春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭「国民幸福度」

2009-10-31 | インポート
2009/10/31
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>幸福度ランキング(2)国民幸福度

 2008年発表の調査結果ですが、アメリカ国立科学財団(NSF)は、世界の幸福度ランキングを発表したそうです。世界で最も幸せな国はデンマークでした。
 この調査は、1981年から定期的に実施されているもの。2008年の調査はミシガン大社会調査研究機関の政治学者、ロナルド・イングルハート氏が率いて実施され、52の国の35万人を対象に「すべてを総合的に見て、今自分が幸せかどうか」と「総合的に考えて、自分の最近の生活にどの程度満足しているか」という2つの質問をし、回答者の答えを集計したのだといいます。
 各国・地域の住民に対し、幸福度と生活全般についての満足度を尋ねた結果、幸福度が高かった上位10カ国・地域はデンマーク、プエルトリコ、コロンビア、アイスランド、北アイルランド、アイルランド、スイス、オランダ、カナダ、オーストリアの順。米国は16位。日本は43位。プエルトリコやコロンビアのように、日本よりGNPが低い国でも国民は「今、自分は幸せ」と感じる人が多いことが注目されます。幸福感とは、年収や「物をたくさんもっている割合」では計れないということでしょう。

幸福度は経済成長や民主化、社会的寛容度の高さに比例し、独裁政権下の国や貧困国は幸福度が低い傾向をみせる。「幸せでない」と感じる人が「幸せ」と感じる人を上回ったのはルワンダ、ロシア、イラクなど19カ国。最下位は政情不安が続くアフリカ南部のジンバブエ。ムガベ大統領による長期強権政治、超高率インフレなどで、住民が隣国の南アフリカへ脱出してしまう状態。

 舅の残した遺族年金で暮らし、「貧困家庭」ではない生活を一人で楽しんでいる姑、我が家が「(実質的)ひとり親貧困家庭」であることは知りません。「男は家族を養う存在」と信じている姑なので、「息子は自営業で苦しい経営だけれど、家族のために一生懸命働いている」と、思わせています。姑は「息子の家庭は、贅沢はできないまでも、世間並みの生活をしている」と信じているので「ひとり親貧困家庭」の実態を知り「エンゲル係数、超高い」生活を知ったら心配が高じて健康に悪いかもしれない。姑が介護が必要な状態になったら私は稼ぎに出ることもできなくなって一家全滅してしまうので、姑の前では「幸福」を演じなければなりません。

 「幸福感」とは必ずしもお金のあるなしで決まるのでないことは、GNPが高くなくても「国民幸福度」が高い国もあることからもわかります。私はひたすら「貧乏でも楽しんで生きる」工夫を続けています。「国民幸福度」の計算方法とは異なるでしょうが、我が家、貧困家庭の一員ではあっても、不幸ではない、、、と私は思っているんだけど、息子と娘にしてみれば、貧困家庭で育ったつらさをもう十分に味わった、とうところか。

 貧困家庭の「生活を楽しくする工夫」のひとつが、招待券集め。招待券を手に入れて絵画展写真展を楽しんだり、古本屋の百円均一本を買うのだけがショッピングの楽しみだったり、「安い、無料、ご招待、」を生活の楽しみにしています。
 招待券もらってタダで見る絵画展でも、絵を見て心ゆたかにすごす時間は同じです。
 百円本だとて、読む楽しみは同じ。百円本が簡単に買えるようになって、図書館で借りる率が減りました。図書館の本は返さなければならないので。少し待てば古本屋に出回ると推察できる本は、すぐ読みたくてもちょっとがまん。

 百円本にはいろいろな「思わぬ出会いの楽しみ」があります。先日百円本の中で見つけた池田亀鑑『平安朝の生活と文学』は、絶版にはなっていないけれど品切れ本で、復刊希望が出されている本です。百円本の棚で、新刊書店では買えないこんな品切れ本も見つけることができます。

 「幸福度調査」のアンケートが私のところにやってきたら、、、、。「貧乏ではあるけれど、一病息災であるし、雨露しのげる住まいがあるし、仕事も続けていられて粗食は食べられるし、不幸といったら罰当たりそうだから、一応幸福と言っておかなければならないかもしれないんでしょうけれど、、、」という歯切れの悪い返答ながら、「不幸ではない」ってほうの部類に自分を入れないと、戦下に暮らしている人や地震や津波の被害から立ち直れない人に申し訳ないから、、、、


<おわり>

ぽかぽか春庭「相対的貧困率」

2009-10-30 | インポート
2009/10/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>幸福度ランキング(1)相対的貧困率

 厚生労働省は10月20日、国民の貧困層の割合を示す指標である「相対的貧困率」が、2007年度で15,7%だったと発表しました。
 厚労省のHPhttp://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/10/h1020-3.html
の報道発表資料として、以下の文面が、大臣官房統計情報部国民生活基礎調査室室長補佐 鈴木知子、政策統括官付社会保障担当参事官室室長補佐 竹林悟史を代表として掲載されています。
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厚生労働大臣のご指示により、OECDが発表しているものと同様の計算方法で、我が国の相対的貧困率及び子どもの相対的貧困率を算出しました。
最新の相対的貧困率は、2007年の調査で15.7%、子どもの相対的貧困率は14.2%。
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 春庭コラム「いろいろあらーな」では、2005年9月にジニ係数の数値をとりあげ、日本の貧困率が高くなってきていることを書きました。ジニ係数がゼロなら国民所得の格差はなく、平等。係数が1なら、格差は大きい。1960~1970年代は、日本が「一億総中流」と思っていた時代でしたが、この頃のジニ係数は0,2で、平等性が高かった。2005年の時点で、日本のジニ係数は約0,3に上昇しており、格差が広がっている。
 1980年ごろまでは、最高所得階層と最低所得階層の所得格差は10倍以下だった。しかし、2002年の格差は168倍に広がっており、2009年はさらに格差がひどくなっているだろう。高所得を一部分の金持ちが独占すると、国民の大半は平均所得に達しない状態が続く。

 厚生労働省が実施している所得再分配調査によると、日本の格差は、アメリカやイギリスよりは小さいが、デンマークやフィンランドよりは高い。相対的貧困率、ジニ係数、どちらを見ても、日本がどんどん貧富格差が開いていることがわかります。

 相対的貧困率は、「全国民の年収の中央値の半分に満たない収入しかない国民の割合」がどれくらい存在するか、という割合です。国民の所得分布の中央値と比較して、半分に満たない国民の割合をいいますが、国によって、この中央値は異なってきます。国内の経済格差がわかります。
 2008年の国民生活基礎調査(上記の鈴木知子さんが室長代理をしているの部署が行った調査だろうと思います)では、日本の一世帯当たり年間所得の中央値は448万円でした。その半分224万円以下の世帯収入の家庭が、相対的貧困率の対象となります。また、2008年の同調査室の調査によると、年間所得が200万円未満の世帯の割合は全世帯の18.5%だそうです。数字に弱い春庭、この計算方法がよくわからない。世帯当たりの年収448万円というのは、ひとり当たりにするといくらなのだろうか。

