春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭「風流」

2010-02-28 | インポート
2010/02/28
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル残り物(俳句ソフト風流)

at 2003 10/15 06:29 編集 ネット海の航海、俳句という名の船に乗り
 高齢者の趣味の中で人気の高い「文芸」。中でもダントツ一番人気は「俳句」である。 短歌や詩を趣味とする人、自分史執筆を目指す人などの人数に比べると、俳句人口は格段に多い。
 日本語文芸の極みまで奥深く分け入ることもできるし、初心者が仲間と腰折れひねって遊ぶこともできる。歳時記一冊、ノートとえんぴつさえあれば、いつでもどこでも、一人でも仲間とでも遊ぶことのできる、究極の遊び道具。

 パソコンと俳句を連動させて遊びたい人向けに、「パソコン利用俳句自動作成ソフト」がある。次から次へ5,7,5,のことばが自動的に繰り出されてくるソフト。それを組み合わせて俳句ができあがり。小学校の国語科教材として利用している先生もいる。
 風野春樹作成の俳句ソフト『風流』が作り出した作品を紹介しよう。
http://member.nifty.ne.jp/windyfield/diary9807a.html#06 風野春樹「サイコドクターあばれ旅、読冊日記98年7月上旬より)

夏の葉がさざめき古都をなぐさめる
去年今年過ぎゆくキスとなりにけり
歯ブラシを恐ろしく見る新年会
葉桜や馬鹿を愛して法隆寺
眩しさや窓辺虚しく包む雪
薔薇の死や嘆く悲劇を傷つける
チューリップ散って短き罪ぞ咲く
卒業式恋しく逃げる抱きしめる
吹き飛ばす蝿の世界の娘の死
馬鹿も咲く頭明るき年賀状

 なまじっかの初心者より、よほどすぐれた句を生み出すのがパソコン宗匠であることがわかるだろう。
 このソフト『風流』は、MS-DOSで作成されたので、現在のパソコン環境では使えないというのが残念。最近のパソコンで簡単に遊べる『風流』のような俳句作成フリーソフトをご存知の方、メールでご一報を。(留学生の日本語教育クラスで遊んでみたい)
ネット上を探してみたのですが、自動俳句制作パソコンソフトは、その後新ソフトは作られていないようです。
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2010/02/28
 2月27日、母の忌日にお墓参りに行けなかったので、せめて俳句のひとつもひねって母を偲びまする。春庭、腰痛防止の腰折れ俳句。
・悴むもめくる歳時記春の部に
・広辞苑に新語立項春浅し
・如月の尽きるや母の忌のぬくし
・カラバッジョの果物籠に盛る馬酔木(花馬酔木の季節は春だけれど、ここはひとつ去年秋の小さな実が春先まで木に残っているという趣で。画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは、バロック絵画の先駆者。決闘相手を剣で殺してしまうなど激情の持ち主。カラヴァッジオ肖像画は、イタリア10万リラ紙幣になっている。)
・別れ霜放置のままの友ブログ
・三回転跳んで涙の二月尽
・銀盤の舞姫競って二月尽 

<つづく>

ぽかぽか春庭

2010-02-27 | インポート
2010/02/27
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(3)居酒屋で3回転半

 26日は、ジャズダンス仲間との食事会。今年の発表会で何を踊るかとか、会費の値上げはどうするか、というような会の運営の話のほか、話し合いをしながら、居酒屋で食べて飲んでという会です。

 練習が終わって、駅前白木屋へ歩く道筋、ミサイルママと盛り上がったのはやはりバンクーバーオリンピックのこと。ミサイルママは高橋のフリーにいたく感動したそうです。
 冬季スケートシーズン、我が家は、フィギュアスケートファンですから、連日盛り上がっていました。2009年の秋、シーズンがはじまって、グランプリシリーズ、フランス、ロシア、中国、アメリカ、カナダ、日本の各大会と韓国でのグランプリファイナル、四大陸大会など、全試合全放映を完全視聴!選手の名前も得意技も苦手なジャンプも全部頭に入れて、いざ、バンクーバー。

 ペア、男子フリー、アイスダンス、女子フリー、全放映を娘息子私で完全視聴。出場全選手の全部のすべりを見続けました。4時間5時間と続くライブ中継を見続けるのも根性です。グランプリシリーズなどでは、日本人の選手が少ないアイスダンスやペアだと金銀メダルをとった選手のスケーティングくらいしか放映してくれないので、今回アイスダンスの地味めなコンパルソリーまで全部見ることができて大満足でした。ただし、アイスダンスのオリジナルセットパターンの放映がありませんでした。

 男子、高橋の銅メダル、織田と小塚の入賞。女子、浅田真央銀、安藤美紀、鈴木明子の入賞。日本勢は参加6選手全員が入賞するという大活躍で、日本中が盛り上がりました。もちろんこの主要選手のスケートのほか、4年後のソチのとき、どの選手が伸びてくるのか、という楽しみのために、下位選手のスケートも全部見たのです。

 男子フリー。今回は復活王者プルシェンコが連覇を狙ったのですが、銀に終わりました。ほとんどが「王子様タイプ」のイケメンスケーターたちの中で、プルシェンコが「ヒール」に回ったのがちょっと面白かったです。プルシェンコは怪我などのためにいったん引退し、サンクトペテルブルク立法議会議員をつとめるなど、スケートとは別の世界でも活躍していたのに、2009年9月に現役復帰し、たちまち4回転を決めて欧州選手権優勝。憎らしいくらいの鮮やかな復活劇でした。

 しかし、バンクーバーでは、4回転を飛ばなかったライサチェックに及ばず、「アメリカ大陸での開催だからしかたがない」とか、「エバン(ライサチェック)に必要なメダルだったね。僕はもう金メダルをひとつ持っているから」と、負け惜しみを言ったり、ヒールぶりを発揮。ロシアでのプルシェンコは子供達あこがれのヒーローです。貧しい家庭に育つも才能を見いだされ努力を続けてきた英雄の人気は絶大で、ロシア国民にとっては、プルシェンコへのバンクーバー審査員の厳しい評価に不満が残りました。 
 女子フリーは、キム・ヨナと浅田真央の19歳ライバルの対決と、競技2日前に応援来ていた母親を失ったロシェットに注目が集まりました。安藤美紀選手も鈴木明子選手も自分の力を出し切ってのスケーティング、ほんとうによい試合でした。

 と、いうようなフィギュア観戦話で盛り上がり、ダンス仲間と居酒屋談義を続けました。プルシェンコは、ダンスとスケートを同時に習いはじめ、両方の教師から圧倒的な才能を評価され将来を嘱望されたのですが、自分の意志でスケート選手になることを選びました。
 ダンスやバレエのステップやポーズは、フィギュアにも共通する基礎で組み立てられています。彼がダンサーになったとしても、ルドルフ・ヌレエフやミハイル・バリシニコフ、ファルフ・ルジマートフと同じくらいのすぐれたダンサーになったことでしょう。ただ、バレエダンサーは、バレエに興味のない人には知られないのに対し、オリンピックメダリストはフィギュアスケートに関心のない人々にも世界中に名前が知られます。

 26日の練習では、先生はバレエのアラベスクのポーズをとらせ、「はい、スケーターはこのまますべっていくんですよ」と。ポジション保っているようメンバーに指示。見た目にはずっと同じ姿勢ですべって、ジャンプよりは楽そうに見えるスパイラルも、美しく華麗なポーズを保つにはすごい筋肉の力だということが、ようくわかりました。
 ダンスを続けている仲間達、メダリストのような才能はかけらもないですが、楽しくジャズダンスやフラメンコ、民族舞踊などを踊り続けています。2010年の発表会曲目などを話し合いながらの、居酒屋での食事とおしゃべり、盛り上がりました。

