春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ニーハオ春庭「合隆鎮の旅店」

2007-07-31 | インポート
2007/07/31 火
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の旅店

 中国の宿泊施設、名前のあとに「大酒店・酒店」や「大飯店・飯店」とあるのは高級ホテルが多い。上階は宿泊施設で、1階や2階はレストランになっている。

 北京東方君悦大酒店(グランド・ハイアット・ペキン)、北京飯店(ペキンホテル)、上海四季酒店、(シャンハイフォーシーズンホテル)、香格里拉大飯店(シャングリラ・ホテル)、など。
 一泊300~500usドル。日本円で一泊5万円以上となると、とても私にはおそれおおくて利用できません。

 ホテルや百貨店、会社や官庁などの建物など、大きな建物は、「大厦(ターシャ=ビルディング)」と名乗っていて、ホテルの名前でも、大厦がある。哈爾浜竜門大厦(ハルピン・ロンメン・ホテル)、延吉白山大厦(イェンジン・ベイシャン・ホテル)など。

 名前の後ろに「賓館」とあるのは、星つきも星なしもある。
 8月に大連で宿泊する予定の大連賓館(ダーリェンビングヮン)は、三つ星。旧満州時代に設立された旧ヤマトホテル。名建築の誉れ高い老舗です。

名前だけは「賓客の館」でも、賓客を迎え入れるのはとてもできそうもないっていう雰囲気のところもありますが、名乗るのは勝手。

 次は「招待所」クラス。大学の職員や公官庁の招待所には、ホテル並の設備が整っている所もあります。
 町のなかに「招待所」と看板が出ている所は、だいたい安宿。30~70元(450~1000円)くらいで泊まれる。

 町にも村にもある「旅店」となると、部屋は、ほぼベッドの幅。ベッドのわきに人が通れるだけの隙間があり、トイレは共同。安全面を考えると、バックパッカーをのぞき、一般の観光客は利用しないだろうと思います。
  
 前に来たとき、合隆鎮には旅店があると、バスから見ていました。
 泊まるところがあることはわかっていましたが、そこがどれくらい安全か、については、最終的に自分の判断に頼るしかありません。ほとんどの所は安全ですが、万が一の場合は、自分自身の責任です。

  中国は、安宿でも安全なほうといえますが、人様にはすすめません。衛生面で、たとえば、シーツを換えてなくても平気な人でないと、旅店はちょっと、、、。

 この、「清潔感へのこだわり」も人それぞれ。大学外国人専門家公寓は、毎週水曜日がシーツ交換日で、服務員が取り替えてくれました。
 しかし、洗濯の仕方が気に入らないと言って、自分でシーツを買ってきて、自分で清潔にしたシーツでないと安心して眠れないという人もいました。
 他の居住者が使ったことのあるバスタブはいやと言ってシャワーだけで半年すごした人もいます。

 私のこだわりは、「大勢の人が直箸で大皿から料理をとる中国式の食べ方では、他の人が箸をつけた食べ物が食べられない」という点。
 私の前に新しい皿がきたとき、一番先に私がとりわけ、あとは食べないので、宴会料理、私はあまり食べられない。

 宴会では十皿二十皿の大皿がテーブルに並ぶのですが、新しく来た料理は、一番目上の人の前に置かれます。
 勤務部署の宴会では、「日本では、料理を取り分けるとき、別の箸を使う」ということを知っていて、取り箸を用意してくれるのでいいのですが。
 
 合隆鎮の旅店。バス発着所からぐるりと見渡し、一番近くに目に入ったところへ行きました。
 フロントのおねえさんは、まあよさそうな人だし、部屋を見せに二階へ案内してくれたおばちゃんも気がよさそう。それだけで信用してはいけないこともあるけれど、ま、今夜はここでいいでしょう。

 フロントのお姉さんは、「一泊20元」と言います。田舎の旅店なのに、ちょい割高と思いましたが、「听不懂 チンブートン=耳で聞いても理解できない、わからない」で、筆談だけの日本人、しかたないなと、宿泊決定。

 部屋は、日本の言い方なら4畳半くらいの広さ。セミダブルベッドとテレビと帽子かけがある。あんどん部屋で窓がありません。窓がある部屋がいいと希望したのですが、「没有メイヨー」
 実は窓側の部屋があいていたのですが、その部屋はよくない、というのです。

 中からドアノブ押しボタン式の鍵はかけられるけれど、外からかける鍵は渡されないので、共同トイレに行くために部屋をでるのでも、いちいち財布カメラケータイなどの貴重品は持ってでなければならない。

<つづく>

ニーハオ春庭「農安県合隆鎮」

2007-07-30 | インポート
2007/07/30 月
ニーハオ春庭中国通信>農安県合隆鎮

 ミニバス185路線で1時間ほど北へ行ったところにある農安県合隆鎮。
 以前、一度、バスで行くだけ行って、そのまま折り返して帰ってきたことがあり、どこらへんにあるところなのかは、地図を見て確認してあるし、町のなかに旅店があることもバスから見て確認してありました。
 伊通鎮よりは小さいけれど、富峰鎮大屯よりは大きい田舎町。農安県の中心地が合隆鎮です。

 夜、仕事を終えてから、バスの終点へ夕食を食べにいく「どこへいくのか、自分でもわからない夕食ツアー」を続けてきました。
 7月13日、金曜日のこと。合隆鎮行きは、「遠いので、夕食を食べたあと、市内に戻るのはむずかしい」と、判断して、泊まりの準備をしてバスに乗り込みました。

 準備と言っても、歯ブラシ、タオルなど、「簡単お泊まりセット」のみ。元バックパッカーは、パジャマに着替えないでそのまま寝ても、翌朝は同じ服ですごしても平気。荷物は極力少ない方が安全。身なりはボロいほうが安全。
 カメラも持たない方が安全なのはわかっていますが、これだけはデイザックに入れておく。知り合った人と一緒に写真をとってもらうのは、私の楽しみのひとつ。

 近くのバス停からまず鉄道駅(火車站)へ。駅の中をのぞいてみる。金曜日の夜、どの窓口も長い列を作っています。出張や旅行の人もいるでしょうが、当日券を買うために並んでいるほとんどの人は、省都の出稼ぎ先から我が家へ戻る人。田舎へ商売モノを持って行く人もいて、皆大きな荷物を抱えています。

 鉄道駅から少し離れたところにあるバス発着所まで、少し歩きました。こんなに遅く、185路線のバスはまだ動いているかしら。夜6時には営業を終えてしまう路線もあります。
 あ、185路線の発着所、まだバスが泊まっています。

 7時15分に185路線のバスに乗りこみました。でも電車と異なり、田舎へ向かうバスには正確な発着時間というのはありません。「人数がある程度集まったら出発」です。
 7時45分まで待ち、やっと出発。

 合隆鎮についたのは、9時少し前になりました。こんなにおそくなっちゃって、夕ご飯食べられるかしら。一般の夕ご飯タイムは午後5時~6時です。9時は、食後のビールタイム。

 バス発着所には、さらに田舎へ向かうための人をあてこんだオート三輪タクシーやモーターバイクタクシーがたくさん停まっています。
 モーターバイクは、後ろの席にふたり乗せることもあり、オート三輪より割安なので利用する人も多いですが、私はまだ乗ったことがありません。交通事故が多い中国の道路では、もっとも危険な乗り物と思うので。

