前は 東南海地震と言って居ましたが 今は三河地震と言われる
様になりましたが 両方の地震を年末と年始に経験しました お寺のお庫裏
の方の倒壊で下級生2人が死亡 寮母さん1人が重症でしたが戦争末期
当事者でも何も知らされて居ないので資料は何もなかったが ある人の
覚書から供養の会をと 良く私の所に届いたと 百余人いた疎開生徒
このお寺としては 私1人の出席で時の遅さと 70年という区切りの
法要でしたが 骨折って見えた人も戦後生まれの 地震が有ったと聞いたり
小さかった人ばかりでした。
壊れたと思った本堂が修理でその時のまま残って居て階段の高かった事を
実感して上がりました 皆の日向ぼっこの場所でした。
お庫裏の壊前に逃げ出して 前に有った 松の根元にしがみ付いて 地震の
収まるのを待った 松の木が残って居ました案内の人に聞いたら そのままの
松だと言われました。
本堂の中もそのままでした かなり古びて居ましたが 何列も布団を敷いて寝た
場所ですが 私の分団は(町内事の分団)お庫裏の方で寝て居ました。
中日新聞の刈谷支所の人に色々聞かれましたが 断片的な話でした 私も
村の人に聞きたいと思った事も 時代がずれて居ました。
様になりましたが 両方の地震を年末と年始に経験しました お寺のお庫裏
の方の倒壊で下級生2人が死亡 寮母さん1人が重症でしたが戦争末期
当事者でも何も知らされて居ないので資料は何もなかったが ある人の
覚書から供養の会をと 良く私の所に届いたと 百余人いた疎開生徒
このお寺としては 私1人の出席で時の遅さと 70年という区切りの
法要でしたが 骨折って見えた人も戦後生まれの 地震が有ったと聞いたり
小さかった人ばかりでした。
壊れたと思った本堂が修理でその時のまま残って居て階段の高かった事を
実感して上がりました 皆の日向ぼっこの場所でした。
お庫裏の壊前に逃げ出して 前に有った 松の根元にしがみ付いて 地震の
収まるのを待った 松の木が残って居ました案内の人に聞いたら そのままの
松だと言われました。
本堂の中もそのままでした かなり古びて居ましたが 何列も布団を敷いて寝た
場所ですが 私の分団は(町内事の分団)お庫裏の方で寝て居ました。
中日新聞の刈谷支所の人に色々聞かれましたが 断片的な話でした 私も
村の人に聞きたいと思った事も 時代がずれて居ました。
心の隅にいつも有りました その時の現状を分かって居てもですが
私が周りの人に聞く事は皆始めて知る事でした地震の状態も今では
お寺さんを当時のお寺さんと錯覚して声をかけて先代と言われて皆
可愛がって貰い有難うございました でしたが時の長さを考えました。
親たちは面会に来ましたが藁小屋生活の現状を見て泣いて居ましたが
それが普通の毎日でどうして泣くのと聞いてしまった位です。
今元気で居れるのに感謝しています。
近くの国々と変わらぬ統制さ人のれて 何も言えない時代でした
そのために戦力が落ちると言う理由で児童が無くなって居る事も 寺の倒壊も
同じ疎開児も知らない 知らされない今度も村の人のメモからですから
記者に付きまとわれた状
今朝の中日新聞 県内版に載って居ました自分の事で切り抜きましたが
良く私の所に通知が来たと 妹も入れ違い疎開に 今日もそんな話を
70年は長すぎたと もっと前に言って居ればと でも良かったです。
やっぱり戦争も災害も嫌いですが自分では避けれません 暫らくは無い事を
願って居ます 静かに時の過ぎるのを。
100余人の中で、出席はカコさんおひとりだったとは淋しいですね
三河地震は東南海地震の1ヶ月後に発生、両方の地震の被害に、
遭われたとは・・、また、戦争末期でもあり、毎日の生活はどの様な
状態だったでしょうか、想像もつきません
親御さんたちのご苦労は、筆舌に尽くし難い
事でしょう
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします
東北の地震でもそうですがすべてを奪っていきますね。
当時はさぞ下級生が亡くなり又心労も凄かった事と思います。
当時の有様を知っている人は少なくなっていることと思います。
やはり後世に伝えることって重要ですね。
段々と怖い思い出や悲しい思い出は薄くなってしまいますから...。