3章に続いて、主の日の預言となっている。段落としては、3:13から、神のさばきを主題として語っている。その日、神に仕える者とそうでないものが明確に区別される(3:18)。大切なのは、神に仕える者のイメージである。それは、「主を恐れる者、主のあわれみを受けた者である。」(3:16-17)人格的に立派な者というわけではない。神の業を熱心に行った者というわけではない。主の前に遜り、主の恵みを素直に受けた者である。だから神に仕えない者というのは、逆に、神を信じて何の得があろうか、と神を侮り、高ぶる者(3:14-15)である。
4章は、区別された者たちの宿命が描かれる。高ぶる者、神を認めず、神に仕えなかった者には、その日は焼き尽くす巨大なかまどとなって到来する。2節「しかし」これは大いなる、しかしである。主の名を恐れ、悔い改め、主に仕える者に対しては、「義の太陽が上り、いやしがある」という。牛舎から太陽の光へと解き放たれた子牛が飛び跳ねるように、それは、喜びの日となる。また、逆転勝利の日である。「悪者どもを踏みつけて」決定的な勝利者となる時である(3節)。
これはいつ起こるのだろう。終末の時とも言えるが、今の時もそうなのだ、と理解したい。というのも、キリスト者の勝利は、彼岸の勝利ではなく、今の人生における勝利であることに間違いはないからだ(ローマ8:35-37)。淡い期待を抱いて信仰生活をするのではなく、確信をもって信仰の歩みをさせていただきたいものだ。
4節からは、最後の結びの勧めとなる。マラキがこの書を書いたのは、だいたいBC460-430年頃、ハガイとゼカリヤが神殿を再建するように民を激励してから80年後のことである。バビロンから帰還した時の最初の信仰と熱意は冷め、宗教的には冷たくなり、道徳的にもたるんでいた時代。約束された繁栄も実現していなかった。人々は預言者たちが大ボラを吹いたのではないか、あるいは、自分たちの神は、期待するほどの力もないと考えるようになったのだろう。宗教的な荒廃ムードの中で、マラキは、旧約聖書最後の預言者として、また宗教改革者として現れる。志気を失い、神を信じても無駄、と懐疑的になっている民に、再び、神の使者として神のことばを告げるために現れた。
その第一は、モーセの律法を記憶せよ、である。明らかに神を恐れる者に語られている。み言葉を励ましとし、記憶に留め、み言葉に支えられて生きよ、という。神は無力なのではない。「見よ。わたしは、主の大いなる日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(5節)400年後の預言者、バプテスマのヨハネの出現を預言している。彼は、約束のメシヤへの道備えをする者である。明らかにイエスの到来を預言している。旧約聖書の最後のことばは、「のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」である。神を認めず、不信仰になり続けるならば、そこにはのろいがもたらされることだろう。しかしそれは神の本意ではない。神は、のろいでこの地を打ち滅ぼすことは考えておられない。むしろ、地を祝福しようとされている。その新しい時が来ようとしている。待ち望めというわけである。第二サイクルが終わる。明日から第三サイクル、新約が楽しみとなる終わり方である。
4章は、区別された者たちの宿命が描かれる。高ぶる者、神を認めず、神に仕えなかった者には、その日は焼き尽くす巨大なかまどとなって到来する。2節「しかし」これは大いなる、しかしである。主の名を恐れ、悔い改め、主に仕える者に対しては、「義の太陽が上り、いやしがある」という。牛舎から太陽の光へと解き放たれた子牛が飛び跳ねるように、それは、喜びの日となる。また、逆転勝利の日である。「悪者どもを踏みつけて」決定的な勝利者となる時である(3節)。
これはいつ起こるのだろう。終末の時とも言えるが、今の時もそうなのだ、と理解したい。というのも、キリスト者の勝利は、彼岸の勝利ではなく、今の人生における勝利であることに間違いはないからだ(ローマ8:35-37)。淡い期待を抱いて信仰生活をするのではなく、確信をもって信仰の歩みをさせていただきたいものだ。
4節からは、最後の結びの勧めとなる。マラキがこの書を書いたのは、だいたいBC460-430年頃、ハガイとゼカリヤが神殿を再建するように民を激励してから80年後のことである。バビロンから帰還した時の最初の信仰と熱意は冷め、宗教的には冷たくなり、道徳的にもたるんでいた時代。約束された繁栄も実現していなかった。人々は預言者たちが大ボラを吹いたのではないか、あるいは、自分たちの神は、期待するほどの力もないと考えるようになったのだろう。宗教的な荒廃ムードの中で、マラキは、旧約聖書最後の預言者として、また宗教改革者として現れる。志気を失い、神を信じても無駄、と懐疑的になっている民に、再び、神の使者として神のことばを告げるために現れた。
その第一は、モーセの律法を記憶せよ、である。明らかに神を恐れる者に語られている。み言葉を励ましとし、記憶に留め、み言葉に支えられて生きよ、という。神は無力なのではない。「見よ。わたしは、主の大いなる日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(5節)400年後の預言者、バプテスマのヨハネの出現を預言している。彼は、約束のメシヤへの道備えをする者である。明らかにイエスの到来を預言している。旧約聖書の最後のことばは、「のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」である。神を認めず、不信仰になり続けるならば、そこにはのろいがもたらされることだろう。しかしそれは神の本意ではない。神は、のろいでこの地を打ち滅ぼすことは考えておられない。むしろ、地を祝福しようとされている。その新しい時が来ようとしている。待ち望めというわけである。第二サイクルが終わる。明日から第三サイクル、新約が楽しみとなる終わり方である。