 ぐるりと見渡して、まず、「旅店」と看板が見えるところを探しました。

<つづく>

ニーハオ春庭「動植物公園・東北虎とニセ縞馬」

2007-07-29 | インポート
2007/07/29 日
ニーハオ春庭中国通信>動植物公園・東北虎とニセ縞馬

 7月27日「日本語能力試験2級レベル全員合格」のお祝いをして、私の中国での仕事とは完了。
 あとは、自由な夏休み2週間。

 仕事を終えた後の休暇、まず最初の2日間は。
 この町で出会った「若い友人」ふたりを招待して、市内でのんびりすごすことにしました。

 ひとりは、私の中国語の家庭教師をつとめてくれた大学3年生ジョウさん。
 一生懸命に中国語を教えてくれましたが、私は予習も復習もしない不出来な生徒で、結局「指さし会話」以上に上達することができませんでした。

 私の「指さし会話」、けっこう生活できます。タクシーに乗れば、前方、右、左を指さし「走[口巴]ゾウバ(行こう)」
 買い物にいけば、欲しいものを指さして「多少銭?ドゥオシャオチェンいくら?
 これだけで生活はあまり不自由はしませんでした。

 最後の授業は、四つ星ホテルの和食レストランにご招待して、刺身、すし、天ぷら、うどん、鯖塩焼き、茶碗蒸しなどがセットになった「和食セット」をいっしょに食べました。どのメニューが一番お口にあったかきいたら、「和風さいころステーキ」、ああ、やっぱりね。

 もうひとり、友達になった「若い友人」は、14歳のシャンユエ。合隆鎮という田舎町に行ったときに出会った子。中学1年生。9月からは2年生です。

 28日の朝、合隆鎮までシャンユエを迎えに行きました。バスで60分ほどのところです。

 市内に戻って、まず、肯徳基(ケンタッキー)で、ハンバーガーやフライドチキンのランチ。

 麦当勞(労のツをとった上に草冠・繁体字では麥當勞=マクドナルド)は、混んでいたので、肯徳基へ行ったのですが、ここでもしばらく待ちました。

 土曜日の昼をマクドナルドやケンタッキーでランチしようという親子連れがワンサカ集まっています。
 ジョウさんの説明では、この近くに英語塾がたくさんあって、午前中子どもに英語の勉強をさせた親が、ランチは「洋風に」と考えて集まってくるのだとか。

 ランチのあと、動植物公園に行きました。
 入場料がひとり10元、動物ショウの観覧料が10元。1m以下の子どもは半額。中国では、年齢ではなく、身長で半額になります。鉄道などは1,4m以下なら半額。

 動物「表演」
 ライオン、虎、オオカミ、熊、猿、山羊、象たちが、自転車に乗ったり火の輪くぐりをしたり、綱渡りや縄跳びをしたり。
 子どもたちは大喜びです。

 大人ぶりたい年頃の中学生には「子どもっぽい」と思われるんじゃないかと心配しましたが、シャンユエも、けっこう喜んで、芸がきまると拍手して見ていました。
 
 鞭で叩かれたりしながら芸をする動物を見ていると、かわいそうな気もしますが、マクドナルドランチをご褒美に英語塾でしごかれる人間の子どもも、似たようなものだと思えばいいのかも。

 ショウのあとは、河馬、縞馬、頸長鹿(きりん)などを見て回りました。
 私の一番のお目当ては、「東北虎(シベリアンタイガー・アムールタイガー)」
 絶滅危惧種のひとつで、現在、中国政府は黒龍江省の東北虎林園で、繁殖をはかり、700頭まで回復したのだそうだけれど、パンダと並び、絶滅して欲しくない貴重な動物です。

 もうひとつ、見ておきたかったのは「偽縞馬」、白馬にペンキで白黒模様を描き、馬車を引いています。
 日本のニュースでこの「偽縞馬」の姿が放映されたということを、ネットニュースで知りました。
 日本で注目されたという、この「偽縞馬」の写真を撮っておきたかった。

 私の感覚では、馬車を引くのは白馬のほうがいいと思うのに、しっかりペンキで縞馬に変身していました。

 さて、中学生シャンユエと出会ったいきさつについて。

<つづく>

ニーハオ春庭「植物園風レストラン合格祝賀会」

2007-07-28 | インポート
2007/07/28 土
ニーハオ春庭>植物園風レストラン合格祝賀会

 27日に終了したコースで、昨年10月から日本語の授業を受けてきたのは、中国の大学で教えている若手教師たち。
 昨年10月に「あいうえお」の発音、ひらがなカタカナの書き方からはじめて、私が3月に赴任したときは、初級コースを半分おえ、4級レベルになっていました。

 皆、優秀な大学教師たちですから、ここまでは余裕で上達してきたのです。しかし、ここからの急坂を登るのは、本当に過酷でした。
 もともと「新幹線授業」だったのに、6月7月は「ジェット機授業」
 旅行カバンには詰め込む、詰め込む。乗り込んだと思うと、あっという間に走りすぎる。

 最後の2週間は、朝日新聞に掲載されたエッセイ、投書や「天声人語」の読解が中心でしたが、アップアップでした。

 まったくこれまで知らなかった言語の学習をはじめて、一年間で英検なら2級に相当するレベルに相当する力を培う、私なら「やれ」といわれても、たちまち挫折しそうなコースです。

 私の受け持ちクラスでは、19名が、北海道大学、東北大学、東京大学、東京工業大学、名古屋大学、神戸大学など、各地の大学院博士課程に留学し、医学や情報工学、環境科学、ロボットビジュアルシステム、カーボンナノテクノロジーなど、多方面の専門で博士号取得をめざします。
 
 文系の人もいます。東大大学院で美術史研究を行う人もいれば、名古屋大学大学院で教育経済学大学運営論を研究する人もいます。

 一橋大学で経済学の研究をする人は、今月出産したばかり。6月末から授業を欠席し、毎日友達が宿題プリントを届けて自宅学習を続けました。産後の体で最終試験を受けましたが、優秀な人ですから無事合格。

 10月には生後3ヶ月の赤ちゃんをお母さんに託して留学します。半年して日本に慣れたら、お母さんと赤ちゃんを東京に呼び寄せるそうです。3ヶ月から9ヶ月までの、日に日に大きく育っていく時期のかわいい赤ちゃんをだっこできないのは、母親にとってつらいでしょうが、せっかく得られた国費留学のチャンスを失いたくない気持ちもわかります。

 ご主人は上海に単身赴任中。出産立ち会いも、3日間赤ちゃんのそばにいられただけですぐに仕事先へ帰ったそうで、超多忙のようです。

 最終試験合格発表のあと、7月26日夕方は、クラスの皆が集まってクラス写真撮影大会。教室や蓮の花が美しいキャンパスの池の前で、思い出アルバムの写真を撮りました。

 夜はそれぞれのクラスで合格祝賀会。
 私のクラスは、市内の海鮮レストランで豪勢な宴会となりました。
 体育館のような広い建物の中が植物園風に設計されていて、さまざまな木や花が植えられ、池には錦鯉やオシドリが泳いでいます。
 植物園の中に中国風のコテージが点在し、コテージ内で宴会。

 「今、中国では、このようなレストランが、え~、はやし、、、はやい、、、え~」
「はやっていますって、言いたいのかな?辞書形は流行る、テイル形は、流行っている、でしたね。ま、活用間違えても単語忘れても、もう合格しちゃったからいいさ」
 2級レベル試験に合格したといっても、聴き取りや会話はまだまだ弱い人もいます。

