2013/08/17
ぽかぽか春庭感激観劇日記>芝居は地球を回っている(1)水族館劇場「あらかじめ失われた世界へ」
あまり期待していなかった。
「あらかじめ失われた世界へ」というタイトルが、いかにも平凡だし、一時代まえの感覚のタイトルに思えたので。神社境内での仮設テントでの公演というのも、昔むかしのアングラ劇場の模倣のような内容だったらどうしようという思いもありました。
東京での知名度はいかほどか知らないけれど、私には初めて見る劇団、「水族館劇場」を見ることにしたのは、ミサイルママのおすすめだったから。
私はてっきりミサイルママの息子が出演しているのだろうと思ったのだけれど、そうではなく「息子の知り合いが出演している」ということでした。「息子がこの子に迷惑かけちゃったので、この子を応援するのが母のツトメ」というミサイルママ。いっしょにチケットをとってもらいました。
千秋楽の二日前。6月2日日曜日にミサイルママと池袋で落ち合って、三軒茶屋へ。キャロットタウンで腹ごしらえ。15分くらい歩いて八幡神社の仮設劇場につきました。鎮守の杜太子堂八幡神社境内特設蜃気楼劇場「夜の泡〔うたかた〕」というのが、劇場の名前です。
座長の桃山邑さんは、作、演出を手がけるのはもちろん、仮設小屋の建設も自分の手でこなします。とび職が着る制服(?)だぶだぶニッカボッカに、だぼシャツ。頭にはヘルメット、という出で立ちで、最初にハンドマイクを持って開場のあいさつ。
八幡神社内の夜の泡劇場
仮設小屋の外回りで、役者顔見世のプロローグがありました。ひとりの女がふるさとの炭坑町を捨てて、町に出よう汽車に乗るところ。15分ほどのプロローグが終わると、もらった入場札の順に小屋入り。50人ちょっと入る小屋です。
劇の概要はこのサイトで。
http://suizokukangekijou.com/information/
舞台は、泪橋と呼ばれる場末の街。二階では女たちが「曖昧商売」をやっている居酒屋、木賃宿などがごちゃごちゃと立ち並んでいる一角に、なぜかシスターが運営している孤児院も建っています。
殺人事件が起こり、それは失われた炭坑街と泪橋をつなぐ回路で起きたらしい。刑事や孤児の少年やあれやこれやが入り乱れての大騒動。
水族館劇場は、仮設小屋がけなのに、毎回大量の水を流すことで、ファンの間で知られています。今回の「あらかじめ失われた世界へ」も、最後は、名物の噴水やら滝流しやら。
舞台の背面があくとそこは神社の境内そのまま。神社の奥へ向かって、不思議な機関車が女と少年を乗せて走り去ります。
ミサイルママに「舞台に水が流れるから、一番前の席に座るとぬれるよ」と言われていたので、真ん中へんに座ったので、水濡れにはならなかったけれど、これだけの規模の小屋でよくもこんなに大量の水をぶちまけたな、というのが、はじめて見た者のびっくり感。 幻想や非現実が解け合う不思議な舞台作りでした。
この夏の巡業も、大量の水を流せる場所をもとめて、静岡から博多まで巡るそうです。お近くの方、おもしろいから見てください。
http://suizokukangekijou.com/news/
舞台のうしろの緑は、神社の森
<つづく>
2013/08/18
ぽかぽか春庭感激観劇日記>芝居は地球を回っている(2)東京ノーヴィレパートリーシアター「白痴」
東京ノーヴィーレパートリーシアターは、下北沢にある席数26席のミニミニ劇場を本拠地としています。
昨年、両国にあるシアターX(カイ)で上演された『コーカサスの白墨の輪』と『白痴』が高く評価され、シアターカイの「千円で演劇を見る」企画の上演団体に選ばれました。
上質の演劇を低料金で提供するという劇場側の企画です。
私は『コーカサスの白墨の輪』をこの劇団の「第二スタジオ」に所属する友人K子さんといっしょに見ました。
