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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(4)

2019-09-24 20:40:27 | 水戸

写真は、偕楽園の偕楽園記碑にある、斉昭の署名です。号である景山となっています。潜龍閣という号もあるそうです。
 
 

斉昭は筆まめだったそうで、公的に保管されている手紙だけでも、2~3,000通はあるそうです。私的に保存されている分も加えれば、もっとふえるのでしょう。データベースが公開されれば、いろいろな斉昭が見えてくることでしょう。
 
 
 
文化13年(1816)に藩主になった斉昭ですが、初めて水戸に入国したのは天保4年(1833)だったそうです。ようやく調達できた国元の資金で実現したのだそうです。3月のことだったそうですが、この年はその後、天保の大飢饉にみまわれたそうです。水戸入り以前に、天保の改革は進んでいたようですが、江戸からの指示ではさぞかしはがゆかったことでしょう。
 
 
 
「潜龍(せんりゅう)不幸にして田を出(いで)しより此方(このかた)日夜乾々(けんけん 進んでやまぬ様)として改革すれど、本(もと)より九五にあるべき徳なきが故(ゆえ)に…」、「君子は我が愛するところ、不肖もまた我が養うところなり。君子も国のために言う。不肖もまた国のために言う。」などという手紙があるそうです。潜龍は斉昭のこと、九五は藩主のこと、君子は改革派、不肖は旧守派をいうようで、斉昭の難しい立場がわかりそうです。こうした、他人にわかりにくいように単語を選んで使うこともあったようですが、暗号とも言えるような単語を使った手紙などもあるそうです。
 
 
 
大手の門の扉に、「一人、二たか、三遊び」という落書きがあり、鷹狩りも女遊びもすきだった斉昭は、それを知って、我が心知られずと、引きこもってしまい、誰にも会わなかったそうです。臣下たちは、そのことを岩戸ごもりといったそうです。「一人(いちひと)」というのは、一番地位のある人という意味なのでしょうか。
 
 
 
中原(ジョン)万次郎を招いてアメリカのことを尋ねているそうです。そのとき、4年ごとの大統領選挙は「利欲」に基づいて行われるものだから、今は国が始まったばかりなので戦争などで英雄が出ているが、今後は戦争ができなくなるだろうから、その時、「利欲」本位の王では問題だろうと思っていたそうです。
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