 「はい、はやる。流行っています。日本にもこのようなレストランがありますか」
「東京の木場に熱帯植物園があって、その中のレストランで食べたことはあるけれど、そこは植物園が主体で、レストランは付属の施設。ここは、レストランが主体で、植物園はレストランの付属の施設ですから、このような種類のレストランは、日本では私は行ったことがありません」

 学生たちは、思い思いに園内を歩いたり、池のそばのテーブルでトランプをしたり、ここ数日間続いた、連夜の猛勉強の疲れをいやしています。
 学生たちの宴会といえば、夕方5時半開始、6時開始が多いのに、今日は明日遅刻する心配もなく、翌週月曜日に提出の作文宿題もなく、ゆっくり7時すぎに開始、魚料理、ホタテ料理などがテーブルに並びます。

 美味しい海鮮料理をいただき、乾杯を繰り返しながら、本当に心晴れ晴れとおひらきになりました。

<おわり>

ニーハオ春庭「お仕事完了」

2007-07-27 | インポート
2007/07/27 金
ニーハオ春庭>お仕事完了

 連日「村に宿泊した」「延辺へ旅行した」というエッセイを掲載しているので、「仕事はどうした」と、ご心配くださった方のコメントもありましたが、もちろん、旅行などは週末だけ。平日月曜日から金曜日までは、毎日仕事を続けてきました。

 旅行に行けたのは、5月に山東省へ2泊3日(往復寝台車2泊)、6月に大連へ3泊3日、7月に東北地方の延辺へ1泊2日(往復寝台車2泊)。
 この3回の旅行、それぞれ思い出深いものとなりました。
 あとは、平日、仕事が終わってから市内バスに乗っての「夕食を食べに行くミニバスツアー」です。

 平日は、朝8時から5時まで勤務。家に帰っても翌日の授業準備、授業プリント作りや作文の添削などで夜寝るまで仕事を続けなければ、こなしきれない仕事量でした。

 日本でも、週日は毎日授業を受け持っている私ですが、大学の授業は一日に90分2コマ。授業時間以外の授業準備は、拘束されることなしに自宅でも図書館でも行うことができます。
 
 13年前に私が参加した同じ文部科学省プロジェクトは、午前中90分2コマの授業をしたあと、午後は自宅で授業準備ができる比較的自由なプログラムでした。
 しかし、今回は8時~5時の拘束、さらに仕事が残って、夜も自宅に持ち帰り残業。
 本当にたいへんでした。

 4月は毎日ため息をつき、「こんなはずじゃなかった、これほど仕事がたいへんと思わずに中国へ来てしまった」と、愚痴と涙の毎日。

 5月6月、日が延び、夕方8時近くまで明るさの残る町で、夕食ツアーを始めました。
 夕食を食べに、他の人たちは専家公寓の食堂や近所のレストランで食べていたところを、私ひとりバスに乗り、終点までいってそこでご飯を食べて帰る。

 ささやかなバスツアー。バスから町を歩く人々を眺め、繁華街でショッピングを楽しむ人たちを見て通る。
 細民街の細い道を通るバスから、傾きかけた家の中で暮らす人々のようすが丸見えだったり、田舎道の辺り一面トウモロコシ畑の中、デコボコ道をゆられたり。
 夕食、町はずれや村の小さな食堂で冷麺やチャーハンを食べ、ほっと一息、気持ちを切り替えて家に帰りました。

 こうして毎日仕事に励んだ結果。

 中国教育部と日本の文部科学省共同プロジェクト「赴日本国、国費留学生日本語教育」という留学生教育、基礎教育の部を終了し、7月26日、基礎教育最終試験「日本語能力試験2級レベル」が、実施されました。
 ドキドキしながらの採点。私の受け持ちクラス、ひとりでも不合格者がでたらどうしよう。

 どんなに練習問題や模擬試験で練習しても、聴解試験の成績が伸びない人が各クラス何人かはいます。
 私の受け持ちクラス19名のうち、どうしても2、3人は聴く力が弱く、聴解試験の模擬テストで合格ラインに達しないのです。

 彼らの気持ちがよくわかります。私も中国語、文で見ればだいたいの意味がわかっても、耳で聞くとなにがなにやらさっぱり分からない、「听不懂 チンブートン=理解できない、わからない」でしたから。

 でも、本番試験では皆、がんばりました。
 結果。
 103名全員合格。バンザイ!よかった、よかった。ほんとうにほっとしました。

 2週間の夏休み後、学生たちは東大、東工大の先生を迎えて専門教育を受けることになります。
 それぞれが自分の専門について習うのは、基礎日本語ほど修得が難しいものではありません。

 たとえば経済問題の研究者にとって、「経済分析師→経済アナリスト」「内幕交易→インサイダー取引」「貼牌生産/定牌生産→相手先ブランド生産」などの専門用語を覚えるのは、英語もできる彼らには、それほどむずかしくありません。

 基礎日本語の学習で、「どころか」と「ところが」を、いつも間違えてしまう、とか、「きっちり」「きっかり」をどのように使い分けるか、「彼は学者らしい人だ」と「どうやら彼は学者らしい」という文では「らしい」の意味が異なるとか、頭をひねってきたことに比べれば、2週間の短い「専門日本語研修期間」でも、十分に日本での研究生活に備えることができるでしょう。

 専門日本語の修了認定は試験ではなく、「専門研究発表会」での日本語による発表ですから、大学の教師である彼らには、皆の前で発表するのは慣れたもの。

 専門教育が終了したあと、9月は留学準備期間。
 10月、彼らは日本の各地の大学へ向かいます。

 さて、日本語基礎教育担当の私の仕事はこれにて完了です。お疲れさま!

<つづく>

ニーハオ春庭「中国的OFF会」

2007-07-26 | インポート
2007/07/26 木
ニーハオ春庭中国通信>中国的OFF会

 Off会でウェブ友と顔をあわせたことは数回しかない、というOn Line専門の私なのに、中国に来て、Off会をすることになりました。

 この地に赴任する前に、市の名前で検索をかけたら出てきたサイト。その後、市の中の地名や出来事で検索するたびに行き当たったサイトがあります。

 2006年8月から中国に留学している女性のサイト。留学日記を読み続けているうちに、留学生といっても、企業か公官庁から派遣されて「公費留学」している人らしいこと、既婚者で、ご主人が中国に会いにきたりすることもある、など、わかってきました。

 私と同じく、固有名詞は極力文章に載せないよう気を遣って書いていることがわかったのですが、それでも、長くひとりの人の文章を読んでいれば、あちこちの記述から、思い当たることが次々と出てきて、この留学生は、私が教えている大学の本部キャンパスで学んでいることに気づきました。

 とても簡潔明瞭な文体で、的確に町のようす、人々のようすを知らせてくれます。
 赴任後も、ちょくちょくサイトにおじゃまし、いろんな市内情報を参考にさせてもらいました。中国クマ、というハンドルネームです。

 中国クマさんも太極拳を練習していることが書いてあったのですが、私の推理で、どうやら、同じ先生の相弟子ではないか、と気づきました。

 私の太極拳の先生は、本部キャンパスの留学生にも太極拳を教えています。毎週金曜日午後のクラスで、正式に単位をもらえる授業だということを聞いていたので、そのようなクラスが何種類もあるとは思えないので、たぶん、同じ先生に習っているのだろう、とわかったのです。

 何度かコメントを書き込むうち、ついに「同じ先生に太極拳を習っています」ということを書き込みました。
 彼女が中国語を習っている先生たち、何人かの先生といっしょに太極拳の練習を続けてきたので、彼女がブログにのせた「我的老師的太極拳」の写真に、私も写っていることをコメントしたのです。

