華麗なる腑抜けの世界

倦怠感溢れる日々を称揚しつつ

私が嫌いな人たち

2006-06-14 22:10:01 | 日々のひとりごと
 狷介。「けんかい」と読む。中学生のとき「いぼすけ」と読んだことをここに告白するが、それはどうでもいい。意味は次の通り。


   けんかい 【狷介】<(名・形動)[文]ナリ
   心が狭く、自分の考えに固執し、人の考えを素直に聞こうとしない・こと。


 どうも私はいぼすけ、いや狷介な人間らしい。多くの友人がそういうのである。そうかもしれない。私を嫌う人は、私のこの性格故に嫌いらしい。私を好く人はこの私の性格故に好くらしい。あと「偏屈」「潔癖性」「わがまま」などともよく言われる。いずれにせよ寛容さがない性格のようだ。


 私はあまり人を憎まないようにつとめている。が、狷介な私のことだから人の好き嫌いが激しくなる。結局私の「誰とでも仲良くしよう」プロジェクトは挫折しているようである。事実、蛇蠍のように嫌っている人間が数人いる。顔も見たくない。声も聞きたくない。そんな連中である。しかしカウントしてみたら6人しかいなかった。中学高校時代のO.M、S.A、大学時代のM.T、M.S、O.A、留学時代のF.K。たった6人である。案外寛容なんだな。
 ところで私はどんな人間を嫌う傾向にあるのだろうか。6体のサンプルがあるのだから、これを手がかりに探ってみようと思う。
 今手元に6枚の紙がある。そこに彼奴ら名前を書く。次に彼奴らのむかつくポイントなどを書き出す。あああ、やらなきゃ良かった。昔の嫌なこと思い出しちゃったよ、と思いつつも作業を続行した。やはり共通点が多い。あまりにも分かりやすい結果が出てしまった。結果はこんな感じだった。

 1. 衒学趣味
 2. 人を見下しがち 
 3. 断定口調 
 4. 虚栄心が強く上昇志向 
 5. 傲慢 
 6. 金銭に対する執着が強い 
 7. 自慢にならない自慢を繰り返す(あるいは友人や身内の自慢話をする)
 8. ミーハー 
 9. 思い込みが激しい
 10. 自己相対化できない
 11. 普段は強気だが、相手が強く出るとおもいっきりビビる 
 12. 人のプライヴェートにやたら立ち入る 
 13. 人のコンプレックスにつけ込む言動が多い 
 14. 人のあら探しが好き
 15. 相手を否定したがる  

 
 こんなところであろうか。重複する部分も多いので、少し整理してみよう。
 まず1の衒学趣味、4の虚栄心、上昇志向、7の自慢話をひとつにして、ふつうにa. 強い虚栄心としよう。つぎに2の見下しがち、3の断定口調、5の傲慢、9の視野狭窄、10の自己相対化ができない、15の相手を否定したがるをまとめて、b. 自分至上主義にする。12から15はまるっと、すりっと(「トリック」の仲間由紀恵風)、c. 他者支配への欲求でいいと思う。6と8と11は保留。
 
 つまりである、我があまりに強く、他者に認めてもらいたいがあまり、なりふり構わずアピールし、それに飽き足らず他者をも支配、否定しようとする奴。あるいは必死のアピールが奏功せずやけくそになり他者を否定しようとする奴が、私はきらいなのである。自分が大事なのは誰でも一緒であるが、それを韜晦するだけの品性を持ち合わせるべきではないか。まー基本的には他者に対する劣等感とか恐れに対する過剰反応なんかがあるんだろうね。

 保留した5の金銭への強い執着だが、それは私が古い価値観の持ち主であり、金金言う人間が嫌いなだけである。もう少し寛大になりましょう。同じく保留した8のミーハーだが、ひとつは「情報通だと思われたい=すごいと思われたい」虚栄心に連なるからで、もうひとつは移ろいやすいものに熱狂する軽薄さゆえであろう。11は「へたれ」だから。自負があるなら突っ張り通して欲しいよ。

 結局行き着くところは一般論でしたね。渋谷の女子校生風に言うならば「自己チュー超ウゼー」である。結局は自己と他者の距離の置き方の問題なのだろう。

 あー。疲れた。
 くだらなくて済みません。

死者のまなざし(日本テレビ「すいか」[再])

