春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「生きていることばだからこそ変化する⑤」

2005-02-26 | インポート
2005/02/26 (土)
ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する⑤

 ラテン語のように、宗教や学術用語としてのみ残り、生活の中で話す人々がいない言語であれば、変化しない。

 日本語がどんどん変化しているとしたら、それは日本語が生きていることばだから。  「日本語が乱れることなく、正統日本語が保たれる」のはどのような場合か。日本語を話す人がいなくなり、ラテン語のように、文献の中にのみ残る場合である。

 言葉は社会の中で育ち変化していくものだが、個人個人には好みもあり、好きな表現、自分は使いたくない表現があって当然。

 「日本語がどう変わろうと、私は振り込め詐欺もら抜き可能形も使いたくない」という人は、その人の見識と好みで個人表現を行ってよい。断固として新字体の漢字を認めず、歴史的かなづかいで文章を書くのも自由。

 しかし、どんなに年輩世代が違和感を感じたとしても、未来の日本語を育てるのは、これから先日本語を使用している若い世代なのだ。
 マミュアルでいくら教え込んだとしても、若い世代が実際にコミュニケーションの道具として用いる日本語が「未来の日本語」として残っていく。

 言葉は常に変化する。私たちは変化の末の現代日本語を読み書き話しているのであり、だれも千年前と同じ平安時代のことばで話してはいない。百年後の人は、100年の間に変化した言葉を話すのであり、500年後には500年の間に変化したことばを話すのだ。

 変化はしても、生きて使われる言語が残っていくことが大事。
 新しい表現、新しい発音・文法は、どんどん生成していく。

 生まれた子供は新しい母語話者として成長し、新しい話者は、新しい表現者となる。ことばは進化し、新陳代謝をはかって生きていく。

 もしも、次の世代の過半数の日本語母語話者が、親として「現在の世界情勢で経済的に有利な言語となっている英語のほうが、役に立つ。子どもには英語を優先的に身につけさせたほうが、将来のビジネスで有利になり、いい暮しがさせてやれるだろう。そうだ、家の中でも英語で話して、子どもの将来に備えよう」と考えるようになれば、3代のちに、日本語母語話者はいなくなる。
 そのようにして消えていった言語は世界のなかにいくらでもある。

 私たちにできることは、豊かな伝統の中で受け継がれてきた、言語文化の多様な環境を残してやることのみ。
 生きた言葉の生成に立ち会いつつ、私たちは豊かな言語文化を残し、子どもの心にあたえてやらなければならない。

 くるくる変わる教育行政。ゆとりの時間はうまくいかず、学力低下。じゃ、今度は「国語の時間をふやす」そうだけれど、そんな場当たり的な改革で、子どもたちの言語文化環境がよくなるとは思えないのだが。

 守るべきことがあるのだとしたら、言語文化全体を守り、表現の自由を守っていくことだ。心の自由も保障されない社会に「美しいことば」など存在しようもない。
 一方的な価値観のおしつけや、異質なものの排除が続く社会は、病み萎縮していくのみ。言葉は硬直し、豊かな表現を失っていく。

 歌をうたうも歌わぬも、自分の心で決めることができず、どのような声量で歌おうと勝手にすることもできず、「決まったことなんだから従うのが当然」「上からのお達しなんだから、反対は許されない」
 そういう世の中なら、「美しい日本語」というのも、ある一定の解釈一定の価値観を含むことばしか許されなくなり、言葉狩りがはじまるだろう。 

 私たちがアイデンティティを保つために必要な文化の基礎として「言葉」が存在し、人と人が言葉を使って交流(コミュニケート)するために言語表現がある。
 人と人との心のつながりをおろそかにする社会、一方の人々にとって都合のいい表現だけが認められるような社会であるならば、言語文化は貧弱になっていくだろう。

 若い人の発言に対し「こんな言い方はひどい、こんな言葉遣いは困る」と眉をひそめるより、「心の自由を守ることが美しいことばを守ること」になる、と繰り返してきた。
 「美しい響きのことばを大事にしたいなら、心の自由を規制するようなことはさせないでほしい」これだけが、私が言葉について言い続けたことの提要です。<おわり>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「生きていることばだからこそ変化する④」

2005-02-25 | インポート
2005/02/25(金)
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する④」

 室町時代から「じ/ぢ、ず/づ=四つ仮名」の発音が混同し、「みかづき」の「づ」も「すず」の「ず」も、同じ音に発音するようになった。
 江戸時代の人の中に「じ/ぢ」「ず/づ」の表記がごちゃまぜになったことを憂えた人もいた。発音が混同すれば、縮みを「ちじみ」と書いたり、鼓(つづみ)を「つずみ」と書く人も多くなる。

 そこで、「四つ仮名の区別を明らかにした表記」を書き残した本も出版された。『蜆縮涼鼓集(けんしゅくりょうこしゅう)』という。
 蜆(しじみ)縮(ちぢみ)涼(すずみ)鼓(つづみ)などの表記を「正しく」かき分けている。
 江戸時代には不快に感じる人もいたこの四つの仮名「じ/ぢ」「ず/づ」の混同、現代の人はだれも「づ」と「ず」の音が同じで不愉快だ、と感じていない。

 古代の日本語ではラ行音が単語の最初にくる語彙はなかった。有声音(濁音)が語頭にくる単語も少なかった。ラ行音や濁音が語頭にくる単語の響きは、美しい響きとはかんじられなかっただろう。

 私たちは古代日本語を話しているのではないから、語頭に濁音がくる語もラ行音が来る語も自由に使っている。「大事」も「薔薇」も「元気」も「響きが美しくない汚いことば」とは思わずに発音している。

 発音の変化の例。漢語を取り入れた結果、平安時代に拗音が発生した。漢語が伝わって一般化する前は、きゃきゅきょなどの拗音の発音はやまとことばにはなかった。

 たとえば「豹」という語が日本語に入ってきたとき「へう」と記述された。
 拗音の発音がやまとことばにはなく、表記の方法もなかったが、しだいに「ひょう」という拗音の発音が広まった。

 「大将たいせう」の「せう」が拗音化して表記は「たいしやう」になった。現在では「たいしょう」と表記し、実際の発音では「タイショー」。
 「銀杏(いてふ)」、現在では発音通りの「いちょう」と書く表記になっている。

 てふてふ→てうてう、が拗音化して「ちょうちょう」になった。拗音化が定着する過程での年輩者は「てふ」を「ちょう」などと言いおって、なんていうひどい発音だ、と苦々しく感じただろうが、私たちは「ちょうちょう」という発音を「美しくない響き」と感じることはない。

 日本語発音の変化のひとつ。「チョー、さみぃ」のように、形容詞終止形の母音連続(二重母音)が、赤い→あけぇ 痛い→いてぇ  重い→おめぇえ かっこいい→かっけぇー 強い→つぃぇー などのように発音される。
 私の同世代の人の中には、俗な言い方、不快な発音と感じる方もいるだろう。

 「美しい響きの日本語」「違和感を覚えない言葉づかい」というのは、「自分の世代が使ってきた日本語を基準にして、現在のところ大多数に受け入れられている表現かどうか」であって、歴史的にはどんな言葉遣いも発音も、登場の最初には「違和感のある言葉遣い」だった。

 年輩者自身が、身につけた言い方を守り、自分の語感をたいせつにして表現したいように言うのは自由だし、若者の言葉遣いに「私に対してはそういう言葉づかいをしないでほしい」と主張するのも自由。その時その時代の「自分がここちよく感じる表現方法」を使っていけばよいのだ、と何度か繰り返してきた。

 しかし、年輩世代の人が「響きが美しく、違和感のない日本語を大事にしたい」と発言するとき、往々にして「自分たちにとっては響きが美しくないと感じる言い方があり、違和感を感じる言葉遣いを聞くこともある」という含みがある。
 この違和感に対しても「日本語の乱れについて心配する必要はありません」と、繰り返してきた。