 発表会のとき、私のうしろに並んでいた年配の先生は、彼女の「口話(会話)」の先生。そのほか、漢文読解の先生とか、共通に知っている先生が何人もいました。

 彼女の留学派遣期間は1年間。7月いっぱいで帰国するというので、帰国前にぜひ会いたいと、メールしました。

 大学正門の前で待ち合わせの約束。「黒いリュックサックを背負っている」という目印を教わっただけでしたが、図書館前から正門に向かって歩いてくる女性、すぐに中国クマさんだとわかりました。

 さわやかな笑顔で、文章から想像していたとおりのすてきな女性でした。でも、、、、思っていたより若い。

 公官庁から派遣されて来ている、既婚者の女性ということで、もうちょっと年配なのかな、と思っていたのですが、知性のなかにも若さが光っている、という感じで、私のようなオバハンと話が合うかな、と、ちょっと心配。
 でも、話し始めてみると、初めて会う人でも、10年来の友のようです。

 これは、Off会というものが、そうであるのかもしれません。会う前に、サイトやブログで、相手のものの見方や考え方を十分に知っていて、また、ある程度のプライベートな背景も知っていて会うのですから、毎日顔を合わせていても、挨拶程度しか話さない近所の人より、よほど相手のことをよく知っているわけです。

 私の宿舎近くにある韓国料理店で食事をしながら話すことにしました。
 このあたりには、朝鮮族が多く住んでいて、朝鮮料理の店がたくさんありますが、中韓国交回復後は韓国資本が急激に中国に進出してきて、韓国ドラマも放映されるし、韓国から輸入された物を扱う商店も、韓国料理店も、どっと増えました。

 韓国人が経営している店のひとつで、ビビンバや焼き肉を食べました。
 私にはその差がわかるほど、朝鮮料理と韓国料理を食べ比べたことはないのですが、1年この地に暮らしたクマさんによると、微妙に味が違うそうです。

 中国の自治体と日本の自治体が姉妹都市など、友好交流関係を結んでいるところが増えてきましたが、クマさんが勤務する県も、この町と長年の交流活動を続けてきました。
 クマさんは、国際交流課の仕事をこなすために中国語が必要で、交流課の仕事の一環として留学することになりました。

 お給料をもらいながら留学できることを、単純に、「うらやまし~い」と思っていましたが、クマさんの話をきくと、仕事として留学するというのは、絶対によい成績を残さなければならないし、中国語学習のほか、自治体交流課の現地事務所に顔を出して、課の仕事も手伝わなければならない。こちらが思うほど楽ではないようです。

 交流課の仕事もこなしながらの留学生活、クマさんは、中国語もしっかり上達したうえで、中国各地への旅行も楽しみ、充実した1年間の中国生活になったことが、ブログからもわかります。

 本当は、最終試験の最中なのに、試験が終わったらすぐに大連旅行へ出かけるので、試験初日に会うということになったのです。
 交流の話、太極拳の話、クマさんの出身地と私の舅姑の出身地が同じことから、「地元トーク」など、話がはずみました。

 本当はもっと話していたかったけれど、なにしろ明日も中国語の試験が続きます。公費留学のクマさん、絶対に単位を落としたりできません。勉強にさしつかえるといけないので、話はつきないけれど、「再見」となりました。

 ブログの文章からも感じられましたが、会ってみると、ほんとうに知的でさわやかで、人をあたたかい気持ちにさせてくれる人柄なので、留学を終えて県の交流活動の仕事にもどったら、きっと外国の人にも日本の人にも好かれる、すてきな国際交流職員になるだろうと思います。

 これから帰国までの間に、出張で中国へ来るご主人と待ち合わせたり、大連、内モンゴルに旅行したり、忙しいスケジュールになり、27日には帰国、というメールが届きました。この次会うとしたら、日本で、ということになりそうです。

 こうして出会えたのも、この町にいるご縁。ブログがとりもつ縁がまたひとつ増えました。

<おわり> 

ニーハオ春庭 延吉のおばあさん

2007-07-24 | インポート
2007/07/22  日
ニーハオ春庭中国通信>延辺の村と延辺大学

 私がいつもしている「市内から郊外へ向かうバスに乗って終点まで行く」を、延吉でもしてみました。

 着いたところは、「依蘭鎮利民村」という小さな村。延吉からミニバスで30分くらい走ったところにある 面積 52平方km、人口1800人ほどの村です。
 村役場とおぼしき建物の看板に、漢字とハングル併記で「利民村人民委員会」と書かれています。 

 バスがとまったところから十字に道があり、両側にパラパラと家がある。「民俗園の復元農家よりよっぽどこっちのほうが古い家」と思える家が並んでいます。

 大学専家公寓の自室に戻ってからインターネット検索で中国サイトを調べると、利民村は、今年から新しく住宅団地の建設が始まることが出ていました。

 延吉市からバスで30分ほどのところにある地の利が生かされ、これからベッドタウンとして発展していくのではないかと思います。
 10年後にきたら、今のこののんびりした田舎の光景も激変しているのかもしれません。

 道を行ったりきたりして、草葺きの家の写真をとったり、道のわきにつながれている牛を眺めたりすれば、それで村内観光おわり。

 道の脇に五人のおばあさんたちが座り込み、おしゃべりしています。
 いっしょに写真をとってほしいと頼むと、こころよく並んでカメラにおさまってくれました。

 素朴な笑顔のおばあさんたち、村が住宅団地へと変わることがあっても、おばあさんたちの笑顔とにぎやかな道ばた会議のおしゃべりは変わらないでほしいなあと思います。

 どこへ行ってもいい人に会えて、ラッキーな私ですが、事件事故にあわないよう、十分気をつけて歩いているつもりです。
 気をつけていても、どこでどんなことに出会うかはわかりませんが、私が延辺の村を歩くにも、安心して歩けたのには、わけがあります。
 
 現在私が受け持っているクラスに、朝鮮族出身者の女医さんがいます。
 家庭では母語の朝鮮語で話します。小学校から中国語の授業を受け、学校や社会では中国語で生活します。
 中学からは外国語科目として日本語を学び、日本の大学医学部博士課程進学のために必要なので、現在は日本語と平行して英語も学んでいます。朝鮮語中国語日本語英語、4カ国語ができるお医者さん、生理学の専門家です。

 今回、私が安心して延辺旅行に出てこられたのは、彼女が「何か困ったことがあったら、私の主人に電話してください」と、ご主人のケータイ番号と延吉市内の自宅電話番号を書いた手紙を言付けてくれていたからです。

 なにかわからないことがあったとき、電話をすれば、どうしたらよいか日本語ができる人に教えてもらえる、という安心感があったので、村歩きものんびりとできました。

 彼女は、平日は大学の寮で暮らし、留学に備えて日本語学習を続けています。週末はお子さんとご主人が暮らす延吉市に帰宅することもあり、今回も「私が延吉市内をご案内します」という申し出をしてくれました。

 しかし、学生が在学中、私が成績をつける教師という立場である間は、クラス全員といっしょに過ごすのならいいけれど、特定の学生との個人的なおつきあいをしないことを信条にしているので、お礼を言い、「できるだけ自分の足と目で歩いてみます。万が一、困ったことが起きたら、連絡しますから、そのときは助けてください」と、話しました。

 彼女は、日本留学にあたって、最初の半年はお子さんをご主人に託し、半年して日本に慣れたら、お子さんを日本に呼び寄せるつもりだと言います。しかし、ご主人、彼女と同じ大学の医学部のお医者さんなので、仕事を離れられない、と話していました。