 10月20日厚労省発表の日本の相対的貧困率は。全世帯の可処分所得を1人当たりに換算し、高い順に並べたときに真ん中の所得(中央値)は228万円。その半分114万円以下の可処分所得(税金などを支払ったあとの、使えるお金)で生活している人が「貧困者」です。こちらの計算では「可処分所得一人114万円」というので、わかりやすい。
 98年以降の3年ごとの数値も公表され、98年は14.6%、01年は15.3%、04年は14.9%が相対的貧困層にあたる。

 OECD加盟30ヶ国のうち日本は27位という貧困率。一番貧困率の高い30位がメキシコ、ついでトルコ、アメリカ。アメリカは貧富の差が大きい国なので、トップの金持ちと貧困層の差があることはよく知られていますが、日本も負けず劣らず、貧富の差が大きい国になったのです。貧困率が低い国はデンマーク、スエーデンなど、北欧の福祉充実国です。税金の高さでは世界でもトップだけれど、国民全体が豊かさを享受しています。

 金持ちだけがどんどん資産を増やす方針のアメリカ、そのアメリカをお手本に「自己責任」と言いつつ貧困率を上げてきた日本。「よかった、うちは貧困家庭じゃなくて」と、思った人が幸福感を得ているとは限らない。貧富の差が大きい国は、「国民全体の幸福度」も下がる。
 社会への信頼や安全、生活の満足感などの総合した感じ方が「幸福度」であるとしたら、いくらお金持ちでもいつも「財産を失うかもしれない」「盗まれるかもしれない」という不安の中に生きているなら幸福度は低い。

 幸福感の調査というのも、いろいろな部署でいろいろな計測方法が出されているが、世界の幸福度ランキングで、日本はどの調査でも低い。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ゆっくり東京女子マラソン」

2009-10-29 | インポート
2009/10/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(5)ゆっくり東京女子マラソン

 私は、近代史を駆け抜けた女性たちに思いを寄せてすごすことを好んでいる。評伝や自伝、小説の主人公として彼女たちの物語を読んできた。

 明治の女性作家。『樋口一葉日記』ほか、数々の一葉を主人公にした小説、伝記。
 田沢稲舟については2冊のみ。伊藤聖子の評伝『田沢稲舟』大野茂男の『論攷 田沢稲舟』。
 最初の女子留学生5人のうちふたりについては。大庭みな子の『津田梅子』、久野明子の『大山捨松-鹿鳴館の貴婦人』
 女性画家、大下智一の『山下りん―明治を生きたイコン画家』。
 作家、教育者、社会運動家。林真理子の『ミカドの女(下田歌子)』、臼井吉見の『安曇野(相馬黒光)』、高群逸枝『火の国の女の日記』、平塚雷鳥『元始、女性は太陽であった らいてう自伝』、瀬戸内寂聴『青鞜』、永畑道子の『華の乱(与謝野晶子)』など。

 また、長谷川時雨『近代美人伝』に描かれた、川上貞奴(女優)、松井須磨子(女優)、九条武子(歌人)、柳原燁子(歌人)らの生涯も深く心に残る。
 演劇、短歌などの自己表現と人生における自己実現に命を賭けた女性たち。
 画家では、江戸から明治初期に活躍した南画の奥原晴湖も忘れがたい。

 心に残る女性たちとは、何らかの功績を残し顕彰されている人だけではない。
 管野すが、金子ふみこ、伊藤野枝ら、近代国家権力にあらがった女性も好きだ。
 管野すがについて、岩波新書『管野すが・平民社の婦人革命家像』や、瀬戸内寂聴の『遠い声』を読んだ。金子ふみ子『何が私をこうさせたか』、瀬戸内寂聴の『余白の春』。
 伊藤野枝については、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読んだだけで、彼女自身の著作を読んだことはない。

 無名の女性たちの名を知ることができるのは、多くの場合、裁判記録や新聞の犯罪事件報道によるので、おおかたは悲しい一生をおくった女性の人生を知ることになる。

 近代女性史の登場人物のなかで、子育ても順調で、自己実現も果たしてという「両立組」は、相馬黒光、与謝野晶子、平塚雷鳥くらいかな。晶子と雷鳥は夫に収入がないため家計担当者として働き、子育ては乳母や女中に頼った。この二人は「母性保護論争」という子育てと女性の仕事の両立論で激しい論戦を交わした。
 近代という時代は、女性にとっては、とても厳しい時代だった。生きにくい時代のなかを、懸命に走り抜けた女性たち、ひとりひとりの人生が、私は好きだ。

 2008年の第30回大会を最後に、「東京国際女子マラソンレース」の開催は幕を閉じるという。2007年は、最後から2番目の大会だった。

 大手門前のマラソンコースを、颯爽と走り抜けたトップランナーたち。
 最後尾、苦しげにラストを走っていた人、楽しげにびりっけつで走った人。
 それぞれの走り方はあっただろうが、彼女たちは「女性がマラソンに挑戦するなど無謀だ」と言われた時代もあったことなど、まったく感じさせもしないで、お堀端を駆け抜けていった。

 今、マラソンの分野でも芸術の分野でも「女だからダメ」といわれることはない。
 みな、のびのびと走り、芸術表現にたちむかう。
 現代彫刻の分野では、たくさんの女性たちが活躍している。
 
 「表現者」としての女性がおらず、「モデル」としてしか女性がいなかった近代彫刻の数々をみながら、近代美術のトップランナーとなった女性たちを思った。
 さまざまなドラマを抱えて、自己表現に生涯をかけた人々、もくもくと走り続けたのだろうなあ。
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 以上の文章は2007年秋に執筆したものです。2008年の秋掲載しようと思って追加執筆したけれど結局掲載せず倉庫に入れて置いた文章。
 2009年秋、東京国際女子マラソンはもうありません。来年の東京マラソンに一括されることが決まっています。東京国際女子マラソンを受け継ぐ形になった横浜国際女子マラソン、第1回目は11月15日のスタートです。
 大勢の女性ランナーが、横浜山下公園を出発して、浜風を受けながら走り続けることでしょう。私?、、、這っています。日本社会の底辺をようよう這っているのです。

<おわり>
もんじゃ(文蛇)の足跡:
母性保護論争については、アグネス・チャン論争のころ、盛んに引用されていた。ネットでは
http://www.eqg.org/lecture/hogobody.html
が、よくまとまっていると思う)

ぽかぽか春庭「モデル智恵子」

2009-10-28 | インポート
2009/10/28 
ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(3)モデル智恵子