 若いウェートレスがファミレスで「あいたお皿のほう、はこばさせていただきます」と言ったとき、違和感があったとしても「生きて移り変わる過渡期の日本語」の現場に立ち会っていると思ってください。

 生きていることばは常に変化する、ということを承知していれば、「美しい響きのことば違和感のない言葉遣いを大事にする」のも、「私にとって」「私の世代にとって」のことだと納得できる。

 日本語のリズム。心臓の鼓動や歩調に合わせた1,2のリズムによって開音節のことばが続くと、七五調五七調(休止符をいれると8拍の繰り返し)ができる。日本語の音節が開音節であることが変化しないならば、このことばのリズムも継続するだろう。しかし、その他の発音や文末のいいまわしなどは、100年単位で変化していく。<つづく>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「生きていることばだからこそ変化する③」

2005-02-24 | インポート
2005/02/24(木)
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する③」

 近い将来、文語としてのみ残り、日常生活では使わなくなるかも知れないと思われる語「夕ごはん」「夕食」

 私は昼ご飯のつぎに食べる食事を「夕ご飯」「晩ご飯」と言っている。しかし、学生は「よるごはん」と言う。最初に聞いたときは、「えっと、それは夜食のことじゃなくて、夕食のほうだよね」と、確認してしまったが、若い世代を中心に「夜ごはん」が浸透中。

 夕食がおそくなり、夜10時に食べたとしても、私は「晩ご飯10時に食べた」とはいえるが、「夜ごはん10時に食べた」と言えない。「夜ごはん」という語が、私の慣れ親しんできた日本語語彙の中にはなかったので。
 「夕ご飯」より「よるごはん」「晩ご飯」が優勢になれば、「晩飯」は残っても「夕食」はすたれ、「よる飯」「晩食」が使われるだろう。

 夕方5時ころに文字通り「夕ご飯」が出されるので不評だった病院でも、今は夜暗くなってから夕食を出すようになった。夕方ではなく、夜食べるのだから夕食ではなく「よるごはん」へと言葉が変わるのは当然なのだろう。

 言葉に対する私の基本的な態度は、2004年2月3月にも記した。繰り返しになるが、以下のとおり。
 言葉は、使われている間は変化していく。その変化を受け入れたい人は受け入れればいいし、新しい言葉や用法を使いたくない人は、自分の言語感覚に従えばいい。

 新しい言葉や用法が定着するかどうかは、より若い世代に託されているのであって、「そんな言葉の使い方はない」「そんな新語はおかしい」などと、年輩世代の人が「日本語が乱れてしまう」と心配する必要はない。

 「乱れている」という見方で言うなら、文献が残されている日本語だけに限ってみても、すでに千年の間に、係り結びの法則もなくなり、活用形も変わり、変化してきたのである。上二段下二段活用の語は一段活用に。ラ行変格(ある・おる、など)、ナ行変格(死ぬなど)は五段活用に変化した。

 語彙そして発音も、変わっていく。室町までは発音しわけていた、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の発音の区別も消えた。室町末期から変化し、江戸時代には、完全に「じ/ぢ」「ず/づ」の区別がなくなった。

 (方言では、「じ」「ぢ」を発音しわけている地方もある。「か」と「くゎ」の区別も残っている)

 昔々は[papa]と発音していた「母」が、室町頃には[fafa]に変化し、いまでは[haha]と発音している。「ハハ」もまたいつか変わってしまうかもしれない。変化は続く。

 昔の人から見たら、現在の「正統的日本語」なんて、乱れっぱなしもはなはだしい言語になっている。この先も、日本語が人々に使われる限り変化し続けるだろう。<つづく>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「生きていることばだからこそ変化する①」

2005-02-23 | インポート
2005/02/23(水)
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する②」

 「あからさま」と同根の「あからしま風」、どんな風がふくか想像してください。
 語源がわかっていれば、さっと吹く風、はやて、暴風、の意味と想像できるけれど、もう「あからさま」の意味が変化しているし、わからない。

 「懇しい(あからしい)」という言葉が、現代日本語の辞書のなかに見あたらないとしても、現代人は何も不自由していない。「あわれ」の意味が変化してしまっても、特別困りはしない。

 01/29のテレビ番組「日本人は日本語を知らない」では、60%以上の人が「役不足」を「その仕事をするためには、自分の力は不足している」という意味だと思っている、と紹介されていた。

 元の意味は「自分の実力より役目が軽くて不満なこと」「自分の力を十分に発揮できるようなよい役目ではないこと」を意味したのだが、誤解のほうが半数を超えれば、こちらが定着していくだろう。

 たいていは前後の発言から推理できるので、そう混乱はないはずだが。たまに困るのは、過渡期に両方の意味が流通している場合。
 「役不足」を「役目に対して力が不足」なのか、「役目が軽すぎて不満」なのか、どちらの意味でつかっているのか、判断できないときもある。

 「このたび、PTA副会長をおおせつかりました。役不足ではありますが、これからの1年間、努めさせていただきます」などの挨拶の場合、ほとんどは、「力不足」のつもりで使っていると推測される。しかし中には「ほんとうは会長をやりたかったのに、副会長では不服」という本音をしのばせている人も、いるかもしれない。

 未来の人々は、「役不足」の意味が、元の意味の「自分の実力より役目が軽くて不満」から、最初の意味とまったく正反対の「その仕事をするためには、自分の力は不足している」という意味に変化しても、新しい意味を使いこなしていけばいいだけであって、何も不自由はしない。

 消えていくことば、新しい言い方に入れ替わることば、新しく生まれてくることば、ことばは生活と共に生々流転する。語彙も文法も。

 消えつつある、過渡期のことば。
 相撲で黒星が続いた力士の成績を「たどんが並んでいる」と言ったら、「たどんって何?」と、聞き返された。

 私たちは日常生活でもはや「炭団(たどん)」を使わなくなった。「たどんってどういう意味かわかる?」と聞いてみると、若い世代の人は、「たどん」を知らないという。「たどん」という言葉を知っていても、実際に見たことはない。

  炭の屑などを土や澱粉質で練り固めた炭団は、鎌倉時代以降広く用いられ、庶民の燃料となってきた。しかし、生活の中から消えたものの名前は、「生活語」として日常で口にすることはなくなる。辞書、百科事典や博物館に残っているのみの語となり、生きた日常用語ではなくなっていく。

 物があっても、言葉が消えることもある。
 「ぶんまわし」という道具を使ったことある人、いますか?、今は「ぶんまわし」と呼ぶのは、宮大工などの職人さんだけになっている。円を描く器具のこと。

 私が学校で円を書いたときはすでに「コンパス」と呼ばれていて、「明日の算数でコンパスを使う」ということはあっても「ぶんまわしで円を書く」とは言わなかった。
 学校では、「ぶんまわし」という呼び方を採用せず、外来語の「コンパス」を使っていたからだ。「ぶんまわし」という器具があることを知ったのは、大人になってからだった。

 物だけでなく、行事や行為がなくなれば、関連することばが消えていく。
 天秤棒に荷を下げて運んだり、駕籠に人を乗せて運ぶという行為がなくなった。すると、天秤や駕籠をかつぐのに疲れたとき、駕籠の棒を息杖(いきづえ)で支え、休むことを意味する「肩す」という動詞(サ変)は消えて、誰もこの言葉を使わなくなる。<つづく>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「生きていることばだからこそ変化する①

2005-02-22 | インポート
2005/02/22(火)
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する①」

