサートのリハーサルかと思って係員に尋ねたら、ピアノは弾かないでいると悪くなるので、定期的にボランティアが来て演奏をしているのだそうです。
天井の木組み。部屋の奥のピアノ、演奏中


すてきな音色をバックに見学できて、洋館めぐりもいっそう気分良く、1階2階を見物してきました。
階段

広い居間の北側に『パームルーム』と呼ばれる部屋があります。壁面に水が流れ落ちる壁泉があり、ライオンの口から水が出るようにしつらえてあります。
ライオンの壁泉
バームルーム

<つづく>

2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(3)ベーリックホール
イタリア山から山手本通りを歩き、代官坂上に出ると、横浜洋館の中で最大のベーリックホールがあります。イギリス人貿易商B.R.ベリック(1878生まれ)氏の邸宅として建てられたスパニッシュ様式の邸宅です。
J.H.モーガン(Jay Hill Morgan 1873- 1937)の設計により、1930(昭和4)年に建築。
ベリック氏は52歳から8年間この家に住みました。1938年にカナダに移住。
戦後は、GHQ接収、米軍将校の住まいとなりました。米軍より返還後、遺族から1956年に宗教法人カトリック・マリア会に寄付されました。2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されてきました。壁には寄宿舎時代の記念写真なども資料として飾られていました
玄関

ベリック邸設計者のモーガンは、アメリカ出身の建築家。1920(大正9)年に来日して以来、横浜を中心に建築の仕事をつづけました。存続の危機にあるという横浜外人墓地の入口正門もモーガンの設計によります。モーガン自身もこの墓地の中に眠っています。
モーガン作の横浜外人墓地正門

夫人の寝室

窓

浴室

2001年横浜市が元町公園の拡張区域として土地を買収し、カトリック・マリア会から寄贈された建物は、横浜市が復元・改修工事を行いました。2002年から建物と庭園を公開、建物は、コンサートなどのイベント会場や結婚式場やなどとして使われています。
食堂

私が見学したおりには、ピアノの演奏が行われていました。これから先のコンサートのリハーサルかと思って係員に尋ねたら、ピアノは弾かないでいると悪くなるので、定期的にボランティアが来て演奏をしているのだそうです。
天井の木組み。部屋の奥のピアノ、演奏中


すてきな音色をバックに見学できて、洋館めぐりもいっそう気分良く、1階2階を見物してきました。
階段


広い居間の北側に『パームルーム』と呼ばれる部屋があります。壁面に水が流れ落ちる壁泉があり、ライオンの口から水が出るようにしつらえてあります。
ライオンの壁泉

バームルーム

<つづく>
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2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)エリスマン邸
エリスマン邸は、スイス人F・エリスマン(Fritz Errismann:1867~1940)の私邸として1926(大正15)年に建てられました。
エリスマンは1967年、スイスチューリヒに生まれ、1888(明治21)年、21歳のとき来日。シルクタウンとして生糸貿易の拠点だった横浜の生糸貿易商社「シーベル・ヘグナー商会」横浜支配人格として働きました。
1940(昭和15)年に亡くなり、山手の外国人墓地に埋葬されました。
チェコ生まれの建築家アントニン・レイモンド(Antonin Raymond, 1888 - 1976)設計で、洋館と和館が併設されていました。和館は妻となった日本人女性が使用し、洋館はエリスマンの居間や客間として使用されていた、ということです。
エリスマンが亡くなったあと、すぐに人手に渡ってしまったのか、40年間は家族が暮らしていたのか、調べていませんが、和館洋館の建っていた土地は1982(昭和57)年にマンション分譲会社の手に渡り、マンション建設が始められました。和館は解体。洋館は近隣の人々の保存運動によって、解体後すべての建築部材が横浜市に寄贈されました。

1988(昭和63)年に、現在の地に移築復元されました。
エリスマン邸は横浜市が「解体された洋館の部材」を使って復元建築を行った最初の建物で、その後、洋館移築復元が続き、横浜の新名所となっています。


