上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

博多カメラ散歩:「萬四郎神社」と悲劇の豪商伊藤小左衛門-博多区呉服町界隈 

2014年09月02日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
1.萬四郎神社
1667年6月、長崎警備のため長崎へ赴任した福岡藩三代藩主黒田光之は、長崎奉行から「藩御用商人の二代目伊藤小左衛門が朝鮮と密貿易(武具や馬具の私的交易)を行っている」との訴えがあったと伝えられました。
訴えたのは柳川と平戸に住むの商人の下人たちでした。

2.万四郎神社の説明


この事件の結果、長崎では小左衛門以下関係者37人が処刑、博多柳町浜の刑場では長男の勘十郎以下一族18名が処刑、更に手代ら奉公人ら20余名が那珂郡比恵河原で磔になった他、100名以上が流罪となりました。
博多にいた小左衛門の妻や妾と家人、事件に関係のない11人の船子は死罪を免れました。

3.処刑された幼い兄弟たち


御供所町の妙楽寺には伊藤家一族の墓所があり、二代目小左衛門の死後その母が建立した開山堂があります。
二代目小左衛門夫婦の墓のそばには嫡男と次男市三郎、三男小四郎、四男万之助の墓もあり、幼い男児の墓は石地蔵の姿だそうです。

4.伊藤家の断絶を防げなかった三代藩主光之


徳川幕府としては横行する私的交易を取り締まる必要があり、小左衛門がその見せしめとなりました。
当時の黒田藩は先代目藩主忠行が起こしたお家騒動(栗山大膳事件)の直後で、
三代目藩主光之は幕府への恭順を第一義とせねばならず、このような厳しいお仕置きとなったようです。

5.鄭成功と小左衛門との関係。


国際的な貿易商品「イマリの」輸出最盛期であった1650年から1682年の間、長崎のオランダ商館経由と中国への輸出量の合計は400万個を超えると言われています。
また「イマリ」の誕生には鄭氏一族による技術・原料・販路の組織的管理が重要な役割を果たしており、当時来航する中国船はほとんどが鄭氏関連する貿易船でした。
当然「イマリ」交易の利益は鄭成功の清国抵抗運動の軍資金ともなっていたのでした。

長崎代官の末次平蔵は組織的に鄭氏の清国抵抗運動に協力し、秘かに武器を送っていたといわれています。
当時の幕府も鄭氏の援兵要請に内々清への出兵計画まで立てていたそうで、平蔵の罪名は軽減され隠岐への流罪となりました。
平蔵も博多出身で、小左衛門とは血縁関係にあり、平蔵に頼まれ小佐衛門は鄭氏一族の抗清運動に加わったと言われています。

事件発覚後の7月、幕府老中より長崎奉行に対し朝鮮への武器密輸に関する刑罰が出され、11月に小佐衛門一族は処刑されました。
処刑された70数名の出身地の内訳は博多29名、長崎18名、対馬16名、柳川11名、大阪11名、島原4名、佐賀2名、唐津と久留米が1名と、
西日本の外様大名を震撼させた大事件でした。

6.浜口公園にある伊藤家邸宅跡の碑


浜口公園の北東に伊藤家の栄枯盛衰を物語る小さな石碑が夏草におおわれていました。

撮影:CANON Powershot S100


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
haichaoluさんへ (上海・東京ベイビーのパパ)
2014-09-04 19:40:05
お久しぶりです。
豪商伊藤小左衛門のこと、
黒田家のお家事情のこと、
勉強になりました。

長い日中の歴史の中で、
鎖国は日中関係が後退した一時期ですが、
今は、どんどん日中交流を進めて欲しいです。
第二次安倍内閣に期待?!

Unknown (haichaolu)
2014-09-05 15:51:28

育メンお疲れ様です。

長いアジアの歴史には「倭寇」「元寇」や、秀吉の「朝鮮出兵」などもあります。
大陸に近い博多は常に歴史の最前線でした。

阿部内閣の日中関係は少し進展が期待できそうですね。

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