 さて、2月下旬は、打ち上げ続きで毎日盛大に食べ歩きましたが、これから先、秋のダンス発表会めざして、節制せねばなりません。このおなかの贅肉をもちっと減らせば、きっと私も3回転半のターンがうまく決まるはず、、、、
 あれ、そのツクネ、1つ余り?じゃ、私食べるね。平気、へいき。今食べた分は、来週のピルエットターンで燃焼させるから、、、、

<おわり>

ぽかぽか春庭「カンボジア料理」

2010-02-26 | インポート
2010/02/26
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(2)カンボジア料理

 22日は、高田馬場のレストラン「カンボジア」で、学生といっしょのクラス終了打ち上げ。
 今期の初級ゼロスタートクラス。カンボジアからの留学生がふたりいました。かわいい女子学生ニャンちゃんと、たいへん優秀な男子学生ニィさん。将来はカンボジアの発展を担って立つであろうという人ですが、不法滞在者に見えてしまうらしく、品川とか新宿とか人出の多い場所にでかけると必ず警察官に職務質問され「パスポートを提示しろ」と言われてしまうと嘆いていました。
 もうひとり、マレーシアからの留学生カルさんも、送られる側。マレーシアの中の中国系、客家語を母語としており、見た目も日本人と変わらないので、カルさんは職質を受けたことは無いのだそうです。

 ニィさんとカルさんは、4月からは私立大学大学院に進学します。ニィさんは「グローバル・アグリカルチャー・ディベロップ・スタディ国際農業開発研究」を専門とし、カルさんは「マレーシア熱帯植物の薬効分析」を薬科大学で研究します。ニィさんは、カンボジアの農業はこれから発展する可能性が大いにあり、開発を上手にコントロールする必要があるそうです。同じような気候と土地を持つお隣のタイやベトナムでは米の三期作を行うようになり、飛躍的に農業が発展したのに、カンボジアでは未だに一期作を続けており、三期作をするようになれば、収穫は三倍になるはずだ、とニィさんは言います。しかし、そのためには種籾の選び方蒔き方の指導、土地と水の管理を厳密に行うことが必要になります。

 「米喰う人々」というNHKBSの番組を見ています。前に西アフリカの稲作のようすを見ました。24日の放送では、日本の農業大学で「国際農業開発」を専攻する女子学生がベトナムの三期作農家にホームステイして農業のお手伝いをする、という内容でした。80歳を超えたという一家のおばあちゃんは、ベトナム戦争下で、爆撃や敵襲の合間に命がけで稲作を続け、ベトコン兵士に米を届けたという話をしていました。一家の大黒柱であるお父さんは、「子供の頃はおなかをすかせていたけれど、三期作のおかげで一家がおなかいっぱい食べられるようになり、子供を高校にいかせてやれるようになった」と語っていました。高校生の長男は、大学に進学してより高度な農業を学びたいと夢を持っています。

 ニィさんたちが大学院で農業開発の方法論を学んで帰国したら、カンボジアの農業もより実り豊かに発展していけるだろうと信じています。

 22日、国立大学に残るニャンちゃんや中国のカンさんと、ニィさんカルさんとのお別れ食事会。去年カンボジアへ旅行してきたという日本人学生リサさんも誘いました。リサさんは、3月には上海での日本語教育実習に参加することになっています。今期は、私の「非漢字圏留学生のための漢字授業」のTA(ティーチングアシスタント)としてクラスに入ってくれて、大活躍でした。きっとよい日本語教師になるだろうと思います。

 カンボジアふたりのために、「カンボジア」というレストランを選んだのですが、メニューを見て、ふたりは首をかしげ、「これはカンボジア料理ではありません」
 「カンボジア」という店名ですが、看板には「ベトナム家庭料理」と書いてあります。コースを頼んだところ、生春巻、海老揚げ、などをニョクマムで食べ、中華料理風の烏賊炒め、春雨サラダなど、アジアンエスニック風の料理がテーブルに並びました。味はまあまあですが、量が少な目でコストパフォーマンスから言うと点が低い。

 ウエイトレスはどこの国から来たのか聞かなかったのですが、ニィさんがカンボジア語で話さず、日本語で注文していたのをみると、カンボジア人ではない。日本語はまあまあ通じますが、サービスには気が回らないふうで、最後に供された米粉のうどんのクイティウがカンボジアの麺ということで、かろうじて「カンボジア料理」の気分がでました。カンボジアの学生にはちょっと残念なメニューになってしまいました。

 私は「アンコール」というカンボジアビールを飲んで、それだけでもカンボジア気分になれたのですが。ニィーさんが、「このビールはカンボジアなら一缶50円で飲めます」というので、2缶目は頼みませんでした。アンコールワット見学に必ずカンボジアに行きたいと思っているので、そのときに50円の缶ビールを百本も飲んでやろうと思います。

 リサさんは、去年のカンボジア旅行で「空心菜の炒め物がおいしかった」と話したので注文したかったのですが、カンボジアのふたりには、それがどんな料理かわかりませんでした。中国のカンさんは、英語教師なので「空心菜」を英訳してもらおうと思ったのですが、カンさんにも英語名はわからない。あとでカンボジア料理のサイトを見ると、「空心菜の炒め物」は、カンボジア語(クメール語)ではチャー・トロクンという料理名でした。次は代々木の「アンコールワット」という店に行って、チャー・トロクンを頼んでみようっと。高田馬場の「カンボジア」は、たぶんリピートはないでしょう。

 カンさんたち、中国からの留学生にとって、2月は旧暦新年の春節でした。中国と韓国からの留学生が、国費留学生の寮で新年を祝って盛り上がりました。
 4月にはアジア新年を祝うイベントがあり、カンボジアやタイの留学生が自国の料理を作って新年を楽しむそうです。「先生もぜひ寮に来て、ほんとうのカンボジア料理を食べてください」と言ってもらったので、4月のカンボジア料理を楽しみにしています。

<つづく>

ぽかぽか春庭「北欧料理と西安料理」

2010-02-25 | インポート
2010/02/25
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(1)北欧料理と西安料理

 学期末、講師仲間の「打ち上げ」が続いて、エスニックめぐりで食べまくり。2月20日は、吉祥寺の北欧料理。22日高田馬場のカンボジア料理。23日銀座の西安料理。おまけに26日王子のワタミ(これはジャズダンスサークルの食事会)もあって、この一週間体重が、、、血糖値が、、、、悩み多き中高年です。でも、半年間お仕事がんばったご褒美に、ま、ちょっと太ってもいいか。え、「ちょっと」で済むのか、、、すみません。

 北欧レストラン「ALLT GOTT」のAコース。前菜は盛り合わせオードブル、小エビや魚のマリネほか。魚はニシンだったかしら。魚の種類が何か、なんて気にする間もなく胃袋に落ちてしまった)。スープはしめじ入りポタージュ。牡蠣のコキーユ。鮭のソテー。プチスィーツ盛り合わせ。コーヒー。4人掛テーブルにワイン1本つけて、会費5千円。女性ばかり17人での会食でした。

 私は日頃講師室で無愛想にしているので、ちょっと敷居が高い思いをしながら椅子についたのですが、同じテーブルの方々、和やかにお話をなさって、私も楽しく話題に加わることができました。今見ているテレビドラマ『蒼穹の昴』の西大后役の田中裕子が、今まで西大后を演じたどの中国女優よりもぴったり役にはまっていると、意見が一致しました。