『白痴』は、仕事かえりに両国へ立ち寄り、2回みました。千円だから、2回見るのもそう負担にはなりません。
一回目、開演に間に合わず、最初のシーンを見逃しました。おまけに一番うしろの席で前に「座高リッチ」な方が座っていたために、おちびの私は右に左に頭をめぐらせて舞台を見たのですが、「ええい、座高がこんなに高いやつは、遠慮して一番うしろに座るべきだろうよ」と心のなかで文句を言うに忙しく、肝心の劇に没頭できなかったのでした。
2度目は、6月11日、6時半の開場と同時に入場し、一番前の席に荷物をおいて「ここ、私の席とってあるんだからね」という主張をしておいてから、外に出て、スパゲッティをかっこんで腹ごしらえ。19時の開演には一番前の席に戻って、今度は気分よく見ることができたのでした。
『白痴』は、タイトルが一発では変換できません。差別用語になっちまったので、「白い痴人」と打ってから、「い」と「人」を消さなければならないのです。
ドストエフスキーの有名な小説のタイトルで、坂口安吾の『白痴』もあるのに、出てこないのは理不尽です。
私は、1946年のフランス映画を場末の名画座のようなところで見た気がするのだけれど、1958年のソビエト映画だったのかもしれません。1951年の黒澤明監督作品、ムイシュキン=亀田欽司が森雅之、ナスターシャ=那須妙子が原節子の『白痴』を見たことがないので、見てみたい。
お話は、「世界文学あらすじ集」でも見ていただければ、私がヘタな要約をするよりもよくわかるとは思うし、何度も映画化されているので、ご存じの方も多いことでしょう。ロシア語の原題「Идиот」英語「Idiot」。現代日本語なら「おバカさん」あたりの訳になったと思うのですが、なにせ明治時代の初訳時代以来「白痴」で固定されており、白痴が差別用語として禁止語になってのちもタイトルだけは「白痴」のまま。
超要約!すれば。
無垢な心をもったムイシュキン公爵。重度てんかんの治療を終えて、サンクトペテルブルクに戻ってくる帰途、パルヒョン・ロゴージンと知り合いになります。パルヒョンと語りあううち、パルヒョンが恋するナスターシャ・フィリポヴナの名を知ります。ナスターシャは「金持ちの情婦」として知られている存在でしたが、純な気持ちをもっています。
パルヒョン・ロゴージン、ナスターシャ、ムイシュキン、ムイシュキンの遠縁エパンチン将軍の娘アグラーヤなどがぐるぐると入り乱れて恋し恋され、もつれあって、最後は、、、、
文庫本だと、2巻本、3巻本になっている長いお話なので、2時間の映画や演劇にするといろいろなところをはしょるため、「ムイシュキンの静かで純粋な愛情」より、ロゴージンの「なにがなんでもナスターシャ」と突き進む猪突猛進、現代ならストーカーに扱われる愛情のほうが際だって見えました。
役者は、役柄への理解も深くてそれぞれ熱演だったので、秋にシアターカイで再々演されるというので、今度は「視覚障害者が演劇を楽しむ運動」を続けているアコさんをさそって、もう一度見てみたいと思っています。
<つづく>
201308/20
ぽかぽか春庭感激観劇日記>芝居は地球を回っている(3)文学座「ガリレイの生涯」
「視覚障がい者の演劇鑑賞」をすすめる活動をしているアコさん、この夏、住まいの大阪から所用で上京して、「いっしょに文学座を見にいきましょう」と誘ってくれました。アコさんは劇団昴のファンで、いままで昴の芝居は何度もいっしょに見たのですが、文学座をいっしょに見るのははじめてです。
池袋のアウルスポットで上演された『ガリレイの生涯』
6月15日土曜日の回。
最初日曜日に約束をしたのですが、チケットがとれず、土曜日ならまだ席がとれるというのでアコさんがとってくれたのですが、確認を怠ったために大失敗がありました。久しぶりに会ったので、ゆっくりランチをとっていて、1:30開場2:00開演と思って「ぎりぎり開演に間に合ったね」と劇場に入ったら、それは日曜日の開演時間で、土曜日は1:30開演。30分も遅刻してしまいました。
