人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

マラキ書4章

2014年07月07日 06時14分36秒 | 小預言書
 3章に続いて、主の日の預言となっている。段落としては、3:13から、神のさばきを主題として語っている。その日、神に仕える者とそうでないものが明確に区別される(3:18)。大切なのは、神に仕える者のイメージである。それは、「主を恐れる者、主のあわれみを受けた者である。」(3:16-17)人格的に立派な者というわけではない。神の業を熱心に行った者というわけではない。主の前に遜り、主の恵みを素直に受けた者である。だから神に仕えない者というのは、逆に、神を信じて何の得があろうか、と神を侮り、高ぶる者(3:14-15)である。
4章は、区別された者たちの宿命が描かれる。高ぶる者、神を認めず、神に仕えなかった者には、その日は焼き尽くす巨大なかまどとなって到来する。2節「しかし」これは大いなる、しかしである。主の名を恐れ、悔い改め、主に仕える者に対しては、「義の太陽が上り、いやしがある」という。牛舎から太陽の光へと解き放たれた子牛が飛び跳ねるように、それは、喜びの日となる。また、逆転勝利の日である。「悪者どもを踏みつけて」決定的な勝利者となる時である(3節)。
これはいつ起こるのだろう。終末の時とも言えるが、今の時もそうなのだ、と理解したい。というのも、キリスト者の勝利は、彼岸の勝利ではなく、今の人生における勝利であることに間違いはないからだ(ローマ8:35-37)。淡い期待を抱いて信仰生活をするのではなく、確信をもって信仰の歩みをさせていただきたいものだ。
4節からは、最後の結びの勧めとなる。マラキがこの書を書いたのは、だいたいBC460-430年頃、ハガイとゼカリヤが神殿を再建するように民を激励してから80年後のことである。バビロンから帰還した時の最初の信仰と熱意は冷め、宗教的には冷たくなり、道徳的にもたるんでいた時代。約束された繁栄も実現していなかった。人々は預言者たちが大ボラを吹いたのではないか、あるいは、自分たちの神は、期待するほどの力もないと考えるようになったのだろう。宗教的な荒廃ムードの中で、マラキは、旧約聖書最後の預言者として、また宗教改革者として現れる。志気を失い、神を信じても無駄、と懐疑的になっている民に、再び、神の使者として神のことばを告げるために現れた。
その第一は、モーセの律法を記憶せよ、である。明らかに神を恐れる者に語られている。み言葉を励ましとし、記憶に留め、み言葉に支えられて生きよ、という。神は無力なのではない。「見よ。わたしは、主の大いなる日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(5節)400年後の預言者、バプテスマのヨハネの出現を預言している。彼は、約束のメシヤへの道備えをする者である。明らかにイエスの到来を預言している。旧約聖書の最後のことばは、「のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」である。神を認めず、不信仰になり続けるならば、そこにはのろいがもたらされることだろう。しかしそれは神の本意ではない。神は、のろいでこの地を打ち滅ぼすことは考えておられない。むしろ、地を祝福しようとされている。その新しい時が来ようとしている。待ち望めというわけである。第二サイクルが終わる。明日から第三サイクル、新約が楽しみとなる終わり方である。