 「動詞、形容詞の変化」「挨拶語の変化」「漢字の読み方の変化」など、言葉の変化についての話題を続けています。

まっこと、まっこと!!言葉はいつの世でも、「生きている」
つまり必要がなくなった「言葉」も「言い回し」も絶えてしまうのは、ごく自然なことなんですね・・・・。投稿者:c********** (2005 1/22 13:26)

 と、いうコメント感想のとおり、ことばは消えたり変わったり。生まれたり絶えたりして世につれ人につれていく。私たちは、なくなっていく言葉を惜しんだり、変わる言葉をなげいたりするけれど、未来のことばについては、未来の人にまかせるしかない。

 江戸から明治へ。近代にどっと新語がふえた。
 標準語や言文一致文体確立前の明治期には「行きませんかった」などの文末表現も登場し、擬古文や漢文読み下しなどの文体から新しい表現方法への模索が続いた。
 標準語や、言文一致文体が成立して百年。

 江戸時代までに消えてしまった言葉はたくさんある。現代人は日常生活でそれらの語や用法を使用せずとも不自由ないように、未来の人は、私たちが現在話していることばがどのように変化しようと、それをそのまま受け入れる。

 文字の読み方や書き方、言葉の意味内容は、言葉が生きている限り、ゆれ動き変化していく。
 「フツーに」という副詞に、若い世代が新たな意味を付け加えて使用している例を紹介した。(05/01/29)
 「私は使わない」という人、それでいいと思います。自分の語感をたいせつに。
 ただし、言葉は社会の共通財産だから、「じぶんだけのことばの使い方」で「自分だけの語感」だと、社会共通コードとはならない。現在流通している語彙、意味でないと通じなくなることは当然。「フツーにおいしい」の言い方が、定着したあと、「そのおいしさは、たいしたレベルじゃない」と判断したら、発話者の意識とずれてしまう場合もある。

 自分の語感で話すといっても、「ヨン様に心ひかれる」とというつもりで「ヨン様って、あわれねぇ」と発言したとしても、聞き手はそのように受け取ってくれない。
 平安時代の「あわれ」という言葉には含まれていた「賛嘆、賞賛の気持ち」「心ひかれる、愛情」という意味が消え去り「気の毒、みじめでかわいそう」という意味だけが残った。
 生きている言葉は、今生きて使われているようにしか機能しない。

 古語辞典には載っているが、現代では使われないことば。ことばは残っているが、意味する内容がすっかり変わってしまったものも多い。また、生活の中で使わなったものは、そのものを表わすことばも日常会話から消えてしまう。

 口語では消えてしまい、人々が話すときには使われなくなったことばの意味用法も、文章や辞典に残っていれば、ことばの歴史をひもとき、楽しむことができる。

 たとえば。「あからさま」という言葉は生き残り、私たちも使っている。
 「人の私生活をあからさまに書く記事なんて読みたくない」など。「つつみ隠さずはっきりと」「露骨に」の意味。

 しかし、「あからさま」のもともとの意味の「ちょっとの間」「さしあたって」「仮初めにも」という使い方は消えた。
 また、「あからさま」の「あから」と語根は同じと思われる「懇し(あからし)」=痛切である、ひどい、という形容詞も消えた。<つづく>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「お」と「ご」④

2005-02-19 | インポート
2005/02/19(土)
「ニッポニアニッポン語>「お」と「ご」④

 
8 女性語と「お」
8-① 子どもの遊び
 衣食に関する語のほか、子どもの遊びに関する語も、女性の話題の中に多かった。お手玉、おはじき、など女の子の遊びには「お」をつけることが多い。「おはじき」などは、「お」を分離できない単語になっていて、「お」を取った「はじき」は、俗語でピストルなどの意味になる。

 幼稚園保育園の先生は、お歌、お絵かき、おすべり台、お砂場、お遊戯、お道具箱、と「お」をつけることが多い。子ども向けにやわらかい語感を伝えたい意識がはたらくせいだろう。
 保育園幼稚園の先生の発話の中で、3音節の語なのに「お」がつかないのは、積み木→*おつみき、ぐらいだろうか。

 子どもの遊び関連語でも、4音節以上の語は、「お」がつきにくい。
 *オぶらんこ、*オすごろく、オかけっこ、*オけん玉、*オなわとび、*オかくれんぼ、*オおにごっこ、オかみしばい、など。

8-② 女学生ことば
 かっての「女学生ことば」も「お」が好まれた。
 「我が校の女子生徒にとって『おめだい』をいただくことが何よりの喜びだった」という発話で、はて「おめだい」とは何のことだろう、「おめでたい」の略か、としばらくわからなかった。
 私のボギャブラリーにはなかった語だが、ミッション系の学校や幼稚園に通った人にとっては、なじみの語らしい。

 「おめだい」は「めだいよん」に「お」をつけた省略語とわかった。金メダル銀メダルのメダルより大きい形の大メダルを「メダリヨンmedallion」といい、実際の発音ではメダイヨンに聞こえる。このメダイヨンに「お」がつき、後半を省略するという女性語の特徴で「おめだい」となった。

9-① 外来語・衣食関連の語
 女性が関わる服飾関連語、料理や食事に関する語は、丁寧接辞がつく可能性が高い。また、販売、飲食などの接客業では、お客様に対しより丁寧な言葉遣いをしたいという意識から「お」を付ける頻度が高い。「オ+外来語」も現在以上に広がるだろう。
 現在の時点で使用されている語。おソース、おビール、おジュース、おコーヒー、など
 将来は「お」がついていくと予想される語。おミルク、おメニュー、おレシピ、など。
 服飾では、ブラジャー→おブラ、おサイズ、おボタン、おカフス、おレース、など。

 グーグルから拾った「おサイズ」の用例:「あなたのおサイズに合わせてお作りします」「こちらはインポートですので日本サイズと違います。おサイズをよくお確かめ下さい」など。

9-② ポルトガル語から日本語へ入ってきて400年以上たち、外来語意識はとうに消えた「天麩羅てんぷら」は、4音節であるので、「おてんぷら」にならない。同じころポルトガル語から入った3音節の「煙草タバコ」は、接客業などでは「おタバコ」と言う。
 パンは外来語意識が消えず、「おパン」にならない。(宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の中で、母鼠が「おパン」と言っている例があるが、ねずみが緊張して間違った丁寧語を発していることを表現した賢治らしいユーモア)
 「ごはん」からの過剰適用で「ごぱん」と言う幼児がいるので、「ごぱん」が広まるかどうか。「あさごぱん食べたよ」などと、小さな子が言うのはほほえましいのだが。

10 数詞のことばと「お」
 おひとつ、おふたつはよく使われるが、おみっつ以上はあまり使われない。
 4音節の「ここのつ」が日常会話で「おここのつ」と使われる用例を見たことがない。時刻の「八つ」に「お」がついて間食の意味になった「おやつ」を食べる時間がずれたことを冗談で「おここのつ」を食べた、と表現した文章を見たくらい。

 一人→おひとり、二人→おふたり。だが、みたり以上は使われることが少ないので、「おみたり」「およたり」も使われない。
 「三人」以上は「お三方」「お四方」など、「方」には「お」がつき、「人」にはつかない。*お三名様、*お五人様など。

 3音節の語、二階→お二階、しかし五階→*お五階。
 従来の日本の一般家屋では二階までがほとんどで、「二階」はなじみの語として「おにかい」と言うが、三階以上はこれまで日常使用語彙ではなかったから、という説明で、留学生に納得してもらうしかなく、ほかに適切な説明があったら、教えてもらいたい。

11 個人差地方差
 外来語に「お」つけることは、原則ではしないことになっているが、接客上丁寧な言い方を求められる場では「おソース」と聞くことが多い。しかし、家庭の食卓で「ソースとって」と言うか「おソースこっちにまわして」と言っているかなどについては、個人差があるだろう。

