ミュー ・ 百花春至為誰開

月山・葉山・野菜つくり・短歌・スケッチ

初夏の朝日連峰 & 果樹園 ※寒河江市・柴橋

牡丹雪&桃花

2010-03-30 | Weblog

寒河江市本町通り 明け方の空模様とはまるで違って 日中は青空が拡がった   2010/3/30 PM2時

2010/3/30 自宅裏 AM9時


昨夜からまた雪降りの天気

明け方 毎日決まって真冬のような雪景色に変身している

こんな天気が1週間以上も前からずっ~と続いている


今年はいつもの年より気温の変化が激しいようだ

しかしながら 身体が上手く順応して 

昨夏以来 私は全く風邪をひいていない

馬鹿は風邪をひかぬか・・・・・・・・・・・?と 一人納得している

自宅前

この時期に降る雪は 牡丹雪に決まっている

陽の当たる場所の雪は 

遅くても10時前にはすっかり融けてしまう

今朝も3cm位の大きい牡丹雪が

空からゆっくりと舞い降りた

紅葉したまま一冬を越したどうたんの葉に積もった牡丹雪
 
一冬 雪の中で越したパンジー

3月4日寒河江川に散歩に行った時拾って来た桃の枝 25日掛かって やっと咲き始めた
 
外は・・・・・・・・いまだ牡丹雪の舞う雪景色 

部屋の中は・・・・・桃の花の蕾がほころびはじめ 一足早い春の気配が

寒河江川・奥羽山脈  2010/3/0/PM1時 寒河江市チエリーランドより

同上

寒河江川・葉山 山形桜回廊(堤防右)百選のひとつ 溝延橋から

寒河江川・桜回廊

同上


桜の開花便りが 各地から足早に聞こえて来ている

山形市の開花予想は来月11日 満開は16日頃のようだ

例年 寒河江市の桜の開花は山形より2~3日遅れる

この分だと 今年の桜の開花は去年より遅れそうだ


今日3月30日は我々夫婦の結婚記念日


私24歳 女房23歳 

当時 二人共いずれ劣らぬ若さと○○・・・・を持ち合わせていた

あれから・・・・・40年  とは行かぬまでも

長い月日が流れ 二人共いつしかお互いが影の薄い 

空気のような存在になってしまった

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんな訳でもなかったが 隣町の河北町に小用があって

女房と愛犬ナナと3人でドライブがてら行って来た


途中 チエリーランドの昨年改装なったレストランでランチ

残念ながら豪華メニュー無し

仕方なく○○○・・・・を注文

それでも今日は美味しかった


チエリーランドレストラン  寒河江川と葉山が一望出来る


食事中ふと女房に尋ねてみた事があった・・・・・・


将来 自分達に息子・娘の二人の子供が出来 

やがて4歳になろうとしている孫がいる今の姿を 

あの当時考えてみたことがあったかと・・・・・?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

無我夢中で そんな事は考えてみたこともなかった・・・・・・・・

と 私と全く同じ想いの返事が返って来た


・・・・・・・・・・・・・・・

牡丹雪と桃花・・・・・・・ 
 

やがて消え去る運命の冬の季節

厳しい冬の寒さの後にやってくる 北国のめくるめく春のひかり


  偶成

少年易老学難成

一寸光陰不可軽

未覚池塘春草夢

階前梧葉既秋声



自然界の巡る季節と似て

人生 全て皆 所詮はかないものなのかもしれない・・・・・

さて これから先 苦あり楽あり 

いったい いかなる棘路を歩んで行くのやら・・・・・・・


散水

2010-03-24 | Weblog

自宅坪庭 2010/3/24 PM4時

同上 庭裏側 まだ隣家の雪が残っている


粗垣外し

2~3日いろいろ用があって

中途にしていた


今日やっと完了

少々疲れ気味・・・・・・・


庭の裏側・・・・・・隣家の軒下に 雪の大きな塊が残っていた

十年以上前までは 

3月いっぱい こんな残雪が家の周りにごろごろしていた

およそ1月くらい

雪解け時期が早くなってきているようだ


冬の厚いコートを脱いだばかりの坪庭 

およそ4ヶ月振りに

早速ホースで散水


春を心待ちにしていたかのように

一瞬にして 

どれも皆 いきいきとした緑が甦った

潮風

2010-03-23 | Weblog

広瀬通り 正面江陽グランドホテル  2010/3/22 AM12時


昨日10時半 小用があって仙台へ

女房 ナナ 3人で自宅出発

およそ1時間半

≒1kmの長い青葉山トンネルを抜けると

突然 別世界のような街の真ん中


少し眩暈がした・・・・・・・・・・・

無理もない・・・・・・・

つい半月前までは雪に埋もれていたのだから

同上

同上 白松が最中本舗(菓子)