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マラキ書3章

2014年07月06日 05時57分32秒 | 小預言書
 1、2章は、当時のユダに対する裁きのことばが綴られた。彼らは「さばきの神はどこにいるのか」と神に対する信仰を失い、目に見えぬ神の存在など、意に介せずにいた。しかし神は確かにおられるのである。「わたしは、わたしの使者を遣わす」(1節)という。具体的に、2000年前に遣わされたバプテスマのヨハネを指している。彼は、イエスのために道備えをした(マタイ11:10)。つまり、突然やってこられる「主」「契約の使者」は、イエスに他ならない。実際イエスは、突然神殿に現れ、その宮を聖められた(マタイ21:1213)。大事なことはイエスの来臨は、滅ぼすための裁きの日ではなく、精錬するための裁きの日である。つまりご自分の子らをきよめ、純粋にするための裁きの日である。彼は、祭司職をきよめ(3節)、罪人をおさばきになる(5節)。バプテスマのヨハネが語ったように、キリストは「聖霊と火のバプテスマ」により、「ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられる」お方である(マタイ3:11,12)。
 実際、聖書は、ペンテコステの際に、「多くの祭司たちが次々に信仰に入った」(使徒6:7)と語り、またエルサレムに悔い改めが起こったことを記録している(使徒2章)。まさに、メシヤの来臨を預言する箇所であるといえるだろう。
 さて、神は、そのように、滅ぼす者ではなく、きよめられるお方として私たちに近づくのであるとすれば、私たちは、どう応答すればよいのか。7節から、神の勧めが明確に語られる。第一に、まずは礼拝を正すことである。「十分の一と奉納物」とあるように、神にささげる最も象徴的な礼拝をきっちりと正していく、ということではないだろうか。神への不忠実さは、まさに、礼拝に対する不忠実さであり、奉納への不忠実さである。収穫などの十分の一を神にささげる、という習慣は古くからなされていたものであるが、神に帰すべきものとしてお返しされるべきものが返されない、そういう現実があるだろう。神のものを盗んでいると見なされるようであってはいけない(9節)。むしろ、「わたしをためしてみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(10節)と語られる主に真実にささげようではないか。
また、第二に、自分の利益のために神に仕えることから脱皮することである(14節)。信仰の確かさは、順境の日にはわからない。逆境の日になり、試練にさらされる時に、どんな言葉を発し、どんな振る舞いをするか、それによってその人の信仰の真価が明らかにされる。私の試練は厳しいのだ、信仰を失うのも当然だ、不信仰に胡坐をかくような人間は、結局、真に神に仕えることを学んでこなかった人である。不信仰のぬかるみに足をとらわれる時に、私たちは、情けないことに、悪者をうらやむ者にすらなってしまう。神に仕えることがばかばかしくなるのであるし、どうにでもなれとすら思ってしまう。しかしそうしたアマチュアな信仰から抜け出さなくてはならない。神のあわれみは真実であり、望みえない時にこそ望みを得る、成熟した信仰へと至らなくてはならない。
「あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる」(18節)識別の目を持ち、霊的な成熟へと向かわせていただこう。

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マラキ書2章

2014年07月05日 06時16分33秒 | 小預言書
 1章は、祭司に対する告発であったが、この2章は祭司に対する裁きの宣告から始まる。祭司職の主要な目的は「主の名に栄光を帰す」ことにある。今日私たちも万人祭司と呼ばれるが、私たちの主要な人生の目的は、「主に栄光を帰す」ことに他ならない。神との契約を守り、神に聴き従い、神に栄光を帰す。これができないのならば、刑罰としてのろいが彼らの中に送られる、という。一般に旧約聖書における祝福は、物質的な繁栄と考えられるが(レビ26:3-13)その限りではないだろう。霊的な平安もまた祝福である。それらが皆取り去られる、という。またさらに、刑罰として主の責めが加えられる(3節)。「顔に糞をまき散らす」は、祭司に対する恥辱的なさばきを意味しているのだろう。本来祭司に与えられるものは「いけにえの肩と頬と胃」であったが、のろいの結果与えられるのは「糞」である(申命18:3)。しかしそれは、彼らが神をそのように扱ったからである(1:8)。
大切なのはこのように語る神が「もし」を繰り返すことだろう。裁きは神の本意ではない。神は愛である。本質的にのろいではなく、祝福を注ぎたいと願っている神がいる。
5節からは、レビとの具体的な契約について語られる。ここでレビは、祭司たちを代表することばとして使われている。祭司の職務は、「主に栄光を帰す」ことにあるが、それは、神と共に歩み、神のみ教えを語ることによる。まさに、私たちの生活の基本が語られる。私たちが神との契約において守るべきことは、神と共に誠実に歩むことであり、神のみ教えを語り、多くの者を罪から立ち返らせることにある。主の福音を語り、主へとたましいを導くことに他ならない。
10節からは、民に対する裁きのことばとなっている。不信仰な民の結果は指導者の責任である。水が水源の高さまでしか上がらないように、民の霊的な水準も、指導者の霊的な水準に影響されるのである。そして霊的な水準が、その人の生活の水準そのものであることに注意せねばならない。
実際、神に対して不誠実な者は、人に対しても真実ではありえない(10節)。神を認めない結果が、互いの裏切りとなり、忌まわしいことをし、主の聖所を汚す結果となる。イスラエルの歴史は、神との一体性が損なわれた歴史である。確かに、私たちの心には、神ではない別物をより頼んでいることがある。それは逆境の時に如実に現れたりする。苦しい時には、神など信じて何になる、神などあてにならないと思ったりするものだが、それは、最初から神をより頼んではいない証拠である。真の信仰は、ヨブがそうであったように、逆境においていよいよ深められていくものであろうが、そうならないのは、結局神との関係を少しも築いていなかった、ためである。
マラキは、神の言葉を取り上げて言う。「わたしは離婚を憎む」(16節)。神との関係を築き上げることに失敗していたイスラエルは、目に見える夫婦の関係の構築にも失敗していた。結局、神への不忠実さは、最も親しい夫婦の関係への破壊にまで及ぶ。神を愛するということは、目に見えない価値を大事にすることに他ならない。目に見えないものを大事にすることを知っているものは、目に見えるものをも大事にするのである。

