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水戸の見て歩き

水戸の地名の由来(9)

2021-07-14 19:04:15 | 水戸

北見町(きたみちょう)
 文禄1年(1592)に佐竹氏が八幡宮をこの地に遷(うつ)したので八幡小路といわれていたそうですが、その後八幡宮は遷され、宝暦11年(1761)、水戸徳川氏5代宗翰(むねもと)のとき、田見(たみ)御殿と呼ばれた貴楽亭という御殿を建築したため、田見小路といわれたそうです。昭和37年施行の住居表示法によって、町名が大改正された際に、田見の旧称を考慮して北見町としたそうです。地図はいずれも水戸観光コンベンション協会発行の「水戸の城下町マップ幕末版」です。

 

清水町(しみずちょう)
 もと田の中にあったので田中町といわれたそうです。藩政初期にひらけて栄えた古い町だったようです。寛政11年(1799)に清水町と改められたそうです。今は本町2丁目の内です。旧町名石碑は、36°21'49.5"N 140°29'34.5"Eあたり(地図97)にあります。

 

末広町(すえひろちょう)
 旧町名の馬口労町谷中あたりを、住居表示法による改正のときに、末広く発展するようということで末広町と名づけたそうです。新しい町名の名前の付け方にもいろいろありますが、馬谷町などとするよりはよかったのかもしれません。城下町防御の枡形の名残が残っています。このあたり以西は空襲の被害をまのがれたため、しばらく前までは、戦前の雰囲気が残っていたそうです。

 

長町(ながちょう)
 藩政初期のころ、5軒の武士屋敷があったので、元禄3年(1690)に五軒町と名づけられたそうです。天明(1781-89)の頃に長町と一般にはいわれたそうです。今の大成女子高等学校北側から続く長い道(地図で㉙のある東西の道)だったようです。西端には土堤があったようですが、明治末にくずして堀を埋めて梅小路まで道を通したそうです。今の県営長町アパート(栄町2-1-17)あたりに旧町名の石碑があります。写真の㉙は長町の、㊹は梅小路の旧町名石碑のある場所です。

 

渡里(わたり)
 一盛(いちもり)長者が源義家(みなもとのよしいえ)を案内して那珂川を渡ったので、渡里(わたり)といったという伝説があるそうです。それはともかくとしても、那珂川の渡し場があったことに由来した名前のようです。かつては圷渡(あくつわたり 低地部分)と台渡(だいわたり 高地部分 長者山があります)に分かれていて、天保年中(1831-45)に合併したそうです。写真は渡里の低地部分から台地の長者山を遠望したものです。台地の下を田野川が流れています。

水戸の地名の由来(8)

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