2006-06-14 18:12:09 | テレヴィ
 徹夜明け。ふらふらしながら日を過ごし、夕刻帰宅。牛肉のトマト煮を作りながらテレヴィを見ていた。舞台は、古び、朽ちかけているが、どこか瀟酒なアパルトマン。そこに住まう個性豊かな女性たちの日々を、その心の襞まで丁寧に描きあげたヒューマンなドラマである。かといって暗いものではなく、ユーモアに富み、エスプリの利いた作りとなっている。キャストも芸達者ばかりである。
 
 今日はお盆、すなわち死者の帰還の話である。幽霊譚であったが、程度の低いSFでもなければ、下卑たオカルトとも違っていた。「迎えに来るよ」と約束したものの不履行のまま逝ってしまった恋人、死別した双子の姉、社会的に「死んだ」同僚。そんな愛おしくも、二度と逢うことの出来ない人たちとの甘やかな記憶が、今回の肝であった。死んでしまった身近な人間というのは、死してなお、人に影響を及ぼし続けるのである。生き残ったものは、死者に二度と逢えないが(当たり前だが)、死者に対して詫びたいこと、言いたいこと、尋ねたいことを多々残している。でも死者は応えてくれない(当たり前だが)。あたかも人は、死者に対して決して返すことの出来ない負債を抱えているようだ。死者に対する人々の強い思い入れが、人々に幽霊を見せているのであろう。死者を思う「我」は、死者に見つめられ、死者に声をかけられている「我」なのである。
 
 浅田次郎の小説などにはよく幽霊が出てくるが、あれはもう逢うことが出来ない愛しい者への切ない思いを効果的に表現している(小説の手法としては手あかがついたものなのだろうが)。「英霊の聲(こえ)」が聞こえるのも、国に殉じた人たちへの感謝の気持ち、詫びたい気持ちがあるからであろう。かほどに、死者の力は大きいのである。私は仏教徒でも神道の信者でもない。オカルトにも否定的である。しかしそういう「幽霊」の存在は認めている。

初めてのサッカー観戦(NHK・BS1「2006FIFAワールドカップ・G組 韓国×トーゴ」)

2006-06-14 00:52:14 | テレヴィ
 「日本初戦、に敗れる」(朝日新聞朝刊)。サッカーである。盛り上がってます。ひとつサッカー観戦でもしてみようと思い、韓国×トーゴ戦をテレヴィで見てみた。初めてのサッカー観戦である。昨日もちょっとだけ見たのだが、あれは見た部類ではない。今日は真剣に見た。春のWBC以来のスポーツ観戦である。その前にスポーツ観戦をしたのは、アテネパラリンピックのフェンシングである。

 なかなかおもしろかったし、興奮した。私はサッカーを語る為に必要な語法を持ち合わせていないが、少し感想を述べたいと思う。まず・・・・。ああ、もうダメだ。おもしろかったのだが、うまく表現できない。ああああああ。なんせ初めてのことで。

 ただ感じたことがある。トーゴの選手は身体能力値が高い。ただ緻密さが感じられず、あきらめが早い。そのように感じた。韓国の選手は戦略戦術に長け、精度が高く、勝利に執着する熱烈たる気概が感じられた。大雑把に言えば、トーゴは体で、韓国は頭で勝負していた。トーゴ人の鍛え上げられた身体が織りなすリズミカルなプレー、韓国人の頭脳と情念が生み出す巧みなプレー、いずれも素晴らしかった。トーゴが斧なら、韓国はカミソリといったところか。どっちが極端に優位に立つでもなく、緊張感が漂う試合運びであった。よくわからないが、アフリカ人とアジア人の資質の違いが顕著にあらわれていたのではないだろうか。うう。これが私が生まれて初めて記したスポーツ感想文です。

 正直なところ韓国という国はあまり好きになれない。しかし良い試合を見せてくれてありがとう(特にアン選手となべやかんに似た選手のプレーはゾクゾクするものがあった)。韓国のプレーヤーおよびサポーターには、品性とゆとりのある態度であとの試合に臨んで欲しい。少なくともグラウンドに太極旗を立てないように。負けたとき、焼身自殺をしないように。あと日本が負けたとき、必要以上に喜ばないように。