仙台を代表する老舗銘菓 「白松が最中」


この看板の前を通るとき 決まって思い出すことがある

丁度20年前の頃

私はこの近くの 

歩いて5分くらいのオフィス街にある会社に勤めていた


本社(埼玉)からやって来た支店長(社長の息子)曰く・・・・・・

「白松が最中」・・・・・・はどう考えてもおかしい

「白松の最中」・・・・・・の間違いではないのかと


確かにおかしい・・・・・・・・と私も思う

支店長曰く

「おらが村の・・・・・」

そう考えると おかしくないか

としぶしぶ一人納得していた

因みに 宮城県人は 誰一人疑問に思っている人など

いない筈である

塩釜市 海岸通り

仙台で小用を済ました後 海を見に塩釜市までドライブ

菖蒲田海水浴場

同上


およそ1年半振りの海との再会

海の匂いのする潮風

海から陸地に向かって

止むことなく 吹いていた

眼の前で繰り返去れる波音

ナナと私


ナナは 確か生まれて2度目の海


あたりがみな山に囲まれた田舎から出て来て

突然ビル街へ

そして遮るものが何一つない海原を前にして

波打ち際の浜辺を

思いっきり走り回っていた


人影の疎らな

早春のまだ肌寒い浜辺

久し振りに見た海


菖蒲田海水浴場


昔 子供達と一緒に遊んだ

人気のない 菖蒲田浜の海水浴場


成長してみな親元を去って行った子供達


私達夫婦は

子供達に代わって今は愛犬ナナと

思い出を懐かしくたどりながら

どこまでも 無言で

冷たい浜辺を

歩き続けた

東2番町通り・定禅寺通り 交差点

せんだいメディアテーク 2003年 建築学会賞受賞 伊藤豊雄設計


何故か仙台からの帰りは この建物の前を通ってしまう


いつもは鬱蒼と繁ったケヤキ並木に遮られ

全体のファサードを見ることは出来ない


まだ葉を落としたままのケヤキ並木

の向う 一面ガラスに覆われた

せんだいメディアテークがあった


透明感溢れた建築で

ケヤキ並木をイメージした

スパイラル鉄骨柱が

ガラスの中にあった

稲荷講祭典

2010-03-21 | Weblog

お稲荷様 幟が強風にあおられ鳥居に絡み付いてしまった  2010/3/21 AM11時半

同上 強い風で蝋燭に火が付けられなかった 今日の私 大祭進行役を勤め 残念ながら 祭途中での写真撮影が出来なかった そんな訳で お神酒 お供え物等がきれいに片付けられてしまった後の写真に・・・・・


三月二十一日 今日は 旧暦二月 最初の午の日 

所謂 初午の日

地元K神社 稲荷講祭典の日


二月初めから着々と準備をかさねて来た

我々三人の当番衆

いよいよ今日が 本番当日


昨夜から一晩中 激しい風雨が続いた

未明には

まれにしか見ることが出来ないような

暴風雨に変わって行った


夜明けと共に

次第に天気は回復


祭典本番の日の当番衆

夫婦揃って出席がしきたりとなっている


男衆は神社外回りと祭典の準備

女性陣は境内の公民館で 直会準備


午前11時 拝殿内で大祭が始まった


稲荷様は 本来稲成り(稲生り)を語源とした農耕神で

赤い鳥居と白い狐がシンボルとなっている

西暦710年 京都伏見稲荷神社に神が降りた日より

これまで長く全国の稲荷社において祀られて来た


祝詞奏上 玉串奉奠


昨年から 神主に代わって

全て当番衆が祭祀を執り行うようになった


五穀豊穣・家内安全成就を講中皆で祈願


その後 お稲荷様参拝

外は 相変わらず強い風が吹いていた

直前になって 偶然雨があがった

参拝祈願 無事終了

直会

同上

皿盛りと漬物(当番衆が用意)