 高村光太郎の彫刻は、「手」がたいていの美術教科書に写真が載っている。モデルは、自分の手。
 光太郎の作品というとき、詩はいろいろ思い浮かぶのに、彫刻作品では、「手」以外に、さあ、何を見たことがあったんだっけ。と、思っていたら「日本彫刻の近代」に光太郎の裸婦座像が出品されていた。
「裸婦座像」は、30cmほどの小さな像で、「手」と同じ年の制作、1917(大正)年。智恵子と結婚して3年後のことだ。

 十和田湖畔にたつ「乙女像」は、晩年の光太郎が情熱を傾けた作品であり、亡き智恵子の面影を追いながら制作されたという逸話がよく知られている。
 しかし、若い頃の作品「裸婦座像」のモデルがだれであったのか、調べてみても、記録がみつからない。
http://ambition-photogallery.com/gallery.php?id=88&theme_no=1&gallery_id=2614

 光太郎72歳になって、「モデルいろいろ」というエッセイに書いていること。
 「日本に帰ってきてから四、五年は乱暴な、めちゃくちゃな迷妄生活を送っていたが、そのうちに智恵子と知るようになり、大正3年結婚したので、あんまりぐうたらなモデルは雇わなくなった。智恵子との結婚によって経済上の不如意はますますひどくなった。父からの補助はなくなり、彫刻を金銭にかえる道がうまくつかず、原稿かせぎもあわれなものだし、身をつめるほかなかった。モデルも極くたまにしか使えなかったのである。
 その上、あれほど聡明な女性であった智恵子でも、私がモデルを使うことを内心喜ばなかった傾きのあることを知ってから、尚更モデルを雇うことが少なくなった。智恵子も進んでモデルになった。智恵子の体は実に均整のいい、美しい比例を持っていたので、私は喜んでそれによって彫刻の勉強をした。智恵子の肉体によって人体の美の秘密を初めて知ったと思った。かなりの数を作っている。全身だの、部分だの、トルソだの、クロッキーだの、それもみな今度の戦災で焼けてしまった」

 この記述から見るかぎりでは、結婚3年目の裸婦座像のモデルは、「とぼしい稼ぎのなかから、智恵子が喜ばないのを承知で雇ったモデル」の女性であったのか、智恵子なのか、わからない。

 もし、裸婦座像のモデルが智恵子であるのなら、光太郎がひとこと言い残していてもよさそうなのに、と、思う。裸婦座像の均整のとれた美しい肢体は「智恵子の体は実に均整のいい美しい比例を持っていた」と、光太郎が書き残したとおりなのだが、像の顔は、写真に残る智恵子とは別人のようにも思える。
 光太郎の「モデルいろいろ」からわかるのは、たくさん描いたスケッチやクロッキー、制作したトルソなど、智恵子をモデルとした作品が、戦災ですべて焼けてしまった、ということだけ。

 高村光太郎は自分自身の芸術活動を優先させることに何の疑問も抱かず、「智恵子が自分からそうしたいと言った」と納得して、妻を家事労働の中に押し込めた。智恵子にとって、モデルとして夫の役に立つことが幸福な生き方であると自分自身を納得させ、光太郎の前でポーズをとることを喜びこそすれ、決して「私だって描きたい」とはいわなかったのではないだろうか。言えていれば、彼女の後半生は違った歩みになっていただろう。駆け抜けるにせよ、ゆっくり一歩ずつ歩むにせよ、彼女の人生は彼女自身のペースで歩けたに違いない。

 近代という時代を、黙々と走り抜けていった女性たち。
 颯爽と走った者もいただろう。最後尾を苦痛で顔をゆがめながら、一歩一歩と足を運んだ者もいただろう。
 「日本彫刻の近代」展、さまざまな思いを抱きながら、彫刻の間を歩いた。

<つづく>

ぽかぽか春庭「近代彫刻の女性像」

2009-10-27 | インポート
2009/10/27 
ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(2)近代彫刻の女性像

 ラグーザ玉(1861~1939)は、明治日本で最初に「女性洋画家」となった人。
 玉の夫、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、明治の「お雇い外国人」のひとりである。
 イタリアで新進彫刻家として高い評価を得たあと、1876(明治9)年に来日。1882(明治15)年まで工部美術学校(東京芸術大学の前身)で、洋画や彫刻指導にあたった。

 玉は、芝に生まれ、ラグーザに弟子入りした。
 ラグーザの本国帰国の際には周囲の反対を押し切って、20歳年長の「先生」に同行し、イタリアのシチリア島へ渡った。
 シチリア島のパレルモでラグーザと結婚し、夫とともにパレルモ芸術学校で後進を指導した。
 夫と死別した後、日本に戻り、洋画家として活躍した。

 荻原守衛、号は碌山ろくざん。1879(明治12)年~1910(明治43)年。
 「女」は、近代彫刻のなかで最初に重要文化財の指定を受けた作品。

 近代美術館の所蔵品であるから、美術館を訪れるたびに毎回見ている。いつもは絵画を中心に見ていて、この「女」の前は横目で見てタッタッと駆け足ですぎる。
 しかし、近代彫刻が歴史的に並んでいるこのような彫刻展のなかにあると、やはりそこだけ光を放つような存在感が際だつ。

 「女」の直接のモデルは、素人モデルの岡田みどりという女性。
 しかし、守衛がそこに表現したのは、彼がひそかに思いを寄せていた新宿中村屋の相馬黒光の姿だったと伝えられている。

 黒光のこどもたちも、この像を一目見て「かあさんがいる」と思ったといい、黒光自身も、自分の内面を守衛が形にした像であることを確信した。しかし、その時、すでに守衛は30歳の若さで不帰の人となっていた。
 「女」が、近代女性の毅然とした美しさを表現し得ているのは、黒光の人間性を荻原守衛が深く理解し、黒光の内面に共鳴していたからだろうと思う。

 相馬黒光について、私は臼井吉見の『安曇野』全5巻のなかに表現された黒光を知っているだけで、自伝を読んだこともない。新宿中村屋の創業者にして、文化サロンの主宰者として芸術家たちのパトロンになった女性。近代女性のなかでは実に希有な「自己実現と実業と夫との家庭生活」を鼎立してやり遂げた人に思う。

 近代日本美術の黎明期。江戸のなごりをつなぐ南画の奥原晴湖は別格として、ロシアイコン作家の山下りん、洋画の清原ラグーザ玉などの女性芸術家が近代の揺籃から輩出した。

 近代彫刻の傑作群のなかを歩きながら、あれこれ思ったことは、「女だから」という理由で、芸術への志向をあきらめてしまわねばならなかった近代の女性たちのほうが、芸術への志向を貫き通した女性達よりもはるかに多かった、ということ。
<つづく>

ぽかぽか春庭「近代美術館散歩・日本彫刻の近代」

2009-10-26 | インポート
2009/10/26 
ぽかぽか春庭@アート散歩>近代を駆けた女性たち(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代

