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春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

ニーハオ春庭「寧遠州城の戦い」

2009-06-29 | インポート
2009/06/29
ニーハオ春庭>中国世界遺産の旅3ひょっこりひょうたん島旅行(7)寧遠州城の戦い

 興城(寧遠州城)は中国東北部と北京を結ぶ遼西回廊の中部に位置し、回廊が一番狭まった所に位置しています。
 明代、寧遠州城は、山海関の外郭で辺境を守る重要な城でした。薊遼督師の袁崇煥が城壁を築いて紅夷砲(ポルトガル製の大砲)を据え付け、後金(のちの清朝)の攻撃に備えました。1626年1月、袁崇煥は、攻め寄せてきた女真族のヌルハチ率いる13万の軍を破り(寧遠城の戦い)、明を守りました。城壁に紅夷砲を並べ、新兵器によって勇猛な女真族の攻撃から興城を守ったのです。ヌルハチはこの時に紅夷砲の砲撃を受けた傷がもとで盛京(現在の瀋陽市)に戻って間もなく死亡しました。

 翌、1627年、ヌルハチ(愛新覚羅・努爾哈赤)の後を次いだ太宗ホンタイジがこの城を攻め、袁崇煥は同じくよく戦って女真族が明の領土内に入ることを防ぎました。ホンタイジ(表記は皇太子・皇太極・黄台吉など)も重傷を負った結果、彼は名将袁崇煥とまともに戦ったのでは明の本拠地に乗り込むことは不可能だとさとりました。で、どうしたか。

 明の宦官を買収し「実は、将軍袁崇煥は、ホンタイジと通じ合っていて、ホンタイジは明を破ったあとに、彼を将軍として厚遇する約束があるのだ」という偽の情報を皇帝に聞かせました。この偽情報を信じた、時の皇帝は、袁崇煥を捕らえて処刑してしまいました。信ずべき人を信じず、信ずべきでない情報を信じたむくいとして、明は袁崇煥の死後滅亡してしまいました。

 袁崇煥は、35歳で科挙に合格して進士になった努力型の秀才で、三国時代の名軍師諸葛孔明にも匹敵するとされる名将でした。戦死なら悔いなく死ぬ気であったでしょうに、味方のはずの皇帝に捕らえられて処刑されたのでは、さぞ浮かばれない思いで亡くなったなったことでしょう。

 袁崇煥を謀略によって葬ったホンタイジは、味方であった兄弟・従兄弟たちも謀略で陥れ、ヌルハチの後継者としてトップに立ちました。1636年、ホンタイジは元王朝の子孫であるモンゴル族から玉璽を手に入れました。(偽物の玉璽だったという説もある)満州族・漢族・モンゴル族の三族から推戴を受けて「後金の王」から中国全土の皇帝となりました。

 しかし、ホンタイジは袁崇煥が守っていない寧遠州城を打ち破ったものの、山海関城や九門口城の鉄壁の守りを超えられず、明の征伐を果たせぬまま1643年に急死しました。
 山海関の守りは固かったのですが、山海関の守将であった呉三桂は、袁崇煥を処刑するような明に幻滅し、清に味方しました。ようやく山海関を超えた満州族(女真族から改称)は、1644年に北京に入城し、清王朝は、20世紀まで360年間中国全土を支配します。

 清王朝3代目の順治帝は、漢文化や仏教を好み、清朝文化の基礎を築きました。順治帝のあと、その息子の4代康熙帝は名君として知られ、清朝支配を固めました。漢字文化にとって康煕帝が編纂を命じた『康熙字典』、は、今なお漢字辞典の規範とされています。

 なお、明の将でありながら清に味方した呉三桂はその功績を認められ、王族に準じられて南方の王となっていましたが、専横が目立ったため、康煕帝に滅ぼされました。
 袁崇煥の子孫は、「敵ながらあっぱれであった将軍」の係累として清の軍に迎えられ、その子孫は1900年の義和団事件の後、満州を併合しようとしたロシアと戦うなど、軍人の一族として命脈を保ちました。

 袁崇煥が興城の城壁に並べてヌルハチ軍を打ち破った大砲は、今なお城壁に残されています。
 
<つづく>

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