神社の境内にある公民館に場所を移して直会

間もなく次回当番衆へ 戸渡しの儀

続いて お謡い・・・・・・・


これにて今年の当番衆大役

無事 御役御免に

1時少し前 中締め

間もなく 皆帰り支度を始めた


農耕神を祀るお稲荷様の 初午祭典

豊作祈願はもちろんであるが

昔から続いている

村ならではの そこに住む

人々の素朴な繋がりを保つ慣わし

休講中の人も大勢いるが

いつまでも残しておきたい

日本人の大切な心の原点のような気がした


蔵王・月山・葉山・飯豊朝日連峰

2010-03-19 | Weblog

蔵王連峰 寒河江市緑町より  2010/3/19 PM5時

月山 寒河江市八鍬より  2010/3/19 PM1時

葉山 寒河江市寒河江より 同上

飯豊朝日連峰 寒河江市柴橋より 同上


今日はいつもより1時間半も早く

山形市にある県中へ出発

青空が広がるいい天気だった


父の経過・・・・・・・特に異常は認められず

このまま暫らくの間 

同じ治療を続けて行くとの話が 主治医からあった


山形市まで片道およそ20kmの距離

まさにドライブ日和

いつもは家に閉じこもっている生活が多い父

今日は久し振りに

嬉しそうな顔をしていた


寒河江市のある村山盆地

周囲に

真っ青な空に雪を被った山々が

白く映えていた


穏やかな丸みを帯び

臥牛の姿態に似た月山

まさに息を呑む程に

群を抜いて美しかった


午後2時過ぎ 

明後日の稲荷講初午祭典の準備

当番衆3人 

まずは およそ30分かけて除雪

次に境内を箒を使って清掃

そして最後に予行演習・・・・・・


いよいよ 後は日曜日の本番を待つばかりとなった

志賀直哉 「山形」

2010-03-18 | Weblog
志賀直哉著 エッセイ 「山形」 

明治40年の夏の事をありのままに書いた 

と 志賀直哉自らが後にそう述べている

山形を舞台にした名作である


その名作「山形」の中


「奥羽線のない頃私はこの辺を一度旅したことがある、

大石田から二日がけて最上川を下り、酒田から象潟を通り本庄まで・・・・・・・・・・」

と記されている


おそらく明治30年(1897年)

14歳の直哉が友人の黒木三次と共に旅した時のものと思われる


洞興寺山門(とうこうじ) 寒河江市白岩 2010/3/17 AM11時


志賀直哉のエッセイ「山形」の中に出て来る洞興寺

この辺りの寺では滅多に見ることの出来ない

見事な楼門を構えた寺である


寒河江周辺では最も古い歴史を持つ曹洞宗寺院で

後に澄江寺 祐林寺 陽春院・・・・と

曹洞宗寺院が大江家との関係で

多くなっていった


画竜点睛・・・・・・楼門の天井に描かれていた 今にも抜け出して来そうな見事な迫力の龍の絵

洞興寺本堂


洞興寺は今からおよそ500年前 文明十年(1478年)

葉山修験道途中に当たる白岩城鬼門の地に

時の城主 大江家広によって開基された


志賀直哉がこの地を訪れた時代は

東京から赤湯温泉までしか汽車がなかった


山形から大石田までの13里

炎天下の中を下駄履き姿で

全て徒歩で移動しなければならなかった

時代である


この洞興寺 ・・・・・・・・・・・・

かって志賀直哉が訪れた頃の明治時代には

寺子屋として「国民教育揺籃(ようらん)之地」とされ

この地方一帯の学問の場としての

重要な役目を担った事があった


寒河江市白岩 旧六十里越街道 曲がりくねった細い道は昔の面影を僅かに残している
今では南側にバイパスが走り 近年更にもう1本のバイパスが走り 地元に住む人以外にこの道を通る人は皆無に近い



この洞興寺のある白岩という所

戦国時代には

寒河江城を西から攻めてくる

庄内の敵を迎え撃つ為の

要衝の地でもあった


旧六十里越街道標

旅館饅頭屋

同上

同上(大正時代)


出羽三山巡礼の宿泊者で往時の賑わいを偲ばせる饅頭屋

志賀直哉がこの地を訪れた時も

きっとこんなふうに

大勢の巡礼者で賑わいを見せていたのだろう・・・・・・・・・・・・・・・


くしくも時代を遡る事 およそ100年である

それではこの先100年 

いったいどんな世の中に変わっているのだろうか・・・・・・・・・・?