 今放映しているBS中国語バージョンでは、田中裕子のセリフ部分、中国人俳優が中国語吹き替えをしているのですが、田中裕子が中国語を喋っているのかと思うくらいぴったりと口があっていて違和感がありません。そのうち地上波放送で日本語吹き替えバージョンを放送するだろうと思うのですが、その時は、田中裕子の日本語セリフを聞くことができるだろうと楽しみにしています。京劇のできる宦官・春児を演じている余少群 Yu Shao qunは、京劇のスター梅蘭芳の少年時代を演じてデビューした若手俳優。だれが吹き替えをやるのか、興味津々です。

 西大后の食卓。豪勢な満漢全席の大皿が並べられています。大后が箸を動かし、一口食べる。「美味である」と褒めると、さっと皿が下げられてしまいます。大后は「たまには二口目も食べたいものだ」と嘆きますが、お付きの宦官長、蓮英は「宮廷のきまりでございますから」一点張り。あれま、そうなんだ、どんなにおいしいと思っても一口以上は食べられないなんて、大后もけっこう不自由なんですね。私なんぞ、北欧料理のパン、おかわりしてしまいました。北欧料理、フランス料理系ですが、魚介類がメインで日本人向けに仕立ててあって、「美味である」。

 2月23日にも講師仲間の打ち上げがありました。あちこちの大学に出講していて、いろいろな交流がありますが、日頃講師室で小さくなってすみっこにいる私としては、学期末の打ち上げくらいしか友好関係を保つ機会がありません。この業界はとても狭いので、講師室仲間のひとりと話していると、その人の友達とは、別の大学講師室で顔を合わせている、ということが多々あり、「あの人といっしょに仕事するのはイヤ」という評判が立つと、たちまちのうちに業界中に「人物評」が伝わります。

 私が泣かされたベテラン講師、私が不出来な講師だからキツイ言葉を投げかけられるのは仕方ないのだろうと泣き寝入りしていたら、何人もの方から「私もあの先生に泣かされた」「あの人と同じ曜日には出講したくない」という話を聞き、ああ、こういう評判が駆けめぐったら、日本語業界で仕事するのが不自由になってしまうだろうに、と、かえって気の毒に思ったことがありました。講師の仕事は教室内独立自立であるとはいえ、何かのおりに教材を教え合ったり、ちょっとした疑問質問に答えてもらったり、講師室で助け合うシーンも数多くあります。
 無愛想な私ですが、せめて「あの人がいる講師室に行きたくない」というような風評だけは立てたくないと思い、講師室仲間とは仲良くしていたいと願っています。

 有楽町の西安料理は、「XI'AN」という店で、都内に10店以上支店を展開しているチェーン店です。
 去年中国で教えて、今東京に留学生として来ている中国人学生のブログには、研究室のコンパで、この「XI'AN」の別の支店で食事したことが書かれていました。彼が書いていることには、「この店の西安料理は、西安料理ではなく、日本料理です」。どうやら日本人向けに味を加減してあったので、彼にとっては、辛さが不足していて物足りなかったのかも知れません。私には辛すぎず、十分においしい中華料理でしたが、中国人にとっては、「これは中華料理ではなく日本料理」と思うアレンジなのかもしれません。私は「茄子の揚げ炒め」や餃子、この店の名物という刀削麺など、おいしくいただきました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「リサイクル終了」

2010-02-24 | インポート
2010/02/24
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(47)リサイクル終了

リユースリサイクル日記を50日間に渡って続けてまいりました。2003年9月10月に掲載したカフェ日記を再録したわけですが、世は7年のあいだにずいぶんと変わり、ウェブ世情も変化してきたことがわかります。けれど、私の文体&おつむの程度は相変わらずであったことが確認できました。
 (む)向田邦子までで再録は終わりましたので、(め)以降はカフェ日記2003/11/03よりの掲載をごらんください。

 2003年の「おい老い笈の小文」を再録してみて、ホームページを立ち上げ、毎日コラムを更新することで必死に自分を奮い立たせようとしていたころのことが思い出されました。4月10日の姉の忌日を「桜吹雪忌」と呼んでいます。
 2月27日は母の忌日。26日深夜に母の入院先にたどり着いたときはすでに危篤で意識はありませんでした。時計が回って27日になるとすぐに死去。28日夜が通夜で、3月1日、妹の高校卒業式の日がお葬式でした。

 「末娘が高校卒業したら私も母親卒業して、したいことする」と、言っていた「したいこと」のひとつは「三恵園」という施設でのボランティア。もうひとつが自作の句集をまとめること。母は俳句を趣味としていました。
 私は、ネットに文を書き散らすことで姉が死んだ年を越え、母の作品集を机の前に並べておくことで、母が死んだ年も越えてなんとか生き続けています。

 同世代の旗手のひとりだった立松和平が2月8日死去。享年62歳。栃木なまりの語り口がとても心に響く人でした。いくつもの印象深い作品を残していますが、その名の通りに和平運動に力を入れていたことも忘れがたい。彼の忌日を呼ぶのに、来年から和平忌それとも立松忌?立松忌より和平忌のほうが呼びやすいし、日本ペンクラブ平和委員会の委員長だった立松にふさわしいと思うので、2月8日は和平忌で。
 レビ・ストロースのように、101歳という長寿を保っての大往生だと、見送るほうもなんだか大満足で「安らかに眠ってください」と言えるのに、62歳だとなんだか「安らかに」と言い難い気がする。まだまだ書きたいことがあったでしょうに。 

 歳時記に載っている忌日について「あいうえおリサイクル」再録から落としてしまった部分があったので、のせておきます。

at 2003 10/15 06:29 編集 ネット海の航海、俳句という名の船に乗り
 俳句を趣味とする人々、俳聖芭蕉の忌日(時雨忌)に、一句ものしただろうか。時雨忌は、陰暦10月12日だから、季語としては冬である。
 季語の中でも忌日を読み込んだ句は初心者にも作りやすい。忌日の主の生涯のイメージを作品中にもりこめるからである。歳時記から忌日によせて拾う。

時雨忌や暁波はがしはがし航く(角川源義) 老人は朝が早い、暁のネット海の航海
太宰忌の視線岐れて郷にいる(平畑静塔) 津島佑子の父、太宰の故郷は津軽
啄木忌いくたび職を替えてもや(安住敦) 私、春庭も転職13回。
釘買って出る百貨店西東忌(三橋敏雄) 自傷行為に使うため釘買う人もいるだろう
我も手に釘打ちぬいてみる修司の忌(春庭の腰折れ)

<おわり>

ぽかぽか春庭「霊長類ヒト科さまざま」

2010-02-23 | インポート
2010/02/23
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(46)霊長類ヒト科さまざま

at 2003 10/31 07:20 編集霊長類ヒト科さまざま
 さまざまな国から日本にやってきた留学生を相手にしてきました。毎日が「異文化交流。
 世界には多様な文化があり、そのどれもが大切な人類の遺産なのだ、ということを毎日感じ取れる仕事ができて、本当によかったと思っている。

 「異文化にふれる」というのは、外交官や日本語教師でなくとも、人が毎日の生活のなかで、あたりまえのように成し遂げていることなのだ。
 「自分とは違う考え方、違う感じ方の人に会う」というのは、日常生活でだれでも体験していることだ。異文化、というのは、何も外国の文化のことだけではない。

 子供を公園に連れて行ったら、ボスママが仕切っている公園で、楽しめなかった、というのも、「自分とは異なるカテゴリーの考え方」に触れた体験であるし、嫁と姑が漬け物の味でひともんちゃく起こすのも、地方ごと家ごとの異なった文化の摩擦といえるだろう。