 駒込六義園、小石川植物園、白金の自然教育園、竹橋の近代美術館周辺は、私のお気に入りの「お散歩スポット」。四季折々に園内の散歩を楽しんでいる。
 私の好きな「建築めぐり」もセットにして歩き回る。

 自然教育園の隣の庭園美術館は、元朝香宮邸だし、白金医科研の古い校舎のまわりを歩くと、伝染病研究所時代の古い物語が浮かんでくるようなたたずまいを味わえる。
 小石川植物園には、東大現存最古の学校建築である旧東京医学校本館が、総合研究博物館分館として公開されている。

 近代美術館別館の工芸館は、元近衛師団司令部の煉瓦建築が美しいし、お堀端の水の光景もよい。
 東御苑で江戸城天守閣跡に立つのも、「殿中でござる」の松の廊下の跡をながめるのも、大奥の跡をたどるのも、楽しい歴史散歩になるし、往時の武蔵野風景を残す東御苑の木々の間を歩くのも好き。
 先月、2009年9月27日には、姑と後楽園庭園を散歩した。次は薬学研究の教え子と小石川植物園の薬草園を見たいと思っている。
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 2007年11月18日のこと。皇居東御苑と近代美術館散歩を思い立った。
 晩秋のぽかぽか陽気、小春日の一日。
 大手門から東御苑に入り、三の丸尚蔵館を見て平河門にぬけるコースを歩くことにした。

 地下鉄の駅を出ると、大手門の前を東京国際女子マラソンの選手たちが走り抜けているところに出あった。
 即席応援団になって、選手団のラストを走る女性を応援した。というか、ラストの選手が走り終えるまで交通規制で、大手門側へ渡ることができなかったので。

 びりから3番と2番の人は、苦しげに顔をゆがめて走っていたが、びりっけつの人は、にこにこして「応援ありがとう、ありがとう」と、手を振りながら走っていた。マラソンを楽しむ市民ランナーなのだろう。招待選手以外の市民ランナーは450人。
 トップランナーたちは、はるか先を走っている。優勝は、野口みずきだった。

 竹橋の近代美術館の企画展は、「日本彫刻の近代」
 高村光雲の「老猿」や息子の光太郎の「手」、荻原守衛「女」など、美術の教科書に必ず載っている彫刻作品や、日本の近代彫刻に大きな影響を与えたロダン、ブールデル、マイヨールなどの作品が展示されていた。

 荻原守衛「坑夫」朝倉文夫の「墓守」や、佐藤忠良「群馬の人」など、近代彫刻の代表作が並べられている。
 私の彫刻鑑賞は、美術鑑賞というより、「勝手な物語を作りながら、彫刻の顔をながめる」というミーハー鑑賞法。

 ラグーザの「日本婦人」の前では、「このモデルはお玉だろうなあ」と、思って、お玉がラグーザとともにすごした明治の東京やイタリアを想像する。
 ラグーザは日本滞在中に玉をモデルとした「清原玉女像」も制作している。

<つづく>

ぽかぽか春庭「アートセラピー」

2009-10-25 | インポート
2009/10/25
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(4)アート・セラピー

 草間彌生が自己の幻覚を反転させて作品を生みだしたように、ナサニエル・エアーズがロペスというよき理解者を得て音楽活動をより深くしていったように、障害の有無にかかわらず、というより障害があればこそよりいっそう深い精神性を獲得できる、ということもあるのです。
 画家ゴッホは、群発頭痛、閃輝暗点、耳鳴りなどの症状に苦しみ、これらの症状から逃れたいとアルルの精神病院に入りましたが、この入院中に描いた作品中に彼の最高傑作が多い。

 苦しかったり辛かったりする症状は取り除く方がQOLのためにはいい。でも、他者を傷つけず、自分自身がそれを認めていけるのであるならば、幻覚幻聴その他脳障害の症状も、無理矢理排除するのではなく、周囲の人がそれら症状も含めてアスペルガーやスキゾフレニアの人を受け入れることが、今求められているように思います。
 ちょっとの「はみ出し」も許さず、少しでも規格からはずれていれば「不良品」として排除してしまうような現代の日本。「多様性の必要」が叫ばれながら「自分たちとは違うもの」を排除してしまう世の中に息苦しさを感じてしまうのは、私ばかりではないように思うのですが。

 今も「鬱病」「統合失調」などの病名で休職しようとすると、病気以外のあれこれを理由にして辞職させようとする会社が少なくない。ハンセン病の人を社会から隔絶し排除しようとしたことについて、国は正式に謝罪しましたが、さまざまな病気を理由とする排除は今もなくなっていません。

 「貧と病と老いと死」、生老病死、四苦八苦は生きていく上で決してなくならない悩みなのでしょうけれど、自分自身の四苦八苦と向き合うとともに、他者の生老病死を排除しない生き方を見つけていきたいです。

 スキゾフレニアや発達障害を抱えながら、発明や科学研究の才能を発揮した人もいる。芸術家など特別な才能がある場合は、「他の人とは変わっている」ことを認めてもらえることもある。でも、平凡な人だったら、病気すなわち落伍者と烙印を押されてしまう。何か特別の才能を持たない人でないと、障害を持ちながら心豊かな人生をおくることは認めてもらえないのでしょうか。どんな障害があっても、どのような人であっても、それぞれが自分自身の人生を生きていける社会であってほしいです。

 芸術活動をスキゾフレニアやその他の脳障害、アルツハイマーや鬱症状の治療に利用する方法の研究があり、心理療法のひとつとしてアートセラピーも行われています。アート(描画、ペインティング、コラージュ、彫塑、オブジェなど)を使って様々な問題を抱えた人々の回復を助けるという方法です。

 アートのほか、音楽や詩、ダンス、サイコドラマなどを使った療法もあります。これらのクリエイティブ・セラピーCreative Arts Therapy・Expressive Therapyは1930年代からアメリカを中心にして発展してきました。ことばを使って自己表現することが不得手な人にとって自分の心の中の葛藤やトラウマなどを表現しにくい人、言語表現では堪えられないほどの精神的苦痛の解放のために効果があるそうです。

 いろいろな作業療法や表現療法アートセラピーがあることを知るにつれ、田畑を耕し手仕事で生活に必要なものを作ることが生きていくことそのものだった時代の人は、生活がセラピーであり、生活しながら癒されていたのだなあと思います。現代は機械や人工の物の中に埋もれて暮らし、自然や物作りから切り離されて生きているから「○○セラピー」が必要になるのだろうと考えてしまいます。

 私も地下鉄での通勤、パソコンをつかっての仕事など、自然や物つくりとは遠い生活が続いています。エナジー・セラピーとかスピリチュアル・カウンセリングとかの療法を受けるには、1時間1万円の治療代が相場とかで、とても薄給の非常勤講師には払えません。無料のセルフ・セラピーを心がけたいと思います。