 彼女とご主人が医学部教師として働いているのは延吉市の延辺大学。
 延辺大学は、中国の大学がみなそうであるように、正門から見ると実に堂々とした立派な建物が建っていて、地域のランドマークになっています。

 延辺大学の本部キャンパスに入ってみました。本部キャンパスの中には、理工学部、教育学部などはあったけれど、医学部キャンパスは別の地域にあるらしく、地図をみても、どこにあるのかわかりませんでした。

 私の受け持ちクラス、この女医さんのほか、男性1名がこの延辺大学の教師です。日本ではそれぞれ、医学と情報処理の博士号を目指します。
 ふたりとも歌がとてもじょうずで、クラスパーティではいっしょに朝鮮族の歌を披露して場を盛り上げてくれました。

 四カ国語を駆使して医学研究にあたる女医さん、小さな村の素朴なおばあさんたち、延吉市内の道を教えてくれた方、美しい民族衣装で踊った若い娘たち、社交ダンスを指導していた奥さん、、、、
 延辺の女性、みな笑顔が美しい、すてきな女性たちでした。

 今回の延辺旅行、北朝鮮にも行けたし、すてきな笑顔に囲まれた楽しい旅ができました。

<おわり>

ニーハオ春庭「延吉の民族冷麺」

2007-07-21 | インポート
2007/07/21 土
ニーハオ春庭中国通信>延吉の民族冷麺

 民俗園の近くにあるレストランは、朝鮮料理の店として知られているらしく、門前には高級車が何台も駐車していました。チャングムの朝鮮宮廷料理?
 ここで食べようか?
 いや、やっぱり、お昼ご飯は「冷麺」!
 延辺へきたら、何はともあれ、冷麺!です。

 一旦市内に戻り、海蘭路の「金達莱飯店」へ。
 数々の料理コンテストで、ここの冷麺が入賞しているという冷麺専門店です。有名店だけあって、お昼時をすぎているのに、つぎつぎに客が入ってきて、テーブルの席は満杯。
 有名店といっても、気取ったところはまったくない、ごく普通の店内。冷麺は庶民の食べ物ですから。

 私は、メニュー表の一番上にある「民族冷麺」を注文。これが一番高い。先に食券を買います。30元(450円)。
 私が普段食べる冷麺は、3元ですから、冷麺は庶民の食べ物といっても、その中でも30元はちょい高級。

 麺の上に海老や肉、卵など、いろんな具がのっていて、ほかに小皿に10種類くらの具がついてくる、豪華版でした。
 具が多いだけでなく、たしかに、スープがうまい!

 ナッツ好きの私にとっては、一段と冷麺の味を引き立てたように思えた小皿の品は、松の実です。とても冷麺と合っているように思えたので、こんど3元の冷麺を食べるときに、自分で松の実を持っていって、振りかけてみようっと。

 なぜ「民族冷麺」というメニュー名なのかというと、1950年代にこの店が創建されたときには、「延吉市第一民族飯店」という店名だったから。
 店名も重々しい国有企業でした。従業員は「公務員」ですから、たぶん、この時代の国有デパートやレストランがそうであったように、店員さんも、エラソーだったのではないかと、往時が思われます。

 経済開放後、1989年からは一企業となりました。企業努力が実って、現在は韓国やアメリカに支店をもつまでに発展しています。
 服務員は、忙しそうにチャッチャッと冷麺を運んでいます。
 朝鮮民族の誇りをかけた「民族冷麺」ほんとにおいしかった。

 金達莱飯店のある海蘭路は、延吉市の繁華街のひとつ。どの店も、看板は漢字とハングルの両方の表記があることが、中国の町とも韓国の町ともちがっていて、通りの雰囲気も「バイリンガル」(?)な感じ。

 町の人々は、中国語と朝鮮語の両方をつかいこなし、さらに日本語ができる人も多い。
 もともとふたつの言葉を併用する町であるから、別の言語を使っている人を抵抗なく受け入れてくれるのか、町の人々がだれも、とても親身に思えました。
 道を尋ねても、ひとりひとりが気持ちのよい応対をしてくれます。

 延吉賓館のドアマンは、泊まり客でもない私が地図を広げて尋ねたのにこたえて、金達莱飯店への行き方を教えてくれました。その上、道順が飲み込めないようすを見て、通りを走るタクシーをとめて、「この客を金達莱飯店まで乗せていって」と、指示してくれました。

 白山ホテル前に待機していたタクシーは、ぼったくろうとしたし、全部がいい人というわけではないでしょうが、延吉の人々、あたたかいよい人たちでした。 
 
<つづく>

ニーハオ春庭「延吉市の民俗園」

2007-07-20 | インポート
2007/07/20 金
ニーハオ春庭中国通信>延吉市の民俗園

 日曜日の朝、5時半。
 大連の公園で、「太極拳」をいっしょにやらせてもらったので、延吉でも公園でやっているかとでかけてみました。
 ホテル脇の、青年湖公園。音楽がなっている方へ行ってみたら。
 太極拳でなく、社交ダンスのグループが二カ所で踊ったりステップ講習会を行ったりしていました。
 
 下手なカップルも上手な組も、楽しそうにステップを踏んでいます。
 社交ダンスデビュー?も、考えたのですが、ステップが複雑そうなので、わきにすわって見ているだけにしておきました。
 新しいステップを皆に教えていた師範格の女性が、私の隣にすわって話しはじめました。

 彼女は朝鮮族で、彼女の子どもは、現在日本の「ゴンダオ」に留学している、など、話してくれました。最初「ゴンダオ」と聞いてもどこだか分からなかったのですが、紙に字を書いてもらったら「広島」。

 私が日本で受け持っていた私立大学日本事情のクラスにも、中国東北地方出身の朝鮮族の人がいて、ある年度など、クラスの四分の一が中国朝鮮族、ということもありました。
 朝鮮族の人は、中学高校の外国語選択で日本語を選択する割合が高く、日本へ留学することを多くの人が望んでいます。

 日曜朝の青空ダンス講習会の先生、日本へ留学しているお子さんを誇りにしていました。

 7月8日、日曜日。
 午前中は、ガイドブックにでていた「延辺国貿延吉民俗園」へ、バスで行ってみました。
 帽児山という延吉市にある山を、バスで30分くらい登っていったところにある、「テーマパーク」と、ガイドブックにはあります。

 テーマパークというところがちょっとあやしいなあ、と思いましたが、私が持っていた「地球の歩き方」の延吉扁には、この民俗園と人民公園のほかに紹介されている場所はありません。人民公園は、まあ、どこの人民公園とも同じようなものだろうと思って、民俗園に行ってみたのですが、、、、、

 森林公園入り口で5元。朝鮮民家を復元している民俗園の入場料が20元。合計25元払ってわざわざここまで来る人は、地元の人はそうはこないだろうし、観光客といっても、どんどん人が押し寄せてくるような場所ではなありません。

 森林公園の中の道を歩いていたときは、日曜日なのに、全然人もおらず、最初は、「日本のガリバー王国とか、田舎のテーマパークのように、さびれてつぶれてしまったのではないか」と思いました。

 でも、「朝鮮民家」が復元され立ち並んでいるあたりには、ちらほらと観光客もみえ、まあ、つぶれてしまったのではないということはわかってきました。
 復元農家には、農家の暮らしを再現する人形が置かれていて、臼と杵で粉を作っていたり、牛を引いて畑を耕すようすが表現されています。