 文化というと、高尚な芸術や建物遺跡のことと思う人が多いが、そうではない。「文化」というのは「人の暮らし方、生き方すべての総称」であるのだ。

 日本語教授法のクラスで、最初に異文化理解について日本人学生と話すときによく出す例。
 日本で「汁かけ飯」をつくる。「はい、こちらが飯茶碗。こっちがみそ汁。ふたつの碗が目の前にあります。汁かけ飯を作るジェスチャーをしてください」たいていの学生は、飯茶碗を下に置き、みそ汁のお椀を持ち上げてジャーとごはんにかけるジェスチャー。

 「韓国では、こうやります。スープのどんぶりとご飯のどんぶりがあったら、スープの椀を下において、その中にご飯を入れます。みそ汁と韓国のスープの味の違いは考えずに、スープの中にご飯をいれるのと、ご飯に汁をかけるのと、どっちがうまいと思う?」
 学生は首を傾げ、分らない。それはそうだ。どちらも美味い。汁かけ飯の作り方、食文化が異なるだけで、どう作ろうと美味いものは美味い。

 さらに「ご飯を食べるジェスチャーをしてみて」と言うと、皆いっせいにご飯茶碗を左手に持って、右手の箸を動かして食べるまね。「お茶碗を下においたまま箸をつっこんだら、お行儀が悪いっておこられたでしょ。
 でも、韓国ではご飯のお椀は下に置いたままの方がお行儀がいいんだって。どっちのご飯が美味しいと思う?もうわかったでしょ。どっちも美味しいの。ただ、食べ方の食文化が違うだけ」

 また「パプアニューギニアの服飾文化の紹介」をすることもある。
 パプア島の男性の伝統的な衣装。写真を見せると女子学生はくすっと笑うこともあり、男子学生はちょっと恥ずかしそうに女子学生の顔をうかがう。
 パプアの男性の衣装というのは、ペニスケースという筒で、大事なところを覆い、あとは裸にペイント、頭に羽根飾り。

 次に大相撲の取り組みの写真。がっぷり四つに組んだ尻が大写しになっている。
 「大相撲を見た外国の人が、こんな野蛮な服装で人前に尻を出すなんて、恥を知れ、と言ったそうです。どう思いますか」
 「恥じゃ、ありません。これが相撲の伝統なんだから、尻見せたっていいじゃないですか」
 「そうだよね、でも、さっき皆は、ペニスケース見て恥ずかしそうだったよ」

 このへんから、学生にも、文化とは「食べ物、服装、歩き方から、人と人がどれくらい接近して話すか、まで、生まれてから死ぬまでの人の生活の仕方暮らし方生き方の総称」であることがわかってくる。
 慣れた生活のしかた、身近に見慣れたものには違和感がなく、見知らぬものには違和感や拒否感が生まれること。

 しかし、地球上のすべての人間の文化は等価であり、どのような生活の仕方、ものの考え方があっても、自己中心的なものの見方で判断してはいけないことを分って欲しいのだ。

 イスラム教では4人まで正妻としてめとることができる。これを一夫一婦制度の側から、非難しても(あるいは羨んでも)意味がない。
 また、イスラムのラマダン(断食)の時期。夜明けのお祈りのときから、日没までの間、食べることも飲むこともできないのを、「健康によくない」などとトンチンカンな批判をしても仕方がない。

 ジェンダーやセクシャリティが、個々人によって多様であるのと同じく、それぞれの文化にそれぞれの暮らしがある。
 霊長類ヒト科ホモサピエンスは、きわめて多様なバリエーションを持った動物なのだ。

<つづく>

ぽかぽか春庭「霊長類ヒト科動物図鑑」

2010-02-22 | インポート
2010/02/22
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(45)霊長類ヒト科動物図鑑

at 2003 10/31 07:20
春庭千日千冊 今日の一冊No.37(む)向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』
 向田邦子のテレビドラマを見始めたのは『七人の孫』からだと思う。母が森繁久弥ファンで、私はいしだあゆみが好きだったから見ていた。
 『寺内貫太郎一家』は見ていない。私が中学校の教師になり、テレビを見るどころではなく、朝8時から夜9時10時まで学校にい続けても仕事が片づかないという働き方をしていたころの作品だったから、視聴率の高い番組ではあったけれど、まったく見たことがなかった。
 『あ、うん』も最初の放映のとき、私はケニアにいた。リアルタイムで放映時に見たものは『隣の女』くらいかもしれない。

 放送脚本家として長い間仕事を続けてきた向田邦子が小説家として直木賞を受賞したのが1980年。その翌年には飛行機事故で亡くなってしまった。台湾取材に向かったおりの事故による。向田邦子51歳。直木賞を受賞して1年後の事故死であった。
 もっともっと書き続けて欲しい作家のひとりだったのに。1981年、51歳で台湾の空に消えてしまったことがなんとしても惜しまれる。

 文体が大好きな作家であったけれど、私にとって、向田邦子は「楽しく読み散らす読者」として以上に関わってきた人。自分の論文執筆にとって、なくてはならない人だった。
 テレビドラマをリアルタイムで見た作品は少なかったが、他動詞文用例収集のため、向田のドラマシナリオをせっせと読んだ。

 本当の会話文ではないものの、小説の文から拾うより、はるかにリアル会話文に近い用例を採集できる。
 ストーリーを読むのは邪道。ひたすら自分の論文に使える用例を採集するのが目的であるのに、ついついストーリーにひかれて読みふけり、用例採集がおろそかになった。

 日本語文法などということばを読むと、頭痛吐き気めまいなど催す方、ごめんなさいね。
 古典文法の「から、かり、し、き、けれ、かれ」とか「らむ、らむ、らめ」などという活用をひたすら暗記させられるのが文法だと思っている方々、文法と聞くだけでひきつけが起きるのだという。
 「て、て、つ、つる、つれ、てよ」あれ、こちらも引きつってきた。

 「再帰的他動詞文」の用例として向田のシナリオから拾った文例
 「そうよ、綱子ねえちゃん、こないだ差し歯あげ餅でガツーンって、欠いたものね」
 向田の『阿修羅のごとく』の中にでてくるセリフである。

 三田村家の長女綱子に対して妹が言う台詞。この台詞が映画版シナリオでもでてくるのかどうか、森田芳光監督、綱子を大竹しのぶが演じる映画を見てみようと思っている。

 ドラマ『阿修羅のごとく』もエッセイ『霊長類ヒト科動物図鑑』も、向田の人を見る目の確かさが光っている作品。「ヒト科動物図鑑」、なんど読み返しても、内容もちゃんと知っていて読むのに、読むたび思わずくすっと笑ってしまう。
 人はまことにさまざまな姿態生態を見せる生き物であるが、それにしても、向田の人間観察の鋭さとあざやかな描写力。どの短編を読んでも、「そうそう、その通り」と、うなづきながら、読む。

 地図をいくら見ても必ずまよってしまい、道を間違えずに目的地へ到着することがない。数字に弱く計算ができない、などなど、ぜったいにこれは私の数々の失敗を知って書いたにちがいない、とさえ思ってしまう。
 私は今月もまた、電車の中に傘を置き忘れた。自分の欠陥ぶりをなげくとき、向田のエッセイを思い出せば、「こういうおっちょこちょいもまた、人間なんだよね」と安心する。

 霊長類ヒト科バンザイ!人は、こんなにもさまざまな顔をみせ、さまざまな生態を示して生きている。

<つづく>

ぽかぽか春庭「トランスジェンダー」

2010-02-21 | インポート
2010/02/21
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(44)トランスジェンダー

at 2003 10/30 21:29 編集
 三島由紀夫は、『仮面の告白』で、絵本の中のジャンヌ・ダルクが美少年ではなく、男装の麗人であったことにがっかりしたと書いた。元祖戦闘美少女ジャンヌダルク、少女でいいんです。ジャンヌダルクは何度も映画化されていますが、ミラ・ジョボヴィッチの迫真の演技が印象に残っている。三島は美少年が好きであったけれど、私はボーイッシュ少女が好き。

