【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

雅歌8章

2017年01月31日 05時23分15秒 | 雅歌
8章前半は、7章後半の女の告白の続きとなる。つまり、お互いの仲たがいで始まった第四部は(5:2-8:4)、二人の抱擁で終わる形を取っている。興味深いことに、全体の構造は、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目覚めたいと思うときまでは」という繰り返しで終わる部分(第一部2:7,第二部3:5、第四部8:4)と愛の成就を確認することばで終わる部分(第三部5:1、第五部8:14)があることだ。また第四部の終わり方は、ヘブル語本文では、同じ構文を取りながら、イムという副詞がマーという疑問代名詞に代わっている部分がある。「どうして揺り起こしたり、かき立てたりするのですか」という意味で、愛はすでに成就している、というわけである。となれば、第三部を起点に、二人の愛は成就し、それを確認するがごとくストーリーは進んでいる、ということになるだろう。
8章後半は、難しい。第三部(3:6-5:1)がそうであったように、この第五部も、「荒野から上ってくるひとはだれでしょう」ということばから始まり、二人の愛の成就で終わっている。そして、互いの愛について三つのことを確認する内容となっている。
第一に、愛は所有であるということである。「封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください」心に深く刻み込んで、決して私を手放すことがないように、ということだろう。愛はあなたのお気に召すままにとは言わない。絶対的に自分のものであることを互いに主張しあうのである。
また愛は、不可逆である。「愛は、死のように強く、ねたみはよみのように激しい」(6節)。イエスは、教会について触れて、それはハデスの門も打ち勝つことができない、と語ったことがある。ハデスの門、つまり死というのは一度人を飲み込んだら、決してこれを手放さない。人は死んであの世に渡ってしまえば、もう二度とこの世に戻ってくることはない。死の門は、それほど堅く、一度起こった変化を取り戻すことはない。愛も同様に一方通行であり、一度生じたその感情を消すことは不可能である。
だから最後に愛は、滅びることがない。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません」(7節)。愛は、決して絶えることはないし、冷え切ることもない。結局消されて、消えてしまう愛は、まがい物だったのである。
こうした愛の描写は、「あなたの神、主はねたむ神である」(出エジプト20:5)を思い起こさせる。神の愛は、ねたみの激しさに例えられる。神は、私たちを愛されるが、その愛は、絶対的であり、不可逆的であり、不滅である。問題は、そのような愛を持ちえない私たちが、神の愛を同じようなものと考えてしまうことだ。しかし、イエスが十字架で示してくださった愛は、期待を裏切ることもなく、滅びることもない。そんな確かな神の愛にこそ、身を委ねて歩みたい。
7節で雅歌の本体は終わる。8-10節は、種々の解釈があるが、ヒロインの兄弟たちが自分の妹について語っている部分とされ、11-13節は花嫁、14は花婿の応答となる。



雅歌7章

2017年01月30日 05時25分18秒 | 出エジプト記
関係を回復した夫が妻に語り掛ける。1-5節は、愛する者の、女に対する賛辞というべきか。夫の視線が足から順に上へと動き、女性の美しさを歌いあげている。4章や6章の賛辞と比べて明らかに違う点は、女性の服をまとわない美しさが歌われていることだろう。夫婦であればこその賛辞でもある。夫婦は互いの裸を恥じなくてもよいし、二人だけの楽しみもある、というわけだ。バテ・ラビムの門、ヘシュボンの池、レバノンのやぐら、カルメル山、現代の日本人には、イメージのわきにくいたとえもあるが、それは単に外観を称賛しているのみならず、内側の品性をも讃えているようだ。確かに、愛を交わしあう夫婦の関係であれば、外見だけではなく、内面的なことも認めあえるものだろう。人にはわかりにくいよさを認めるのも、連れ合いの特権である。
「ああ、慰めに満ちた愛よ」(6節)。愛に使われているヘブル語は、アハバー。旧約学者スネイスは、この単語によって表現される愛を「選びの愛」と呼び、ヘセドの愛(契約の愛)と区別した。アハバーは、非合理的、感情的な愛、ヘセドは理性的、意思的な愛で、結婚の契約に対する「誠実」さや「忠誠」さを特徴とする愛である。「選りすぐり」決定した相手であっても、ただ感情的に大好きであるという非合理的な愛だけでは、その関係は長くは続かない。ことに結婚においては、契約の相手に対しては、どこまでも誠実を守るヘセドの愛が、お互いの間に維持されない限り、そのきずなは破綻しやすいものである。しかし、ヘセドの愛だけということもありえない。6節で語られている愛は、アハバー、慰めに満ちたは、それが喜びに満ちた、ということであり、甘美な時を意味する。関係の回復された夫婦には、甘美な時もあるのだ。
10節からは妻の応答である。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う」(10節)。このことばは2章6節、6章3節にも繰り返されて来た。妻は相手の愛を確認し、さらに、自ら夫を誘っている。妻が自ら積極的に夫の愛を受け入れ、夫に愛をささげよう、と語っている。愛される者が愛する者に変わっていく部分である。愛は互いに確認し、互いをささげあう。愛は互いを征服し、互いを自分のものとする。「恋なすび」は、いも科に属し、紫色の花を咲かせる植物である。すももの実に似た果実をつけ、不妊症に効果があると言われる。5月、つまり春に咲く花である。命に満ちた春は、愛を語るにふさわしい時なのかもしれない。
ともあれ、愛は、一方通行ではない。相互に求め合い、満たし合う。神の私たちに対する愛も同じである。私たちは神に満たされることだけを考えていることがしばしばである。神に対する愛を示すよりも、神の愛を執拗に求めるだけであったりする。私は、私の愛する方のもの「私の愛をあなたにささげましょう」(12節)という私たちから神に向かって行く愛が問題なのである。既にみて来たように、神の愛は、私たちに対して盲目であり、裏切らず、不合理ですらある。そんな神に対して「私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです」(13節)と私たちからささげていく愛が問われているのである。