紅梅・福寿草・雪景色

2010-03-17 | Weblog

寒河江市留場 R112号線留場バイバス  2010/3/17 AM10時半

バイパス沿いの民家

寒河江市上野(うわの)


毎週水曜日は両親のデイサービス利用日

今日は一寸事情があって 父のみ利用となる


朝9時

いつものようにデイサービスの送迎車が

自宅まで迎えに来た


車が出発しておよそ15分

デイサービスより電話が入った


父の持参した薬は朝食後の薬で 

昼食後服用する正しい薬と

交換して欲しいという内容の電話だった


薬は昼前まで届けることにした


デイサービスは自宅から車でおよそ5~6分

寒河江川に架かる慈恩寺橋を渡った

山麓の集落にある


デイサービスまで薬を届けに行く途中

寒河江川を渡った


東の空は光溢れる春の空 

西の空は灰色をした雪雲の空

まるで正反対であった


デイサービスに薬を届けた後

寒河江川沿いに続く山すその道を西進


白岩随道・臥竜橋と陽だまり

臥竜橋

同上

寒河江川 臥竜橋脇より下流を見る


明るい陽の光を浴びた瀬は

白く眩しい

春の光に溢れていた


雪解け水を集め川幅を広げた

寒河江川の早い流れ


沢山の鴨達

岸辺の澱みに出来た

弱い流れに羽を浮かべ

のんびり戯れていた


西進するにつれて

次第に雲行きが怪しくなって来た


葉山に向かう

留場集落辺りまで来ると

吹雪いて来て

視界も利かなくなって来た

止む無くそこでUターン

寒河江市白岩 旧六十里越街道

同上

同上

暫らく白岩の山すそに続く 

旧六十里越街道沿いの道を走る


旧六十里越街道沿いの民家

同上

同上 紅梅と白梅

同上

同上

福寿草


梅の木の下 黄色い福寿草が咲いていた

吹雪と紅梅と福寿草・・・・・・・・・・


季節は冬と春の境目

毎日がなかなか複雑な天候のようだ

でも・・・・・・・・ もうすぐ春がやって来る

いよいよ待ち遠しい暖かい春の季節だ


今朝の自宅回り・・・・・・・・・・・・AM9時

再び雪化粧




今朝の雪で 桜の木が一足お先に満開になった



猛スピードで日毎雪解けの進む神社境内


明後日予定している境内の除雪  

この分で行けば無しかも・・・・・・・・

ヒマラヤ雪ノ下

2010-03-15 | Weblog

自宅近くの残雪 2010/3/15 PM5時

左沢線羽前高松駅付近


里からやっと雪が消えた

家の北側の軒下や 

土手の北斜面に白い塊が残るだけとなった


来週日曜日は 神社の初午稲荷講だ

今年はその稲荷講の当番にあたっている

当番は3人一組で 6年に1度の割合で回ってくる

今週金曜日の午後は 稲荷講参拝の為

神社の境内の雪片付けを予定している

あと4日・・・・・・・・

すっかり消えてくれるといいのだが


自宅裏の隣家の庭 ヒマラヤ雪ノ下の花

まだ雪が消えたばかりの庭先で 

ピンクの花が

1本だけ 顔を覗かせていた

原産地がヒマラヤとあって さすがに寒さには強いようだ

花も葉も 

長い冬の雪の重みに耐えてきた証しだろうか

まだ押しつぶされた姿のままだ


でも いかにも野性味に溢れた

力強い生命力の息吹を感じさせられた


表通りのよそ様の家の庭先に

クロッカスの黄色い花が咲いていた

春は黄色い花から咲き始めるという

まさに教科書通りの花の色だ


此の頃 ふとため息をついてしまう時がある


いつも 何気なしにため息をついて

あとから どうしてため息をついてしまったのか

自分でもわからなくなっている


今朝も大きなため息をついた私

「ため息をひとつつくと 幸福がひとつ逃げるわよ・・・・・・」

と 女房からまたまた注意されてしまった

今の私に 逃げてしまうような幸福など

所詮持ち合わせていないのだが・・・・・・・・・・


いや・・・・・・

自分では気付いていないが

当たり前に思える自分の健康な身体こそ

一番大事な幸福なのかもしれない


でも どうして大きなため息が出てしまうのだろうか・・・・・・・・・?