 ジェンダーとセクシャリティに対し、社会は50年前40年前とは違う反応を示すようになった。パートナー選びも自由。ヨーロッパでは同性との法的なパートナーシップを認める国も出てきた。
 男と女も、女と女も、男と男も、どんな組み合わせであれ、ベストパートナーといっしょにいられる人は幸福だろう。そして「私らしさ」を失うことなく、「自分は自分」として生きて行けたらそれにまさることはない。

 男であれ女であれ、男性の心を持った身体上の女性も、女性の心を持った男性も、自分らしく人生をまっとうしたい。男と女、女と女、男と男、どのような組み合わせであれ、好きな人を見つけて欲しい。
 「私らしさ」を大切にできたらいいですね。
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2010/02/21
 私の「姉の夫のいとこ」という人が、性同一障害によって悩み続け、ついに女性から男性に身体を変え、裁判所に申し出て戸籍上の性別も変えました。現在では男性として人生をすごしています。幼い頃のスカートを履いていたころの印象が残るだけで、成人してからは会っていないので、現在は男性として生活していると言われても想像がつかないですが、自分の心を取り戻して生きているのだろうと思います。

 職場の知り合いのひとりは、アメリカで法的に男性同士のパートナーシップ(男性と女性の結婚と同等の法的な立場を得る)を結び、左の薬指には「結婚指輪」をしています。彼は「男性」のアイデンティティを持っており、「男性として男性を愛するセクシャリティ」を持って生きている。職場では公表されていないけれど、私は彼の結婚に祝意を伝えました。みな、それぞれの人生を生きられるようになったことは、喜ばしいと思っています。

 私自身のジェンダー&セクシャリティについて言えば、身体的にはヘテロ志向であり、女性というジェンダー&セクシャリティを受け入れ、社会的には母親という役割を引き受けて過ごしてきた。でも、精神的には、「ボーイッシュな女性が好き」
 1966年に好きだったのはやっちゃんで、1970年に好きだったのはカコちゃんで、2007年と2009年における私の「ボーイッシュな少女大好き」の女の子は、中国の朋友シャンユエ15歳でした。2010年のボーイッシュガールNO.1は、スピードスケートの高木美帆選手15歳です。美帆ちゃん、35位だったけど、よくがんばったよ。これからも応援しています。ダンスもがんばれ。

<つづく>

ぽかぽか春庭「市ヶ谷河田町の病院で」

2010-02-20 | インポート
2010/02/20
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(43)市ヶ谷河田町の病院で

at 2003 10/30 21:29 編集 市ヶ谷河田町の病院で
 大学病院の隣の職員寮に入寮したとき、4人部屋だった。すぐに私には共同生活ができないとわかった。3人の同室者に気をつかいながら暮らしていると息がつまりそうで、一ヶ月で寮を出て下宿へ移った。
 4人部屋は3人で使うことになった。「あんたが出ていって、部屋が広く使えるからよかった」と言った同室者のひとりは、病院の屋上から飛び降りて死んだ。自殺のしらせに衝撃は受けたが、高橋和己が死んだ時より悲しくはなかった。

 高橋和己が死んで半年後に内科検査室の勤務をやめた。大学病院の仕事は好きだったけれど、「カコチャンがやめてしまったから」だった。カコチャンがやめたあと、病院検査室で働くことがつまらなくなって私は何のあてもなく、退職してしまった。
 カコちゃんが東京から故郷の町へ戻ったのは、恋人と同棲するためだった。カコチャンの恋人タロさんは、カコチャンの出身地の大学で学ぶ医学生。カコチャンはタロさんと暮らしたいと「同棲時代」を実践したのだった。しかし、タロさんの親に「医学生と臨床検査技師では格が違う」と、結婚の許しがもらえない、という悩みを聞いた後、カコチャンの消息は途絶えた。

 トランスジェンダーということば。私が知ったのは、虎井まさ衛さんの本が最初に出版された前後だったと思う。現在では、テレビドラマ『金八先生』のテーマになり、上戸彩が「女性の身体を持っているが、心は男性」である主人公を演じたことで、広く知られるようになった。

 虎井まさ衛さんを知る前、トランスジェンダーという言葉が市民権を得る前から、私は、虎井さんのような生き方の人に関心を持ってきた。仮面をつけて生きることを拒否し、自分らしく生きたいと願う人に共通する姿勢に共感できたからだ。
 雑民党の東郷健が選挙に出てテレビで演説するときは、熱心にその主張を聞いたし、テレビ深夜番組にカルーセル麻紀が出演するのも応援した。三輪明宏がまだ自分自身のセクシャリティを明らかにせず、丸山明宏という名で「よいとまけの唄」を歌っている時代から、彼の不思議な魅力はいったいどこから生まれるのか、と思っていた。

 おすぎとピーコが登場したとき、「ふたごのゲイ」という特長もあり、彼女たち(?)の自己主張が小気味よかった。それまではテレビの中で「キワモノ」「イロモノ」扱いされ、正に対する負、陽に対する陰のイメージを持たされていたゲイの人たちのイメージを塗り替え、「ひとつの生き方」として認められたような気持ちがしてうれしかった。

 ウェブ世界では、リアル社会よりオープンにジェンダーやセクシャリティの問題が語られている。昔に比べれば、若い人たちが自分自身のジェンダー問題について様々な情報を得る機会が多くなった。
 トランスジェンダーの方々、臆することなく社会の好奇な視線に負けることなく「本当の私らしさ」を追求してほしいと思う。
 若い人はもちろんだが、若くない人も、残り少ない自分の人生を「私らしく」生きていかなければ、生きている甲斐がない。「私は私。私らしくあれ!」
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2010/02/20
 熱戦続く冬季オリンピック。高橋選手の銅メダル、よかったです。フィギュアファンの我が家、ショートもフリーも出場全選手の演技を見ました。フィギュアのほかは、ハイライトシーンだけとか主要選手だけを見るのですが、フィギュアスケートはペアも男子女子、アイスダンス、各国全出場選手の演技を観戦予定。

 開会式も全部みました。北京のオリンピック人海戦術マスゲームオンパレードの派手な開会式パフォーマンスに比べると、「エコ」がテーマのひとつらしいこぢんまりした質実な印象だったけれど、その中で「カナダらしい」と感じたことのひとつは、先住民族のダンス以上に、ハレルヤを歌ったkdラングの歌声でした。ラングはグラミー賞受賞歴を持つシンガーソングライターであり、ベジタリアンレズビアンとしての自分自身を貫いて生きている人です。女性として生まれて、女性が女性を愛情の対象として欲する同性愛者であることを1992年に公表し、その後もカナダでは人気の歌手でありつづけています。

 世界のなかでもカナダは、同性愛者や性同一障害者などにもっとも寛容な国のひとつであることを世界に印象づけました。マイノリティが生きやすい国というのは、マジョリティにとっても生きやすい国。開会式会場の外では、莫大な予算の必要なオリンピック開催に反対するデモも大きく報道されていました。しかし、いっさいの反対運動報道が押し込められた北京オリンピックよりは、「我が国は反対運動も自由」という印象を与えることができました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「仮面の告白」

2010-02-19 | インポート
2010/02/19
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(42)仮面の告白

at 2003 10/30 21:29 編集
 春庭千日千冊 今日の一冊No.36(み)三島由紀夫『仮面の告白』
 三島由紀夫が名家の女性との結婚を決めたとき、それは本当に三島にとって自分らしく生きることだったのだろうか。三島は結婚後もさまざまな男性との交際を続け、最後は楯の会の美少年と共に死ぬことを選んだ。
 三島は『仮面の告白』を発表した後も、仮面をかぶり続けた。「三島のあの告白はよくできたフィクションであって、あれは文学上の虚構ですよ」と述べる批評家もいて、三島もその評を利用した節がある。三島は自分を「男性的な男性」へと肉体改造し、高名な画家の娘と結婚した。