 私の場合、書くことが心の解放です。私がこうしてよしなし事を2003年以来6年間書き続けてきたのも、私の心のためにはよいセラピーだったなあと思います。ずっと明日暮らすお金がないことを心配する生活で、ときにはなぜ私ばかりこのような貧乏暮らしをし続けなければならないのか愚痴に終始する日記であり、他の人をねたみそねみひがみやっかみの記事ばかりでしたけれど、まあ、それもセルフセラピーということで、お許しください。

<おわり>

ぽかぽか春庭「高村智恵子と草間彌生」

2009-10-24 | インポート
2009/10/24
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(4)高村智恵子と草間彌生

 智恵子は高村光太郎とは「愛情のみで結ばれている」事実婚を続けており、夫への奉仕を求める光太郎に対し「尽くす」以外に夫の愛をつなぎ止める方法はない、という生活でした。
 高村光太郎と智恵子は、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っていますが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。実家の没落という心痛める出来事と芸術活動を続けられないということに苦悩し、智恵子は追いつめられていきました。

 入院中の智恵子は切り紙細工をするようになりました。結婚生活中、油絵に取り組むことができなかった代償のように切り紙の表現を続けました。夫光太郎はひたむきに紙を切る智恵子の姿を詩にしています。今の時代の目から見れば「なぜ、発症する前に智恵子に芸術活動を許してやらなかったのだ」と糾弾したくなりますが、智恵子が入院するまでは、光太郎にとって「妻とは家事をして夫に尽くすことに幸福を見いだすものだ」という考え方をつゆほども疑ったこともなかったのでしょう。それが当然の世の中でしたから。

 統合失調症を抱えていても、それを自身の芸術として表現した女性芸術家もいます。
 たとえば、草間彌生(くさまやよい)は、幼いころからスキゾフレニアを抱えて生きてきましたが、病との闘いをキャンバスに表現することができました。

 草間彌生(くさまやよい)は、カミーユ・クローデル生誕から60年後、1929年に生まれました。幼いころから幻覚症状があり、統合失調症と診断を受けました。
 自分の周囲を斑点が取り囲むという幻覚に悩みましたが、彼女はそれをキャンバスの上に表現することで、負の症状をネガティブから「自己表現」に反転させたのです。「斑点の反転」は、1957年、草間28歳での渡米後のことです。

 草間は自分の周りに増殖する斑点を「幻覚による強迫神経症的な恐怖」ではなく、ありのままの自分の表現と転化することでアメリカ美術史上、ポップアートの先駆者として知られるようになりました。斑点とともに草間の神経を脅かす幻覚であった男根のイメージも、机や椅子、あらゆる場所を男根的なオブジェで覆うという表現により、「増殖による消失」という逆説的な宇宙空間を現出せしめることに成功しました。彼女は一躍アメリカポップアートシーンの勝利者となりました。
 草間彌生公式HP http://www.yayoi-kusama.jp/

 統合失調もアスペルガーも脳の一部が損傷することによって引き起こされる障害のひとつですが、適切な診断と治療があれば、日常生活をすごすことも、芸術活動を続けることも、不可能ではありません。何か大きなショックを受ければパニックに陥ることもありますが、その症状を忌み嫌ったり排除したりすることではないのです。

<つづく>

ぽかぽか春庭「カミーユと高村智恵子」

2009-10-23 | インポート
2009/10/23
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(3)カミーユと高村智恵子

 ロダンの弟子カミーユ・クローデルは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、師匠にして愛人であるロダンに裏切られて、1905年41歳のころ、精神のバランスを崩してしまいます。
 カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごしたのでした。

 カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまいました。
 精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、1943年、孤独のうちに亡くなりました。

 私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に多くを知らないので、勘違いな部分もあるかもしれませんが、彼女がロダンを師とせず、彫刻という表現を選ばなかったら、別の人生もあったかもしれない。ロダンと出会わなかったら、病院の庭で孤独に生きた後半生とは異なる一生もありえたかも知れない。あるいは、時代が違っていたなら、、、、でも、カミーユに言わせれば、ロダンと会い、愛し合い別れた、彫刻という表現媒体を選び、作品を残した、それこそがカミーユ自身の生だったのだとしか、言いようがないのでしょうけれど。

 明治の日本、カミーユ・クローデルと同じように、統合失調のために自分の芸術生活を貫くことができなかった女性がいます。「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。

 たとえば、高村光太郎の妻、智恵子(1886-1938年)。
 高村光太郎は「智恵子の半生」に、妻の姿を描いています。
 新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。

 妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになりました。
 光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いています。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのでしょうか。

 夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったでしょうか。

 女性が自分の芸術活動を続けるには、1,独身を通す。(山下りん。樋口一葉のように)2,金を稼げない夫と結婚して妻が稼ぎ手となる(与謝野晶子、平塚雷鳥のように)3,夫の死後、芸術活動を再開する(ラグーザ玉のように)、などの方法がありました。

 明治大正時代、結婚した女性が自分なりの歩調、自分なりの歩幅で歩いて行ける自由を持つことは難しいことでした。智恵子は芸術へ向かいたい心を押さえ込むしかありませんでした。

<つづく>

ぽかぽか春庭「カミーユ・クローデル」

2009-10-22 | インポート
2009/10/22
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(2)カミーユ・クローデル

 引きこもり生活となったグレン・グールド、演奏の録音は続けましたが、歌いながら弾くなど、完全に自分の世界に閉じこもっての演奏でした。
 演奏会拒否の演奏家として後半生を生き、1982年、50才で早世。亡くなった後もなおファンが多く、CDが売れています。
 他人との接触による感染症を恐れ、また、自分をだれかが毒殺しようと思いこんでいたと言われています。病気を恐れて多種類の薬剤を服用していたのも影響して早死にしました。

 アスペルガー症候群というのは、周囲とのコミュニケーションをとることが不得意な自閉症状のひとつですが、言語障害を持たず、特定分野に高い知能や技術を示します。他者の気持ちを推し量ることや円滑にコミュニケーションをとることができないので、学校の中でイジメにあったり職場で「変人」と扱われたりすることも多い。

 アスペルガー症候群やスキゾフレニアという脳の障害を持っていても、その他の能力をすべては失ってしまうのではありません。
 発達障害のなかでもアスペルガーやほかの自閉症状の場合、知的能力が高いために、病院へ行って診察を受けないままのケースも多い。本人も家族もアスペルガー症候群などの発達障害だとわからないままつらさを抱えて生きていくことになる。

 病名を知り、「ああ、自分が周囲となじめず、生きづらいのは、このためだったか」とわかって、生きづらさの原因を納得できるという人もいるし、「病気」のひとつと知らされて自分を病気と思いたくなくて拒否反応を起こす人の両方があります。
 病気を受け入れることのないまま生きていくより、「病気や障害を抱える自分」受け入れ適切な治療や指導を受けるほうが、QOLが向上すると私は思いますが、そうはいかない場合もあります。病名そのものを嫌って、病気を受け入れないことも多い。