世界大不況・・・・・・・・・・・・・・・(2/2)

2010-03-12 | Weblog
講師 ○○○○氏

皆さんにお聞きいたします・・・・・・・・

「1492年 世界史の中で 最も劇的なことが起こりました

    さて何が起きたのか ご存知の方はおられますでしょうか・・・・・・・?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・会場は一瞬シーンと静まり返った

講師

「1492年はコロンブスが新大陸を発見した年です」

以後 それまでユーラシア大陸の中で留まっていた

西洋各国の目は これを機にいっせいに

北アメリカ大陸 中南米大陸 アフリカ大陸 インド 東南アジア 清国へと向かい始めた


サンタ・マリア号

イギリス フランス スペイン オランダ ポルトガル・・・・・・

いよいよこれら西洋の列強各国による 大航海時代が始まった


それは自国植民地獲得の為の

ある意味で西洋人による略奪行為の始まりであった


ペリー来航 1853年 横須賀市浦賀


それから350年後

時は幕末・・・・・・・・・・・・・・

ペリー提督率いるアメリカの黒船が

江戸の町とは目と鼻の先にある浦賀に来航


この頃 既に日本では攘夷派が台頭しつつあった時代で

国中が大騒ぎとなった


幕府は挙国一致体制で事に臨み

他国に対して抗戦

侵略から国を守った


その後日本は 明治維新を向かえた

西洋に学べ 

西洋を追い越せとばかり

努力を重ねた


やがて

日清 日露戦争が勃発

世界の誰もが予想だにしなかった

清国 そして大国ロシアとの戦いに勝利した

しかし

この日露戦争を勝利に導いたのは

単に日本だけの力ではなかった


日英同盟が存在したことが大きな勝因のひとつであった

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略

第2次世界大戦が勃発 

日本は欧米諸国を相手にして 敗戦を余儀なくされた

そして 憔悴し切った国民の心 荒廃した国土


しかしながら 戦後30年 

日本はここでも国民が一致団結し

国の復興に努力した


やがて 世界第2位の経済大国になるまでに至った

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略

結論

幕末 ペリーが黒船に乗って幕府に開国を迫って来た

その時 多くの日本人が初めて西洋文明を間近に見た

そして歴然とした文明の差を知った


しかし・・・・・・・・・・・・・・・

ペリーがやって来た頃の江戸の町


長い間鎖国状態が続いたせいで

当時世界でも類を見ないほど

多種多様な日本独自の華やいだ庶民文化を

人々が謳歌していた時代でもあった


江戸の庶民文化は

極限られた数の貴族文化ではなく

江戸の町に住む 

誰にでも享受することが出来た

開かれた文化であった


このように 日本は

黒船来航 明治維新 第二次世界大戦後の復興・・・・・・・・・・etc

これら節目々で見られたように

国民一人一人がいざという時には

挙国一致して国の難局に立ち向かう対応力があった


砂時計型の欧米人にとって

国の守りは国民一人一人が考える問題ではなかったようだ


昨今 組織の中の一員としての働きではなく

一個人がどれだけ会社に利益をもたらすかを問う

所謂アメリカ型雇用形態である

成果主義が日本に入って来て

だいぶ久しい

それまで長く続いてきた終身雇用制度は

瞬く間に崩壊した


こうした世界不況に見舞われた時には

目に見える形での

個人の力だけが評価の対象となり易い


しかしながら 今の世界大不況を克服していくには

個人成果型雇用形態は日本の社会には似合わない


なぜなら・・・・・・・・・・・・・・

難局に立ち向かうには 

個人の力はあまりにも小さい事を歴史が証明している


いい意味での 国民総中流意識が機能しなくなる恐れがあるからだ


およそ1時間半の講演だった


文明論的世界大不況の克服の話も面白かったが

僅かの時間で人間がこれまで歩んで来た長~い時間の全てが

私の眼の前を 

瞬きをするほんの一瞬の

刹那にも似た短い間に

これまでの全ての人の営みが

過ぎ去ってしまったような

そんな気がした・・・・・・・・・・・・・・ 


