ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の茶室

2021-11-11 19:10:25 | 水戸

 茶室を見て回って、いい形で生活の中にお茶の習慣も残ってくれないかなと思いました。何陋庵以外、中を見たことがありませんので、以下は資料を見ただけのご紹介です。

 

何陋庵(かろうあん 好文亭 常磐町1-3-3)
 何陋庵は、好文亭の一施設として徳川斉昭がつくらせた茶室だそうです。斉昭の考えが相当取り入れられたのでしょうが、設計は町奉行・原魯斎と小姓頭取・大古敬恵だったそうです。全体的に質朴なつくりで、にじり口(茶室特有の小さな出入口)がなくて、織部口という、障子二枚がたてつけられた入口になっています。床柱は、薩摩の島津斉彬から贈られたというつつじの古木が使われたそうです。舟で偕楽園の南崖下にきて、坂を登って茶室に入るという趣向だったようです。

 

得月亭(徳川ミュージアム 見川1-1215-1)
 常陽銀行の初代頭取となった亀山甚が、江戸時代にあった得月亭という茶室を新しく建てたそうです。その後、その子の亀山利彦が公益財団法人・徳川ミュージアムの前身・財団法人・水府明徳会の理事を長く務めたことから、遺族が徳川ミュージアムに寄贈したものが庭園にある茶室だそうです。この地は、徳川光圀が別荘・高枕亭を建て、茶の木を植え、斉昭が御茶園として茶を植えた地だそうです。

 

延年楼(和田氏住宅 自由が丘)
 天保6年(1835)に大高家が建てた茶室で、延年は菊の異名、命名は宍戸(ししど)藩7代藩主・松平頼筠(よりかた)といわれているそうです。大高家は宍戸藩の年貢米江戸搬送を行っていたそうです。大高家は馬口労町で呉服太物を商い、町名主や町年寄を代々つとめた家で、茶室を建てたのは6代織右衛門守善だそうです。茶室は、かつては大高家の庭内にあった神力宇賀大妙神(末広町2-1-40)の近くに建てられていたそうですが、今は自由が丘の和田家の庭にあるそうです。水戸で現存する一番古い茶室だそうです。私はこの茶室の外見も見たことはありません。

 

不言亭(常照寺 元吉田町2723)
 斉昭が命名したという不言亭という茶室が常照寺にあります。天保4年(1833)に斉昭が来寺したとき、茶室に名前がないのを惜しんで、不言亭という名前を菓子盆の裏に隷書で記して寺に残したそうです。相当直してしまっているそうですが、現役のようです。見るには住職の許可を得て下さい。

 

無庵(茨城県立歴史館 緑町2-1-15)
 にじり口のある、本来の茶室様式で建てられているようですが、四畳半の茶室以外にも炉がもう1つきられているようなので、人数の多い茶席等にも対応できるようになっているようです。 「有無を超えた絶対的なものを,この茶室の活用を通して得ることを願って」つけられた名前だそうです。

 

双宜庵(そうぎあん 茨城県立歴史館 緑町2-1-15)
 炉をきった8畳の部屋もあるようですが、立礼(りゅうれい)式を中心にした茶室だそうです。筑波山が双宜の霊山といわれたことと、つくば市で開催された科学万博の「科学と人間の調和」という理念からつけられた名前だそうで、いばらきパビリオンにつくられた茶室を移したのだそうです。無庵とともにそれほど古くない茶室のようですが、外から見たところでは古さを感じさせるようになってきているようです。

 

安神車写シ銅造移動式茶室(東照宮 宮町2-5-13)
 平成29年に水戸芸術館で開催された藤森照信展に、安神車から発想を得た「せん茶」という名前で展示された茶室だそうです。それが、藤森輝信から東照宮に寄贈され、覆い堂の中に保存されたようです。「安神車写シ銅造(あかがね)移動式茶室」という正式名称が付けられて、東照宮の宝物になったようです。

水戸のお茶(3)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水戸のグラデーション(1) | トップ | 水戸の椅子(12)  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

水戸」カテゴリの最新記事