このことは、建物見物趣味の者にとってたいへんありがたいことなのですが、欲を言うなら。
新築当時の資料を元に復元されているので、復元建築物はどこもぴっかぴかなのです。建物ファンは、100年前の建物は百年分古びたようすで目にしたいのが本音。移築復元とわかっていても、あまりに新築然としているより、ちょっとペンキなんぞ禿げていたほうが趣のある洋館ぽい気がするのです。勝手な思いであることはわかっているのですが。
久しくだれも住んでいない、古びた洋館、というだけでなんだか物語ができそうです。古い和館と洋館が並びたち、和館には老婦人がひっそりと住んでいます。洋館はかって老婦人の夫が貿易商として活躍していたときのそのままにしておかれ、ときに婦人は足音もひそやかに夫の書斎、寝室をめぐります。かっては夫が招いた客とともに談笑し、ときにダンスに興じた居間。老婦人はそっとカーテンを腕にとらえてステップを踏んでみる。
夫が亡くなってから、もう40年もの年月が過ぎ去った。やがてこの身も夫のもとへいくであろうけれど、ついに来るその日までは、夫の使ったタイプライターも、夫のパイプケースも、そのままにしておきたい、、、、

なんてね。妄想しながら見学し、そっか、新築当時に復元されたとはいっても、それからすでに25年は経っているのだなあと計算してみる。法隆寺が建てられてから1300年経っているのに比べれば25年というのは、建物の寿命からいけばまだまだ若造なのだろうけれど。
<つづく>

2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)エリスマン邸
エリスマン邸は、スイス人F・エリスマン(Fritz Errismann:1867~1940)の私邸として1926(大正15)年に建てられました。
エリスマンは1967年、スイスチューリヒに生まれ、1888(明治21)年、21歳のとき来日。シルクタウンとして生糸貿易の拠点だった横浜の生糸貿易商社「シーベル・ヘグナー商会」横浜支配人格として働きました。
1940(昭和15)年に亡くなり、山手の外国人墓地に埋葬されました。
チェコ生まれの建築家アントニン・レイモンド(Antonin Raymond, 1888 - 1976)設計で、洋館と和館が併設されていました。和館は妻となった日本人女性が使用し、洋館はエリスマンの居間や客間として使用されていた、ということです。
エリスマンが亡くなったあと、すぐに人手に渡ってしまったのか、40年間は家族が暮らしていたのか、調べていませんが、和館洋館の建っていた土地は1982(昭和57)年にマンション分譲会社の手に渡り、マンション建設が始められました。和館は解体。洋館は近隣の人々の保存運動によって、解体後すべての建築部材が横浜市に寄贈されました。

1988(昭和63)年に、現在の地に移築復元されました。
エリスマン邸は横浜市が「解体された洋館の部材」を使って復元建築を行った最初の建物で、その後、洋館移築復元が続き、横浜の新名所となっています。


このことは、建物見物趣味の者にとってたいへんありがたいことなのですが、欲を言うなら。
新築当時の資料を元に復元されているので、復元建築物はどこもぴっかぴかなのです。建物ファンは、100年前の建物は百年分古びたようすで目にしたいのが本音。移築復元とわかっていても、あまりに新築然としているより、ちょっとペンキなんぞ禿げていたほうが趣のある洋館ぽい気がするのです。勝手な思いであることはわかっているのですが。
久しくだれも住んでいない、古びた洋館、というだけでなんだか物語ができそうです。古い和館と洋館が並びたち、和館には老婦人がひっそりと住んでいます。洋館はかって老婦人の夫が貿易商として活躍していたときのそのままにしておかれ、ときに婦人は足音もひそやかに夫の書斎、寝室をめぐります。かっては夫が招いた客とともに談笑し、ときにダンスに興じた居間。老婦人はそっとカーテンを腕にとらえてステップを踏んでみる。
夫が亡くなってから、もう40年もの年月が過ぎ去った。やがてこの身も夫のもとへいくであろうけれど、ついに来るその日までは、夫の使ったタイプライターも、夫のパイプケースも、そのままにしておきたい、、、、

なんてね。妄想しながら見学し、そっか、新築当時に復元されたとはいっても、それからすでに25年は経っているのだなあと計算してみる。法隆寺が建てられてから1300年経っているのに比べれば25年というのは、建物の寿命からいけばまだまだ若造なのだろうけれど。
<つづく>
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山手234番館
2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)えのき亭&山手234番館、山手資料館
横浜山手地区の洋館めぐり。
市の所管になっている建物のほかにも、横浜開港当時からのさまざまな建築物が市内各所にあります。1月17日は「個人の邸宅」を中心にめぐったのですが、
外観を見るだけで中に入る時間がなくてちょっと残念だったところがあります。
えの木亭本店。
1927(昭和2)年建設の洋館を利用したカフェレストランです。
現在の所有者は、自宅用として1970年に買い取ったあと、1979年にスイーツ&カフェの店としてオープンしました。

