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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(18)

2024-01-25 21:03:37 | 水戸

 天保4年(1833)に湊御殿夤賓閣(いひんかく ひたちなか市湊中央1-1 現・湊公園)で斉昭が開いた茶会では、香合(こうごう お香を入れる容器)にはハマグリの貝殻、茶筒にはカキの殻、茶碗には日用で素焼きに近い台町焼き、釜には唐銅(からかね  銅を主体にした、錫・鉛の合金)のやかんが使われたそうです。茶室・何陋庵待合にある茶対という額にある、「其(そ)の器や蔬(そ 粗末)にして清し」、「よく楽しんで奢(おご)らざる」を実践したのでしょう。上は平成24年の写真です。

 

 天保9年(1838)に郡(こおり)奉行から斉昭に新米が献上されたそうです。斉昭はまだ米を炊いたことがなかったそうで、正室・吉子も誘って、といで炊いたそうですがよくできたそうです。自分のような者がといでも粉のようにならなかったので実入りもよかったのだろうと郡奉行への手紙に書いているそうです。この天保9年は凶作の年だったそうです。

 

 「虎之助(藤田東湖)は全く才子故(ゆえ)、当座働かせ候ため用い候人にて、我等万年の後は、要路にさしおくまじき人物也」(藤田東湖は才能があるので、当面取り立てた人で、私が将来までも、重要な地位におくべきではない人物である)というのが、天保14年(1843)頃の斉昭の藤田東湖に対する考え方だったそうです。嫁選びでもあったように、斉昭は基本的には家柄を重視していて、改革派と門閥派のバランスをとって、改革派の東湖に対して選んだ門閥派の結城寅寿(朝道)への信頼が大きかったようです。でもその後、寅寿は粛清され、東湖は最側近として斉昭のなくてはならなない存在になっていったようです。写真は清巌寺(元吉田町3240)にある寅寿(朝道)の写真です。

 

 安政7年(1860)3月3日の深夜になって、江戸からの急使で桜田門外の変の報が斉昭にもたらされたそうです。斉昭はすぐに正室・吉子の寝所にはいって人払いしたそうです。東湖亡き後の斉昭にとって、一番の相談相手は吉子だったのでしょうか。斉昭はその5か月後、改元した万延1年(1860)8月に死去したそうです。吉子という人は、斉昭の考え方を了解していて、長子で藩主になった優柔不断な息子・慶篤の後見役をしたり、諸生派との弘道館での戦では「大将」役をこなしたりもしたそうです。上は、映画「桜田門外ノ変」で水戸に作られた桜田門を、その後オープンセットにして公開した頃の写真です。

 

 「その始めは釈迦といえる異国人あり。その生れし国は天竺(てんじく)といいて、いとはるかなるえびす(未開の国)故、その国の人みな欲心深くして禽獣(きんじゅう)にひとし。釈迦これを嘆いていろいろさまざまの偽り事を作り出し、よき事をすれば極楽へ行き、悪しき事をすれば地獄に落るなど欺(あざむ)いて人をよき道に入れんとせしなれば、釈迦はさすが其(その)国にてはすぐれたる男にて、禽獣にひとしき人を導くには相応の教(おしえ)ともいうべし。」ということを「武家女誡(景山女誡)」で、神道派の斉昭は書いているそうです。

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(17)


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