 また、和語や漢語を丁寧に言う場合も、地方によって個人によって差がある。私の育った家でも、学校の友達との会話でも、髪のことを「おかみ」と言っていた。「おかみを櫛でとかす」「今日のお髪、三つ編みがかわいいね」などと会話して、それが普通だと思っていた。
 東京に来て、この言い方を方言だと笑われた。「髪に『お』をつけるのはまちがっている。『お』をつけるなら『おぐし』という」と注意された。

 標準的な言い方では家庭内の照明に対し「玄関のおあかり消して」という表現を、日常生活やテレビドラマの中などで聞くことはなかったし、『楽しいひな祭り』の歌でも「明かりをつけましょぼんぼりに」だが、神仏の前にともす場合は「仏壇のお明かり」と言う。(a******さんのコメントでもこの点への指摘をいただいた)

 畳も、ある家では「お畳のへりをふまないで」と言うだろうし、江戸時代には「お畳奉行」という役職もあった。畳に「お」をつけないというのも、あくまで、標準的な会話にでるかどうかという程度で判断し、全国的な使用頻度をチェックをしたものではない。

 鋏についても、華道の教室などでは「お鋏」という例があるし、大相撲の断髪式で「お鋏をちょうだいする」という言い方がある。このあたりから、一般化して日常会話でも「ちょっと、この封筒あけるから、おハサミ貸して」と、事務所で言うように広まっていくのかもしれない。

 以上、「お」と「ご」をつける場合の原則を並べてみた。1~5に書いたことは、日本語学の本、語彙論の本に載っている原則に基づき、私が拾った用例をあてはめながらまとめたもの。
 2-③の「お」が「ご」に変わっていくだろうという部分と、6~11に書いたことは、筆者の覚え書きであるので、これから検証していかなければならない。

 昔は、全国的な言語使用調査は、大がかりで費用も時間もかかった。言語学者が地方のインフォーマント(調査対象者)に一語一語聞き取り調査などをして、まとめていった。
 松本修著『全国アホ・バカ分布考』は、テレビというメディアを利用した言語分布調査で、ケンカしたとき「アホ」というか「バカ」というかの全国的な分布をまとめている。日本方言学会でも認められ、メディアを利用した画期的な調査だった。

 「お」と「ご」の用い方、どの語につけてどの語にはつけない、という調査も、テレビやインターネットを利用して全国的な調査ができるのではないかと思う。どなたか、やってみてほしい。<「お」と「ご」終わり>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「お」と「ご」③

2005-02-18 | インポート
2005/02/18(金)
「ニッポニアニッポン語>「お」と「ご」③

4 日常語として外来語意識が少なくなっている語に、「お」をつける。人により、許容範囲がことなる。
 おトイレ、おビール、おジュース、おソース、おリボン、など

5 敬意の劣化
 丁寧にするために「お」や「ご」をつけたのに、長い間に敬意が薄れてしまったと思われるとき、よりいっそうの「美化の接辞」を付け足していく語もある。
例) 付け→お付け→みお付け→おみお付け、足→み足→おみ足、 馳走→ごちそう→おごちそう(おごっつぉう)

6 丁寧意識を持って話すときでも、「お」や「ご」をつけることになじまない語もある。(*=そういう言い方をしない)

6-① 丁寧意識をもって発話する場合も「お」「ご」をつけない日常生活上の使用語彙。
例)*お紙、*お箱、*お帯、*おハサミ、*おホウキ、*おあかり、*お盥(たらい)、*お畳、*お床の間、など。、

6-② 自然現象、動植物など
例)*お雨、*お雪、*お雷、*お虹、*お蛇、*お猫、*お鳥、*お卵、*お紅葉、*お桜、*お苺、*お西瓜、*お牛蒡(ごぼう)*おほうれん草、*おトウモロコシ
例外)お日さま、お月さま、お星さま、お狐さま、お犬さま、お猿さん、お蚕さま、など、かって神仏などに関わると意識されていた語、大事なものに敬意や親しみをこめて呼ぶとき

6-③ 公共物、人工物など
例)*御駅、*御会議室、*御地図、*御絵本、*御腕時計、*御自動車、*御炊飯器、など。

6-④ 日常生活になじんだ外来語でも、4音節以上の長い語は、「お」「ご」をつけにくい。また、(6)の③にある人工物に「お」がつかないのと同じく、日常語としてなじんだ3音節の語でも、人工物には「お」がつかない。*おミシン、*おラジオ、*おテレビなど。

7 音節数と「お」
7-① 日本語は、4音節が安定して発音しやすい。日常会話で2音節3音節の語は、安定した発音にするために「お」がつきやすい。
 「つまみ」は「おつまみ」になるが、元々4音節の複合語「突き出し」は「*おつきだし」にはなりにくい。「さしみ」は「おさしみ」になるが。「かまぼこ」は「*おかまぼこ」とならない。

7-② 複合語や多音節(4音節以上)の語に「お」をつけると、後半を省略することが多い。おにぎり、おかきなど、後半を省略した語、最初は女性語として広まったものが一般化した。
例) 太鼓帯→おたいこ、じゃがいも→おじゃが、さつまいも→おさつ、田楽(でんがく)→おでん、いたずら→おいた、かき餅→おかき、握り飯→おにぎり、冷や水→おひや、など

 省略できない語や複合語には、「お」はつきにくい。
例)*お手袋、*お靴下、*おこうもり傘、など

7-③ 複合語の中でも、「お」「ご」をつけられる語と、つけられない語がある。
 「お飲み物」は言えるが、「お食べ物」は一般には使われていない。
 「飲み物」が指し示す種類の範囲が限定された中から選ぶ場合に「お飲み物はいかがですか」と言えるが、「食べ物」の種類を限定して示す用法がなく「*お食べ物、何がお好きですか」は、言えない。「お召し上がり物」になると、言う人もいる。
 「お読み物」「「お探し物」OK。
<つづく>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「お」と「ご」②

2005-02-17 | インポート
2005/02/17(木)
「ニッポニアニッポン語>「お」と「ご」②

v*********さんのコメントから
『ご』は濁音ですから語感の響きが強すぎるのもあるでしょうね。(*^_^*)
『お』の方がやわらかく響きますから受け入れやすいでしょうね。投稿者:v********* (2005 2/17 0:35)

と、v*********さんのコメントにもあるように、「ご」は固い語感、「お」をつけたほうが、やわらかく響く。
 日常語彙としてふだんの生活に使われるようになると、お食事、お洋服のように、漢語でも「お」をつけるようになり、固い語感がやわらぐ。

 「ご」をつけた漢語は公的な場での発言で多く使われ、「お」は、室町時代の宮中の女房ことばに代表されるように、女性が丁寧な言葉遣いをしたい場合に多用された。
 女性が「お」を多用するのは、この女房ことばあたりから。平安時代には「女性語」「女性特有の表現」は少ない。

a*****さんのコメントから
 「お受験」なんて使うので、妙に内容まで捻じ曲がってる様な気がします。女性は、何でも「お」をつけたがる、のは昔から? 投稿者:a***** (2005 2/17 0:20)

 接頭辞「お」や接尾辞「もじ」をつける「女房ことば」の流れで、女性に関わる語や女性による発話が多い語には「お」がつきやすい。

 打楽器の太鼓、最近は女性の打ち手も増えたが、従来は男性が打ち手になることが多かった。太鼓に関して、「おたいこを打つ」などと言う人は少ない。
 「お太鼓」というと、「太鼓の形の帯び結び」の「お太鼓帯」の略になる。食べ物や衣服に関して「お」がつきやすく、後半を省略するのが女性語の特徴のひとつ。太鼓帯→おたいこ、握り飯→おにぎり、など。