 もし、三島の生きたころが、現代と同じようにセクシャリティの多様性やトランスジェンダーに対して理解ある時代であったなら、三島の文学と死は、異なる結果を迎えたかもしれない。
 彼の死に生い立ちや思想的な面から、また文学的社会的な状況からさまざまな解釈が加えられてきた。全共闘との対話や、天皇制に対する考え方や、日本の美意識に対する思想、あらゆることがらが、彼を死へといざなったのだと思う。

 今のようなジェンダーに対する考え方の変化に対して一番論じて欲しい文学者は、三島だったと思うのだ。現在のジェンダー論が、女性学や社会学の方面からの論より以上に、サブカルチャーからのツッコミによって社会に浸透してきたことを考えると、文学の立場から物言える人のジェンダー論を三島に聞いてみたかったと思う。

 三島由起夫が市ヶ谷の自衛隊に突入したというニュースを聞いてすぐ、私はカコちゃんといっしょに野次馬に出かけていった。
 しかし、市ヶ谷自衛隊の中に入れるわけもなく、ワイワイしているだけで、何がどうなっているのか、わからなかった。三島が演説している、というので野次馬に行ったのに、何もわからず、つまらないからすぐ帰った。

 市ヶ谷河田町のフジテレビ前を歩きながら、三島の小説について話した。カコチャンは高校生のとき『金閣寺』を読んだ、と言った。「妊娠した女の腹を踏むんだよ、許せないよ」と言っていた。
 大学病院の隣の寮へ戻り、カコチャンの部屋でテレビニュースをつけたら、三島は割腹自殺した、ということがわかった。三島が女の腹を踏んだわけではないのに、カコチャンは「赤ちゃんがいる女のおなかを踏んだりするから割腹自殺になるんだよ」と、わけのわからない批評をしていた。

 私は『仮面の告白』を読んだ話をした。「おわい屋」を悲劇的だと感じてあこがれたんだって、わけわかんないよね、セバスチャンとかって絵見て、矢が体にいっぱい刺さっているので、興奮するんだって、ますますワケわかんないよね。三島といっしょに楯の会の少年が割腹したんだって、もっともっとわかんない。

 カコチャンはすでに恋人を持っていたから、男と女の恋愛については、私よりずっと詳しかった。そのカコチャンも「仮面の告白の主人公は男が好きなんだって。どうして男が男を好きになるんだろう、ぜんぜんわかんない」と理解できないようだった。
 私は「男と男」も「男と女」もわからなかった。私にわかったのは、私はカコチャンが好きだけど、カコチャンはタロさんが好きだということだった。

<つづく>

ぽかぽか春庭「年の残り」

2010-02-18 | インポート
2010/02/18
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(41)年の残り

at 2003 10/29 06:17 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.35(ま)丸谷才一『年の残り』
 丸谷才一が『年の残り』で芥川賞を受賞した1968年。私は、この小説中の登場人物でいえば、高校一年生の後藤正也の年齢に近かった。正也は、自分の大伯母と若い頃見合いをしたことのある69歳の医師上原から、若い頃描いた絵を見せられる。
 このころ読んだとしたら、少女の私には、旧友を自殺という手段で失った上原の悲しみも、自身の男性能力のおとろえや画才不足の自覚から猟銃で自殺した洋菓子店の大旦那の苦しみも、よくわからなかったろう。

 私がこの本を読んだのは、1976年第2刷の文庫本である。私は中学校の国語教師となっていたが、それでもやはり、よくはわからなかった。
 父親から継いだ和菓子店を洋菓子店に変え、一代で商売を大きくした多比良が、「芸者と夜をすごしたあと、事後の肢体をスケッチする」という楽しみを失うことで、自殺に至るとは、どういうことなのか、それほど重大なことなのか、わからなかった。
 ようやく、老いていく上原の悲しみも、生きる気力を失う多比良の苦しみも、わかる年齢になった。男性の中にはその1点の元気さを生き甲斐としている人もいることがわかってきた。

 最初に読んだ頃の私に理解できたのは、「自分のスケッチ作品がロダンからの間接的な影響下にあることに気づかされ、確実にロダンの才能には及ばない画才しかないことをつきつけられたこと」が、多比良が死を選ぶ原因になったのだろうということだけ。
 「事後、女性肢体を描く、と期待することが、ことに及ぶ興奮材料となり、生きていく元気の源だった」と、老院長が解説するのを読んでも、画才のないのを悲観するのはわかるけど、性的能力の衰えが、生きる活力を失わせるほど重要なものであるという感覚はわからなかった。(このころは私もウブでしたね!)

 母を失った後、「生きる意味」もわからなくなり、父にいわれるままに中学校教師になったものの、自分の資質が教師に向かない性質であったことを自覚する毎日。
 ネクラでオタクな引きこもりでした。「母の作品を集めて句集を出版する」という目標によって、ようやく「あと追い自殺」を思いとどまったけれど、教師の仕事もうまくいかず、生きる希望はなかった。

 中学校で受け持った演劇部の仕事だけが、かろうじて私を生につなぎとめていた。
 演劇の身体訓練を中学生に教えるため、自分でもモダンバレエのレッスンを受け、発声練習のために「視覚障害者のための朗読奉仕員養成講座」を受講した。以来、ダンスと朗読ボランティアは四半世紀続けている。
 中学校は3年で退職した。母校にもどり、大学院の研究生として演劇学、芸能人類学を学ぶことにした。舞踊評論家市川雅に師事して、ダンスを見ることに熱中した。

 民族芸能学、演劇人類学のフィールドワークの地として、パプアニューギニアに行きたかったが、結局、渡航先がケニアになった。
 ケニアで民族ダンスを練習したけれど、教師として能力がなかったのと同じように、民族文化研究者としても何の能力もないことが判明しただけで、帰国。

 ケニアですごした中の唯一の自慢は、テレビドラマのエキストラとして出演したこと。当時大人気だった『熱中時代』という水谷豊主演ドラマのスペシャル篇ロケがケニアで行われ、浅野ゆう子の友だち役としていっしょにテレビに映ったのだ。
 その頃20歳前後で、アイドル歌手としても女優としても中途半端だった浅野ゆう子が、今や押しも押されもせぬ実力派女優になり、活躍している。

 私はケニアから帰国したあとも、自分の方向性を見つけることができず、「アフリカ縦断旅行へ出発する」という目標を作り上げた。旅回り一座の役者、予備校の試験採点係りなど、旅行費用を稼ぐ日々が続く。
 ようやく資金が貯まり、ランドローバーを買って船でフランスの港へと送り出した。ジブラルタル海峡を越えてアフリカへ。モロッコからナイロビまでランドローバーで縦断後、ナイロビで出会ったふたりそろって、記念の地で結婚届けを出す、という計画だった。

 しかし、出発前に「できちゃった婚」をするはめになり、アフリカ縦断はキャンセル。結局それ以来、私がアフリカの地を再訪するチャンスはこなかった。
 なんでそんな結果になったか。そのころ「その1点」は、おおいに元気でありました!
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2010/02/18
 春庭も現在は意気消沈の毎日ではあります。鉄の胃袋の消化力は衰え、髪は白髪、目はショボショボ、糖分炭水化物は控えよと命じられてもオセンベナッツチョコを娘に隠れて食べて叱られ、年を取るのは悲しいこととぼやきながら、スピードスケートの銀銅メダルにきゃーきゃー騒ぎ、カーリングにメジャー計測で勝ったとはらはらし、フィギュアのイケメンスケーターにうっとりし、まあ、そんな「年の残り」の日々です。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ボッコちゃん」