お店サイトの建物説明では、となりに建つ山手234番館と同じく朝香吉蔵の設計で、アメリカ人検事の家だったとのこと。

山手234番館は、朝香吉蔵の設計により、1927年頃に建築された外国人向けのアパートメントハウスでした。戦後の米軍による接収を経て、1980年頃までアパートメントとして居住されてきました。1棟の建物の中が、右と左に1戸ずつ、上下1階と2階。計4戸の共同住宅でした。1989(平成1)年に横浜市が買収。1999(平成11)年から一般公開されています。現在は、市民サークル活動などに利用されているそうです。



朝香吉蔵(1889 - 1947)は、1907(明治40)年、山形県立米沢工業学校建築家を卒業し、岐阜県富山県の営繕課、横須賀海軍などの勤務を経て1923(大正12)年に独立。作品は、この山手234番館、山手89番館(現・えの木亭)のほかは、知られていません。(求む情報!)
外人墓地の手前に山手資料館があります。旧中澤兼吉邸です。

中澤家は、兼吉の父親・中澤源蔵が始めた居留地外国人相手の牛乳販売が大成功して以来、資産家となりました。源蔵は、横浜市諏訪町11番地に、中澤牧場を開設しました。

次男の兼吉は、父の始めた牧場から事業を拡大していきました。牛の繁殖業、食肉処理場をはじめ、牛肉保存のために冷凍工場(横浜冷凍の前身)、アメリカからホルスタイン種の乳牛の輸入し日本各地に転売し、三宅島酪農組合に協力して三宅島バターの生産をする、など食肉に関する事業のほか、それらの事業のための工場を建てることから、学校から橋梁までの建設工事と発展しました。
1909(明治42)年、横浜市本郷町(本牧上台57番地)に広大な邸宅を建設。諏訪町の牧場が市街化によって動物飼育に適さなくなると、大正年間に牧場をやめ、1929(昭和4)年、諏訪町に邸宅を移築しました。
戦後の中澤家は、不動産業を事業の核とし1975年に、山手に外人用マンション「山手ハウス」を建設。現在も中澤事務所は不動産管理業を主な事業にしています。
1月17日の横浜散歩、帰り際に「クリーニング発祥の地」という記念碑を見ました。
横浜は、江戸時代まで日本にはなかったさまざまな新事業が始められた町です。外人相手の洋裁店もクリーニング店も横浜からはじまり、外国人の食生活のために、食肉や牛乳、バターなどの生産も横浜の新事業となりました。中澤兼吉も外国人相手の事業を成功させた人物のひとりであったのです。
1899(明治32)の条約改正によて、諏訪町を含む山手地区は外国人居留地ではなくなりましたが、多くの外国人が山手地区に住み続けました。
山手資料館になっている建物は、兼吉が明治年間に地元の大工(戸部村在住)に建てさせた、いわゆる「擬洋風建築」のひとつです。大工の名などは記録も残されていないようです。(求む情報!)

1月17日は、内部を見ることができませんでした。(美術館にまわる時間が迫っていたので)また横浜巡りをするときは、山手資料館のとなりの山手十番館でランチ、えの木亭でケーキ&お茶。優雅な一日を過ごしたいです。
山手資料館の玄関に置かれていた飾りの乳母車。私が子供の頃自分も乗せられ、妹を乗せて押して歩いた我が家では「ゴーゴー」と呼んでいたのと形が同じようだったので、しばし郷愁にひたりました。うちのゴーゴーは上部の籠のところは籐を編み込んでありました。
横浜居留地の幼児たちも、こんな乳母車に乗って山手あたりを散歩していたのでしょうか。

<つづく>

山手234番館
2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)えのき亭&山手234番館、山手資料館
横浜山手地区の洋館めぐり。
市の所管になっている建物のほかにも、横浜開港当時からのさまざまな建築物が市内各所にあります。1月17日は「個人の邸宅」を中心にめぐったのですが、
外観を見るだけで中に入る時間がなくてちょっと残念だったところがあります。
えの木亭本店。
1927(昭和2)年建設の洋館を利用したカフェレストランです。
現在の所有者は、自宅用として1970年に買い取ったあと、1979年にスイーツ&カフェの店としてオープンしました。

お店サイトの建物説明では、となりに建つ山手234番館と同じく朝香吉蔵の設計で、アメリカ人検事の家だったとのこと。

山手234番館は、朝香吉蔵の設計により、1927年頃に建築された外国人向けのアパートメントハウスでした。戦後の米軍による接収を経て、1980年頃までアパートメントとして居住されてきました。1棟の建物の中が、右と左に1戸ずつ、上下1階と2階。計4戸の共同住宅でした。1989(平成1)年に横浜市が買収。1999(平成11)年から一般公開されています。現在は、市民サークル活動などに利用されているそうです。