 「お受験」は、「受験」とは異なる用い方のことば。
 司法試験の受験とか、一般の大学受験などでは、受験に「お」はつけない。今のところ、「名門校と世間がいう私立幼稚園や小学校」の受験に際して使われている。

 「寿司のにぎり」と「おにぎり」、もとは同じ握り飯であったのに、現代社会では、寿司屋で「おにぎり一人前」と言うと、「うちは握り飯だしてないよ。にぎりかちらしだけ」と言われてしまう。「にぎり」と「おにぎり」が意味内容を異にする語であるのと同じく、「受験」と「お受験」は、意味内容がちがっていると考えられる。

 「リサイクルカー」から流れる「お利用ありがとう」を聞いて、「ご利用」よりやわらかく言いたい意識があったのかなあと思う。
私としては「お」と「ご」も時代の流れにまかせていてよいと思っている。

 国語審議会や国語研究所が「国語の乱れを正すため、オをつける語とゴをつける語を審議して定める」と乗り出してくるかも知れない。

 でも、私は「ゴとオ」でも「外来語の言い換え」でも「敬語の使い方」でも、お上に決めてもらわずにすませたいのだが。
 (お上による漢字使用制限である常用漢字表の見直しがはじまるらしい。ネットでの活字の制限はもはや有名無実だから)

 原則総覧:丁寧・美化の接頭辞「お」と「ご」
1 
1-①もともとは丁寧の接頭辞「お」「ご」を付け加えた語として成立したが、今は全体でひとつの語になっていて、切り離すことはできない単語がある。
 例)ごはん、おかず、おなか、おかげ(様)、おまけ、おやつ、おふくろ、おにぎり、ごちそう(御馳走)

1-②接頭辞と切り離すことができるが、日常使用語彙としては、「お」「ご」をつけずに言うことは少ない語。
 例)お湯、お茶、お宅(相手の家や人を指す場合)、お盆(物を載せる道具)、おすそわけ、など
 
2 
2-①「話題にしている人や聞き手に関わる物、行為、状態」に対して、話し手が敬意をしめして、丁寧にいう。
2-②話し手や話し手の関係者の物、行為、状態が、聞き手や話題になっている目上の人(敬意を表わすべき人)に向けられている場合、丁寧にいう。
 原則として、和語には「お」漢語には「ご」をつける。

「お」の例)お便り、お話、お心、お力、お力添え、お住まい、お時間、お買物、お帰り、お楽しみ、おきれい、お若い、お一人様、お勘定、お礼、お祝い、お知らせ、おたずね、おさわがせ、おたわむれ、おふざけ、おん社(御社)
「ご」の例)ご家族、ご心配、ご意見、ご住所、ご職業、ご招待、ご理解、ご協力、ご質問、ご希望、ご到着、ご利用、ご着席、ご都合、ご伝言、ご来店、ご丁寧、ご無事、など

2-③ 2-②の接頭辞「ご」は、しだいに「お」に変わる可能性がある。「お住所、承ります」「どうぞ、お着席ください」「おつごう、よろしいでしょうか」など。


3-①話題にしている人や聞き手へ直接の敬意を向けない場合でも、話し手がていねいなことば遣いをしたいと意識するとき、ほとんどの語に「お」「ご」をつけて言うことができる。原則として和語には「お」漢語には「ご」
例)お水、お金、お酒、お皿、お鍋、お粉、お花、おネギ、お茄子、お部屋、お机、お車、お宝、お使い、おぐし(御髪)、ご本、など

3-②日常語として漢語意識がなくなっている語は、漢字熟語でも「お」になる。
例)お経、お食事、お洋服、お電話、お写真、お財布、お野菜、お蜜柑、お紅茶、お砂糖、お弁当、お赤飯、お約束、お勉強、お掃除、お洗濯、お役所、お教室、お玄関、など
<つづく>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「お」と「ご」

2005-02-16 | インポート
2005/02/16(水)
ニッポニアニッポン語>「お」と「ご」①

 レストランなどでアルバイトをしている留学生からよく質問されるのが、名詞をていねいに言うときの「お」と「ご」。
 名詞の美化語(ていねい語)に「お」をつけるか「ご」をつけるか、つけないか、の使い分けについて。

 「おふたり様、お二階へご案内!」はよくて、「お五人様、お三階へご案内」と言ってはダメ、の理由は何ですか、と留学生は疑問に思う。
 「一番テーブル、おちょうし二本、おビール一本」のときは文句言わなかったのに、「食後の、おコーヒーお持ちしましょうか」とたずねると「オネーサン、コーヒーに『お』つけちゃダメだよ」とさんざん「正しい日本語」について客から説教され、留学生は「いっしょうけんめい日本語勉強しようと思っているけど、タイヘンです」と、しょげている。

 原則:和語(本来のやまとことば)には「お」漢語・漢字熟語には「ご」をつける。
 ただし、慣用化している熟語には「お」でもよい。「お電話」「お誕生日」「お礼状」「お食事」など。(原則総覧は、明日掲載)
 外来語には原則として「お」をつけない。

 「お」と「ご」が、両方使われている語(ゆれている語)「ご相伴/お相伴」「ご入り用/お入り用」「ご返事/お返事」は、主として話し言葉では「お」書き言葉では「ご」が多い。「ご葬儀/お葬儀」「ご立派/お立派」は、現在ではまだ「ご」が多いが、「お」を使う人が増えつつある。

 ジュース、ビールなどに「お」をつけることについて、『問題な日本語』の北原保雄は
  「まだ一般化していない。使いすぎると品位を失う」
と書いている。
 そうは言っても、現実社会の飲食業界では「おビール」は一般的。「お醤油」に対する「おソース」もよく聞く。

 私の見解。「お」の優勢は一般化していく。熟語であっても外来語であっても「お」をつけておけば「ソッコーていねい語へんし~ん」と感じる若者が増えていく限り、「お」が優勢になる傾向は止まらないだろう。

 漢字熟語でも、「お記入ください」「お注文は?」「お連絡まっています」などへ移り変わっていくことが予想される。
 漢語の丁寧語は「ゴ」とする、というのを確認したとして、「お電話」「お食事」と言っているものを、いまさら「ゴ電話」「ゴ食事」と「正しい言い方」に言い換える人がいないのなら、「お注文」「お心配」が増えても文句は言えない。 

 また、耳になじみ外来語意識がなくなった語を用いて、丁寧な言葉遣いをしたいという意識が生まれたとき、「おボタン、はずれていますよ」「おジュースいかが」「おメニューどうぞ」「おメールありがとう」、となっていく。

 「おメール、だなんて、耳障りな」と、感じる方もいるに違いない。
 でも「♪待っててね、まっててね、おリボンつけて来るからね」という童謡は耳になじんだ。「りぼん」は外来語だが、日本語的発音になって外来語意識も薄れ、ひらがな表記も多く見られる。
 客から「おトイレお借りしたいのですが」と申し込まれて、「トイレは元々、外来語のトイレットじゃないか、外来語にに『お』をつけるなんて、非常識な」と感じないのだったら、「おメニューあります?」とレストランで耳にしているうちになれるだろう。

 今日、雨の中歩いていると、「壊れた家電製品ひきとります。テレビは映らなくてもけっこうです。ラジカセCDコンポ鳴らなくてもけっこうです。毎度お利用ありがとうございます」と、車のスピーカーから流れてきた。
 「お利用」、私の耳にはまだ慣れていないので、えっと思ったが、リサイクル引き取り車は雨の中「毎度お利用ありがとう」を繰り返しながらゆっくりと走って去った。<続く>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語 対象をしめす「が」と「を」

2005-02-15 | インポート
2005/02/15(火)
ニッポニアニッポン語>対象をしめす「が」と「を」

 私は、省略語や新語、流行語のチェックも言葉を教える教師の「職業訓練」のひとつとして続けており、新しい表現を耳にしたとき、いつも「おもしろ~い」と思って受けとめるのだが、自分が使うとなると、なじんだ古い言い回しのほうを口にするほうが多い。