 うん、テーマパークっちゃ、テーマパークなんだけれど。なんだろこの「安い」感。
 明治村などのように、実際にあった記念的な建築を移築したのなら、それなりの重厚感があるのだけれど。

 一軒の復元農家の縁側で、朝鮮族のおばあさんと話をしました。話したといっても、おばあさんは、ハングル文字は書けるけれど、漢字は書けないので、筆談はできません。筆談もできず、互いに相手のことばを聞き取ることもできず、でも、手真似と笑顔でなかよくなり、いっしょに写真をとってもらいました。

 私が、唯一これだけはできる「ハングル文字で自分の名前をかく」をしてみせると、おばあさんはものすごく喜んで、「私の娘のようだ」と、抱きしめてくれました。私からみても、30年前に亡くなった母が生きていたら、このくらいの年齢かなあ、と思える年頃の方です。

 「カムサハムニダ。オモニ。アンニョンイゲセヨ(ありがとう、お母さん、さようなら)」
 「アンニョンイガセヨ!イルボニチング(さよなら日本のともだち)」

<つづく>

ニーハオ春庭「延吉の夜、歌と踊り」

2007-07-19 | インポート
2007/07/19 木
ニーハオ春庭中国通信>延吉の夜、歌と踊り

 延辺の朝鮮族の人が、中学や高校で外国語科目を選択する場合、これまでは、英語ではなく日本語を選択する人が多かった。
 日本語と朝鮮語は語順が同じで、学習にそれほどの苦労がなく、英語選択者より高得点を得られて、かっては、進学に有利でしたから、日本語学習者が多かったのです。
 現在は、中国全体が英語優先になっているので、朝鮮族の中でも、日本語学習者は減っています。

 70代、80代の人で日本語を話せる人は、かって日本語教育を強制された世代なので、自分からすすんで日本語を話そうとはしませんが、日本語を外国語科目として学んだ、20代、30代の世代の人は、積極的に日本語を話そうとします。

 町を歩いて、たどたどしい中国語で道をたずねると、きれいな発音で「日本人ですか?私、日本語少し話せます。あ、ここに行くのはですね~」と、教えてもらえます。

 英語だけで世界観光をしているアメリカ人の「何の不自由もない旅行」を批判して「その国に行ったら、その国のことばを少しは覚えんかい!」と、思ったものでしたが、外国の町で不自由なく日本語が通じる便利さを実感しました。

 観光ガイドブックには、「朝鮮族の町、延吉市には、このようにチマチョゴリで歩いている女性も多い」なんていう写真が出ていたのですが、日本で、普通に町を歩いていて振り袖姿の女性にそうそうは出会えないのと同じ。

 ここらの女性も、結婚式や特別なイベントではきれいな民族衣装を着るけれど、普段はごく普通の洋装です。
 結婚式にでも招かれない限り、チマチョゴリの写真はとれそうにないなあと思っていました。

 私が延吉の夜、ぜひ行ってみたいと思っていた延辺芸術劇場、延辺歌舞団。
 全州賓館のスタッフに聞いたところ、現在は、改装閉鎖中でした。

 な~んだ、と、がっかりしながら夜、朝鮮料理を食べに出ました。
 行きはタクシーで店まで行ったけれど、近いので帰りは地図をたよりにぶらぶら町見物がてら歩いて帰ろうとしたら、、、にぎやかな音楽が聞こえてきました。

 大型スーパーの前の広場に野外ステージがあり、大勢の人が取り巻いています。なんのイベントか分からなかったのですが、地域の人々が出演する歌や踊りのステージでした。

 あでやかな赤と緑のチマチョゴリを着ている司会の女性と、何人かの歌手はプロの歌い手。朝鮮や中国の踊りを披露したのは、地元の舞踊学校の生徒たちのようでした。

 プロなのか素人の趣味グループなのかわからなかったけれど、朝鮮打楽器、太鼓と鉦のパーカッショングループが出演し、その音は圧巻でした。4人の打ち鳴らす大太鼓、小太鼓、鉦が見事なリズムを刻み、ほんとうにすばらしかったです。

 韓国では、韓国伝統音楽のサムルノリのリズムを取り入れた「ナンタ」というパーカッショングループが人気をよんでいます。延辺打楽器チームの音もとてもよかった。
 朝鮮民族の魂がうち鳴らすリズムは力強く、心の底が震え上がるような響きでした。

 ダンスも、小さな水瓶を頭の上に載せ、くるくる回る朝鮮族の踊り、大きな扇を使いこなしながら舞う中国の踊り、どれもとてもきれいで、上手でした。

 延辺朝鮮族自治州の夏の夜。
 「無料観覧イベント」を見ている人々は、ビールや焼肉の串を片手に、おおいに楽しんでいます。

 ステージの前は椅子を並べた観覧席、その周りを立ち見の人々が取り巻いています。私はステージ脇から見ていました。ライトが目に入るので、まぶしいですが、近くで見られたので、よかったです。

 司会の女性歌手も歌い終わり、アンニョンイガセヨ!と、挨拶してステージは終わりました。
 思いがけなく、市民の踊りや太鼓演奏が楽しめて、いい延吉の夜になりました。

<つづく>

ニーハオ春庭「朝鮮族の町延吉市」

2007-07-18 | インポート
2007/07/18 水
ニーハオ春庭中国通信>朝鮮族の町、延吉市

 図們市内の移動は、自転車の後ろに座席をくっつけた「自転車タクシー」に乗りました。アジアに多いリキシャタクシーです。
 愛知万博でも自転車タクシーが活躍し、「エコロジカルタクシー」として紹介されていたなあ。

 おっちゃんが足ふんばって自転車をこぐ。後ろの座席で風に吹かれながら、ガソリン代いらずの自転車タクシー、体力使う分、食費もかかるだろうから、普通車のタクシーと同一料金なのも、ま、しかたないかと、納得。

 自転車タクシーのおっちゃんに「乗っているところ、いっしょに撮ろう」というと、にこにことOK。いっしょに記念写真を撮りました。

 図們市で北朝鮮国境侵犯をしたあとは、延吉市へバスで移動。72km離れている隣町、高速バスで40分ほど。
 延吉は、延辺朝鮮族自治州の首府です。

 中国には最大民族の漢族約12億人のほか、1億人の少数民族がいます。その中で、朝鮮族は、中国全体で約200万人いますが、そのうち延辺朝鮮族自治州に62万人が集中して住んでいます。延辺だけでみると、朝鮮族が人口の59%、漢族は40%、残りの1%はモンゴル族、満族など。つまり延辺だけでいうと、朝鮮族が最大民族です。

 そのため、町中の看板はほとんど漢字とハングル文字が平行表記されており、私にとってはとても便利です。漢字で意味がわかり、ハングルで発音がわかるから。ハングルは、表音文字なので、原則として、書かれているとおりに読めば、通じる。

 「延辺朝鮮族自治州」の発音は、「エンペンチョウセンゾクジチシュウ」と、日本語漢字読み方では全然通じないし、中国語の読み方で「イェンビンチャォシャンズーヂチューチョウと読んでも、私の四声発音はいつも間違うので、通じない。けれど、ハングルをたどれば「ヨンビョン・ジョソンジョク・チャチジュ」と読めて、会話でも通じる。

 四半世紀も前に「対照言語学」という授業で習ったハングル。韓国語はほとんどわすれてしまったけれど、ハングルの読み方だけ覚えていたのが、やっと役に立ちました。(韓国語と中国朝鮮語は、少し発音が違います)