朝香吉蔵(1889 - 1947)は、1907(明治40)年、山形県立米沢工業学校建築家を卒業し、岐阜県富山県の営繕課、横須賀海軍などの勤務を経て1923(大正12)年に独立。作品は、この山手234番館、山手89番館(現・えの木亭)のほかは、知られていません。(求む情報!)
外人墓地の手前に山手資料館があります。旧中澤兼吉邸です。

中澤家は、兼吉の父親・中澤源蔵が始めた居留地外国人相手の牛乳販売が大成功して以来、資産家となりました。源蔵は、横浜市諏訪町11番地に、中澤牧場を開設しました。

次男の兼吉は、父の始めた牧場から事業を拡大していきました。牛の繁殖業、食肉処理場をはじめ、牛肉保存のために冷凍工場(横浜冷凍の前身)、アメリカからホルスタイン種の乳牛の輸入し日本各地に転売し、三宅島酪農組合に協力して三宅島バターの生産をする、など食肉に関する事業のほか、それらの事業のための工場を建てることから、学校から橋梁までの建設工事と発展しました。
1909(明治42)年、横浜市本郷町(本牧上台57番地)に広大な邸宅を建設。諏訪町の牧場が市街化によって動物飼育に適さなくなると、大正年間に牧場をやめ、1929(昭和4)年、諏訪町に邸宅を移築しました。
戦後の中澤家は、不動産業を事業の核とし1975年に、山手に外人用マンション「山手ハウス」を建設。現在も中澤事務所は不動産管理業を主な事業にしています。
1月17日の横浜散歩、帰り際に「クリーニング発祥の地」という記念碑を見ました。
横浜は、江戸時代まで日本にはなかったさまざまな新事業が始められた町です。外人相手の洋裁店もクリーニング店も横浜からはじまり、外国人の食生活のために、食肉や牛乳、バターなどの生産も横浜の新事業となりました。中澤兼吉も外国人相手の事業を成功させた人物のひとりであったのです。
1899(明治32)の条約改正によて、諏訪町を含む山手地区は外国人居留地ではなくなりましたが、多くの外国人が山手地区に住み続けました。
山手資料館になっている建物は、兼吉が明治年間に地元の大工(戸部村在住)に建てさせた、いわゆる「擬洋風建築」のひとつです。大工の名などは記録も残されていないようです。(求む情報!)

1月17日は、内部を見ることができませんでした。(美術館にまわる時間が迫っていたので)また横浜巡りをするときは、山手資料館のとなりの山手十番館でランチ、えの木亭でケーキ&お茶。優雅な一日を過ごしたいです。
山手資料館の玄関に置かれていた飾りの乳母車。私が子供の頃自分も乗せられ、妹を乗せて押して歩いた我が家では「ゴーゴー」と呼んでいたのと形が同じようだったので、しばし郷愁にひたりました。うちのゴーゴーは上部の籠のところは籐を編み込んでありました。
横浜居留地の幼児たちも、こんな乳母車に乗って山手あたりを散歩していたのでしょうか。

<つづく>
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2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(6)山手111番館の蝶々さん
山手111番館はJ.E.ラフィン (John Edward Laffin 1890-1971)邸として、1926(大正15)年)に建てられました。アメリカ人建築家、J.H.モーガンの設計で、ベーリックホールと同じく、スペイン風の外観です。

ラフィン一家の物語、調べてわかったことを記録しておきます。
J.E.ラフィンは、港湾関係の陸揚げ会社や両替商を経営する実業家でした。横浜で1890年12月29日に生まれて、1971年5月13日にカリフォルニア(グラナダ・ヒルズ)で死にました。シベリア生まれのマリアLVANOVA(1899 -1967年8月30日)と結婚。現在、山手111番館となっている邸宅は、結婚に際して、父トーマスMラフィンが息子に贈った家です。
ジョン・E・ラフィンの父、トーマスMラフィン(トーマス・メルヴィン・ラフィン Thomas Melvin Laffin 1862-1931)は、アメリカの海軍士官として航行中、艦船修理のために横浜に寄港しました。修理の間、休暇を利用して行った箱根湯本で、運命の出会いが。
ひと目で石井みよとの恋に落ち、日本に残ることを決意しました。
トーマスは1886(明治19)年に日本郵船に入社し、その後独立して、ラフィン商会を設立しました。1990年に長男ジョン・エドワードが誕生し、みよとの間に8人の子女をもうけました。