 たとえば、「明日のサッカー試合が見たい」「明日のサッカー試合を見たい」、あなたはどっち?
 私は、まだ「が」を使っているが、若い世代には「を」が広がっている。
 
 動詞に「~たい」をつけた欲求希望の表現で、助詞の変化が起きている。

 これまでの規範的日本語では、「水が飲みたい」「テレビが見たい」というように、「~たい」という表現で欲求を表わすとき、対象を示すことばにつく助詞は「が」だった。

 しかし、この「が」が、「を」に変わりつつある。「水を飲みたい」「テレビを見たい」というように、助詞が「を」になる表現は、新聞雑誌などの文章中でもよく見るようになった。
 探し出せば、「ほら、明治の文豪でも対象語にヲをつかっている」という用例がみつかるだろう。

 「きく」と「きける」と「きこえる」の使い分けは、留学生にとって戸惑うことのひとつで、助詞もまちがいやすい。今のところ、日本語教科書では「~を聞く」「~が聞ける」「~が聞こえる」と、教えている。

 「みえる、きこえる」を使った文で、「音楽をきこえる」「富士山をみえる」と、留学生が作文に書いたら、誤用として赤ペンで添削を入れる。

 教科書に従うなら、①「生演奏の音楽を聴く」②「品質のよいスピーカーで生に近い音がきける」③「どこからともなく音楽がきこえる」となる。
 ①は「を」、③は「が」、こちらは今のところ問題ない。しかし、現実社会の会話で②の可能形表現は、ゆれがある。②は「音がきける」「音をきける」、両方が使われている。

  「~たい」の文を練習するとき、留学生には「が」の方を教えている。
 しかし、「母が作った料理を食べたい」のように複文になった場合は、「母の作った料理が食べたい」と共に、「を/が」どちらも許容としている。

 「昔、友達といっしょによく食べにいった、なつかしいあの料理 を/が 食べたい」は、「を/が」どちらも許容できるとして、「おいしい料理が食べたい」「おいしい料理を食べたい」などになると、さてどうしたものかと悩み、「肉が食べたい」「肉を食べたい」、ここまで許容してよいものやら、と困ってしまう。
 現実社会では、留学生がいっしょに食事をすることの多い若い世代の日本人の間で、「肉を食べたい」と言う人が確実に増えている。

 私の方針としては。
 書き言葉はできるだけ規範に準ずる。レポート中にひとつでも「自分が気に入らない新語や新用法」が書かれていると不可にする大教授も現実にいるのだから、留学生だから大目に見てもらえるなどと甘えてはいられない。

 留学生の作文での、生き生きとした生活描写部分では「いまどきの言い方」を許容しつつ、レポート・論文をこれから書こうとしている学生には「この言い方は、まだ正式な書き言葉では使えない」と、教えている。

 論文の書き方練習では、「だんだん多くなる→しだいに多くなる」「ぜんぜん~ない→まったく~ない」「もっと多く→より多く」などの言い換えドリルもある。

 話しことばの場合、公式な会議などでは、書き言葉に準じて話す。
 友達との会話では、若い世代に流行している言い方をとりいれてもかまわない、というごくあたりさわりのないやり方をとっている。

 2005/02/11に出した「かぶる」。
 若い世代同士の会話の中や作文のセリフ描写でも、認めよう。

 書き言葉で、レポートや論文に「かぶる」が出てきたとき、どうするか。論文なら「重複する、かさなる」と訂正せざるを得ない。
 新語や新用法を目の敵にして、ひとつでもレポート中に「ら抜き」その他の新用法があったら、容赦なく不可にする先生の目に「かぶる」など「逆鱗!」かも。

 日常生活では使えても、論文中では使えない語がたくさんあることを伝えるのも、作文指導のひとつなのだが、現在の書き言葉はやっと百年の歴史しかもっていない表現方法。話しことばの変化スピードには追いつかないけれど、書き言葉の変化も少しずつ現れる。

 発表論文中に「ら抜き」の受け身形「見れる」「でれる」がいつ現れるか、「本を読みたい」がいつ出現か、ウォッチング。

 書き言葉もしだいに変化して行くであろうことは念頭にいれておかないと。<おわり>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「新語新用法の生成

2005-02-12 | インポート
2005/02/12 (土)
ニッポニアニッポン語>新語・新用法の生成

 子どもは、赤ん坊のときから周囲のことばを耳にし、しだいに母語を獲得していく。子どもの「ことば獲得過程」を観察するのは、本当に面白い。
 大人のいうことをそっくり真似したり、同じように言っているつもりで間違えたり。

 やわらかい→やらわかい、エレベーター→エベレーターのような発音しにくい語の言い間違いのほか、過剰適用と呼ばれるまちがいがよく起こる。
 ことばに規則があることを発見した子どもが、見つけ出した規則を過剰に適用していくのだ。

a****さんの投稿
 『まだ就学前のこと。夏の夕方、浴衣に下駄を履いて、両親と姉と散歩に出た帰り道、劣化したコンクリート舗装の道でつまずいて転んだことがあります。『大丈夫?』と声をかけられて何と答えてよいかわからず『だいじょばん(・・ばない』と答えました。皆大笑いでした。爪先と膝を打って痛かったので、とっさのことに「形容詞+否定語」を発したのでした。
「ちがくない」「きれーくない」を見ていて思い出しました。。。 投稿者:a**** (2005 2/10 0:50)

 この投稿に書かれているように、子どもは母語獲得の過程でことばの規則を発見し、さまざまに応用していく。
 行く→いかん、食べる→たべん、という否定の表現を覚えたら、さっそく応用する。
 だいじょぶ→だいじょばん(だいじょぶない)
 子どもの「だいじょばん」に、周りの大人たちは大笑いし、子どもは「だいじょばん」と言ったのでは間違いらしいと気づく。そして、周囲の人々は「だいじょうぶではない」「だいじょうぶじゃない」という言い方をしていることを学ぶ。
 
 しかし、ある程度のまとまった層が「たいじょばん」とか「たいじょぶくない」と皆で表現し出したとき、変化が起こる。
 だいじょうぶナ(ナ形容詞、国文法の形容動詞)をイ形容詞として、「だいじょぶイ、だいじょぶくない」という言い方をする人たちがでてきているし、チョキの形の指2本、Vマークとともに「だいじょV」というのもある。

 発音の変化や文法規則の変化は、あっという間に広まっていく。たいていは、「言いやすいほう」「簡単なほう」へと変わっていく。また、「既成の規則を他の語にも応用する」ほうへ向かう。

 たとえば、赤→赤い、青→青いという規則を、昔の人は、黄色→きいろい、茶色→ちゃいろい、と過剰に適用した。その結果、現在、ちゃいろい、きいろいは、形容詞として成立している。「まっしろ」「まっくろ」に対する「まっきいろ」もある。

 さらに、子どもは、緑→みどりい、紫→むらさきい、と応用する。
 留学生から「青は青いになるのに、紫はなぜ紫いと言ってはいけないのか」という質問が出たとき「今は、まだ名詞の紫だけ。形容詞の紫いはありません。紫いセーターと言わずに、紫のセーターといってください」と、答えている。

 しかし、「黄色→きいろい」が成立したあと、「紫→むらさきい」が、誤用とされる根拠は、今のところ「紫い」は、成立していない、というだけであって、皆がつかえば、成立する。
 「みどりい」「むらさきい」は、現在のところ認められていないのであって、将来は色彩形容詞として定着すると思う。
 外来語にも適用されて、ぴんくい、オレンジい、まで出現するかどうか、ウォッチング。