 障害があっても、適切な指導を受ければ優秀な成績を生かすこともできます。たとえば発達障害のひとつ「注意欠陥多動性(ADHD:Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)」と診断された双子兄弟が東大と早大に合格した例もあります。

 昔は、統合失調への治療が適切に行われなかったため、病名を診断されるとそのまま精神病院に閉じこめられて一生をすごすこともありました。たとえば、カミーユ・クローデル。
 ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864~1943年)。すぐれた彫刻作品を残したのは、80年の人生の前半において。後半生は40年も精神病院に閉じこめられ、孤独にすごしました。

 カミーユ・クローデルは、18歳のとき、25歳年上の彫刻家に出会いました。43歳のロダンは油の乗り切った時代でした。カミーユはいさんで弟子入りします。芸術家同士の師と弟子はじきに愛人同士になります。
 ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、弟子であり愛人であり、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもありました。カミーユはやがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになりました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ナサニエル・エアーズとグレン・グールドの障害」

2009-10-21 | インポート
2009/10/21
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(番外編)障害と芸術(1)ナサニエル・エアーズとグレン・グールドの障害

 映画『路上のソリスト』に、ナサニエルが自分自身について「スキゾフレニア(統合失調症)」と書いてある書類を読んでひどく混乱するシーンがありました。アメリカでも「統合失調症」と診断されることで周囲から排撃されるということが続いてきたから、ナサニエルにとってこの病名がショックだったのでしょう。ナサニエルは幻聴や幻視に苦しみますが、発症以来ホームレス生活になり、病院へは行っていません。ナサニエルにとって、「スキゾフレニア」という病名がつくこと自体が耐え難いことでした。

 統合失調症は、まだわかっていない部分もあるけれど、脳の研究が進むにつれ、やみくもに恐れたり忌み嫌ったりする病気ではないこともわかってきました。知らないから恐い。幻聴や幻視は精神を脅かす症状ですが、それを注射やロボトミーで「排除」するのではなく、「幻聴も幻視も含めて自分自身として受け入れよう」という対処の仕方を続けている統合失調者グループホームの活動もあります。スキゾフレニアもアスペルガーも、こちらが何も知らないから、「奇妙でフツーじゃない」と思える。

 私も、「学童保育室仲間」で娘と同学年だった発達障害のかっちゃんをよく知らなかったころ、かっちゃんが恐かったことを思い出します。かっちゃんをよく知らず、行動の予測がつかなかったから恐いように思えたのです。
 かっちゃんは小学校では「なかよし学級」という障害をもつ児童のクラスに通学していましたが、学童室ではみんなといっしょに放課後をすごします。娘は家で「弟のお世話係」だったので、学童でもかっちゃんの「お世話係」のようになりました。

 かっちゃんを知れば、純粋な魂を持つ子であることがわかってきます。周囲と折り合えないことが起きたりすると、ときにパニックになったりすることもあったけれど、娘は辛抱強くかっちゃんの相手をしていました。
 今思うと、娘がかっちゃんの世話をしているように見えて、私も娘もかっちゃんから多くのことをも教えられていたのだということがわかります。ロペスがナサニエルとの交流のなかで人生の大切なことがわかってきたように。
 必要なのは「排除による美化」ではなく、分かり合うこと、共に生きること。友達としてつきあううち、必ず彼らが「恐い存在」などではないことがわかってきます。

 ナサニエル・エアーズのヒーローはベートーベンでした。ベートーベンが耳の障害を抱えて苦しみながら曲を作ったこともナサニエルがベートーベンが好きだったことの理由のひとつでしょう。ナサニエルも幻聴や幻視などの脳の障害によるの症状に苦しみました。

 このところ、私のパソコンBGMは「路上のソリスト」検索からベートーベンへのユーチューブサーフィンを続けていました。バイオリンよりもピアノ曲が好き。
 若い頃、コンサートチケットを買うお金もなくラジオのFM放送を聞くしかなかったころは、流れてくる曲をそのまま聴くだけだったけれど、今はどの曲を聴きどの演奏家を選ぶのかもお好みしだい。同じ曲をルビンシュタイン、アルゲリッチ、リヒテル、ツィンマーマン、バレンボイム、ブーニン、と次々にサーフィンして聞き比べることもできます。

 あまたのピアニストの中、やはりグレン・グールドは独特です。私がクラシックを聞くようになったころにはすでに演奏会での姿は目にすることができなくなっていたグールドですが、ユーチューブのおかげで鼻歌まじりの演奏を見ることができました。

 グレングールドは独特の演奏で知られていましたが、1964年以後、公開の場で弾くことをやめ、引きこもり生活を続けました。
 精神科医師でグールドの友人だったピーター・オストワルド氏は、グールドがアスペルガー症候群であったのではないかと考えていました。(オストワルド『グレン・グールド:天才のエクスタシーと悲劇』(W.W.Norton,1997)。

<つづく>

ぽかぽか春庭「野間記念館の近代絵画」

2009-10-20 | インポート
2009/10/20
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(9)野間記念館の近代絵画

 10月10日、江戸川橋駅を降りて、講談社野間記念館へ向かうため道路脇の看板地図を見ていたら、何人かの人から「鳩山会館はこの道でしょうかね」と尋ねられました。皆が向かうのは、今東京で一番ホットなスポットである鳩山邸。
 趣味のひとつである「近代建築探訪」のうち「昭和の洋風邸宅」として、見にいこうかとは思ってきたけれど、旧古河邸、旧岩崎邸などのジョサイア・コンドル設計のお屋敷や旧朝香宮邸(庭園美術館)などに比べると特に魅力を感じなかったのは、入館料500円がちと高いと感じるから。

 兄由起夫、弟邦夫と母(鳩山安子:ブリジストン創業者石橋正二郎の長女)の資産をあわせれば400億円以上、というミリオネア一家なのですから、鳩山会館、無料で公開したらどうでしょうか。庶民に福利厚生を行うのはミリオネアの義務です。といってみても、500円あれば、ランチ一食分にしようと思ってしまう貧民の感覚はわかってもらえないでしょうね。

 鳩山由起夫首相は、政界随一の富豪です。資産は公開されている分だけで90億円。未公開の分もあるだろうから、少なく見積もっても軽く100億円は超えているでしょう。
 架空寄付の政治資金問題が取りざたされていますが、千円500円で右往左往する私などとは金銭感覚がちがうのでしょうね。
 貧民春庭は、鳩山会館へ向かう人に「ここをまっすぐ護国寺方面へ向かう途中にありますよ」と教えて、招待券で見ることのできる野間記念館へ向かいました。