ジョンの8人の兄弟姉妹のうち、3歳下の妹のエセル・ラフィン・スティルウェル(Ethel Laffin Stillwell 1893年11月1日-1965年8月16日)は、Charles Stillwell と結婚してシアトルで暮らしました。晩年、未亡人となったエセルは、1952年に、生まれ故郷の横浜への帰国を果たし、横浜でなくなりました。
もうひとりの妹、エレノア・ラフィン(Eleanor Laffin 1897-1944年6月26日)は、横浜で47歳でなくなっています。
日米混血のため日本で暮らしにくくなったためと思われますが、エレノアは、太平洋戦争中、スイスのパスポートを取得しようとしました。しかし、それが果たされないうちに、横須賀発の電車に轢かれ、病院に運ばれて2時間後に亡くなったのです。自殺にも思えるのですが、調べはついていません。エレノア死去の知らせは、シアトルに住むエセルのもとに届きました。
戦時中に電車事故で亡くなったエレノアの死は悲劇的でしたが、両親のトーマス・メルヴィン・ラフィンと石井みよの恋は、まさしく「蝶々夫人」のハッピーエンド版です。海軍士官だったトーマスが箱根湯本に遊山に出かけてみよに出会う。トーマスはたちまち恋に落ち、日本で暮らすことを決意。海軍を退職し、日本郵船に入社。仲睦まじく、8人の子供を育てた、、、、。
テーブルや椅子は復元ものの横浜家具かと思いますが、ラフィン一家が仲良く囲んで食事をしたのかと想像される食堂

オペラ『蝶々夫人』の原作短編小説を書いたジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long1861 - 1927)は、日本に滞在したことのある姉サラ・ジェーン・コレル((1848-1933)から日本の話を聞きました。サラは、夫の宣教師アーヴィン・ヘンリー・コレル(Dr.A・H・Correll 1851-1926)とともに東京、横浜、長崎で暮らし、布教と教育活動を行いました。ロングは姉から日本の話を聞いて1895年に短編小説として執筆しました。
蝶々夫人のモデルには、シーボルト夫人滝やグラバー夫人ツルなどがあげられていますが、サラの日本滞在期間1891~1895を考えると、ジョンEラフィンが1890年に生まれた時期とぴったり合います。
小説としては、涙の悲劇にしたほうが受けます。
蝶々夫人は息子の将来に希望を託して自殺しますが、トーマスMラフィンと結ばれた石井みよは、幸福な「異人さんの妻」であったのでしょう。
ただ、戦時下にアメリカ国籍であることに不安を感じたエレノアの死は、電車事故という痛ましいものだっただけに、物語の最後を悲しい色にしています。
今、山手111番館は、J.H.モーガンが腕を振るったすてきな洋館として、私たちを迎えてくれます。港の見える丘公園に建つ白いスペイン風の洋館に、ラフィン一家はどんな風に暮らしていたのでしょうか。

ジョン・E・ラフィンは1971年にカルフォルニアで亡くなったとのことですが、家族子孫は日本にいるのでしょうか。この次山手111番館を訪れることがあれば、もっとくわしい資料を探してみます。
私は仕事があって行くことができませんが、3月11日には、日頃は非公開の2階までガイドが案内してくれるそうです。お近くの方、山手111番館に行って、2階がどうだったか、リポートしてくださいませ。く~、見たかったけれど、教科書編集の仕事が入っている日でした。
<つづく>

2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(6)山手111番館の蝶々さん
山手111番館はJ.E.ラフィン (John Edward Laffin 1890-1971)邸として、1926(大正15)年)に建てられました。アメリカ人建築家、J.H.モーガンの設計で、ベーリックホールと同じく、スペイン風の外観です。

ラフィン一家の物語、調べてわかったことを記録しておきます。
J.E.ラフィンは、港湾関係の陸揚げ会社や両替商を経営する実業家でした。横浜で1890年12月29日に生まれて、1971年5月13日にカリフォルニア(グラナダ・ヒルズ)で死にました。シベリア生まれのマリアLVANOVA(1899 -1967年8月30日)と結婚。現在、山手111番館となっている邸宅は、結婚に際して、父トーマスMラフィンが息子に贈った家です。
ジョン・E・ラフィンの父、トーマスMラフィン(トーマス・メルヴィン・ラフィン Thomas Melvin Laffin 1862-1931)は、アメリカの海軍士官として航行中、艦船修理のために横浜に寄港しました。修理の間、休暇を利用して行った箱根湯本で、運命の出会いが。
ひと目で石井みよとの恋に落ち、日本に残ることを決意しました。
トーマスは1886(明治19)年に日本郵船に入社し、その後独立して、ラフィン商会を設立しました。1990年に長男ジョン・エドワードが誕生し、みよとの間に8人の子女をもうけました。


