今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

小梅姐さん、やめないで!

2006-12-07 01:30:41 | 我が愛しの芸者歌手たち

先日、二葉あき子「人生のプラットホーム -歌ひとすじに生きて-」という本を入手しました。この本は東京新聞が昭和62年10月から12月まで連載したものを加筆・修正したものだそうです。
(一部はプロが手直ししてますが)二葉あき子が自身の筆で、波乱万丈の人生を振り返っています。
あれこれと胸を打つ話も多いのですけども、まずは一つ、なかなかネットでは情報にお目にかかれない赤坂小梅姐さん(小梅太夫とは無関係)の話をご紹介したいと思います。

赤坂小梅
尊敬する先輩、大好きな歌手仲間は大勢いるが、私が心の底から惚れた人は赤坂小梅姐さんである。
"大梅"なんていう人もいるほどおなかも大きかったが、日本一の大姐御であった。昔、九州・小倉や東京の赤坂で向こうっ気の強い芸者さんで鳴らした明治の女。私がコロムビアに入ったころは、もう「ほんとにそうなら」の大ヒットで、一世も二世も風靡した大スターだった。

十八歳のときから一升酒を飲まれていたというほどの酒豪だったが、芸の執念は大変なもので常盤津から清元、長唄、小唄、民謡と、いいお師匠さんがいると聞けば借金をしてでも銀座裏のご自宅に招いて教えを乞うていた。

"男嫌い"という評判だったが、昭和十二年ごろ、長唄師匠の杵屋勝松さんと大ロマンスの末、結婚された。日中戦争さ中の昭和十三年、満州へ慰問に行かれ、憮順で歌っているとき「ダンナさまが急死した」という電報を受け取ったそうだ。

「世の中っておかしいよね。私ゃそのとき"楽天館"という劇場で♪ほんとにそうなら嬉しいネ・・・・・・と歌ってたんだからさ」
姐さんはあっけらかんと話されたが、私は姐さんの気持ちを思って泣いてしまった。

戦争中は「黒田節」、戦後は「おてもやん」で姐さんはいつも太陽のように輝いていた。そんな小梅姐さんにも、ついに引退のときがきた。

昭和五十六年四月二十七日、曇り。
私は日記をつけたこともないのに、その日のお天気まではっきりと記憶している。
私は信じられない気持ちのまま「引退記念公演」が行われる国立劇場へやってきて、二回公演の二回とも切符を買って客席に座った。楽屋へはお顔を見るのが悲しくて行けない。

ビクターのスターでライバルだった市丸さんも舞台に立たれた。司会者が「市丸さんは、いつまでもお美しく、お元気ですね」といったとき、私は小梅姐さんの心中を思い、「このオー」と胸が痛んだ。

姐さんは「黒田節」を歌われた。姐さんがご自慢の、白地に桜と盃を散らしたお着物。博多帯には故緒方竹虎副総理の筆になる「黒田節」の紫糸の刺しゅう。
八十キロもあった堂々たる姐さんが、普通の人よりもやせていた。糖尿病、高血圧、じん臓病・・・・・に右足骨折の大ケガ。
足を引きずっておられたが、歌手生活五十年、七十五歳になっても往年のウグイス芸者の艶の声は落ちていなかった。

姐さんはいつも「歌えなくなったら命をとって下さいって、神仏にお願いしてるの」といっていらした。
(おねえさんは歌えなくなったんじゃない。病気とケガで引退されるのだ)
私は流れる涙と鼻をハンカチをかんだ。

公演後、パーティがあった。姐さんのファンの政財界の大物、歌舞伎の猿之助、梅幸さんや、長谷川一夫先生も出席されていた。
私はこんな華やかな席ではいつも片隅でジュースぐらいしか飲まないのだが、その日はめちゃくちゃにお酒を飲んだ。いつか偉い人たちやお客さまの姿も私の眼中から消えていた。

私はおねえさんがあいさつに立たれたとたん、その前に飛び出して、
「おねえさん、やめないで!」「おねえさん、やめないで!」
と泣きながら大声で叫んでしまった。

私はパーティの席から外へ出されてしまった。



二葉センセ、本当に小梅姐さんが好きだったんでしょうね。文面からひしひしと伝わってきます。そしてその小梅姐さんも良い人柄だったんでしょうね。
読んでいて、ちょっとホロっときたハナシでした。