地動説をとなえたために裁判にかけられ、軟禁状態におかれているガリレオ・ガリレイ。
「真理はいつか必ず人類の前にあきらかになる」と信じ、教会からの迫害に耐えて『新科学対話(ディスコルシ)』を書き上げます。
ブレヒトとその演劇理論「異化作用」については、「コーカサスの白墨の輪」を紹介した時に述べました。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/426b5859cef8dc0f502173bacaa5617e
文学座にとって、はじめてのブレヒト劇だというのが意外でした。
・作:ベルトルト・ブレヒト
・訳:岩淵達治
・演出:高瀬久男
・出演:石田圭祐、三木敏彦、大滝寛、中村彰男、清水明彦、高橋克明、沢田冬樹、鈴木弘秋、木津誠之、植田真介、亀田佳明、釆澤靖起、南拓哉、山本道子、鈴木亜希子 、牧野紗也子、永川友里、金松彩夏、増岡裕子
舞台には大きな直角三角形オブジェがひとつ。それが壁になったりドアになったりする。ガリレオの望遠鏡と書き物机など、わずかな家具。
科学者の発見発明するものが、人類にとってどういう意味を持つのか、科学者の役割と良心、葛藤。ブレヒトは、この劇を書きあげたあと、ヒロシマナガサキへの原爆投下をしり、劇内容に大きな変更を加えたのだという。
311のフクシマ原発爆発後の今はいっそう「科学者の良心と、科学によってもたらされた成果」の問題は大きくなるでしょう。
深く大きなテーマを含んだ劇でした。
主役のガリレオは、石田圭祐が演じ、他の役者は、場面ごとにさまざまな役を演じ分けています。演じ分けているとはいっても、一般の観客はそのちがいを衣装などによって見分けているので、声によって役者のちがいを感じるアコさんにとっては、わかりにくい部分があったかもしれません。アコさんが「昴」のファンなのは、視覚障碍者のための音声ガイドが充実していたり、点字パンフレットによって劇の概要を知ることができるからです。
今回の文学座は、役者の声の差によって劇内容を把握するアコさんにとって、ストーリーが追いにくかったのではないかと思います。
劇が終わった後、お茶する時間があったらアコさんの質問に答えたりできると思ったのですが、劇の終了後はアコさんの希望で、車いす生活のお友達ケイコさんを訪問することになり、劇の話をする時間がとれませんでした。
文学座の良質な演劇、よい劇だったのだと思いますが、私とアコさんには、ちょっと消化不良の部分が残りました。ブレヒトの原作戯曲を読んでからアコさんに解説したいと思います。
<つづく>
2013/08/21
ぽかぽか春庭感激観劇日記>芝居は地球を回っている(4)エゲリア&シンベリン&マクベス
テレビ放映された劇場中継を見るのは、劇場で生の迫力とともに見るのとはまた違った楽しみ方ができます。劇場での感激は一期一会。役者のその日の体調や声によっても印象は変わるし、演出家によっては毎日ダメ出しをして、翌日の演出を変える人もいます。初日からどんどん演技を変えて千秋楽には別人のようにうまくなる役者もいます。
テレビは、そのような一回限りの出会いはありませんが、あるセリフを何度も再生して確認したり、ちょっと見逃した部分を巻き戻して「ああ、やっぱりこのとき後ろにもう一人隠れていたのね」なんてなぞ解きをしたり生とは違う楽しみ方ができます。なによりも。演劇チケットは高いので、私の懐具合では見たい劇を全部見に行くことができません。しかし、見たいと思っていなかった舞台でも、テレビ中継録画が放映されれば、たまたま見て、存外面白かった、というときもあります。
文学座の『エゲリア』とパルコ劇場『こどもの一生』。埼玉芸術劇場の『シンベリン』、世田谷パブリックシアター『マクベス』テレビ録画で楽しみました。
文学座の瀬戸口郁脚本『エゲリア』は、岡本かの子(1889ー1939)をとりまく人々をえがいた作品です。私は瀬戸内晴美『かの子繚乱』、岡本太郎「疾走する自画像」岡本敏子「岡本太郎自伝」などを読んで、かの子の魅力も、おかしな構成の岡本一家のこともわかっているつもりでしたが、エゲリアのかの子もとても強烈な個性で輝いていました。
強烈な個性のかの子を、いやみに落とさず、魅力ある女性として現出するのは、脚本の力、そして演出家や女優の腕だとおもいます。かの子を演じたのは吉野実紗。かの子は、天真爛漫天衣無縫我儘一杯傍若無人。しかし、なんともかわいらしく、助けたくなる女性です。
エゲリア(Egeria)は、ローマ神話に出てくる水の精。第2代ローマ王の妻であり助言者だったので、エゲリアは「女性助言者」の意味も含みます。瀬戸口郁が、どのような観点からかの子を「エゲリア」とみなしたのかはわかりませんが、エゲリアが「神の領域の存在」でありながら、人の王の妻として暮らしたということを考えると、かの子もまたそのような「人の心にとって女神であり、妻であり愛人であり姉であり母であり」という複雑な魅力を持つ女性という意味であろうと感じます。
太郎は母について「母の邪魔にならないよう、ひもで縛られ、柱にくくりつけられいた」という子供時代を過ごしたこともあったことを書いていますが、母を「天女のようだった。尊敬できる芸術家であった」と評しています。
岡本一平、かの子、太郎の家族に、夫公認のかの子の愛人柴田亀造(かの子の主治医であった新田亀三がモデル)。
成松恭夫(のちに慶応大学教授、島根県知事となる恒松安夫がモデル)は、家事ができないかの子に代わって、一家をきりもりします。かの子とは「やすおちゃん、お姉さん」と呼び合う仲で、姉弟のように同居する下宿人です。恒松の晩年の談話によると、「いちばん自分が人間らしく暮らせたのは、岡本家で家事をして暮らしたとき。それに比べると知事の仕事など余生にすぎない」と述べたそうです。いかにかの子との生活が生き生きとした活力に満ちたものだったか、しのばれます。
かの子は、あらゆることにエネルギーを注ぎ込み、歌を詠み小説を書き仏教研究者としても熱中します。50歳で亡くなったとき、一人息子の太郎はパリ滞在中でした。
かの子を演じた吉野実紗は、1981年東京都生まれ。青学仏文卒後、2005年文学座入りし2010年には座員に昇格。文学座の中では若手ですが、実力のある魅力的な女優さんです。杉村春子太地喜和子のあとにあまり好みの女優さんがいなかった文学座ですが、吉野のかの子はとてもよかったです。
『こどもの一生』は、ケータイも通じない島に設置されている「MMM」という「臨床心理治療所」が舞台です。都会のストレスを癒すため島にあつまった「治療を必要とする患者たち」と、医者看護師。笑っているうちにホラーになる物語。
会社社長・三友(吉田鋼太郎)と秘書の柿沼(谷原章介)。東北のテーマパークで働いているユミ(中越典子)は、ほんとうは東京ディズニーランドで働くのが夢なのに、かなわぬ夢を追ってストレスがたまっています。家電量販店に勤めている淳子(笹本玲奈)、頭の中から量販店のCMテーマ曲を追い出したいと思って治療に参加。ワイドショーの再現ドラマなどの脚本を書いている藤堂(玉置玲央)らを治療するのは、医師(戸次重幸)と看護師(鈴木砂羽)。
治療は、子供時代に戻ってこどもの心を取り戻すことでストレスをなくす、という方法。子供心になってもやっぱりいじめっ子の社長を仲間はずれにする目的で、他の「クライアント」たちが考え出したのが「山田のおじさんごっこ」。架空の人物だったはずの山田のおじさんが島に現れたときから恐怖がひろがります。
他の舞台では重厚な役柄が多い吉田鋼太郎がやんちゃに飛び跳ね、「軽いハンサム」イメージの谷原章介が、現代社会の人間関係に追い詰められていく複雑な心理を「無意識のこわさ」として体現していてよかったです。