雅歌6章

2017年01月29日 05時21分56秒 | 雅歌
シュラムの女は、夜の町に出かけ、愛する者を捜した。そんな女の一途さに、エルサレムの女たちが「一緒に捜しましょう」(1節)と申し出ている。一体どこへ行ったのか。シュラムの女が答えている「私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました」愛する者が行く、行き先は知っている。きっと自分の庭だろう、という。
これは、5章の続きで、夢を思い出していると考えるのがよいのだろう。夫が自分の家に近づいた時に、それを拒絶したことに、良心の痛みを覚えながら思い出している場面である。自分の我儘ぶりに対する反省である。
いささかへこんだ思いになっている女に対して、4節から、夫の応答がある。それは、4:1-3の繰り返しのようでもあり、女の美しさをたたえている。ティルツァは、ヤラベアム1世からオムリまで約50年北王国イスラエルの首都とされた場所である。水量が豊富で果樹園や庭園の多い、美しい町であったという。またエルサレムも力と美しさの象徴である。「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」(4節)、新改訳も新共同訳も一致して同じように訳すが意味不明である。直訳は、「旗をかざしたように」であり「軍勢」は不要である。分脈からすれば女が見るも美しく飾られていることを意味するのだろう。ティルツアもエルサレムも同じように取り上げられる部分からすれば、この雅歌が執筆されたのは、やはり分裂王国時代前のことなのだろう。「王妃は60人、そばめは80人」(8節)。ソロモンならではの、しかもソロモンの初期の治世を背景としていることばのようにも思える。
ともあれ、夫は、女の冷たい仕打ちを赦しているのである。愛は実に不合理である、と思わされるところではないだろうか。
 11節からは女の応答となっている。⒓節、「私は民の高貴な人の車に乗せられていました」夫が、女のわがままを受け入れていることに、女は喜びを抑えきれない。実際に車に乗った、というのではなく、そのように感じている、ということなのだろう。こうした流れからすれば、先の5章での議論は、2人説に絞られてくる。6章は、ソロモンとシェラムの女との対話と理解されるのである。
ともあれ、6章の大きな筋書きを押さえるとそうなるのだが、この章で教えられるところは、やはり、愛は不合理なものである、ということではないだろうか。愛は、見返りを期待しない。愛は、計算づくめではない。愛は理性的な対応を超えたものである。
神が私たちを愛することも同じである。神が人の罪を赦され、受け入れるというのは、あれやこれや小さな罪を一つ一つ数え上げて、赦しましょう、ということではない。もはや、過去も現在も未来もひっくるめて、私たちを丸ごと受け入れてくださった、ということだ。人の想像を超えて文句なしに受け入れてくださった神の愛に思い至らなければ、真の解放もありえない。一々自分の失敗や罪、愚かさや不足を覚えてくよくよすることになる。神の深い愛に気付かせていただく一日であろう。