 今回の延辺旅行、往復はちょっと贅沢をしました。
 片道500kmの移動。夜行10時間に、一等寝台車(軟臥)片道200元(176元プラス切符購入手数料20元)、往復で約6000円を支払い、私にしてみれば、これは、贅沢旅行です。

 でもって、ホテルはケチりました。星なし。一泊120元(1800円)
 四つ星級ホテル「国際飯店(インターナショナルホテル)」と「白山大厦(ベイシャンホテル)」が並び立つ向かい側に、私が泊まった全州賓館があります。ロケーションは、町の中心地でいいところなのですが、ホテルそのものは、外観も内装も星つきに比べれば、もちろん貧弱。

 しかし、国際飯店にご飯を食べにいったところ、フロントに日本語ができるスタッフはいないし、サービスは最低だったし、ほんとにこれで星ついてる?と、感じました。まあ、ほかの人へのサービスはよかったのかもしれませんが、Tシャツジーンズの、私にはよくなかった。

 国際飯店は、去年開店したばかりの新しいホテルで、施設は新しいけれど、ホテリエ育成はまだまだ、という感じ。延吉市ではじめて5つ星ホテル誕生か、といううわさもあったけれど、実際には三つ星もどうかってとこ。設備はいいけれど、ホテルは、サービス命!のはず。チマチョゴリの服務員がロビーを行き交っているだけじゃ、サービスとはいえません。

 トイレはまあまあきれいだった。わたしにとって、星つきホテルって、ロビーで休憩するのと、トイレを使うところで十分。

 一方、全州賓館は、フロントの男性も、厨房担当の女性も日本語ができるので、助かりました。
 延辺には、日本語会話堪能な人が多い。

シングルの部屋は、バスタブ無しシャワートイレと、セミダブルベッド、鏡台、洋服ダンス、テレビ、エアコンつき。広くはないけれど、一人で寝るには十分です。

<つづく>

ニーハオ春庭「北朝鮮へ1メートル 」

2007-07-17 | インポート
2007/07/17 火
ニーハオ春庭中国通信>北朝鮮へ1メートル
 
 ついに、北朝鮮に足を踏み入れました!
 年に一度の逢瀬を果たすのが七夕ですが、2007年の七夕は、私にとって「国境侵犯記念日」となりました。
 
 北朝鮮へ。と、言っても、将軍様と年に一度の逢瀬を果たしたわけではありません。
 国境の町へ旅行し、二つの国を分ける川にかかる橋の真ん中、国境の線が引かれているところまで行ってきた、というだけにすぎませんが。

 国境の線を越えてどこまで入ったら警備兵にしかられるかと思って、実験してみたところ、、、、。
 国境線をまたいで、一足、もう一歩、う~逮捕されたらどうしよう、もう一歩。

 1メートル、国境の外側、北朝鮮側に入ったら、しかられました。
 若い中国の兵士が厳しい顔つきで、アホな国境線侵犯者を制止。きゃっ、こわかった。
 でもこれで、北朝鮮に足を踏み入れたことになった!

 中国側の町は図們市、北朝鮮側の町は南陽市。
 二つの町の間には図們江(朝鮮語では豆満江)が流れています。それほど大きな川ではなく、泳いでも簡単に対岸に着く距離だし、冬に川が凍れば歩いて渡れる。

 南陽市と図們市の間には鉄道も通っているし、私が渡った図們大橋も、車が行き来しています。中国と北朝鮮は国交があるのですから、中国側からパスポートとビザがあれば、入っていけます。
 しかし、脱北者にとっては、図們市は「すぐ目の前の遠い町」。川を渡るのも命がけです。中国側から北朝鮮側へ入るのは、警備兵にどやされるくらいで済みますが、北側から中国側へ1メートルでも入ろうとするのが見つかったら、確実に逮捕。監獄行き。

 私のように、「1メートルだけ、北朝鮮に入った」なんてはしゃぐのは、顰蹙モノでしょう。でも、単純に、知らないところへ足を踏み入れるのは、興味津々で楽しかった。
 橋の上には展望所があり、急な階段を登っていくと、望遠鏡が備えられているテラスに出ます。展望所の入場料は、橋の入場と込みで20元。

 北朝鮮南陽市、望遠鏡からのぞいてみると。
 並んでいる建物は、国境警備にあたる人々の宿舎でしょう。2階建て3階建ての建物。人が外に出ているようすがありません。道は見えますが、人の姿は見えません。車は行き来しているのですが。
 たぶん、中国側の望遠鏡から見られる範囲には、一般の北朝鮮の人は立ち入り禁止になっているのだろうと思うし、警備担当者も、決められた部署以外に道をうろうろしたりできないのでしょう。

 20元は高いから、地元の人は展望所に入ったりしないでしょうが、観光客はけっこうバスでやってきて、皆うれしそうに橋の国境線をまたいで写真を取りあっていました。
 「国境をマタにかけた」と、はしゃぐのは、私だけじゃありません。

 「いっしょに写真撮って」と頼んだら、私をしかった若い警備兵は、「ダメ」と言いました。当然だよね。ほんとずうずうしい日本のおばちゃん、厳格な警備の仕事をなんとこころえているのやら。
 でも、「北朝鮮をバックにして私を写して」と、カメラを渡すと、ちゃんとシャッターを押してくれました。
 「将軍様マンセー!はい、チエズ(茄子)」パチリ。

 橋のたもとにずらりと並んだおみやげ屋。金日成バッチや金正日肖像画も売っています。北朝鮮記念切手アルバムを買いました。15元。

<つづく>

ニーハオ春庭「伊通のオート三輪タクシー」

2007-07-16 | インポート
2007/07/16 月
ニーハオ春庭中国通信>伊通のオート三輪タクシー

 中国、田舎町の床屋。
 ここでも「あんた、雲南人か」だった。よほど、私の顔は、雲南省のどこかの少数民族と同じ顔立ちだと見えるのか。みんなで「雲南人か」と、聞く。それとも、「どこのだれだか分からない人」という意味で「雲南人」と言われるのだろうか。

 ものすごく熱いブローが吹きかけられた。「很熱(ヘンルゥァ)、熱いよぅ!」
 私の発音が悪いせいか、雲南人にとってこれくらいじゃ熱いうちに入らないと思っているのか、おばちゃん、気にせずブローを続ける。っく~、5元だからって、やけどしちゃたまらん。それでも一応終わりました。

 合わせ鏡でヘアスタイルを確認し、ま、こんなもんだろうと「とてもいい。很好(ヘンハオ)」と言いました。

 昔、夫が私に「どんなヘアスタイルをしても似合う女性と、どんなヘアスタイルしても代わり映えしない女性は、どんなヘアスタイルをしてもいいのだ。だから、あなたは、どんなヘアスタイルをしてもいい」と、言ったことを思い出しながら、支払い5元。
 ええ、もちろん私は、どんなヘアスタイルしても~~の方ですとも。く~っ!