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マラキ書1章

2014年07月04日 06時27分10秒 | 小預言書
マルティン・ルターは、ヨハネ3:16を小さな福音書と呼んだが、マラキ書は、小さな旧約聖書と呼ぶことができるだろう。つまり、旧約聖書の歴史の多くを要約し、新約聖書への橋渡しの役も担う書である。
2節、聖書の神は人間に対する愛を告白される神である。エレミヤ書においては「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(31:3)と語られる。ここで再び、「わたしはあなた方を愛している」と告白される。しかしながら、目に見えない神がいて、神が私たちを愛しているとしても、その神の愛はどのように確かめられるのか。それは、一つの歴史的な事件、エサウの子孫であるエドムの荒廃に明らかである、という(3節)。エドムは、イスラエルとルーツを同じくする民族であるが、ナバデヤ人によって侵略され、BC4世紀には、ユダヤ南部へと移住し衰退していった。彼らは廃墟を再建しようとしたが、それはかなわなかった。なぜか、神の反対がそこにあったからである(4節)。神がこれをお許しにならなかったからである。しかし神は、全く不可能と思われるイスラエルを再建された。それはイスラエルに対する神の熱心さと愛の故であった。神がこの世界でどのように働いておられるかを見ていくことが、神の愛を知る一つの方法なのだ。
 一方、私たちの神に対する愛はどうなのか。私たちに対する神の愛が確かであることが語られた後、6節以降はその逆、私たちの神に対する愛の欠如が指摘される。それは、三つの事実によって明らかにされている。
 一つは不真実な信仰告白である(6、7節)。あなたは神をどのような方として認めているのか。神を父として尊敬し、神を主人として恐れているであろうか。神は私たちの造り主であり、贖い主である。また神は私たちの主である。神を神として正しく認識し、このお方の前に遜ることが私たちの神に対する愛の第一条件である。
 次に、不真実なささげ物の問題がある(8、9節)である。愛は口先ではない。愛は行動である。相手を大事にする行動である。だから、神を愛すると言いながら、粗末なささげ物をささげる人間に何の愛があるだろうか。惜しむ心からささげる者に、何の愛があるだろうか。形式的に、あるいは、残り物の中からささげる者に、何の愛があるだろう。人が受け入れない、ささげものを、どうして神が受け入れるだろうか(8節)。ささげものによって神を侮辱することがある(マルコ12:41-44)
第三に不真実な喜びのない奉仕である(10-14)。祭司が汚れたいけにえをささげることは神の前にあまりにも忌まわしいことであった。だから、そんなことがあるぐらいなら、神殿の庭の戸を閉じて誰も祭壇に近づけるべきではない、と言う。また退屈し、飽き飽きしながらなされる奉仕、そんなものを神が喜んで受け入れるだろうか、という。
これらは皆旧約時代の祭司に語られたことである。今の私たちには関係がないし、当てはめるなら牧師のことと思われるかもしれない。しかしペテロは私たち一人ひとりが「王である祭司」(1ペテロ2:9)であると指摘した。マラキのことばは、信仰者一人一人の在り様を吟味させる。人はどうであれ、この自分は、神に対する真実の愛を燃やす者であろう。