 色彩語として、ピンクのかわりに桃色、オレンジのかわりに橙色を使用する人は、若い世代にはほとんどいない。ぴんく、おれんじを外来語意識を感じない幼児のうちから使用している。

 「正しい日本語」とは、「現在広く使われ、共同体の精神的基盤・共通財産として理解しあえる表現」「現在のところ、大多数の人に不快な感情を与えずに伝達できる表現」にすぎない。

 「まっか」に対する「まっぴんく」を不快とは思わず、当然の表現として使う層が広がれば、「まっぴんく」が成立する。
 「むらさきい」「だいじょV」なんて、変!と、現在のところ感じる人がいても、将来の変化を憤ることはできない。<おわり>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語『かなり気がかりな日本語』と、かぶった

2005-02-11 | インポート
2005/02/11(金)
「ニッポニアニッポン語>「かなり気がかりな日本語」と、かぶった

 今週は「『問題な日本語』と、かぶった」部分について、ツッコミいれてみた。

 『かなり気がかりな日本語』の著者は、「かぶる」はテレビ業界などでつかわれた業界用語であるとして、学生が「かぶる」という語を使用するのは好ましくない、と憤慨している。
 学生が、芸能界の業界用語などを無批判にまねて使用する、悪い見本の例としてあげている語のひとつが「かぶる」なのだ。

 「かぶる」は①上から覆って、重なるようにする②液状粉状のものを上から浴びる③我が身に引き受ける
 などが本義であって、①の「覆って重なる」から、④「先行のものと同じになって重なる」が派生し、テレビ業界などで、企画や発言が先行のものと重複した場合をいうようになった。

 『かなり気がかり~』の著者は、このような用語を学生がとりいれて、授業発表のさいに「前の人と、発表内容がかぶっちゃうんですけど、私の意見では~」などと発言することに、不快感をしめしている。

 誤読も言葉の意味の新用法も、「不快だ」と思う方は、自分では使わないのは当然のこととして、若者世代同士の会議などで「前の人とかぶるんですがあ」と耳にした場合、どうするか。
 「許容する」「黙って眉をひそめる」「そんな日本語は正しくないと表明する」どれにするのか。あなたの考え次第。お気持ちしだい。
 「私はそういう言い方は、好みませんで」と、言うのも、「先行世代」の特権。

 許容範囲が広すぎて顰蹙を買うこともある私は、「かぶるOK!」
 「前の人と発言がかさなるんですけれど」と言い出した人の気持ちと、「前の人とかぶるんですけど」と言う人の気持ちはちがうからだ。

 「重なる」には、前後の部分の評価に差はない。「前の人と発言が重なる」と発言した場合、単純に同じ意見を出していることの断りを言っている。
 「かぶる」は、オリジナリティ、独自性を高く評価することが重要な局面、たとえば、テレビ番組の企画や、バラエティ番組トーク番組の発言などで、使われだした。
 「先行のものに対して後発のものが重なる場合、オリジナリティがないとみなされ、評価が低くなる」という意識が強い。

 学生が「前の人とかぶる」と、発言した場合「先行の発言と同内容のことを発表する」ということに対するエクスキューズが含まれている。
 前の人と同じ内容を言うことになって、自分自身のオリジナリティが減少したことを認めた発言なのだ。

 単に「重複する」「重なる」と、いうのと、異なる使い方をしているのだから、学生をはじめとする若い世代がこの語を使うことには、それなりの言語意識が含まれている。

 「かぶる」が、「業界用語」から普及した語であるとしても、「業界用語を無批判にまねする」と非難するより、新しい表現の語として認めたいと感じるのだが。<『かなり気がかりな日本語』と、かぶった 終わり>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語『問題な日本語』と、かぶった③

2005-02-10 | インポート
2005/02/10(木)
「ニッポニアニッポン語>『問題な日本語』と、かぶった③」

 「名誉挽回」は、一度失われた名誉を挽回するのだから正しいが、「汚名挽回」は、汚れた名前を再び挽回して取り戻すことになり、よけい汚れてしまうから、間違い、という「正しい日本語」説について。

 『問題な日本語』のコラムでは「挽回」は、巻返しを図るという意味もあるから、「衰勢挽回」「劣勢挽回」「不名誉を挽回する」も、みな正しい。従って「汚名挽回」だって、「正しい日本語」として認める、という判断。

 『問題な日本語』の編集責任者である北原保雄が「判定者」として出演したクイズ形式のテレビバラエティ「みんなのモンダイ!日本人は日本語を知らない」(TBS 2005/01/29)の冒頭、北原が登場する前の「事前の練習問題」に出題されたのは、この「汚名挽回」だった。

 番組ではこれを「名誉挽回は○だが、汚名挽回は×。汚名返上が正しい」という、一般の「正しい日本語」説を採用していた。

 北原保雄が番組全体を監修したのではないから仕方がないとはいえ、『問題な日本語』に書かれたことを否定している部分が放映されたあと、北原先生が登場したことになる。

 北原先生を番組に呼ぶなら、制作スタッフは、『問題な日本語』を全編読み通して、書かれていることを理解した上で内容構成をしたらいいのに、と思うけれど、テレビ制作って関連本読むヒマなんかないくらい忙しい仕事なんでしょうね。

 『問題な日本語』は、全体としてこれまでの「正しい日本語」本に比べて、「いまどきの日本語」に理解を示す度合いが強い。
 ただし、どれを許容と認めるか、という判断について、『問題な日本語』は、「過去に用例があるかどうか」が、基準になっていることが多い。
 たとえば、「全然いい」という言い方が、許容範囲かどうか。

 「全然」は否定語と結ぶ副詞であって、書き言葉では「ぜんぜんダメでした」はよいが「ぜんぜんうまいですよ」は、俗な用法である。というのが、従来の「規範日本語」の考え方。

 しかし、『問題な日本語』は、明治時代以降、肯定文にも全然が使われている例として漱石や芥川の小説を例示する。漱石芥川など、著名な作家、学者の文章に用例があればOK。「すごいおいしい」のたぐいも、漱石、鏡花、曾野綾子に用例があるからよしとする、というのが『問題な日本語』の判定。

 大家の用例がないと、
  『「っていうか」は子どもっぽい、教養がない、という印象を聞き手に与えるおそれがあります。』
と、容赦がない。

 私の世代では、庄司薫、橋本治、村上龍などが積極的に口語を文体にとりいれてきたし、最近の若い書き手は、若者言葉、俗語表現をどんどん「地の文」に採用している。

 「問題な日本語」のように、「評価が定まった著名な文学作品に用例があるかどうか」を基準にするのなら、町田康、舞城王太郎ら、口語体小説の評価がさだまれば、現在使われている俗語表現は、ほとんどが許容範囲に入るだろう。

 チョーすげぇおもろい日本語、じゃんじゃん使ってもオニ平チャラっつうか、全然いい、みたいな。
 きしょいヒョーゲンだろうと、いっこ上のセンパイがなにげに話してるのを聞いてれば、ワタシ的にはマジOK。オヤとかに「このにほんごチガくて」なんて、ウザイこと言われたくないしい。
 でもさあ、こないだ、2こ下のやつにタメグチきかれて、これってドーヨ。こうゆーのは、怒らさせていただきます。
 未来ニホンゴについて、以上のほうでよろしかったでしょうか。オゆっくりお読みになられてくださいネー。

 と、私は言えませんけど、『枕草子』の中でことばの乱れをなげいている清少納言からみたら、現在の私の言葉遣いは、上の「チョ~すげぇ」より、すごいことになっているんでしょうね。
 ですから、お宅さまも、「チョーすげぇ日本語」に出会っても、お嘆きあるな。