2010-02-17 | インポート
2010/02/17
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(40)ボッコちゃん

春庭千日千冊 今日の一冊No.34(ほ)星新一『ボッコちゃん』
 星新一(本名:星親一)のショートショートは、一度はまると、熱にうかされたようにあるいは依存症のように次から次へと読みたくなる。短いお話のなかに、広大な宇宙や深遠な人間心理がぎゅっとつまっています。昔は読解教材として適切なものが少なかったこともあり、よく日本語読解の材料にとりあげました。
 「教科書の中の日本語作品は面白くない」と思っている留学生も、星新一のショートショートなら、「この先どうストーリーが展開するのか」と、楽しみながら読むことができ、90分の授業のなかで起承転結味わいながら読解できますから、ショートショートはいちばん読みやすい読解教材なのです。

 なかでも、「ボッコちゃん」は、中級レベルの学生からに人気の作品でした。それほど難しい表現はなく、一文一文、初級文法を理解していれば読みこなせる文章でありながら、「この先どうなるのか、読み続けたい」という気持ちを留学生読者にも持たせてくれるストーリー展開、オチの秀逸さ、どれをとっても、作品のおもしろさを味わうことができます。「ボッコちゃん」のほか、「殺し屋ですのよ」「おーい、出てこい」などもよく読解授業で取り上げました。
 
 星新一は、父や祖父の伝記を書いており、星新一が星薬科大学の創立者である星一の息子であることはよく知られています。星一は、星製薬の創始者として明治から昭和にかけて製薬王と呼ばれた人です。小金井良精(解剖学者)と喜美子(森鴎外の妹、随筆家)の次女せいと結婚して生まれたのが星新一。明治の文豪森鴎外を大伯父に持ち、父は製薬界のドン。

 お金持ちの家庭にはよくあることとはいえ、星一は新一が生まれる前、新一には異母兄にあたる子供を庶子として別の女性との間にもうけていました。出澤家へ養子にだしていた出澤三太です。三太は俳人として活躍しました(筆名:珊太郎)。

 1950年に東京大学農学部農芸化学科大学院博士課程前期(修士課程)を修了するときの星親一の修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」であったそうです。1951年には父の星一が急死したために、経営悪化していた星製薬の社長を務めるも、すでに救う手だても尽きていて会社は人手に渡りました。実業家としては「最初から経営失敗」だった星新一ですが、星一のアイディアマンの才能と、母方から受け継いだ文才とを併せ持つ「SFショートショートの神」が誕生しました。

 最相葉月による星新一の伝記『星新一 一○○一話をつくった人』(新潮社2007年)も出て、留学生による星新一研究も増えることでしょう。これまでの「日本文学研究」では、SFやショートショートを取り上げる人は少なかった。「純文学」への研究熱に比べれば、SFは「文学主流」とは見なされてこなかったからです。でも、現代では「大衆文学」「純文学」なんていう分類ではなく、「日本語言語文化作品として読むに値するか否か」で作品評価をする時代です。星新一は十分に評価に絶える日本語作品を残したと思います。

 私が担当している「国費留学生クラス」は、世界各国で選ばれた学生が「日本国文科省奨学金給費生」として来日して日本語を学び、国家を背負う研究者として大学院にすすみます。理系の場合はほとんどが国立大学へ配置されます。文系の学生の中には、専門により、少数は早慶上智など私立の大学院へ進む学生もいます。
 2009年10月から2010年2月まで担当した初級クラスのなかに、珍しいことに4月から理系私立大学へすすむ学生が混じっていました。星薬科大学大学院に進学するマレーシアからの留学生です。多民族国家マレーシアの中の中国系。家庭では客家語(はっかご:中国語の南方方言のひとつ)を話し、マレーシアの公用語のひとつ英語で学校教育を受けてきて、日本語も熱心に受講していました。非常に優秀で、癌の新薬開発をめざすそうです。
 
 初級の文法教科書を猛スピードの授業でつっこむために、星新一のショートショートなど紹介している余裕はありませんでしたが、新薬開発の研究の合間に、星新一の小説を楽しむ余裕がでるといいなあ、と思っています。

<つづく>

ぽかぽか春庭「もの喰う人々」

2010-02-16 | インポート
2010/02/16
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(39)もの食う人々

at 2003 10/27 06:55 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.33(へ)辺見庸『もの食う人々』
 辺見庸。一番好きな男性作家のひとり。講演があれば聞きに行きたいし、テレビに出ていればチャンネルをあわせる。ミーハーファンである。

 ただし、彼の小説は好きじゃない。『自動起床装置』『赤い橋の下のぬるい水』などの文体に少しも感応しない。「ぬるい水」に関して言うなら、発情期のオス犬が、我が家の雌犬の匂いが染みついている私のズボンに飛びついておシッコをひっかけた10歳のときに、「ひゃぁ、おシッコだぁ」と思ったのと同じ感覚。エロスもタナトスもありゃしない。
 おシッコ漏らす話ならば、石田衣良『娼年』の中に出てくる、「おシッコをがまんしていて、がまんしきれずにお漏らしをするのが官能の極致」という70代の女性が出てきて、人と人が関わりあうことのヒリヒリした思いに満ちていた。

 辺見の小説にはあまりピンとこないのだけれど、エッセイ、ノンフィクションの文体には「ビビビッ」と「感じる」のである。男の色気にうっとりするのである。
 保健所が捕獲した犬をする話だったり、中で死刑が行われている最中かもしれない刑務所の塀の周りをぐるぐる歩き回る話だったり、そんな話を読んで、「ああ、こういう人にひっついていっしょに刑務所の周りをぐるぐる歩き続けたい」と、思ったりする私はいったい、、、、?

 「もの食う人々」も、書かれていることは、放射能を浴びた野菜やきのこを食べるしかない人々や、餓えに苦しむ人々が出てきて、泣きたい気持ちになる内容である。しかし、内容の悲惨さに涙しながら、辺見の文体にうっとりしてしまうのだ。いけませんねぇ。

 講演会も聞きに行った。講演の内容は、「死刑廃止運動に関連して」だったりしたが、ミーハーファンは、話の中味が死刑だろうが犬のだろうが、顔を見ているだけでうれしいのだった。
 講演会の帰りにラーメン屋によったら、相席になったオバサンが辺見の本を読んでいる。ご同輩!と嬉しくなって、声をかけてみた。

 彼女も辺見ファン。「ええ、なんかよく分らないけど、好きなんですよね」と言う。う~ん、ライバルは多いようだ。
 ライバルに負けずにがんばるぞ!って、何をがんばるんだか。いや、だから、灰になるまで、がんばります。

at 2003 10/27 06:55 編集 灰になるまで燃え尽きたい
 老人ホームで、70歳過ぎの女性入居者が、70代80代の二人の男性を相手に、一回300円で関係を持ち、片方の男性が嫉妬のあまり、もう片方を刺す、という事件があった。
 女性にとって、300円が欲しいのではなかったろう、自分が「恋しい相手」として認められ、その存在を欲求される、そういう自分自身でありたかったのだろう、と想像する。

 大岡越前(だったかな?)が、母親に尋ねた。「女は、いったいいくつまで閨房を共にしたいと思うものでしょうか」母御は黙って火鉢の灰をかきまぜ、大岡は「ははぁ、女性は灰になるまで現役か」と、悟ったという話。さよう、骨になり灰になるまで、女は燃え尽きたいのである。

