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水戸の見て歩き

水戸の事件

2017-02-09 20:50:18 | 水戸

 写真は昭和13年の洪水を証する石碑です。

     

            文京・笠原神社            白梅・金刀比羅神社

 


     

           中河内・素鵞神社            柳河町・柳河小学校

 

水戸藩初期の一村皆殺し
 慶長14年(1609)に久慈郡生瀬(なませ)で、手代と称する者が村に来て年貢を持っていったそうです。ところがその後、同じような役人が来て再び年貢を請求したので、怒った農民が役人の一人を殺して城下に宿次にして運んだそうです。ところが後の役人が本物だったそうで、家老芦沢信重は立腹して、他領に逃げのびた数人を除いて400人近い村民を皆殺しにしてしまったそうです。約200年後に、高倉逸斎(いっさい)がそれを記録にとどめたために、事件が知られるようになったそうです。地獄沢などという地名が今に残っているそうです。

 

光圀の殺人
 家老の藤井紋太夫が、幕府側用人(そばようにん)柳沢吉保(よしやす)と内通して、徳川光圀失脚を企てたそうです。そこで光圀は、元禄七年(1695)に小石川水戸藩邸で幕府の老中などを招いて催した能楽会の楽屋で、紋太夫を手討ちにしたといわれているそうです。残念ながら、本当の理由はわからないままのようです。水戸市史では藤井対反対派の対立が現れてきて、その禍根をたつために行われたのだろうとしています。

 

幕末の騒乱
 幕末の門閥派で保守の諸生党と、改革派の天狗党との対立が、徳川斉昭の浮沈に伴って、政権をとりあう大きな抗争へとなっていったそうです。そして幕政の混乱を背景にして、天狗党の蜂起がおこり、蜂起参加者の多くが敦賀で処刑されました。その後、水戸城を守る天狗党と、諸生党の残党による、弘道館等の戦いがおこり、水戸藩は明治維新を迎えますが、両者の力関係は完全に天狗党優位となり、天狗党による今までの報復が行われるといった悲しい時期が続いたそうです。この騒乱により、水戸藩の多くの人材が失われてしまったようで、明治政府への参加者はほとんどいなかったそうです。

 

水戸城焼失
 明治5年、肥前大村藩出身の大蔵大丞(おおくらたいじょう)渡辺徹が県令心得として水戸に派遣されたものの、これに反発する士族たちが、水戸城本丸に放火をして、三層櫓以外が焼失したそうです。渡辺は、維新期の混乱を収拾するために、各地に派遣された人物で、水戸でも党派の弊害などを説いて、相当な効果を上げて、1年にも満たない短期間で水戸を去ったそうです。焼け残った三層櫓は昭和20年の空襲で焼失しました。

 

大水害
 昭和13年には、6月に那珂川が氾濫し、柳河、川田、勝田等が冠水し、那珂川にかかる水府橋以外の5つの橋が流出などして、被災人数は17,000名に及んだそうです。さらに、8月、9月と再び大水に襲われたそうで、下市から上市へ300余戸が移転したそうです。それを証する石碑が、文京・笠原神社、白梅・金刀比羅神社、中河内・素鵞神社、柳河町・柳河小学校にあります。明治43年にも大きな洪水があり、雨量は225.8mm、青柳の水位が7.02mだったそうです。

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