「お宅さま」と入れ替えてお好みの言い方を入れてください。
「そちら様、あなた(貴方、彼方、貴女)、あんた、きみ、おまえ、貴様、お(ん)どれ、おぬし、ユー、わい、そち、そなた、そこもと、そのほう、うぬ、なんじ(汝)、なれ(汝)、ネーカノジョォ(カレシィ)、(お)てまえさま、わりゃー、ジブン、そっち」
<『問題な日本語』とかぶった おわり>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語『問題な日本語』と、かぶった②

2005-02-09 | インポート
2005/02/09(水)
「ニッポニアニッポン語>『問題な日本語』と、かぶった②」

 『問題な日本語』のほうは、「いまどきの日本語」が、なぜこのような言い方になるのか解説したあと、それを誤用とするか、「まあ許容範囲とするか」で、これまで出版された類書とずいぶん温度差がある。
 従来の「『正しい日本語』本」業界のなかで、『問題な日本語』は、もっとも「許容範囲が広い」のだ。たぶん、だからこそベストセラーになっただろう。

 「こんにちわ」については、私も、『問題な日本語』も、ほぼ同意見。
 といっても、説明の部分は『問題な日本語』の解説も私の解説も、日本語史や文法に沿った部分は同じになってしまうのは、当然のこと。
 「今日は」という挨拶が「こんにちはお日よりもよく~うんぬん」という長い挨拶の冒頭の部分だけが「あいさつ語」として定着した、という日本語史の事実の部分は、だれが書いても大きく異なることはない。

 『問題な~』と、意見が少々異なる部分。
 私は「現在の表記基準では『こんにちは』が規範的な書き方だが、留学生が『こんにちわ』と書くことを認めている。すでに『は』に助詞の機能がないから」と書いた。(2005/01/19)

 『問題な日本語』も、「は→わ」について、
  『今はまだ誤用とされるが、「こんちわ」「ちわ」では「わ」が一般的になっており「こんにちわ」が正しいと認められる日は近い』
と、述べている。

 現代仮名遣いの「こんにちは」を規範としつつ、「こんにちわ」容認の日近しとみなしているのだ。
 「規範の仮名遣い遵守」から、「こんにちは」の「は」に、助詞の機能はない、という現実の言語意識追認へ、一歩近づいてきている。

 「違う」の形容詞化についても、『問題な日本語』と意見一致。「ちがくない、ちがくて」の出現に対して、「違う」が形容詞的な内容をもつ状態動詞だから、と考える点では同様だ。
 しかし、「形容詞型終止形:ちがい」がまだ出現していないから、現段階では、「違い」を形容詞とは認めない、というのが『問題な日本語』の結論。

 「その答えは、ちがいます」「その答えは、間違いです」と平行して「その答えは、ちがぃいです」という言い方は、まだ出現していない。
 それでも、私は、「ちがくない」「ちがくて」のほうは、「動詞の誤用」ではなく、「すでに形容詞化している」とみなす。形容詞「ちがい」「ちがぃい」は、潜在していると、考えている。

 そして現在、「同じだ」というナ形容詞(国文法の形容動詞)が、「おなじい」というイ形容詞優勢になっていくだろうという点については、「問題な~」は、
  『現在は「おなじい」が使われるのはまれ』
 と述べるにとどまり、これからの使用については言及していない。

 私は、終止形もイ形容詞「おなじい」が使用されるようになるだろうと予測している。いったんは「ナ形容詞(形容動詞)同じだ」に圧倒された形容詞「おなじい」が復活するのだ。
 連用中止形。形容詞型「Aと同じく、Bは~」形容動詞型「Aと同じで、Bは~」が、平行して使われてきた
 終止形は「AはBと同じだ」という形容動詞型が現代では多く使われており、「AはBと同じい」という言い方は、古めかしい文章の中でしか見ない。

 「おなじくない、おなじいです おなじければ」と「おなじじゃない おなじです おなじならば」が、平行して使用される時期を経て、これからは、イ形容詞「おなじい」が優勢になっていくだろうという予想をしている。

 「きれぇくない きれぃいです きれぇければ」という「きれいだ→きれぃい」という「きれい」のイ形容詞化は、進行中。

 「ほとんどのナ形容詞(形容動詞)が、しだいにイ形容詞化していく」という予想は、近未来予測ではあたらないかもしれないが、日本語変化の来し方行く末を見続けた場合、長期的予想においては的中すると思うのだが。
 
 ファッションでも、ものの考え方でも、時代の半歩先を歩くことが「ウレセン」のコツ。二、三歩前へ出てしまうと、出る杭が打たれるだけで、おしまい。
 「ちがくて」も「おなじい」も「こんにちわ」もオールOKだと、ちょっと先走りすぎ、ヒンシュク買うだけで、売れはしない。<つづく>

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語『問題な日本語』と、かぶった①

2005-02-08 | インポート
2005/02/08(火)
「ニッポニアニッポン語>『問題な日本語』と、かぶった①」

 正月に問いかけを受けた、日本語教師として「あけおめ」をどう思うか、という質問に答えるつもりで「ドーモの変遷」から書き起こしてきた。
 コメントをいただいた中からまた話がふくらんで「ニッポニアニッポン語」が続いている。挨拶ことば、動詞形容詞の変化、誤読から慣用読みへ、などを気ままに書き散らしている。

まるで『トリビアの泉』のよう☆「へ~!」を連発してます・・・ 投稿者:c********* (2005 1/27 17:0)
 なんて言われると、知ったかぶり大好きの春庭、ついつい余計な話もしてしまいます。
 もっと続けようとして、ちょっと待て。

 去年、上級クラスの作文の時間に、いつもの調子で日本語の話をしていたら、留学生から「あ、それ先週トリビアの泉できいた!」と、うれしそうに言われてしまった。
 なんてこった。先々週の授業で話しておけば、「すご~い!先生が話してくれたこと、トリビアでもやっていた」と、予言者のごとく学生のソンケーのまなざしを集められたのに、テレビが先にやってしまったのなら、まるで「テレビで見たことをそのまましゃべっている二番煎じのアホ教師」に見えるではないか。

 「まるで『トリビアの泉』のよう☆」というコメントを読んで、こりゃしまった、読まずにすませようと思ったベストセラー『問題な日本語』を読んだ方がいい、と思うようになった。
 話がかぶったら、「『問題な日本語』に書いてあったことを、春庭が二番煎じで書いているよ、ばかみたい」と思われるは必定。

 翌日1/28の仕事帰りに本屋へよって、買ってきました『問題な日本語』
 ふぅ、ベストセラーになってしまったあと買うのは、ちょっと気恥ずかしい。『日本語練習帳』も、買おうと思ってもたもたしていたらベストセラーになってしまったので、結局読んだのは、売れてから数年後になった。

 日本語に関する本は毎年たくさん出版される。2003年に出版された野口恵子『かなり気がかりな日本語』(集英社新書)は、日本語教師の著作なので、出版されてすぐに購入した。

 しかし、読み出して、私の言語感覚とかなり違うと感じ、途中で読むのをやめ、ツン読にしてしまった。今回「問題な日本語」と比較しながら読むという方法をとって読むと、とても面白く読めた。

 著者野口さんは、私と同じ世代。大学で「留学生への日本語教育」「日本人学生への日本語教育論」を担当しているということも、私と同じ。学生ことば用例や留学生の誤用などに共通する経験がある。 

 ただし、野口先生は「このようなまちがった日本語は困る」という意見が多く、全体として「学生に正しい日本語を教えたい」という意欲が強い。
 「変化し続け、変化の末に定着したものが、その時その時代の日本語」という「流れモノ主義」の私に対して、野口先生は「正統派日本語教師」の方なのだ。

 出版以来、「問題な日本語」ほどのヒット作にはならなかったのは、「規範日本語」への意識のちがいのように感じた。<続く>