1848年、渡し舟しかなかった蘇州川に英国商社怡和洋行らが共同出資で「蘇州川橋梁公司」を設立し、長さ137m、幅7mの木造橋梁を架設しました。
当初、1人銅板1枚、馬や車は2枚の通行税を徴収していましたが、1863年にアメリカ租界が英国租界と合併され共同租界となり往来が増えたので、通行税を2倍に値上げしました。
しかも中国人だけに課税したので、市民が憤慨し抗争となりました。
某広東人が「義渡(無料の渡し舟)」を始め、当局に対し抗議を示しました。市民はこれを歓迎し「白渡」と呼んだそうです。
抗議に屈したのか1873年、租界当局は下流側に無料の幅11mの木製浮き橋を設置しました。
当初「公園橋」と呼ばれていましたが、何時の頃からか「外白渡橋」と呼ばれるようになったとか。
その後「蘇州川橋梁公司」の橋は租界当局が買い取り撤去しました。1907年、路面電車を通すために鉄橋に架け替えられました。
橋を渡ると黄浦区から虹口区になりますが、左は「北蘇州路」、真直ぐは「大名路:ブロードウェイ・ロード」、右へ曲がると「黄浦路」です。
左手は上海大厦。当時は通りの名前から「ブロードウェイ・マンション」と呼ばれていました。
右手はロシア領事館とその北側が「礼査飯店(リチャード・ホテル):浦江飯店」です。
どれも優秀歴史建築に指定されていますが、次の上海歴史散歩の目的地は「礼査飯店(リチャード・ホテル):浦江飯店」にしましょう。
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当初「公園橋」と呼ばれていましたが、何時の頃からか「外白渡橋」と呼ばれるようになったとか。
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