
そして、被害に遭った実以外の、まだ青く鈴なりだった10個近いパプリカの実は、皆小さいままで一向に熟す気配もなく、それでも義務感にかられて私は水遣りを続け、あの地震の日を迎えたのでした。
地震の前と後とでは、私の中で何かが確実に変わったように思います。地震で顕わになった都市生活の脆弱性へのショックと、いつ収束するとも知れぬ原発問題で、もう地震の前の、あの安穏とした日々には戻れない諦念とが、自分の心に確実に暗い影を落としています。一方で、通常は身近な人間の死が、日常忘れがちな"死"を覚えるきっかけとなると思うのですが、今回のような天災もまた"死"を間近に感じ、覚えることで、今、自分が生きていること、生き長らえていることの意味を、改めて考えさせられる。所謂ヴァニタス的心情でしょうか?
地震に続く原発事故の報に、暫く洗濯物も室内に干していたので、ベランダのパプリカは放置状態。もちろん水遣りもせず


すると、収穫されることなく干からびてしまった、赤や黄色や茶色のパプリカが、風前の灯火と言った体(テイ)で、辛うじて枝にぶら下がっていました。いつ熟したのかさえ見当もつきません。おそらく、とうに野菜としての瑞々しさが失われた状態で、色づいていったのでしょう。夏の、あのおいしそうな完熟パプリカとは比べるべくもなく、目をそむけたくなるような侘びしい姿でした。片付ける気も起こらず、その後も暫く放置していました。




私はその姿を目にした時、自分自身のずぼらさを恥じ入ると同時に、鉢植えながら、うち捨てられた環境にも負けないパプリカの逞しい生命力に感銘を受けたのでした。
パプりカ、君は凄いよ

その健気さに免じて



