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ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸のお墓(4)

2016-09-06 22:12:57 | 水戸


中山信正
 松本町13-19(桂岸寺)  029-221-4948
 徳川頼房以来、代々家老をつとめた中山家ですが、水戸には2代(信正)と4代(信行)の墓があり、他の人の墓は発祥地の飯能市の智観寺にあるそうです。諡(おくりな)は恭子といい、光圀が与えたもので、墓表に刻まれています。永禄2年(1559)に死去したそうです。




和田兵助正勝(わだへいすけまさかつ)
 元山町1-2-64(神応寺)
 門弟が三千人いたという居合抜きの剣士でだったそうですが、追放処分となり、水戸を出る際、中根寺あたりで自刃、天和3年(1683)だそうです。位牌堂の中の墓は、破片を持っていると願いが叶うということで、けずられているそうです。




東皐心越(とうこうしんえつ)
 八幡町11-69(祇園寺)
 徳川光圀が水戸に迎えた、明(みん)からの亡命僧・心越の霊廟です。中に墓が安置されています。「寿昌開山心越大和尚之塔」という墓碑銘は、光圀の書いたものだそうです。没年は元禄8年(1695)だそうです。ただし、まだその頃は、天徳寺でした。その後、天徳寺は河和田に移されて、この地は寿昌派の本山としての祇園寺となるのだそうです。




鈴木勇山(ゆうざん)
 文京2-4(茨城大学裏)
 祐養園(ゆうようえん)という山荘内につくった庭園跡にあります。祐養園の名前は心越禅師からもらったものだそうです。墓碑を建てたのは息子の重郷のようですが、今あるものは復元されたように見えます。正徳6年(1716)死去したそうです。




2代目・大薩摩文太夫(おおざつま ぶんたゆう)
 見川2-103(妙雲寺)
 浄瑠璃の一派で、座元は代々、大薩摩縫殿(ぬい)左衛門と称したそうです。上町に芝居小屋があり、文化文政期には八百屋お七、八幡太郎、一盛長者などを扱った舞台が大盛況だったそうです。二代目は江戸でも有名だったそうです。文政10年(1827)死去。

水戸のお墓(3)


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