 野間記念館は、講談社ゆかりの画家の作品を中心に、近代絵画コレクションが充実しています。これまで近所の永青文庫(細川家コレクション)に来るたびについでに寄ってみようとして、そのたび、なぜか、「展示替えのため休館中」のことが多くて、一度も入ったことがなかった。
 展示点数は多くなかったですが、雑誌「キング」の表紙のために描かれた作品など、講談社ならではの絵もあり、よい絵を見ることができました。

 藤島武次の「日の出」、向井潤吉のかやぶき屋根藁屋根の農家の絵、「杏花村」「田家早春」、中村彝(なかむらつね)の自画像など、印象深い作品に出会うことができました。黒田清輝の「躑躅」、林剛の「長寿花」などの、花の絵のいろいろ。ナサニエル・エアーズが見たら大喜びしそうな、田辺至のベートーベン像。

 「近代絵画展」を見て、友人とおしゃべりという秋のゆったり時間、ミリオネアにはなれなくても、お金では買えない「心によい時間」が私にはあります。
 とはいうものの、お金で買いたいものもあるので、ミリオネアの皆さん、春庭に愛の手を。いつもの通り、寄付は四六時中受け付けています。架空名義にはしません。

 2本しか弦のないバイオリンを弾いていたホームレス音楽家ナサニエル・エアーズは、新聞記者ロペスに「何か必要なものは?」と問われて、「あと2本、弦がほしい」と答えました。
 私はといえば、「2004年の冬以来、ビニール袋で塞いでいる壁の穴に、換気扇を取り付けるお金がほしい」

 ホームセンターで2000円で買ってきた換気扇はサイズが合わず、団地仕様の換気扇は取り付け工事を頼まねばならず、工事費20000円を惜しんで、5年間も換気扇の穴をビニール袋(古本屋で本を入れてくれる袋がサイズぴったり)で塞いだままにしています。そろそろすきま風が身にしみる季節がやってきます。ホームレス予備軍として、すきま風に身を縮める準備も怠りなく進めております。敬具。
 って、誰に向かって敬具やねん。
 そりゃ、ジェイミー・フォックスとか鳩山一家とか、講談社の野間一族とか、もろもろのミリオネアに対して、寄付要請の敬具、、、、、と、いつものオチ。

<おわり>

ぽかぽか春庭「スラムの天使」

2009-10-19 | インポート
2009/10/19
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(8)スラムの天使

 今も「貧しいワーキングマザー家庭」の我が家。明日子供に持たせる給食費が捻出できなかったころころから見れば、今は「とりあえず明日食べる分はある」という生活になりましたが、来月どうなるかはわからない、という点ではスラムの住人達と同じ。明日は立ち退きを宣告されて追い出されるかもしれません。

 ムンバイでは、現在進行中でスラム取り壊し再開発が進められていますが、東京は明治時代には存在したスラムが、現在では跡形もなくなっています。横山源之助が『日本乃下層社会』に描いたスラムは、東京タワーが建つころまでは残っていました。私が初めて東京に住むようになった1970年ころも、表通りから一歩中に入ると、ごみごみした路地がそこらじゅうにありました。

 たとえば、デビ・スカルノが根本七保子として育った麻布霞町の一部は、高台の高級住宅地を見上げる窪地にあり、貧民細民が住んでいたと『デビ・スカルノ自伝』に書いてありました。(1978年ころの立ち読み)
 東京タワーが建設され、東京オリンピックの突貫工事が続き、東京のスラム街は消えました。1980年代のバブル景気で地上げが続き、街がどんどん変化していきました。今や、麻布霞町は西麻布と地名も変えて、貧乏人にはとても住めない町になっています。

 タイのスラムで貧しい子供たちの学校を運営していた「スラムの天使」プラティープ・ウンソンタムさんは、秦辰也さんと結婚後は財団を設立し、タイと日本を行き来しています。ケニアの首都ナイロビでストリートチルドレンの職業訓練のために働くボランティアもいます。

 一方、マニラのゴミ山で暮らす子供達を放っておいてイメルダ・マルコスは3000足の高級靴を買いあさりました。西麻布と名前を変えた街で、高級車を乗り回しブランド物を買いあさる人もいます。ジャカルタの貧しい子供たちは意に介さず、テレビ取材を受けて「富豪の暮らしぶり」を見せつける元大統領夫人もいる。

 元タカラジェンヌの人妻がニューヨークのレストランで働いているうち留学中の金持ちボンボンと出会い、夫を棄てて再婚し、ファーストレディにのし上がるという人生もある。ナイロビで迷子になった時、街を案内してもらった日本人を親切な人と思いこんで結婚し、一生貧乏暮らしという人生もある。

 どの人生も個人の選択であり、どういう幸福を追い求めるかは各人の自由ですが、さて、私は、2009年の10月10日、ささやかな行楽の一日をすごしました。もらった招待券で「近代絵画」展を見て、750円のいちじくマンゴーパイとコーヒーセットで友達とおしゃべりをして、映画パスポート券を使って無料で2本の映画を見て、古本屋で百円本を4冊買って、650円のラーメン食べて帰りました。映画館そばのラーメン屋の塩だれつけ麺があまりうまくなかったのをのぞけば、一日の出費交通費込み2850円で、十分充実した一日をすごすことができました。

 スラムの天使にはなれず、ミリオネアにもなれない人生だけれど、連休の一日、3000円ほどで楽しくすごせるのだから、一家の生活費は女の細腕で稼ぐしかないことに不服も言わず、夫に映画パスポートを返しました。
 10月10日、都知事は五輪誘致に使った150億円を「痛くも痒くもない」と発言しました。150億円の一部分は私の納めた税金です。150億のムダを「無駄遣い」とは感じないという金銭感覚にはほど遠い貧乏性の中に生きている私ですが、3000円の行楽、十分に楽しゅうございました。招待券で見た「近代絵画」展も、よかったし。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ムンバイのスラムドッグ」

2009-10-18 | インポート
2009/10/18
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(7)ムンバイのスラムドッグ

 『スラムドッグミリオネア』、クイズの進行に従って、ジャマールの人生が語られます。クイズの正解は、ジャマールが幼いときから働き続けた過酷な生活のなかで学び覚えた中にありました。知っていることだけが15回連続でクイズに出題されるというのは、私が宝くじに当たるのと同じくらい確率の低いことかもしれないけれど、そこは映画だからおおめに見ましょう。

 第一問は「1973年のヒット映画“Zanjeer”の主演俳優は誰?」というものでした。幼いジャマールはこのインド映画「Zanjeer」主演俳優のサインをもらったことがあるのです。大スターがスラムにやってきたとき、兄サリームに意地悪されて、板で囲っただけの簡易トイレに閉じこめられてしまったジャマール。抜け出すために下の肥だめに飛び込みました。臭い体のままスターにもらったサイン。サインは兄にとりあげられてしまったけれど、主演俳優の名を忘れたことはなかった。
 クイズの出題と正解が進むにつれて、スラムドッグ(スラム育ちの負け犬)ジャマールの生涯が明らかになります。