 ヘアカットは終わっても、雨がやみそうもない。
 おばさんは、片隅のソファを勧めてくれて、あれこれ聞いてくる。「ウォーシーリーベンレン我是日本人」ま、言えるのはこれくらい。あとは、筆談。

 隣の風呂屋と中がつながっていて、風呂屋とセットで髪を切りにくるようだ。風呂屋の1階にいた人たちが、皆床屋に移動してきた。「めずらしい日本人」を見物に。

 たぶん、この床屋に入った唯一の日本人でしょう。というか、日中国交回復後、この伊通鎮に何人の日本人が来たことがあるのやら。

 雨はますます強くなってきました。よくよく私は雨女?
 これでは町歩きもできないし、帰るしかないかな。

 床屋のおばさんも、風呂屋から私を見物に来ている人たちも、くちぐちに、帰るなら、オート三輪タクシーで、長距離バス駅まで行くとよい、駅までなら1元だから、といいます。よし、雨のなか、バス発着駅まで行くとするか。

 オート三輪を停めて乗り込んだ。
 行き先をいう発音が悪いから、2元取られた。
 いつもなら、「1元のはずだろ、おっちゃん、ボルんじゃないよ!なめんなよ!」と、ケンカするところ(金額だけ中国語、あとは日本語で)なんだけれど、雨だし、隣町だし、おとなしく「よそ者料金」2倍を払いました。2倍といっても、15円のところが30円になった、というだけなんですけれど。

 長距離バス、もう人が乗り込んでいます。
 バスの隣では、白タクが「10元でいくよ」と客引きしている。長距離バスの15元より安いけれど、途中で「高速道路代金50元」とか言うのかもしれないから、やめておく。

 建物の中の窓口で切符を買いました。11元。あれ?来るときは15元だったのに、帰りは安い、と思ったのだけれど、バスのなかで、車掌に「これは高速道路代がついてない」と、言われて、5元払った。あれ?合計16元だ。なんだかよくわからんが、元来た道を戻りました。

 あとで調べると、午後4時半発の長距離高速バス、これを逃したら、またまた「泊まり」になってしまうところでした。
 オート三輪タクシーのおっちゃんとやりあって時間をかけていたら、乗り遅れるところだったので、2倍料金をおとなしく払った甲斐があったというわけです。

 今回の村めぐり、満族の町だけに、満足満足。
 ~くー、寒いダシャレかな。床屋のブローは熱かったのだけれど。

<おわり> 

ニーハオ春庭「満族の町の床屋」

2007-07-15 | インポート
2007/07/15 日
ニーハオ春庭中国通信>満族の町の床屋

 伊通鎮は、満族(満州族)自治県(人口46万人)の中心地なのですが、要するに田舎町です。通りの両側に店が並んでいて、通りを抜ければ、あとは何もなし。
 見物するような名所もなく、町をぶらぶらすれば、見学おわり。

 私の住む町と違うところは、タクシーの車種。
 私が普段利用している中国で一番安いという初乗り5元のタクシー、第一汽車製造のジェッタ(捷達)という臙脂色の車が大多数。

 伊通のタクシーは、オート三輪。後ろに座席用のいすをとりつけて、ビニールの幌をかけた乗り物です。市内1元(15円)。

 夏は風通しがよいだろうが、冬は寒そう。あのビニールで雨はふせげるのかしら。オート三輪にのって町をひとまわりしようと思いながら歩いていたら、ほんのちょっと町をぶらぶらしただけで、突然雨が降り出しました。
 しかたがないので、軒先に入りました。そこは床屋の軒先。隣は風呂屋。風呂屋は富嶺鎮で入ったので、雨宿りがてら床屋で髪を切ることにしました。

 「我要剪髪」だけ言って、あとは手真似で髪を切るジェスチャー。店の人、うんうん、と納得のようす。分かってもらえたらしい。鏡の前のいすをすすめられたので、はい、ヘアカット、大丈夫よね、、座りました。

 そしたら、いきなり頭にシャンプーを振りかけられた。水とシャンプーを交互に振りかけながら、頭をごしごし。
 美容院では、シャンプー台に仰向けに寝てシャンプーします。
 日本でも、床屋では、このように洗髪しているのを見たことはあるのですが、これまで私は一度も床屋でシャンプーしたことがありませんでした。
 鏡の前の椅子に座ったままのシャンプーは初めてだったので、びっくりしました。

 いすから流しへ行き、お湯をじゃーじゃーかけられて、すすぎ。
 うん、中国に来て、こんなシャンプーしたことも、初めてのいい経験だなあ。カットが少しくらい下手でも、とにかく、シャンプーとカットで5元(75円)だ、文句も言えまい。

 シャンプーは若いオネーサンでしたが、カットはおばさん。
 シャギーを入れたり、段カットしたりというような面倒なものでなく、私のはただのオカッパ。ボブスタイルというものなので、失敗はないだろうと思うものの、まあ、失敗しても「もともと、ヘアスタイルの善し悪しで見栄えが変わるほどの顔でもなし」と、おまかせ。
 
 おばさん、はさみに集中してくれればいいのに、やはり「どこから来たのか、何しに来たのか」と、見なれない客に質問をしてくる。その程度の受け答えはできるけれど、早口で複雑なこと聞かれても、答えられない。
 あとで、紙に書いて筆談するから、複雑な質問はしないでよ。きまった文型しか言えないのだから。

<つづく>

ニーハオ春庭「新立城水庫」

2007-07-14 | インポート
2007/07/14 土
ニーハオ春庭中国通信>伊通河の新立城水庫

 村めぐり。
 長距離バスで、ちょっと遠出してみました。
 と、いっても、予定をたてて出かけたのではなく、たまたま長距離バスが止まったのを見て、乗り込んでみたのです。

 バスのフロントガラスに、行き先が伊通と書いてありました。
 地図を頭に思い浮かべて、それほど遠くでないことを思い出したので、いつもの「行きあたりばったりツアー」開始。
 行き先の伊通(イートン)鎮は、「伊通満族自治県」中心地で、80キロほど離れたところの町です。

 長距離バス、500km、800km先まで行くことは当たり前。でも、そんな遠くまでいくバスだったら、日帰りで戻れなくなります。80kmは、日帰りコースにちょうどいい。
 高速道路利用料金込みの高速バス代15元。約90分。

 満族(満州族)は、東北地方を中心に住んでいます。
 遼寧省の瀋陽市には、満族の首長から、清朝の皇帝となった愛新覚羅(アイシンギョロ)一族の最初の宮殿があり、13年前に見学したことがあります。今回行ってみようとおもいついた伊通には、そんな名所はなく、ただ、満族が多数集まっている自治県の町、というだけです。

 満州族自治県といっても、特別変わった町ではありません。
 満州族は、漢族でない少数民族の中では人口1千万人を越え、最大の少数民族なのですが、満州族が清朝を立てて以来、漢族と同化していて、話す言葉も皆、中国語=漢語(ハンユエ)です。

 「満州語」は、すでに死語になっていて、日常生活で満州語を使う人はほとんどおらず、モンゴル文字から改良された満州文字を読み書きする人も、研究者以外にはいません。
 満族出身の清朝皇帝ラストエンペラー溥儀も、満州語を儀礼的に習いはしましたが、日常生活ではすべて漢語でした。

 伊通へは、伊通河に沿って南下します。伊通河の途中、広い湖が見えました。湖の周りは灌漑が行き届くせいか、田植えのすんだ田圃が広がっています。
 この湖、実は人工湖で、伊通河を堰き止めて作られた、水資源確保のための湖です。

 名前は、「新立城水庫」といい、私の住む町の水、四分の一は、この人工湖から取水しています。
 13年前に、半年間暮らしたときには、水不足で、しょっちゅう断水騒ぎがありましたが、現在水不足が改善されたのは、この人工湖のおかげ。
 1970平方キロ、貯水量は5.92億立法メートルだそうですが、数字を言われても実感わかないので、写真をみてください。海のように水平線のかなたがかすむ湖です。

 日本語サイトで「新立城水庫」について言及している唯一のサイト。鳥取県から交流派遣された人が取った写真が、サイト画面の下のほうにあります。 
 http://www.pref.tottori.jp/kokusai/koryu/trend/2006/0607.html

<つづく>