ジョンの8人の兄弟姉妹のうち、3歳下の妹のエセル・ラフィン・スティルウェル(Ethel Laffin Stillwell 1893年11月1日-1965年8月16日)は、Charles Stillwell と結婚してシアトルで暮らしました。晩年、未亡人となったエセルは、1952年に、生まれ故郷の横浜への帰国を果たし、横浜でなくなりました。
もうひとりの妹、エレノア・ラフィン(Eleanor Laffin 1897-1944年6月26日)は、横浜で47歳でなくなっています。
日米混血のため日本で暮らしにくくなったためと思われますが、エレノアは、太平洋戦争中、スイスのパスポートを取得しようとしました。しかし、それが果たされないうちに、横須賀発の電車に轢かれ、病院に運ばれて2時間後に亡くなったのです。自殺にも思えるのですが、調べはついていません。エレノア死去の知らせは、シアトルに住むエセルのもとに届きました。
戦時中に電車事故で亡くなったエレノアの死は悲劇的でしたが、両親のトーマス・メルヴィン・ラフィンと石井みよの恋は、まさしく「蝶々夫人」のハッピーエンド版です。海軍士官だったトーマスが箱根湯本に遊山に出かけてみよに出会う。トーマスはたちまち恋に落ち、日本で暮らすことを決意。海軍を退職し、日本郵船に入社。仲睦まじく、8人の子供を育てた、、、、。
テーブルや椅子は復元ものの横浜家具かと思いますが、ラフィン一家が仲良く囲んで食事をしたのかと想像される食堂

オペラ『蝶々夫人』の原作短編小説を書いたジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long1861 - 1927)は、日本に滞在したことのある姉サラ・ジェーン・コレル((1848-1933)から日本の話を聞きました。サラは、夫の宣教師アーヴィン・ヘンリー・コレル(Dr.A・H・Correll 1851-1926)とともに東京、横浜、長崎で暮らし、布教と教育活動を行いました。ロングは姉から日本の話を聞いて1895年に短編小説として執筆しました。
蝶々夫人のモデルには、シーボルト夫人滝やグラバー夫人ツルなどがあげられていますが、サラの日本滞在期間1891~1895を考えると、ジョンEラフィンが1890年に生まれた時期とぴったり合います。
小説としては、涙の悲劇にしたほうが受けます。
蝶々夫人は息子の将来に希望を託して自殺しますが、トーマスMラフィンと結ばれた石井みよは、幸福な「異人さんの妻」であったのでしょう。
ただ、戦時下にアメリカ国籍であることに不安を感じたエレノアの死は、電車事故という痛ましいものだっただけに、物語の最後を悲しい色にしています。
今、山手111番館は、J.H.モーガンが腕を振るったすてきな洋館として、私たちを迎えてくれます。港の見える丘公園に建つ白いスペイン風の洋館に、ラフィン一家はどんな風に暮らしていたのでしょうか。

ジョン・E・ラフィンは1971年にカルフォルニアで亡くなったとのことですが、家族子孫は日本にいるのでしょうか。この次山手111番館を訪れることがあれば、もっとくわしい資料を探してみます。
私は仕事があって行くことができませんが、3月11日には、日頃は非公開の2階までガイドが案内してくれるそうです。お近くの方、山手111番館に行って、2階がどうだったか、リポートしてくださいませ。く~、見たかったけれど、教科書編集の仕事が入っている日でした。
<つづく>
| エッセイ、コラム 
2014/03/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(7)イギリス館
1月17日の横浜洋館廻り散歩。
朝からぐんぐんと歩いて、駅でもらった「横浜洋館めぐり地図」の順にめぐっていましたが、17日のメインは横浜美術館の下村観山展の観覧でした。2時間くらいは見ていたいから、6時閉館から逆算すると、みなとみらい駅には4時に戻らないと。もう残り時間は少ない。
港のみえる丘公園に建つ、山手111番館とイギリス館は、大仏次郎記念館と神奈川近代文学館を見たときにいっしょに見学したので、今回はパスしようかなとも思いましたが、ささっと見てまわることにしました。

イギリス館は、1969年(昭和44)からは横浜市の公共施設となり、1999年からは一般公開されています。
1937(昭和12)年に、英国総領事公邸として建築。上海におかれていた大英帝国工部総署の設計です。ジョージ六世(GeorgeVI 『英国王のスピーチ』の王さま。エリザベスⅡの父)時代、大英帝国威光の最後のがんばりを見せたコロニアル建築でした。