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ゼカリヤ書14章

2014年07月03日 07時12分54秒 | 小預言書
エルサレムに対する神の裁きが語られる。これはすでに13章の8,9節で述べられたことの展開であると考えてよい。しかし、これは「主の日」のことである。つまり、終末的な意味を持って語られていて、過去の特定の歴史的事件に当てはめられるわけではない。エゼキエル(38-39章)や黙示録(14:17-20、16:14-21)で語られる、神の民に対する最終的な戦いに通じる内容と考えてよいだろう。となれば、町は占領され、踏みにじられる。そして捕囚の民が連れ去れるというのは、霊的な意味でのイスラエルの試練を物語っていることになる。通常の意味ではイスラエルは地理的、民族的なものとしてとらえられるが、霊的な意味では、キリスト教会、すなわち神を信じる者たちの集まりであるから、その者たちが通らねばならない終末の苦しみを語っていることになる。
しかし、その日、キリスト者は苦しみに捨て置かれるのではない。ちょうど、キリスト者を迫害し追いつめようとし、ダマスコに向かっていたサウロにキリストが現れてくださったように、神はエルサレムを占領した者に、立ち向かわれる(3節)。そして、主の不思議な介入により、オリーブ山が二つに分かれ、その谷を通って民は逃れることができるという(5節)。主は常に私たちとともにおられるのである。
6節からは、主の臨在の祝福、そして黙示録21-22章を思い起こさせる内容となっている。キリスト者は、神の御国の支配が完成されることを強く願うのであるが、その日は、いよいよ主の支配が現わされ、主の栄光が現わされる時となるであろう(9節)。
またエルサレムに与えられた祝福により、地上のすべての人々が祝福を受ける。神が、エルサレムに攻めて来た者たちを群れに加えられることに注目したい。敵が身内となる。彼らは「万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる」(16節)。つまり、主の日は、神の全権が認められる時であり、敵も味方もいなくなる。皆が主の権威を認めて、主のもとにひれ伏し、主を礼拝し、主に栄誉を帰す。完全な一致、調和と平和が実現する。
20節、「馬の鈴」が主への聖なるささげもとされている。もともとユダヤ人にとって馬は傲慢と王の虚飾と肉性現われで、それを所有することすら禁じられていた。家庭用の器も完全に聖から隔絶したものであった。しかし、その日、それらが皆、聖なるものとして用いられる。それは、礼拝に来る人々の数の多さのために、神殿備え付けの用具では足りなく、家庭の用具もみな総動員されることを言っている。その日、「万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる」もはや、主の宮が、商売の巣窟と化すことはない。私の家は祈りの家と呼ばれると、イエスが、神殿で商売する者どもを追い出し、宮清めを行ったことが思い起こされる(マタイ21:12)。実に、神の宮は完全に聖められ、神の栄光を純粋に崇め礼拝する場とされる。
14章最後は、終末的な意味でとらえてこそ、よく理解される。聖書が語るのは、やがて私たちが神の前に立つ、神がこの世のすべての帳尻を合わせられる時が来るということだろう。またその日、すべての民族、国語、国民が一つにされる(黙示録7:9)ということだろう。神の壮大な御心が示されている。そしてその御心にそって、私たちの教会のあらゆる活動がなされていかなくてはならない。いつでも主の日に向かう心をもって歩ませていただきたいものである。

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