Seiji Ninomiya (二宮正治)

Let me tell "JAPAN NOW"

二宮正治の短編小説 秀樹のクラリネット 第23回

2011-04-30 03:34:18 | 日記
「秀樹あなたは世界の秀樹になったけど、私の事忘れないでね」
 江戸川に来てからずっと秀樹に優しく接してくれた村田愛子が秀樹にこう言った。
「もちろん、ぼくが活躍できるのも愛子ちゃんの愛があったからだ。あの時君がぼくを命がけで止めてくれなかったら今のぼくはない。君の愛には感謝している」
 秀樹の言葉に愛子は、
「うれしい」
 と秀樹を見つめてこう言った。
「ふたりぼっちだよ。愛子ちゃん忘れた」
 秀樹の言葉に愛子は嬉しそうに、
「うん、ふたりぼっち」
 と言葉を返した。
「それにしても被災地の復旧は進まないなあ」
 秀樹のため息交じりの言葉に愛子も、
「本当ねえ、いらいらするよねえ」
 と相槌を打つのだった。
無理もない、マス・メディアからは被災地の良い報道は聞こえてこない。 

二宮正治の短編小説 秀樹のクラリネット 第22回

2011-04-29 04:01:02 | 日記
 ネット配信された秀樹のクラリネットを聞いたフランス人女性から便りが届いた。
「その昔私の恋人は日本人のクラリネット奏者で、ヒデキという名前でした。あなたの演奏を聞いて昔を思い出し涙が止まらなくなりました。パリで楽しい日々を送ったのです。 私の自動車事故でなくなってしまいました。でもネットであなたの演奏を聞いた時、昔の素晴らしい日々の記憶が蘇って来たのです。ヒデキは私のためにラビアンローズをよく吹いてくれました。ぜひあなたの演奏でラビアンローズを聞かせてください」
 この内容だった。
テレビ局のプロモートで、ヒデキが通っている中学校のジャズ研究会のメンバーと一緒に演奏する事になった。
 秀樹たちの演奏がネット配信されると、また世界中で大反響となったのである。
「ヨーロッパはいうに及ばず、アメリカ、アジア、オーストラリアで大反響となった」
 世界各地の人々から、
「あなたの思い出(ベニー。グッドマン)」
「聖者が街にやってくる」
「愛の讃歌」
「エーデルワイス」
「アリラン」
 リクエストが相次いだのだった。
あのフランス人女性がネットで語りかけてきた。
「トレビアン・イデキ。 アーイデキ。(フランス語にはHの発音がないためヒデキを発音するとイデキに聞こえる)」
 熱狂している。
震災にあってすべてを失った少年、田村秀樹のクラリネットは世界の人々を魅了したのである。
  

二宮正治の短編小説 秀樹のクラリネット 第21回

2011-04-28 02:40:29 | 日記
 秀樹はテレビ出演をして、
「ワシントン広場の夜は更けて」
「モスクワ郊外の夕べ」
「リリー・マルレーン」
「ラメール」
 これらの歌を演奏した。
秀樹の演奏は東京の人々の心を熱狂させただけでなく、日本全土いや世界の人々の心を打ったのだった。
 秀樹の演奏がネット配信されたのである。
「確かな演奏が人々の心を捉えたのだ」
 被災地の少年が吹くクラリネットというお涙頂戴の物語ではなかった。
テレビ局には秀樹に対して絶賛の声が数多く届いた。
「今からも素晴らしい演奏を聞かせて欲しい」
「日本のベニーグッドマンになって欲しい」
 こんな風に。
外国からも便りが相次いだ。
「少年の熱い演奏に感動した」
「若い頃を思い出した」
 秀樹の名前は日本のクラリネット少年として有名になっていった。

*この物語はフィクションです。

二宮正治の短編小説 秀樹のクラリネット 第20回

2011-04-27 02:36:47 | 日記
 秀樹は頼まれればテレビでもラジオでも出演してクラリネットを吹いた。
「自分のクラリネットで少しでも被災地の人々の心が癒されれば」
 と思ったからだ。
田村秀樹の名前は、
「被災地を救うクラリネトの少年として有名になっていった」
 だが秀樹の心が晴れる事はなかった。
「一向に故郷福島から良い便りが聞こえてこない」
 この苦しみがあったのだ。
「人々は日々の生活に苦しんでいて、その生活はぜんぜん改善されていない。今すぐにでも福島に戻りぼくのクラリネットで人々の心を慰めたい」
 この思いが強かった。
「だけど、今ぼくが福島に戻っても人々がぼくに気を使って迷惑になるだけかもしれない」
 秀樹の心には、
「福島に戻りたい」
「東京の江戸川での新しい生活を大事にしたい」
 この相反する気持ちがあり、その心は揺れ動いていた。
そんな秀樹の心を愛子は痛いほど分かるのか、
「二人ぼっちよ」
 と秀樹の顔を見ると声をかけてくれたのだった。

二宮正治の短編小説 秀樹のクラリネット 第19回

2011-04-26 03:57:25 | 日記
 テレビが秀樹が通う江戸川区内の中学校の事を取り上げてくれた。
「震災に遭いながら宝物のクラリネットを愛してたくましく生きる少年」
 このテーマで中学校を取材に訪れたのだった。
秀樹は、
「ぼくも東京という新しい土地で頑張っています、みなさまも頑張ってください。福島のクラリネットを聴いてください」
 こう言ってダニーボーイを演奏したのである。
その後、
「ふるさと、おぼる月夜、赤とんぼ」
 を最初は教科書通りに、その後ジャズで演奏した。
この秀樹の演奏がテレビで放映されると東北地方のみならず全国の音楽ファンは熱狂したのだった。
「若々しい演奏がいい」
「励まされる」
「癒される」
 テレビ局にこんな声が殺到したのである。
「震災にあった地方が蘇るまでぼくはクラリネットを吹き続けます」
 秀樹はテレビでこう宣言した。