1931年(昭和3年)総領事公邸建設の7年前に、英国工務省の設計によって英国総領事館がたてられています。総領事館は、現在、横浜開港資料館旧館です。
大英帝国として世界中を植民地にしたイギリス。最盛期には全世界の4分の1を領有するほどでした。20世紀のふたつの世界大戦第1次と第2次世界大戦の間、イギリスは世界でアメリカと並ぶ超大国として存在していました。
諸外国に駐在する大使や領事も、絶大な力を誇っており、大使館領事館も入念に建てられました。横浜の領事館、領事公邸は、上海にあった英国工務省が建築部材もすべて上海から船で運び建てたということです。

イギリスは相手国の「格」によって、大使館領事館の建物に露骨な差をつけることで、赴任する大使や領事への「待遇の違い」を表すことが多かったそうで、1923年に日英同盟が失効したとはいえ、当時はアジア圏最大の独立国であった日本の領事館は、イギリスにとって重要拠点とみなされていたことが、領事館、領事公邸からもうかがえる、とのことです。
他の国の領事館がどのような建物だったのか資料を見たことないので、「へぇそうかあ」としか思わずに、デザイン的にはすっきりしているイギリス領事邸を見てきました。
コロニアル様式というのがどのへんにあらわれているのか、建築史的なことはわからないのですが、ひとつはっきりわかるのは、領事やゲストが出入りする玄関や客間からは、使用人が出入りする裏口や裏口からの通り道は見えないように工夫されていることです。「身分の差」ということを出入り口ひとつとっても身にしみて出入りするように使用人をしつけていたのでしょう。

イギリスは今も王室とともに爵位制度を維持し、国民に身分差をつけています。国の制度はそれぞれの国民が選べばよいことですが、私は国民はすべて平等であるべきだと信じています。出自で差をつけるのは好みません。その点個人の功績によってナイト(Knight)の称号を与え、「サー&デイム」を名乗るのは、まあ、日本の文化勲章みたいなものかなと思います。
日本人では、イギリス外交官のパートナーとして活躍するピアニストの内田光子さんがデイムの称号を与えられています。
私が近代建築の洋館を見て歩いて、考えることのひとつに「近代国民国家成立と民衆の目にうつる洋館の記号学」ということがあります。だいぶややこしい考え事です。まとまるとは思えませんが、考えていきます。
3月8日のマレーシアの飛行機事故。一番先に報道されたのは「乗客名簿に日本人の名前なし」でした。中国へ向かう飛行機で、大半の乗客は中国国籍。事故の続報は、テレビでも少なくなりました。たぶん、この飛行機事故のことを来年の3月8日に思い出す人もごくわずかだろうと思います。
2011年3月11日に亡くなった人たちのことを思っています。まだ行方不明のままの方もいらっしゃる。1945年3月10日に東京大空襲で亡くなった人々のこと、70年がすぎても、私は追悼の黙祷をささげます。
乗客乗員239人の人が亡くなった飛行機事故は、わずか2日で新聞にも報じられなくなり、3年前の津波地震で亡くなった2万人と、70年前の空襲で亡くなった10万人は忘れない。と、したら、この差は「同胞であるかないか」であり、この「同胞意識」の形成過程について、私は興味があるのです。
「故郷に住めなくなった人たちは気の毒だけれど、わが町に原発除染のゴミや震災ガレキを持ち込むのは大反対」というときの同胞意識と、新大久保ヘイトスピーチや、「まおちゃんが金取れなかったのに、キムヨナが銀は憎ったらしくてたまらない」と発言した知り合いの男性とか。
同胞意識ってなんだろうとか、国民国家形成時の民衆意識とか、最小社会単位としての家族が共に生きる場所としての住居とか。洋館めぐりながらぐるぐるととりとめもなく、考え続けています。
むろん、散歩しながら「洋館、すてきな照明器具だなあ、きれいなステンドグラスの窓だなあ、面白い形の屋根だったなあ」と思いつつも、「さて、それはそれとして明日のコメ買う金がない」というのが、一番の関心事だったりしますが。
<つづく>

2014/03/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(7)イギリス館
1月17日の横浜洋館廻り散歩。
朝からぐんぐんと歩いて、駅でもらった「横浜洋館めぐり地図」の順にめぐっていましたが、17日のメインは横浜美術館の下村観山展の観覧でした。2時間くらいは見ていたいから、6時閉館から逆算すると、みなとみらい駅には4時に戻らないと。もう残り時間は少ない。
港のみえる丘公園に建つ、山手111番館とイギリス館は、大仏次郎記念館と神奈川近代文学館を見たときにいっしょに見学したので、今回はパスしようかなとも思いましたが、ささっと見てまわることにしました。