1990年の初演から23年。現代にあわせてリメイクしたそうですが、23年たっても、中島らもが「現代の人間関係が生み出すホラー」をめざした内容は、古くなっていません。ますます怖い人間カンケー。
蜷川幸雄の演出でシェークスピア劇の全上演を続けている埼玉芸術劇場、シリーズ第25弾として、シンベリンが上演されました。(2012年4月2日~21日)
ロンドンオリンピック開幕前の6月にはロンドンのバービカンシアター公演も行われました。
録画時間3時間10分という劇。上演では途中15分の休憩が入りますが、私は場面転換ごとにトイレにたったりお茶を入れたりしながら観ました。
出演者
・ブリテン王シンベリン(吉田鋼太郎)昔、大切な跡取りの息子たち(長男と次男)を何者かに誘拐され、今はひとり娘イノジェンに後妻王妃の息子を目合わせて跡継ぎにしようとしています。王妃の尻に敷かれています。イタリアとの交渉が決裂し、国を戦乱に巻き込みます。
・王妃(鳳蘭)王には愛情のかけらもないけれど、一人息子をブリテン王にするため、継子のイノジェンと結婚させようと図っています。
・クロートン(勝村正信)王妃の息子であることを鼻にかけ、傍若無人。イノジェンと結婚できる気でいます。
・王女イノジェン(大竹しのぶ)父王に許しを得られずとも、最愛の人ポステュマスと結婚し、追放された夫の帰りを待っています。夫からプレゼントされた腕輪を大切にしています。
・ポステュマス(阿部寛)許可なく王女と結婚した罪により国から追放処分を受け、ローマへ渡ります。ローマの貴族ヤーキモーに妻を自慢したため、妻の貞節を賭ける仕儀となります。
・ヤーキモー(窪塚洋介)ローマの外交団としてシンベリン王の居城に入り、策略によって王女イノジェンの大切な腕輪を盗み出します。ポステュマスは、腕輪を見て妻が裏切ったと思いこんでしまい、下僕ビザーニオに「イノジェン殺害」を命じます。
・ベラリアス(嵯川哲郎)シンベリン王に反抗したため、追放された貴族。モーガンと名を変え、息子ふたりと猟師生活を送っています。
・モーガンの息子ふたり(浦井健治&川口覚)実はシンベリン王の息子
ローマとの交渉が決裂し、ブリテンとローマは戦闘状態に入ります。夫を案じる王女イノジェンは、男装して山に入りモーガンたちに助けられますが、ローマ軍に捕らえられ将軍の小姓となります。
ポステュマスはローマからブリテンに戻り、シンベリン王の軍に入って大活躍。
最後は、ヤーキモーの悪だくみもあきらかにされて、めでたしめでたしの大団円となります。
役者たちの演技合戦のような面もあり、見どころは多いのですが、劇場で全部見たら疲れたかもしれません。休みやすみ自分のペースで見ることができて、生で見るのとはちがう楽しみ方ができました。
野村萬斎演出主演の『マクベス』。シェークスピアはどのように演出してもぴたっと収まる演出自由自在の面がありますが、狂言をシンに持つ萬斎の演出、5人のみの出演者と和風の衣装、和柄の装置、簡素なのに華麗な舞台でした。
萬斎の演出力をほめている感想が多いのに、私には、今までいろいろなマクベスを見た中で一番「王殺しの悪行をそんなに悔いることないじゃないのさ」と感じさせるマクベスでした。「権力者なんて、しょせんみーんな人殺し。下克上の世の中で、先代の王を殺してしまうのは年中行事みたいなもんなのに、なんであなただけがそんなに錯乱しちゃうの?しっかりしなさいよ!」と、背中をけっとばしたくなるマクベスでした。マクベスの受容として、これ、いいんだろうか。
演劇にはいろいろな楽しみ方があると思いますが、出演している役者が好きか、演じられている主役に興味があるか、演出方法に興味があるか。日ごろ高いチケット買う金のない私には、テレビ観劇、もっといろいろ見てみたいです。舞台中継の放映、増えてほしい。
<おわり>