2005/02/26 (土)
ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する⑤
ラテン語のように、宗教や学術用語としてのみ残り、生活の中で話す人々がいない言語であれば、変化しない。
日本語がどんどん変化しているとしたら、それは日本語が生きていることばだから。 「日本語が乱れることなく、正統日本語が保たれる」のはどのような場合か。日本語を話す人がいなくなり、ラテン語のように、文献の中にのみ残る場合である。
言葉は社会の中で育ち変化していくものだが、個人個人には好みもあり、好きな表現、自分は使いたくない表現があって当然。
「日本語がどう変わろうと、私は振り込め詐欺もら抜き可能形も使いたくない」という人は、その人の見識と好みで個人表現を行ってよい。断固として新字体の漢字を認めず、歴史的かなづかいで文章を書くのも自由。
しかし、どんなに年輩世代が違和感を感じたとしても、未来の日本語を育てるのは、これから先日本語を使用している若い世代なのだ。
マミュアルでいくら教え込んだとしても、若い世代が実際にコミュニケーションの道具として用いる日本語が「未来の日本語」として残っていく。
言葉は常に変化する。私たちは変化の末の現代日本語を読み書き話しているのであり、だれも千年前と同じ平安時代のことばで話してはいない。百年後の人は、100年の間に変化した言葉を話すのであり、500年後には500年の間に変化したことばを話すのだ。
変化はしても、生きて使われる言語が残っていくことが大事。
新しい表現、新しい発音・文法は、どんどん生成していく。
生まれた子供は新しい母語話者として成長し、新しい話者は、新しい表現者となる。ことばは進化し、新陳代謝をはかって生きていく。
もしも、次の世代の過半数の日本語母語話者が、親として「現在の世界情勢で経済的に有利な言語となっている英語のほうが、役に立つ。子どもには英語を優先的に身につけさせたほうが、将来のビジネスで有利になり、いい暮しがさせてやれるだろう。そうだ、家の中でも英語で話して、子どもの将来に備えよう」と考えるようになれば、3代のちに、日本語母語話者はいなくなる。
そのようにして消えていった言語は世界のなかにいくらでもある。
私たちにできることは、豊かな伝統の中で受け継がれてきた、言語文化の多様な環境を残してやることのみ。
生きた言葉の生成に立ち会いつつ、私たちは豊かな言語文化を残し、子どもの心にあたえてやらなければならない。
くるくる変わる教育行政。ゆとりの時間はうまくいかず、学力低下。じゃ、今度は「国語の時間をふやす」そうだけれど、そんな場当たり的な改革で、子どもたちの言語文化環境がよくなるとは思えないのだが。
守るべきことがあるのだとしたら、言語文化全体を守り、表現の自由を守っていくことだ。心の自由も保障されない社会に「美しいことば」など存在しようもない。
一方的な価値観のおしつけや、異質なものの排除が続く社会は、病み萎縮していくのみ。言葉は硬直し、豊かな表現を失っていく。
歌をうたうも歌わぬも、自分の心で決めることができず、どのような声量で歌おうと勝手にすることもできず、「決まったことなんだから従うのが当然」「上からのお達しなんだから、反対は許されない」
そういう世の中なら、「美しい日本語」というのも、ある一定の解釈一定の価値観を含むことばしか許されなくなり、言葉狩りがはじまるだろう。
私たちがアイデンティティを保つために必要な文化の基礎として「言葉」が存在し、人と人が言葉を使って交流(コミュニケート)するために言語表現がある。
人と人との心のつながりをおろそかにする社会、一方の人々にとって都合のいい表現だけが認められるような社会であるならば、言語文化は貧弱になっていくだろう。
若い人の発言に対し「こんな言い方はひどい、こんな言葉遣いは困る」と眉をひそめるより、「心の自由を守ることが美しいことばを守ること」になる、と繰り返してきた。
「美しい響きのことばを大事にしたいなら、心の自由を規制するようなことはさせないでほしい」これだけが、私が言葉について言い続けたことの提要です。<おわり>
ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する⑤
ラテン語のように、宗教や学術用語としてのみ残り、生活の中で話す人々がいない言語であれば、変化しない。
日本語がどんどん変化しているとしたら、それは日本語が生きていることばだから。 「日本語が乱れることなく、正統日本語が保たれる」のはどのような場合か。日本語を話す人がいなくなり、ラテン語のように、文献の中にのみ残る場合である。
言葉は社会の中で育ち変化していくものだが、個人個人には好みもあり、好きな表現、自分は使いたくない表現があって当然。
「日本語がどう変わろうと、私は振り込め詐欺もら抜き可能形も使いたくない」という人は、その人の見識と好みで個人表現を行ってよい。断固として新字体の漢字を認めず、歴史的かなづかいで文章を書くのも自由。
しかし、どんなに年輩世代が違和感を感じたとしても、未来の日本語を育てるのは、これから先日本語を使用している若い世代なのだ。
マミュアルでいくら教え込んだとしても、若い世代が実際にコミュニケーションの道具として用いる日本語が「未来の日本語」として残っていく。
言葉は常に変化する。私たちは変化の末の現代日本語を読み書き話しているのであり、だれも千年前と同じ平安時代のことばで話してはいない。百年後の人は、100年の間に変化した言葉を話すのであり、500年後には500年の間に変化したことばを話すのだ。
変化はしても、生きて使われる言語が残っていくことが大事。
新しい表現、新しい発音・文法は、どんどん生成していく。
生まれた子供は新しい母語話者として成長し、新しい話者は、新しい表現者となる。ことばは進化し、新陳代謝をはかって生きていく。
もしも、次の世代の過半数の日本語母語話者が、親として「現在の世界情勢で経済的に有利な言語となっている英語のほうが、役に立つ。子どもには英語を優先的に身につけさせたほうが、将来のビジネスで有利になり、いい暮しがさせてやれるだろう。そうだ、家の中でも英語で話して、子どもの将来に備えよう」と考えるようになれば、3代のちに、日本語母語話者はいなくなる。
そのようにして消えていった言語は世界のなかにいくらでもある。
私たちにできることは、豊かな伝統の中で受け継がれてきた、言語文化の多様な環境を残してやることのみ。
生きた言葉の生成に立ち会いつつ、私たちは豊かな言語文化を残し、子どもの心にあたえてやらなければならない。
くるくる変わる教育行政。ゆとりの時間はうまくいかず、学力低下。じゃ、今度は「国語の時間をふやす」そうだけれど、そんな場当たり的な改革で、子どもたちの言語文化環境がよくなるとは思えないのだが。
守るべきことがあるのだとしたら、言語文化全体を守り、表現の自由を守っていくことだ。心の自由も保障されない社会に「美しいことば」など存在しようもない。
一方的な価値観のおしつけや、異質なものの排除が続く社会は、病み萎縮していくのみ。言葉は硬直し、豊かな表現を失っていく。
歌をうたうも歌わぬも、自分の心で決めることができず、どのような声量で歌おうと勝手にすることもできず、「決まったことなんだから従うのが当然」「上からのお達しなんだから、反対は許されない」
そういう世の中なら、「美しい日本語」というのも、ある一定の解釈一定の価値観を含むことばしか許されなくなり、言葉狩りがはじまるだろう。
私たちがアイデンティティを保つために必要な文化の基礎として「言葉」が存在し、人と人が言葉を使って交流(コミュニケート)するために言語表現がある。
人と人との心のつながりをおろそかにする社会、一方の人々にとって都合のいい表現だけが認められるような社会であるならば、言語文化は貧弱になっていくだろう。
若い人の発言に対し「こんな言い方はひどい、こんな言葉遣いは困る」と眉をひそめるより、「心の自由を守ることが美しいことばを守ること」になる、と繰り返してきた。
「美しい響きのことばを大事にしたいなら、心の自由を規制するようなことはさせないでほしい」これだけが、私が言葉について言い続けたことの提要です。<おわり>