※ 講演の途中 インクがなくなってしまい メモが出来なくなってしまった

  携帯電話で音声メモを取った 後で再生したら 上手く聞き取り出来なかった

  (1/2) (2/2) そんな理由もあって かなりの部分 後から記憶を呼び覚まし 私なり   に解釈 それらを自分の言葉に置き換え 文章にした所が多々ある 

  必ずしも全てが講演内容と一致しているわけではない 何卒ご容赦下され

世界大不況・・・・・・・・・・・・・・・(1/2)

2010-03-11 | Weblog

○○○川○○改良区通常総代会  ホテルシンホニーアネックス  2010/3/11 PM1時


先日 私を含め

当選証書を付与されたばかりの

108名の総代が出席

通常総代会が開かれた


22年度事業計画案と予算案


2つの議案に対して

審議が行われた


出席者から

様々な質疑が出されたが

2つの議案は

原案通り満場一致で承認された


休憩中 ホテルのロビーから見えた最上川の眺め



続いて行われた新春特別講演

講師 経済学者 ○○○○氏

演題 「世界不況をどう生き抜くか
          ~文明論的アプローチ~」

参加者数 およそ400名 寒河江市の人口の丁度 1/100


講演の大まかな中味を紹介してみます


アメリカのリーマンショックに端を発した世界同時不況

いまだ続いていて その出口は見えていない


今は 中国1国が 世界経済の牽引役を担っている

しかし中国の不況脱出は

国の莫大な資金による景気対策のお陰であり

いつか 翳りが見えてくるのは必然である


今 アメリカで問題になっているトヨタ自動車のリコール問題も

そう長くは続かないと思われる

リコール問題の原因は

やはり品質管理の低下や利益至上主義に走った結果であり

大いに反省しなければならない


日本のこれからについて・・・・・・・・・・


今 ワーキングプアーといわれる貧困層が増え続けている

かって日本人の意識は

提灯型といわれ 所謂1億総中流であった

提灯の真ん中の大部分を占める

大きなふくらみが中流階級で

その上下の富裕層と貧困層は

これまでは ごく僅かな数でしかなかった

つまり 中流階級と呼ばれる人達は

自分たち一人一人が国の命運を担っているという

いい意味での使命感を持ってきた


そんな日本社会も今次第に欧米型階級社会

所謂砂時計型といわれている

型に近付きつつあるという


欧米型の階級社会は

国民のほとんどの人が

上下部分の富裕層と貧困層が占め

砂時計の真ん中

極々狭まっている僅かな部分を

中流階級の人達が占めている


それ故

日本型の中流階級とはまるで違って

彼らに

国の命運を担っているなどという

大それた緊迫感を望むのは

所詮間違っているという


歴史を2000年 3000年 

いやそれ以上遡って 運命論的に考えると

人類の歩みは

西洋人が西洋以外の世界を征服してきた歩みである



まず ヨーロッパで異民族同士の侵略戦争から始まり

そこには勝者と敗者の運命が待つ


勝者はますます領土を広げ 財をなした

反対に敗者は勝者に隷属して行った

そこに おのずと階級社会が発生して行ったのだという


こうして築かれてきた歴史上の階級社会の経緯は

成熟した民主主義社会といわれて久しい欧米の社会が

実は今もって階級社会であり

そのことに異を唱える国民は少ないという


西洋思想から生まれたキリスト教・・・・・発祥の地はイスラエル エジプト シリア・・・・・・

所謂不毛の地といわれる砂漠の地で生まれた宗教であり 

その為 神が人間を支配して 

人間が自然を支配 運営する

いわば神の存在は

目には見えない 天上の神なのである

反対に東洋思想から生まれた仏教やイスラム教・・・・・・・

例えば神は草木1本や虫けらにも宿る自然崇拝が根本にある


そして豊かな自然の恵みの中で育まれて来た日本文化・・・・・・・・

自然の移ろい 

もののあわれさ 

人間のはかなさ 


つまり自然があるからこそ

そこに人間が生かされているという

全ては自然に対する畏敬の念と慈しみの気持ちが

文化の原点であるという

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略

                               続く