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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(1)

2019-01-24 20:30:21 | 水戸

 

 写真は千波湖西岸の偕楽園公園にある、能島征二作の徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像の斉昭部分です。

 子供の頃、江戸小石川の水戸藩上屋敷で、「釈迦めらは 天竺(てんじく)国を 暑いとて 肌をぬいだり 髪はちりちり」という歌をよんだそうです。このあたりをみると、水戸藩の仏教に対する幼児教育はなかなかのものだったのではとも思われるのですがどうでしょう。将来おこなう仏教排斥の宗教政策を暗示しているのでしょう。

 大名屋敷を荒らして義賊といわれた鼠小僧は、盗んだ金を庶民にほどこしたということはなかったそうですが、小石川の水戸上屋敷からも金を盗み出したそうです。文政年間(1818-1831)のことで、藩邸の奥御殿まで侵入されたため、当時藩主になる前だった斉昭は、長柄の槍を持って、家臣と共に寝ずの番までして邸内を巡回したそうですが、捕らえることはできなかったそうです。

 時には家来をまいたりして、自分が見たい家へは、一人ではいってみることがよくあったそうです。玄関で「ご免」というと、勝手にあがりこんで、奥座敷や台所まで行き、煮えている雑炊を家人に「これは何だ」と聞いたりもしたそうです。「冷や飯殿様」(3男で30才まで部屋住みだったそうです)でも雑炊はご存じなかった、と話題になったそうです。

 「外夷」対策の軍備にたいへん気を使っていたらしい斉昭は、携帯用の兵糧も考えていたようです。円形で中に丸い穴をあけた銭形の菓子状の食料で、小麦粉、卵、砂糖で作って蒸し焼きにしたり、小麦粉、ブタ油、牛乳、泡盛を煮詰めたりしたものを乾燥させて作るのだそうです。三軍通宝、水府新製などと表面に文字が入れてあり、穴に紐を通して腰に下げるようなっていたようです。自身でそのことを書いているそうです。

 斉昭は、弘化元年(1844)に幕府による致仕謹慎処分を受けて、家督を嫡男・慶篤(よしあつ)に譲って隠居して謹慎しました。その処分に至らせた黒幕の一人と目した執政・結城寅寿(とらじゅ 読み方は色々あるようです)を、斉昭は調べたそうです。そして斉昭自身が、江戸商人・紙屋長兵衛(紙長(かみなが))という人物になりすまして、寅寿の家来・庄兵衛に近付いて裏切らせて、叛逆の証拠を得たそうです。

徳川光圀の話あれこれ(5)


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