雅歌5章

2017年01月28日 05時39分28秒 | 出エジプト記
2節から、第四部に入る。ここで、いささか文脈が複雑になる。登場人物は、2人なのか、それとも3人なのか。ソロモンと羊飼いは同一人物なのか。それとも別人なのか。2人説を取るならば、雅歌はソロモンとシュラムの女の恋愛詩となり、そこに合唱隊としての「エルサレムの娘」が加わっている、と考える。他方3人説と取るならば、シュラムの女と彼女を愛する者つまり羊飼いの恋愛劇にソロモンと合唱隊が加わっている、と考える。
 しかし、2人説、3人説いずれも成立し難い問題がある。というのは、ソロモンを羊飼いと同一視すること自体が難しい。また、別人として考えた場合も、シュラムの女と羊飼いの愛を、ソロモンが富と快楽によって誘惑し引き裂いて奪おうとしている筋書きになり、それは、何も無い羊飼いとの愛を貫き通すという純愛的なストーリーはあっても、ソロモンを悪役にしてしまう難しさがある。結局いずれがよいかは、決着をつけにくいのであるが、リビングバイブルでは2人説の立場を取っているようだ。
 ともあれ、5章を結婚後のことを書いているとすれば、花嫁が一連の夢を見ていると解釈するのがよいのだろう。つまり夫婦間によく起こりうるすれ違いを夢で描いている、というわけだ。妻は待たされている(2節)。仕事が遅かったのかもしれない。婚約時代は、遠くから通ってきたのに、今は放っておかれている、そんな気持ちで待っていると、戸を叩く音がする(2節)。しかし女は、ふて腐れて、面倒なことはしたくない、と冷たい態度を取るのである(3節)。ただ、女は自分のそんな意固地な態度が、関係を冷やしてしまうことに気づいて、心「立ち騒ぎ」(4節)、夫を入れようと戸を開けようとする。しかし、タイミングが合わない。夫は、自分が呼んだ時に、開けてくれなかった、と立ち去ってしまうのである。女は慌てて夫を追って夜の町へと飛び出し彷徨い、夜回りに見つけられ、怪しい者とされ打ち叩かれてしまうのである。後悔する女の心が明かされている。
 9節。エルサレムの娘たちが応答する。「あなたの夫は、他の男性よりも何がすぐれているのか」愛に病んでいるとまで、苦しみ追い求める夫に、何のすぐれたところがあるのか、という。女の答えは、10節からになる。どうも外見が良い、と語っているようであるが、告白する「あの方のすべてがいとしい」(16節)、と。人を愛するというのは、こういうものなのだろう。あばたもえくぼ、と言われるが、何もかも全てが良く感じられる。神が私たちをその様に見ておられるとしたらどうだろうか。愛される値打ちなど何一つないと感じている、この自分を、神が「あなたのすべてがいとしい」と見てくださっているとしたら。自分をそのように愛してくれる人などいない、そう思わされることもあるかもしれない。というのも、人の愛は移ろいやすいからだ。一生のつもりで付き合ったのだが、そうであなかった、あるいは、そういうつもりで結婚したのに破れてしまった、ということはあることだろう。しかし、神は裏切らない。「あなたのすべてがいとしい」と愛してくださる神は、口先だけではない。神は永遠の愛を持って、人を愛してくださる、その神の愛に安らぐことを覚えたいものである。

雅歌4章

2017年01月27日 05時34分34秒 | 雅歌
 バッハのカンタータBWV140 「目覚めよ、とわれらに声がよびかける」は良く知られている。雅歌を中心に聖書の様々な表象を用いているので、結婚カンタータの性格を持つとされている。もちろんバッハは、雅歌を世俗的な結婚を言祝ぐものとしてではなく、イエスと私たちとの関係を歌う、霊的なものと理解したと言われるが、興味深いことは、バッハがそこで雅歌の終末論的性格を意識していたことである。
4章は、婚礼に際して、花婿が花嫁に捧げた歌である。1節、男は言う。「わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ」(1節)目を鳩になぞらえるのは、女性の清さを感じている(1節)、ことなのだろう。やぎは、黒い動物である。ギルアデの山から下りてくるやぎの群れのよう。黒くつやつやした髪の表現なのかもしれない(1節)。雌羊の群れになぞらえられる白い歯の輝き(2節)、そして赤い唇(3節)。女性の外見の美しさを賛嘆しているが、いささか、文化の違いだろうか、ピンと来ないものがあるのも事実だ。頬をざくろの片割れとたとえる(3節)。ざくろの真っ赤な表面が女の美しさを表すたとえなのだろう。首を兵器庫、やぐら?とたとえるのは理解しがたい(4節)。しかし、恐らく首を飾る宝石類が、やぐらの壁にかけられた戦利品を思い起こさせたのであり、男性から見れば称賛に値する姿というわけだ。「あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」(7節)いわゆる主観的な感想なのだろうが、完璧な女性である。
 8節、男は女を招いている。女性をたった一目みただけで、自分の心は虜にされたと告白する(9節)。愛は心を支配し、振り回す。神が人を愛することも同じなのである。神は、人を愛していると言うが、神もまた理性を失うほどに人を愛している。事実イエスの十字架はそれを物語っている。イエスは、自分のいのちと引き換えに、人を罪の滅びの中から買い戻された。しかも、善良な者、優れた才能のある者、偉大な業績を達成した者のためでもない。むしろ、不敬虔な者、罪人、弱い者、敵対する者のためである。そこに神の愛の盲目ぶりが明らかである。ただ単に神はあわれみ深いというだけではなく、罪人に振り回されるほどに愛されたのである。ルカ15章の放蕩息子のたとえも、ある意味で理性を欠いた主観的な愛に陥った父親の愛を伝えている。雅歌のような一種官能的な恋愛詩が聖書に収められているのは、神の愛のそのような理解させ、私たちの幸いを深く覚えさせるためなのであろう。
16節、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け」これまで「揺り起こしたり、かき立てたりしないで」(2:7、3:5)と語られていたが、もはや愛をかき立てるその時が来たという。続く5章の1節までが結婚式の客と仲間が、二人の結婚を喜び、新郎新婦に祝福の言葉を述べている部分である。雅歌を素材にカンタータを作ったバッハは、その終末論的な性格を意識していた。確かに私たちが神の愛に十全に応えるのは、天に帰った時になる。神の愛を確かに覚えながら、神の愛に心開き、神に従う歩みをする者でありたい。