空襲の火の海を逃げ惑った少女は戦後、米兵に“Dirty”と言われた。7歳が生き抜いた残酷な戦争とその記憶
https://news.yahoo.co.jp/articles/524bce4e1e00de776d0dfe64f49b5ed7eb2faf07
配信
3月10日の東京大空襲を経験し、火の海の中を家族と逃げ惑った経験を「語り部」として伝えている女性がいる。 【写真】米兵が放った“Dirty”の一言。当時の経験を語った上原さん 上原淳子さん(86)は20年以上、東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)で、空襲や第二次世界大戦中の経験を語っている。 終戦記念日の8月15日、上原さんは同センターで、会場とオンラインに集まった約70人に向けて当時の記憶を語った。
連行されて拷問を受けた父「言論の自由もない苦しい日々」
戦時中は7歳の子どもにとっても、つらい出来事で溢れていたと上原さんは振り返る。 戦時体制下でつくられた近所同士の「隣組」では相互監視がされ、憲兵隊は常に目を光らせていた。 上原さんの父親は、家の地下でラジオを聞いていただけで憲兵隊に連行されてしまった。 連行された父親は拷問され、背中いっぱいに傷をつけられ帰ってきた。 「7歳の子どもに何も言うことはできなかったけど、食べ物はなく、言論の自由もなく、毎日が苦しい日々でした」
炎の中で逃げ惑った、忘れられない空襲の夜
上原さん一家が住んでいたのは、深川区深川(現在の江東区深川)。空襲で甚大な被害を受けた地域だ。両親と祖母、姉2人、弟、妹と暮らしていた。 3月10日に大きな空襲が来るという情報は市民の耳にも入っており、上原さん一家も空襲が来る可能性については知っていたが、逃げる場所もなく、そのまま9日の夜を迎えた。 上原さんも、就寝時にはいつでも逃げられるようにリュックサックを枕にして、救急袋を抱えて眠りについた。 警戒警報のサイレンで目が覚め、防空壕代わりにしていた自宅の地下室に家族と逃げ込んだ。 しばらくして避難を呼びかける声が聞こえ、地下室の外を父親が確認すると、既に周りは火の海。家族で必死に逃げ惑った。 「あたりは一面、真っ赤でした。家の近くの学校へ逃げましたが、到着した頃には既に人でいっぱいで入れてくれませんでした。人々は『水、水!!』と叫びながら、川に飛び込んでいきました」 火の海に押され、隅田川にかかる永代橋まで逃げた際に目にしたのは、炎の熱さに耐えかねて川に飛び込み、命を落とす多くの人たちだった。 衝撃的なその光景は、今でも上原さんの脳裏に焼きついている。 「母親におんぶされたまま背中で亡くなっている赤ちゃんも多く見ました。倒れている母親にすがるように寄り添っている幼い子どもの姿もありました」 道には、真っ黒焦げになった遺体が横たわっていた。 またごうとすると死体に足が当たって、肌がずるんとむけた。 「庶民が多く住んでいる深川に、なぜあんなに焼夷弾を落としたのか。絶対におかしいと今でもずっと思っています」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます