ミュー ・ 百花春至為誰開

月山・葉山・野菜つくり・短歌・スケッチ

初夏の朝日連峰 & 果樹園 ※寒河江市・柴橋

晩秋・初冬

2011-11-28 | Weblog

仙台市青葉通り 2011/11/21

同上


先日 小用があって仙台へ

約束の時間は10時 

多少時間に余裕を持たせ 

7時30分 自宅出発


県境付近の峠道

道の両側には 

除雪後の雪の塊が


およそ2時間 昼前まで用事を済ませ 

早速 青葉通りへ


紅や黄 

紅葉が真っ盛りの

街路樹のケヤキ並木


洒落た都会の雰囲気に

久し振りに浸たれる歓び・・・・・・・・


田舎暮らしもいいが

たまに来る都会もなかなかいい


ホテルのバイキングランチを食べ

コーヒーを飲みながら

暫し ガラス越しに

通りを行き交う人々の表情に見入って

一人のんびり 街中で過ごす

昼下がりのひと時


学生時代 友とよくこの辺りを歩いた


そして42~3歳の頃

20年振りにこの街に再び戻った

憧れの街で

2年間 単身赴任を経験した


家族と離れ々になって働いた

思い出深い街である


通りの角に佇むと・・・・・・・・・

街 友 人 街路樹 落葉 碧い空 雲の容 風の匂い・・・・・・・・

いつも つい昨日の事のように

ひとつ そして又ひとつ現れては

足早に胸元を過ぎって行く

愛子○○○○タウン モデルハウス4棟 2011/11/21

帰路 かってモデルハウス4棟を設計した

○○○○タウンに寄ってみた


竣工して10年

植栽した樹々も皆 立派に成長

多くの家族が生活を営んでいた

しっとりと落ち着いた雰囲気の街並

嬉しく思った

鎌倉山 仙台市青葉区作並 R45号沿い 2011/11/21

宮城と山形を結ぶ

R45号を西に走る


目の前に突然姿を現した奇岩の頂き

鎌倉山だ

もう1軒 私にとってメモリアル・アーキテクチャー

に立ち寄った


新川渓谷 2011/11/21

S様邸 およそ15~6年前の1995頃竣工

クライアントは

当時≒40歳前後・・・・・? 独身女性

二人で幾つも々 夢中になってプラニングをした

夢を形に・・・・・

あの頃が妙に懐かしかった


ウイークデーとあって 

その日も彼女はあいにく留守だった


おもちゃ箱のような形をした小住宅

雑木林が生い茂る

周囲の自然環境に

素直に溶け込んでいた


ひとつだけとても嬉しい事があった


塗り直されたばかりの外壁

竣工当時と全く同じ色だった


山形駅 2011/11/22 PM11時半

山形市 スズラン通り 2011/11/22 pm7時

仙台に行った翌日の夜

今度は 1年振りに山形のネオン街へ


以前勤めていた会社のOB会

と云っても 全員がOBにならざるを得なかった


ずさんな経営が祟って

私の退職後 1年ほどして

敢え無く倒産してしまったからだ


しかし・・・・・・・・・・

私と違って OB達は皆 逞しく現在を生きていた


11名の社員を雇っている元営業マンだった住宅会社社長

1人で外構工事の請負いをしている元営業マン

住宅設計から180度方向転換 ゼネコンの現場監督になった者

住宅の現場監督から商社の営業マンになった者

住宅営業マンから製薬会社工場で品質管理の仕事をしている者

・・・・・・・・etc

皆それぞれ一生懸命

己の生きる道を探し 

今この時を

逞しく生きている様子だった


因みに年金生活者は私一人

時代の変遷を否応なく感じさせられた


又一緒に働いていた 若かりしあの頃と比べ

皆一様に一皮も二皮も剥け

丸~く成長していたような気がする


予定では2時間ほどで中座してくるつもりだったが

なんと気が付いた時には

既に11時を過ぎていた


久し振りに乗った左沢線下り最終列車

最終は寒河江駅止まり

寒河江到着 午前0時を過ぎていた


葉山 寒河江市鷹ノ巣より 2011/11/25

山々には既に三度以上雪が降った

今年は今だ里の積雪がお預け

西川町志津 月山 2011/11/27

同上 雪遊びに夢中の子供達

同上 揃ってVサインをしてくれた子供達

同上 月山 五色沼


昨日は一転して冬景色の世界へ

月山 山麓の志津

の実行組合総会が志津であった


いまや総会は名ばかり

実質の懇親会になってしまった


温泉に入り 美味しい料理を食べ 皆で歓談し

楽しい1日を過ごして来た


に戻り 唯一のスナック○○○で2次会

無理やりカラオケなどを歌わされ・・・・・

今日は一日中二日酔い・・・・・・


昼に食べたサラサラ「お茶漬け」

昨日のご馳走よりはるかに美味しい


飲み会の翌日

決まって深~く反省するのだが・・・・・・・・

学習能力の低下が著しく


次回も きっと同じ事を 

繰り返すに違いない


この一週間

季節も人の心も 

晩秋と初冬が入り混じる

季節の変わり目の週であった

親子

2011-11-20 | Weblog
一昨日の夜 携帯の着信音が鳴った 


以前 同じ職場で私の部下として一緒に働いていた

M子さんからだった


彼女は今 

私と一緒に働いていた 

かっての職場を3年前退職


現在は一人で工務店を経営している 


朝から晩まで

毎日現場を回って

汗水垂らして頑張っている


経営といっても社員はもちろん 自分一人

たった一人 何から何まで

全ての仕事を期限内に

こなしてゆかねばならない


時々仕事で分からない事等があると

今でもかって上司だった私を頼って

電話で尋ねてくる事がある


彼女は私より17~8歳年下だが

途中入社した私にとって

職場では一応先輩であった


その頃 彼女はもう一人の女性と

二人で経理 事務を担当していた


当時

パソコンはまだ現在のように 

あまり普及していなかった


事務は全て手書き記帳だった

その為 月末の締め切り時などは二人でも大忙しだった


私が入社して2年目位の頃

彼女が産休で1年間休む事になった


彼女の替わりにすぐにパートの女性が来た

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

産休の1年が過ぎ 彼女は無事職場復帰した


会社にもいろいろな都合が有ったのだろう・・・・・?

彼女の代役を勤めたパートの女性を

何故かすぐには退職させなかった


結局 経理 事務担当者三人の状態が 暫らく続いた


その頃 経理 事務に人件費削減の為

いよいよパソコンが導入された


12~3名の中小企業にとって 

三人の事務担当者はどう考えても多過ぎた


彼女が職場に復帰して半年ほど過ぎた頃

社内の人事異動があった


パートの女性は退職

彼女は私と同じ設計室配属となった・・・・・・?


彼女はそれまでお客に提出する見積書等の

ワープロ打ち込み等はしていたが

建築に関する専門的な知識は 皆無に等しかった


私にとっても 彼女にとっても

却ってその事が大いに幸いだった


以後 それまで下請け設計事務所に外注していた

実施設計 確認申請業務の全てを 

社内で行う事になった



早速ソフト業者からCADシステムを導入(200~300万円)

※ (建築CAD パソコンを使って図面作成 積算を入出力)

彼女は2週間 山形市に通ってCAD研修を受講

研修を終えると 元々ワープロ操作に堪能だった彼女

たちまち私の鉛筆書きのラフプランを短時間で

CAD入力出来るようになった


何事に対しても知識欲旺盛な彼女

仕事は単なるCAD入力に留まる事はなかった


一口に建築の設計といっても

必要とする知識や技術は無限に近い


計画 法規 構造 施工・・・・・・・・

連日 住宅設計 施工の広範に渡って

基本の基本まで遡って 彼女が本当に納得出来るまで伝授


加えて彼女は 

4人の子供の子育て真っ最中の主婦でもあった


時に仕事に夢中になり過ぎて

大事な家庭を顧る事さえ

怠ってしまう時もあった


私と彼女の設計室勤務時の集大成・・・・・・・

先日訪れた「銀河の館」の

断面図と内外の完成予想パースであった


スキップフロアー 切妻 寄棟 ドーム屋根・・・・・ 

どれひとつとっても 入力作業の難しい建物であった


にも拘らず私の想いの全て

いや予想以上に見事に仕上がった図面の完成に

施主は大いに喜び 

見事受注に繋がった


その後 私は間もなくして

様々な事情で

職場を去る時がやって来た


しかしながら・・・・・・・・

一人の技術者として

いつの間にか立派に育ってくれた彼女がいる限り

私の去った後も

私の設計スピリットは

脈々と生き続けてくれていると信じていた


彼女とは今でも毎年年賀状のやり取りをしている

彼女の決まり文句は

「今の私があるのは・・・・・・・・感謝しています」

と 書き添えてある


随分と前置きが長くなってしまった


本題はこれから

その彼女の電話の中身が タイトルの「親子」と関係する


 室長・・・・・

どう見ても室長と口と目元が似ていて

「この人 どう考えても室長と似てると思うんだが・・・・・・・」

と打ち合わせ中のS社長に聞いてみたら

「当たり前だろ 親子だもの」 と言われてしまった

と言う電話だった


彼女と私の息子の偶然の出会い

その時が初対面だった

もちろん 彼女は私に息子 娘の2人の子供がいる事は

知っていた


息子は昨年結婚 今年二月子供が生まれた

子供が出来てから

急に太り始めたようだ

きっと生活の基盤がやっと落ち着いたせいだろうと

親としては内心いい方に

そう解釈していた


彼女の電話によると 息子に会うまでは

もう少し細身で格好のいい青年を想像していたらしい

それが 親の室長によく似ていた・・・・・・・・

と少し言葉を濁していた


彼女が下請け業者のS社で

社長と仕事の打ち合わせをしていた所に

たまたま偶然に

息子も仕事でS社を訪問したようだった


息子も同じ件で 後で電話をくれた

彼女に対する息子の印象・・・・・・・・・・・


はっきりした口調で

何でもテキパキ仕事をこなせるような

すごい力量の持ち主の技術者に思えた

と言っていた


息子に彼女の言葉を伝えた


息子さんの口と目元が

室長そっくりだったと言われたと・・・・・・・・


そして お父さん(私)が

今まで他の人にお兄ちゃん(息子)に似ていると言われた事が無かった事

息子と似ていると言われて嬉しかった事

を伝えた


※ 傍で電話を聞いていた女房曰く


  貴方は嬉しいでしょうが・・・・・

  今頃 息子はきっと悩んでいるかも・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・????


先週の日曜日(5日前) 

久し振りに息子と二人切りで

寒河江の街て 酒を飲んだばかりだった


随分と前から 機会があったら一緒に飲みに行こうと

約束していたのだが

お互いなかなか都合が付かず

延び々になっていた


特別にこれと言って

何を話すでもなくあっという間に

3時間ほどの時が過ぎた


私には街で息子と二人で酒を飲むと

決まって思い出すことがある


息子がI市の大学に在学中

私は車で1時間ほど離れている仙台で

単身赴任をしていた


週末の夜 よく息子のアパートを訪ねた

知らない街に出て 

食事をしたり 酒を飲んだりした


まともな食事をしてない息子にとって

美味しい食事にありつけた

感謝の気持ちと

何時まで経ってもアパートに押しかけてくる父親への反発

今になって思うに

きっと複雑な心境であったろうと思われる


酒を飲んで 街から帰った後は

息子の狭いアパートで就寝を共にした

息子はロフトで 私は煎餅布団で・・・・・・・

あの頃の二人は何故か知らないが

毎日が忙しく

毎日が何処か輝いていたような気がする


あの頃の私にとって

家族と離れ々になって

独りっきりで生活しなければならない

単身の寂しさを紛らす為

一時の安息を得る

唯一の手段だったのかも


あれから17~8年の時が過ぎた


あっという間に

ただ時間という時の流れだけが

自分の目の前を駆け抜けて行った


今 寒河江の街に出て

息子と2人きりで

酒を飲む機会がある度

あの頃の息子と過ごした

親子の姿の記憶が甦って来る


あの頃の親子の姿へ

もう一度帰りたい


若かりし頃へ戻りたい

誰もが抱く 郷愁

単に歳をとった 証拠かも


※ 空即是色・・・・・ 2/4 の途中で止まって 暫らく時間が経っていますが

            もう暫らくお待ち下さい

タイヤ交換

2011-11-17 | Weblog
風が強いせいだろうか

昨日より更に寒く感じた

最低気温1.4℃ 最高気温9.8℃

2011/11/17 am11時 雪景色の葉山 寒河江工業団地より

雪囲いを済ませた翌日

早速雪化粧に変身した 冬の葉山が・・・・・・・


「葉山に3度雪降ると 里に雪が降る」

という 昔からの言い伝え


里前に初雪が降る日も間近い


午前中 予定通りタイヤ交換を済ませた


タイヤ交換時 いつもホイールが錆び付いて・・・・?

なかなかそうか簡単には外れない


今日も大きなハンマーで

タイヤを2~3度

横から叩いてやっと外した


前回のタイヤ交換時

ボルトを緩めてから誤って車を移動させてしまった

幸か不幸か・・・・・

そうする事によって

ボルトを緩めただけで

タイヤが簡単に外せた


もしかして・・・・と期待を込めて

前回と同じように

全てのタイヤのボルトを緩めてから

1~2mの距離を

前後に何度か走らせて見た


結果は・・・・・・

全く効果がなかった


前回簡単に外れたのは

たまたま起きた 単なる偶然に過ぎなかったようだ

初雪 2011

2011-11-16 | Weblog

自宅2階より箕輪方面 2011/11/16 AM9時

同上 慈恩寺山方面


同上 神社境内

2010/11/15(1年前 同じ場所からの写真)

今朝 山形市で初雪が降った

去年より13日早く 平年より2日早い

寒河江市も霙混じりの小雨降る 寒い朝だった


昨日で自宅の雪囲いがほぼ終了

9日から始めて 丁度一週間掛かった

今年は後半雨に降られ

思うよう作業が捗らなかった

ブログを調べてみたら

昨年も今年と同じ15日に終了していた

2010/11/15 昨年の雪囲い 

2011/11/16 今年の雪囲い 

同上

同上

同上

同上

今年は去年までの雪囲いから

荒縄を使った雪吊り形式にした

近くで見ると 実はこちらの作業の方が

大変だったかも

2011/2/8 今冬の積雪状況

同上

今年のような雪が降ると一寸心配

自宅北側の雪囲い 2011/11/16

雪囲いは表の庭以外に

裏側もある

外部に設置してある給湯ボイラーと窓の雪囲い

去年は1階の屋根と繋がってしまった


今年も冬支度無事終了

昨日 手元の目測が少々狂って

金槌で左手人差し指の爪を

思いっきりゴォチンコ してしまった

 ア・イタァタァタァ~~・・・・・・・・・

指先が赤く腫れて来た


雪囲いが済んで 一安心

今日はこれからタイヤ交換と

青菜漬けの準備・・・・・・・・・


豊饒の季節

2011-11-14 | Weblog

2011/11/11



大根・九条葱

大根

長葱・白菜

白菜

つるり里芋

ニラ・アスパラガス

リーフレタス・ほうれん草・サラダ大根・工シャレット・分葱

ブロッコリー・二十日大根


夏の盛りを過ぎた8月末

一斉に秋野菜の種を撒いた


あれから2ヶ月

畑は豊饒の季節を迎えた


肥料が良いのか それとも手入れがいいのか知らないが

皆 期待以上の出来栄え


青菜

中でも青菜の成長が著しい

とても自分の家だけでは食べきれそうもない


教科書通り

元肥(有機質肥料・化成肥料)を施し

更に10月中旬 追肥として

株元に化成肥料を施したのが

大きく成長した理由のようだ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・??

経験 勉強 共にまだまだ不足

どちらも足らない事ばかりだが

野菜の成長にとって

窒素(N)・リン酸(P)・カリ(K)の三要素が不可欠だそうだ

但し 多くても 少なくても NG

何事も適量が大事


農業も勉強すればするほど

奥深くなって来た


一昨日 里芋堀をした

里芋作りは難しい

今年も昨年同様 不作だった


それでもバケツ一杯分の量を収穫出来た

夕飯は 採れたて里芋の入った芋煮


スーパーの店頭に並んでいる 他県産洗い芋と違い

今 山形で流行っているツルリ里芋


口の中は

噛まずに溶け出してしまいそうな位

柔らかな食感と甘味で溢れた


収穫後 すぐに食べれる自家製野菜

旬そのものの美味

ツルリ里芋は秋野菜の王様


来年こそ納得できる里芋作りに再々挑戦

いちごの苗畑

玉葱・にんにく・キャベツ畑


来春の野菜も準備完了

玉葱 にんにく いちご ニラ 工シャレット アスパラガス・・・・・


先日「農の歳時記」という本を購入

この本には 一年を通しての様々な農作業が記してある

寒河江は1月〜3月までの3ヶ月間

積雪で何も出来ないが

残り9ケ月

私にとって 毎日ゝが

目眩く豊饒の季節である

チューリップ畑(マルチシートの部分)


畑の入口に駐車場がある

その脇に小さな花壇を作った

赤 白 黄 紫 4色のチューリップの球根

60球を植えた

雪が解けた春先・・・・・・・ 

又ひとつ楽しみが増えた

紅葉

2011-11-09 | Weblog
朝夕 随分寒くなって来た


今年は月山の初冠雪が例年より二十日も早かった


その為だろうか・・・・・?

家々の庭先でみな冬仕度が始まっている

既に10月中に雪囲いを済ませてしまった家もある


我が家も一昨日から作業開始

あと2~3日位掛かりそうだ


今年は一部を除き

樹のすぐ傍に 1本の柱を立て

荒縄で枝を吊る方式にした


この方式の利点は 材料の運搬が少なくて済む事

  同上 欠点は 仕事の量がやたら多くなる事

果たしてどちらがいいのやら

一冬越してその結果を見て見ないと分からない

完成したらブログにup

自宅 ナナカマドの紅葉

自宅裏 月山

同上 工業団地 プラタナスの街路樹

寒河江市内 ハナミズキの街路樹

一昨日 山形市内の県立病院に行って来た(父の定期検診)

銀杏並木と桜の樹の紅葉がとても綺麗だった

山形市 県立中央病院

同上

同上

自宅庭 街 そして野山 

目に見えるもの全てが

すっかり色付いて来た

日1日と秋の深まりを感じる 今日この頃




そして夕方

西の空も

茜色に紅葉・・・・・・・・・・・?


秋の一日 

午後の陽は

短く弱く 

心の深淵は

枯葉の舞う如く

燃ゆる紅色に染まり

早や1年の終焉も近し


物哀しい瞑想に耽りし

ふと 心が揺さぶられる

空即是色・・・・・・・・・・・・・・・大川小学校の悲劇 (3/5)

2011-11-02 | Weblog
望郷のバラード(オーケストラ).wmv


雄勝町を後にして

生徒74名(在校生108名) 教職員10名(全教職員13名)

震災で多くの犠牲者を出した大川小学校へ向かった

雄勝町から大川小のある釜谷まで 僅か5kmの距離

山深い 海から離れた峠道だった

途中 対向車や後続車に会うことは無かった

ひっそりとした 寂しい山道だった

峠を過ぎると間もなく

目の前の視界が 突然開けて来た

新北上大橋 2011/10/12

北上川 上流方向 


とても川の景色とは思えないような

雄大な風景が広がっていた


北上川は

東北一の河であり 

日本でも4番目に大きな河である

又 日本一高低差の少ない

緩やかな流れを誇っている

その名にふさわしく

実に穏やかな流れをしていた 


海から吹き上げて来る潮風

川面一面に 鱗状の波紋が拡がっていた


風にざわめく川面に

歪んだ碧空と雲の形が

逆さまに映し出さていた


過去を忘れてしまいたいほど

懐かしい清純な

潮の香りがした


大河に漂う 

秘めたる震災の面影

ふと・・・・・目が泪で潤んだ


千年に1度の大惨禍


実に河口から50kmもの距離を

津波は席捲して行った


あの日・・・・・・・・・・・ 

暴君の如き 荒れ狂った大河


全てを掻き消すように

その日 悠久な時の流れを

静かに刻み続けるていた


長く遠い 大河の果て

やがて終焉へと近付きつつあった
 

終の棲家となるべく太平洋

今はるかな旅を終へ

海へと静かに帰る


海・・・・・・・神秘

全ての生命の起源

生まれ出る歓喜と未来

時が過ぎ

・・・・・誰もがいつかは帰らなければならぬ

哀しみの場所


生命の誕生と死

1対の表裏の如く

微笑み返している


北上川 河口方向

大津波はこちらからやって来た

新北上大橋から≒4km先が太平洋である

悲劇を生んだ石巻市立大川小学校と北上川(奥)

避難場所として向かった新北上大橋のたもとにある高台(左奥)右手の建物が小学校

大川小学校と裏山


大地震後 全校生徒と教師達全員が校庭に集合した

津波の到来を予測し 

避難場所を何処にするか 協議が始まった

協議に暫らく時間を費やしてしまったようだ

この間 子供達を心配して

何人かの父母達が学校に集まって来た


現場は時間を増すごとに混乱を極めて行ったようである

結局 指定避難場所となっていた 

≒300m先の新北上大橋の

橋のたもとにある高台を目指して 避難を始める事になった

しかし 避難を始めて間もなく 

全員が大津波に呑み込まれた


地震発生から あまりに時間が経過し過ぎていた


この辺りは 地形の関係上

初めに川を上って来た津波が橋に当たって跳ね返り

前方から襲って来た

その後すぐに 陸上を上って押し寄せて来た津波が

背後から襲って来た

二つの津波が相前後して 渦を巻くように

避難途中の生徒達を

一瞬の内に呑み込んでしまった

石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波


関係者の証言によれば

例え運よくこの橋のたもとの高台まで

避難出来たとしても

橋のたもとの高台より3~4m位高い津波が襲っており

結局はより多くの犠牲者が出たかも知れなかった

学校と道路(幅≒8.0m)ひとつ隔てた所にある裏山

震災後 「何故すぐに裏山に避難しなかったのか・・・・・?」

多くの人々からそうした素朴な疑問が出ている


裏山にあった津波到達点の標識(川面より≒12~3mの高さ)