 私など、酸素不足不完全燃焼のまま、一酸化中毒死しそうである。もっと光りを(by goete)、もっと酸素を!(by haruniwa)。新鮮な空気と光と水を!私だって光合成したい。あれ?光合成に使うのは酸素ではなく、二酸化炭素だったっけな。
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2010/02/16
 2004年に病に倒れて以来、脳梗塞や癌と闘っている辺見庸。
 今年ようやく『自分への審問』を読みました。いつまでも私の「闘う良心」であってほしいです。私はどうもグズグズで、自分の半径3m以内のことどもにかかずらわっているだけで精一杯。もっと広く深く世の中を見たくもあるけれど、せいぜい「上村愛子にメダル取らせてあげたかった」と、人様のがんばりを消費して楽しむ程度でございます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「楢山と蕨野行」

2010-02-15 | インポート
2010/02/15
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(38)楢山と蕨野行

at 2003 10/26 06:41 編集 姥捨山、楢山と蕨野行(つづき)
 映画『蕨野行』の舞台は、山の中の小さな農村、押伏村。(日本の原風景として選ばれた蕨野の里、山形県飯豊町でロケが行われました)
 米を作る田はあるが、村の掟で、隠居した老人は「蕨野」へ行くことが決まっている。庄屋の隠居レンも例外ではない。蕨野で、老人達は一夏共同生活を送り、秋から冬へ。食べ物が途絶えると一人、一人と倒れていく。
 レン達が蕨野へ行った年は夏の間雨が続き、里も不作。雪に埋もれた小屋で凍える体を温めあい、レンも息絶える。

 幸田文『エゾ松の更新』を読むまで、私は「古い世代が新しい世代のために自分自身を養分としてさしだす」などということは、許せない、と感じる「若いもん」の側だった。
 今、年を重ねてみると、自分個人の命に執着するより、次の世代がよりよい毎日をすごすために、最後の日々を役立てたいという高齢者の気持ちも理解できるようになった。

 命をとじたあとのレン達が集う最後のシーン。老人達は「体が軽うなった」と、喜んで雪合戦に興じる。嬉々とした顔の老人達。自分の人生をまっとうし、子孫へと命をつなぐ責務を果たした安心立命に満ちている。
 蕨野で命果てるも、ホスピスで最期のときを迎えるのも、場所はどこでもよいのだ。自分自身で満足して、「これでよかった、いい人生だった」と思いながら死ねること。
 映画「蕨野行」が終わると、姑は「明日から旅行。飛行機の出発時間が朝早いから、ゆっくりしていられないの。お夕ご飯をいっしょに食べたりできなくて、ごめんね」と、さっさと帰り仕度。

 嫁は「天気が変わりやすい時期だから、レインコートとか、寒さよけのウィンドブレーカーのようなのも、ちゃんと持って行ってね」と、くどくど繰り返す。姑は「はい、はい、大丈夫。ちゃんとおみやげ買ってくるから」と、駅の階段を上っていった。階段を上る姑78歳の足取りは、毎日の仕事にくたびれてヨレヨレの嫁よりもよほどしっかりしている。
 姑は、まだまだ20年30年がっちり生きていきそうな、メリーウィドウでありました。

 中国現代史の生き証人である蒋介石未亡人宋美麗が106歳で死去(ニューヨーク2003/10/23)。
 世界史近代国家成立以後、最も長命を保ったファーストレディ。未亡人となって以後は台湾に留まらず、アメリカへ移住した。台湾を去ったのは、若い頃留学生活を送った青春の土地を「ついの住処」として選んだからだろう。けっして「姨捨」のためではない。
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2010/02/15
 2010年の今年、姑は2月7日で85歳、ますます健康オタクぶり健在で、健康にいいことは何でもやる。元気です。一方ヨメの私、最近とみに老化を意識してしまい、意気消沈です。何でも消化する鉄の胃袋を誇っていたのに、娘息子と同じ唐揚げを食べて、私だけ胸が焼けて、苦しかった。食べるだけが楽しみなのに、、、、「何でも食う人」だった私、そろそろ健啖家を卒業してそぞろ「もの喰う」ことの下り坂の降り方を考える年にきたようです。

<つづく>

ぽかぽか春庭「姥捨て山」

2010-02-14 | インポート
2010/02/14
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル(37)姥捨て山

at 2003 10/26 06:41 編集 姥捨山
 82歳の舅がホスピスに入院したとき、姑は、そこが「最後のひととき」を迎える病院であることを、絶対に夫にさとられぬよう、ホスピスのホの字も言わないよう私たちに釘をさした。
 「もう治療の方法はない、あとは痛みを除き、静かにお迎えを待つのみ」と医者に言われても、姑は「治療をしてくれる病院に入院させたのなら、親戚にも顔向けができるけれど、治療してくれない病院だと、姥捨山に捨てたようだと、言われてしまう」と、気にしていた。

 そして、「免疫療法」という健康保険が適用されない療法に夢中になり、蓄えをつかい果たした。高額な治療費を工面し、どれだけお金をつかっても、一分でも夫の寿命を延ばしたいという姑の気持ちもわかったけれど、そうやって延ばされる方の舅にとって、それが幸福な最後だったのだろうかという、「鬼嫁」と言われそうな感想を持ったこともあった。ホスピス入院期間半年という長期存命記録になったけれど老後資金として長年働いてためてきた貯金を使い込んだ。
 舅姑は二人ともは病気を治すための治療をしている信じていたが、私たちにしてみれば、不治とわかっていても、二人の心の安静のための免疫治療。もし、告知を受けて自分の病状を冷静に判断できる状態だったら、舅の気持ちとしては、姑が安心して老後を過ごせるだけの蓄えを残しておいてやりたかったのではないか、と思ったのだ。二人とも、治療して直ったら姑と二人、静かな老後をすごそうと思っていたのだろうけれど、自分の病が治らないとわかっていたのなら、別の思案もあったろう。それが本人にとって幸福なことかどうかは私には判断できないことであるけれど。

 未亡人となった姑は「今日は、童謡を歌う会、明日はお習字、週末は旅行」と、「一人暮らしになったら、あちこちからお誘いがかかって、かえって、おじいちゃんの相手だけしていた頃より忙しい」と、飛び回っている。

 私も姑から「コンサートへいっしょに行きましょう」などのお誘いを受けることが多くなった。
 「旅行は簡保利用の安ツアー、習い事は区の生涯教育で無料、コンサートも高齢者ご招待のチケット」という。
 「お金はないけど、都内の移動はバスと都営地下鉄が老人パスつかえるし、何とか暮らせる」という毎日をすごしている。
 10月23日は、私の仕事が休みになり平日に映画館へ行ける時間がとれたので、姑を映画に誘った。
 姑といっしょに見た映画は『わらびのこう』。村田喜代子『蕨野行』が原作。恩地日出夫監督。市原悦子主演。友人が「わらびのこう製作を支援する会」の一員で、チケットをおくってくれたのだ。

 内容は「姥捨山」の話と知っていたから、姑を誘っていいものかどうか、ちょっと考えた。「年寄りは、働けなくなったら山に捨てる」なんて映画に、嫁が姑を誘ったりして、世間からはまた「鬼嫁」と言われてしまう。
 私が直接誘うと断りにくいだろうから、中学生の息子を使いにやった。映画の券を持たせて「こういう内容だけど、行くかどうか聞いてきて」と、伺いをたてたら、行くという。
 映画は、全編、姑の出身県でのロケ。「知っている土地が画面にでてくるかもしれないから」というのをお誘いの理由にした。美しい田舎の光景がたくさん出てくると思うので、ストーリーはともかく風景だけ見ていても、姑にとってはなつかしいだろうと。

<つづく>