徳川光圀は、寺社改革の一環として、僧侶の力をおさえて、葬礼の費用が少なくなるように、葬礼では仏式をなくして、儒教を柱にすえて、神式をとりいれた簡素なものをすすめたそうです。光圀は、水戸藩に招いた明の僧・朱舜水の意見を聞いて、宋・朱子の「家礼」を参考にした「葬祭儀略」を編纂して、それによって儀礼の基準を示し、さらに常磐と酒門に寺に属さない共同墓地をつくったそうです。「葬祭儀略」には、寺に頼らない自葬祭をすすめ、墓地の面積や墓石の大きさを定め、戒名を記さないことなどが記されているそうです。しかしこの試みは、光圀の死後、仏式にもどってゆき、それがある程度改革されるのは、斉昭の時代を待つことになったそうです。
奥津城(おくつき)
神道式の墓のことだそうです。写真は、大井神社(飯富町3475)墓地のものです。
君
子どもが父母を、また子孫が祖先をいうときの敬称だそうです。写真は光台寺(上水戸3-1-39)にある高倉胤明(逸斎 「水府地理温故録」の著者)の墓です。
府君
藩の重臣や、家臣などに付ける敬称だそうです。写真は、酒門共有墓地にある安島帯刀(あじまたてわき)の墓です。
孝子
父母の葬礼のとき、子どもが自分のことをいう言葉だそうです。写真は、妙雲寺(見川2-103)にある国学者・伴香竹墓の側面にある建立者・子の伴助当の名です。
殤(しょう)
若死にした人につけられる字だそうです。写真は、常磐共有墓地にある側面が「歿」でなく「殤」となっている墓です。