裏山への登り口

同上

裏山の実際の斜面(赤いテープが津波到達ライン)

裏山から見た震災前集落のあった場所を見る

同上

辺りの山裾


自分の足で実際に裏山を登ってみた

コンクリートの分厚い擁壁に隠れて 

脇に小道のようなものがあった

※(震災後出来た道かも)

片手に携帯電話 

もうひとつの手にビデオカメラを持って


両手に物を持った状態で

何とか手を使わず

津波到達点まで登り切った


遠目から見る傾斜より

実際に登って見た方が

案外 緩い傾斜だった

この位の傾斜なら

ほとんどの生徒が

自力で登れたような気がした


その他の周りの山裾はと言うと

一見緩そうに見える傾斜が

近付くと 初めから傾斜がきつかったり

4~5m山中に入ると

急に傾斜がきつくなったりして

ほとんどの場所が

登り切れなかった

大川小学校 校門前に作られた祭壇

花束 線香 玩具 ランドセル お菓子 ジュース類 その他沢山の供物

が山のように 手向けられていた

誰が燈したのか線香の白い煙が揺らいでいた

「○○ちゃん・・・・・きっとママが探し出してあげるからそれまで待ってってね」

と 画用紙にマジックで書かれた文字が

雨に滲んで擦れていた

そして

透明なガラス瓶に差してあった

赤いセルロイド製風車

クルクルと 乾ききった音をたて 

いつまでも回り続けていた
 

亡くなった生徒の誰かが

去年の夏祭りにでも

買って貰ったものだろう

・・・・・・・と 思った


津波で多くの犠牲者を出した石巻市立大川小学校

この他の学校でも多数の犠牲者が出ている

しかし 全校生徒の約7割近い

74名もの犠牲者が出てしまった

震災後・・・・・・・・

何故このような悲劇が起きてしまったのか

今尚 問い掛けが続いている

そしてこれからも・・・・・・・


私なりにこの悲劇を生んだ理由を問い質して見た


① 海岸からの距離≒4kmが事態の深刻さを薄れさせてしまった

  実際小学校からは海岸を見通す事は出来ない まさか海から遠く離れているここ  
  まで津波がくる筈がないと言う距離感が大きな油断を生じさせたと思われる思わ  
  れる

② 土地そのもののが建設当初から抱えていた問題

  北上川と小学校のある集落とは ≒7~8mの高さの堤防によって仕切られてい  
  たが 集落の海面からの高さはせいぜい1m前後ではなかったかと思われる

  公共建築物 特に病院や介護施設 役場 小中学校等は緊急時の避難を最優先に

  考慮した場合 最初からある程度の高台に立地計画すべきであった

③ 避難場所と避難訓練

  千年に1度と言われている未曾有の東日本大震災

  これまで誰もが経験したことが無かった 所謂想定を超えた大津波に襲われ各地

  で多くの犠牲者を生んでしまった

  しかしながら 同じ大津波に罹災しながらいち早く全員で避難し 誰一人として

  犠牲者を出さなかった小中学校が数多くあった事も事実である

  例えば道路ひとつ隔てただけの距離にある裏山にすぐに避難していれば もしか

  して一人の犠牲者をも出さずに済んでいたかもしれなかった

  いざこれまで経験したことも無いような大災害に直面すると 誰もが理性を失い

  正常な判断は困難な状態に陥ってしまう その為にも絶対に安全な避難場所の確

  保と津波に限らず日頃から災害に対する警鐘に真摯に耳を傾け そして常日頃の 
  避難訓練がおおいに大切になってくると思われる


今般の災害に限らず 終わって見ると誰もが大いなる反省点を容易く見出す事が出来

る 

全く基本的な事柄に何故誰も今まで気付けなかったのだろう・・・・・・・・と


津波 福島原発事故に限らず 

今回東日本大震災から得た貴重な教訓は 

長く後世に語り継いでいく責任と義務がありそうな気がした


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く