 ジャマールは宗教紛争のためにスラム街の家をおそわれ、母親を殺されました。残された兄と、スラムのホームレス孤児となり、ふたりで暮らしていたのですが、ある日「子供狩り」にあいます。孤児を集め、乞食として働かせる組織に捕らわれてしまったのです。組織のボスは、声のよい子の目をつぶし、実入りのよい乞食に仕立てています。「盲目で歌う」ほうが同情を買い、たくさんお金をもらえるからです。ジャマールは目をつぶされそうになったところを兄サリームの機転で逃げ出します。

 ジャマールは、いっしょに逃げようとして果たせなかった少女ラティカに再会する日を夢見て必死に生き抜き、物売り、インチキ観光ガイド、果ては置き引きなどを続けて、さまざまな知識を身に付けていきます。

 この『スラムドッグミリオネア』がアメリカで受けてアカデミー賞受賞に至るのも、ジャマールのキャラクター「純粋さ・誠実さ」と、がむしゃらに働く生き方が受け入れられたという面があるだろうと思います。ジャマールと対比的にジャマールの兄サリームは、インドギャングの裏社会に入り込み、暗黒社会でミリオネアの夢を追いかけます。しかし、、、、。

 ムンバイは再開発によって大変化をとげ、映画の中で、ジャマールが育ったスラムも跡形もなく消えて高層ビルになっていきます。成長したジャマールとサリームが建設中の高層ビルの上階で再会し、自分たちの育ったスラムが消えているのを見つめるシーン、ムンバイの活力と同時に力によって虫けらのように排除されてしまう細民がこの活力の下にかんじられるシーンです。

 ムンバイ再開発によって家が取り壊されてしまうという、その現実版が子役の身の上に起こりました。
 ヒロイン「ラティカ(Latika)」の子ども時代を演じたルビーナ・アリ(Rubina Ali)(映画公開当時9才)と主人公ジャマールの兄サリームの子ども時代を演じたアズルディン・モハメド・イスマイルは、ムンバイのスラムに住んでいたとき子役に大抜擢されました。
 二人がアメリカで映画キャンペーンやアカデミー賞授賞式を終えてインドに帰国したら、ムンバイ再開発によって、住んでいた家が取り壊されていたそうです。映画関係者によって、子役ふたりには、住む家や学費奨学金が拠出されたそうなので一安心ですが、同じように住む家を失い教育の機会もない子供達は、ムンバイに限らず、世界中にいることでしょう。

 ムンバイのスラムが高層ビルに変わっても、スラムの住人達はまた別のスラムを作っていくのでしょう。ムンバイの中心地にあるダラヴィというスラムには、2.5k平方メートルの地域に100万人の細民が住み、ゴミ処理などの仕事をつづけているといいます。タラヴィはムンバイの中心地にあるので、いずれ「美化」されてしまうのかもしれません。

 2010年は、人類の歴史始まって以来はじめて、世界の人口の半分以上が都市に住む、という居住地調査が出ています。「土から切り離された都市」に大半が住み、そのうちの何割かはスラム住まいです。子供達が貧困の中に放置されず、健康な身体と教育を保証される世界にしていく責任が、大人にあります。

 『スラムドッグミリオネア予告編』
http://www.youtube.com/watch?v=z7SntqBRM1g

<つづく>

ぽかぽか春庭「億万長者になりたいのは誰?」

2009-10-17 | インポート
2009/10/17
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(6)億万長者になりたいのは誰?

 東京にホームレスもいるし、一方ではマネーゲームで巨額の利益を得る億万長者ミリオネアもいます。早稲田大学の投資サークルOBが株価操作で株の値を不当に上げて売り抜け、40億円の利益を上げたという報道がなされたとき、出講している某私立大の日本人学生のひとりが「あくせく働くやつらはバカってことですね」と、感想を述べていました。けれど、その感じ方に「そんなこと言うな」と説教はできなかった。一攫千金を夢見て、私も年末にはジャンボ宝くじ買いたいもの。(たいてい買うお金がなくて買えないのだけれど)

 一攫千金のクイズ番組、『フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネアWho Wants to be a Millionaire? 億万長者になりたいのは誰?(日本ではクイズ・ミリオネア)」
 ムンバイ(元ボンベイ)のスラムで育った孤児が2000万ルピー(約4000万円)がかかったクイズに挑戦するというストーリーが『スラムドッグミリオネア』

 クイズ大好き一家なので「Qさまクイズ」も「ヘキサゴン」も「平成教育委員会」「タイムショック」も見ています。「高校生クイズ」などは、「各地区の予選から見たい」というクチです。
 たくさんクイズ番組を見て、難しい問題に答える回答者に「へぇ!すごいねぇ」と感心し、翌日にはその正解を忘れているので、何度でもクイズ番組を楽しめる。この夏の高校生クイズでは「飛行機での飛行に最初に成功したのはライト兄弟、では、気球飛行に最初に成功したのは何兄弟?」というのが出題され、ちゃんと答えられる高校生に感心したのだけれど、さて、何兄弟だったかはさっぱり覚えていません。
 クイズ好きだけれど、みのもんたが嫌いなので、「クイズ・ミリオネア」はあまり見ていません。

 日本のミリオネアでは最高賞金1000万円で、あまり「一夜にして長者」の雰囲気ではありませんが、インドのムンバイなら、100万ルピー(約200万円)もあれば、けっこうな広さの家を手に入れられるのですから、2000万ルピーの賞金は、一生遊んでいける金額になるでしょう。まさしく百万長者ミリオネアです。

 ジャマール(Jamal)は学校にも行けなかった「コールセンターお茶くみ係り」にすぎないけれど、幼いときから逆境の中をたくましく生き抜き、生活の中で英語も身につけて働いてきました。
 インドに多い「コールセンター」。アメリカやカナダなどの英語圏からパソコンやケータイのトラブルについての電話を、英語の通じるインドで受ける仕組み。安い人件費をウリにしている下請け会社がムンバイにもたくさんある。ムンバイの勤労者平均月収は2万~3万円です。

 ジャマールは、アルバイトのお茶くみだけれど、コール係りにたのまれて、代理で苦情電話を受けることもある。臨時で電話を受けているうち、ジャマールは皆が出たがっている「クイズミリオネア」に、出場のチャンスを得ました。

 医者や弁護士など「高等教育」を受けた出場者でも、最終問題までたどり着くことは難しいのに、正規の教育を受けたこともないお茶くみボーイが、正解できるはずがない、と、司会者も思っていました。しかし、ジャマールは14問連続で正解します。テレビの視聴者はジャマールを応援して熱狂。司会者はジャマールの不正を疑って、警察に突き出します。警察で電気ショックの拷問にかけられるなどして、ジャマールが語った彼の一代記を、クイズの進行とともに描いた映画が『スラムドッグミリオネア』です。

<つづく>