イギリス館は、1969年(昭和44)からは横浜市の公共施設となり、1999年からは一般公開されています。
1937(昭和12)年に、英国総領事公邸として建築。上海におかれていた大英帝国工部総署の設計です。ジョージ六世(GeorgeVI 『英国王のスピーチ』の王さま。エリザベスⅡの父)時代、大英帝国威光の最後のがんばりを見せたコロニアル建築でした。

1931年(昭和3年)総領事公邸建設の7年前に、英国工務省の設計によって英国総領事館がたてられています。総領事館は、現在、横浜開港資料館旧館です。
大英帝国として世界中を植民地にしたイギリス。最盛期には全世界の4分の1を領有するほどでした。20世紀のふたつの世界大戦第1次と第2次世界大戦の間、イギリスは世界でアメリカと並ぶ超大国として存在していました。
諸外国に駐在する大使や領事も、絶大な力を誇っており、大使館領事館も入念に建てられました。横浜の領事館、領事公邸は、上海にあった英国工務省が建築部材もすべて上海から船で運び建てたということです。

イギリスは相手国の「格」によって、大使館領事館の建物に露骨な差をつけることで、赴任する大使や領事への「待遇の違い」を表すことが多かったそうで、1923年に日英同盟が失効したとはいえ、当時はアジア圏最大の独立国であった日本の領事館は、イギリスにとって重要拠点とみなされていたことが、領事館、領事公邸からもうかがえる、とのことです。
他の国の領事館がどのような建物だったのか資料を見たことないので、「へぇそうかあ」としか思わずに、デザイン的にはすっきりしているイギリス領事邸を見てきました。
コロニアル様式というのがどのへんにあらわれているのか、建築史的なことはわからないのですが、ひとつはっきりわかるのは、領事やゲストが出入りする玄関や客間からは、使用人が出入りする裏口や裏口からの通り道は見えないように工夫されていることです。「身分の差」ということを出入り口ひとつとっても身にしみて出入りするように使用人をしつけていたのでしょう。

イギリスは今も王室とともに爵位制度を維持し、国民に身分差をつけています。国の制度はそれぞれの国民が選べばよいことですが、私は国民はすべて平等であるべきだと信じています。出自で差をつけるのは好みません。その点個人の功績によってナイト(Knight)の称号を与え、「サー&デイム」を名乗るのは、まあ、日本の文化勲章みたいなものかなと思います。
日本人では、イギリス外交官のパートナーとして活躍するピアニストの内田光子さんがデイムの称号を与えられています。
私が近代建築の洋館を見て歩いて、考えることのひとつに「近代国民国家成立と民衆の目にうつる洋館の記号学」ということがあります。だいぶややこしい考え事です。まとまるとは思えませんが、考えていきます。
3月8日のマレーシアの飛行機事故。一番先に報道されたのは「乗客名簿に日本人の名前なし」でした。中国へ向かう飛行機で、大半の乗客は中国国籍。事故の続報は、テレビでも少なくなりました。たぶん、この飛行機事故のことを来年の3月8日に思い出す人もごくわずかだろうと思います。
2011年3月11日に亡くなった人たちのことを思っています。まだ行方不明のままの方もいらっしゃる。1945年3月10日に東京大空襲で亡くなった人々のこと、70年がすぎても、私は追悼の黙祷をささげます。
乗客乗員239人の人が亡くなった飛行機事故は、わずか2日で新聞にも報じられなくなり、3年前の津波地震で亡くなった2万人と、70年前の空襲で亡くなった10万人は忘れない。と、したら、この差は「同胞であるかないか」であり、この「同胞意識」の形成過程について、私は興味があるのです。
「故郷に住めなくなった人たちは気の毒だけれど、わが町に原発除染のゴミや震災ガレキを持ち込むのは大反対」というときの同胞意識と、新大久保ヘイトスピーチや、「まおちゃんが金取れなかったのに、キムヨナが銀は憎ったらしくてたまらない」と発言した知り合いの男性とか。
同胞意識ってなんだろうとか、国民国家形成時の民衆意識とか、最小社会単位としての家族が共に生きる場所としての住居とか。洋館めぐりながらぐるぐるととりとめもなく、考え続けています。
むろん、散歩しながら「洋館、すてきな照明器具だなあ、きれいなステンドグラスの窓だなあ、面白い形の屋根だったなあ」と思いつつも、「さて、それはそれとして明日のコメ買う金がない」というのが、一番の関心事だったりしますが。
<つづく>
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