Seiji Ninomiya (二宮正治)

Let me tell "JAPAN NOW"

二宮正治の随筆 9月30日

2010-09-30 05:38:46 | 日記
 現在広島では、フォークの神様吉田拓郎の名前を知る十代の若者は少ない。それに引き換え、
「矢沢永吉」
 と言う名前は小学生の女の子でも知っていて、
「時間よとまれ」
 を聞いていたりする。
私が長年広島で、
「永ちゃん、永ちゃん・・・・・」
 といい続けたからだろう。
責任を感じる。
 今から私は後の世に、
「音楽を音楽エリートから普通の人々にその楽しみを与えた吉田拓郎の功績」
 を語り伝えてゆこうと思う。もちろん私が語るので世界発信である。
私はまず、
「旅の宿」
 を語って行こうと思う。
「この歌は吉田拓郎さんが、東京の人々に受け入れられた記念すべき歌である」
 ただ、広島のフォーク村出身の人たちに言わすと、
「旅の宿だけ拓郎らしくない」
 こう言う。
「こういった話題から入ってゆきたい」
 しばらく間をおいて、また吉田拓郎さんの事を書きたいと思う。乞うご期待!

*明日からは、
「小学生悲恋物語」
 を連載します。こちらも乞うご期待!  

二宮正治の随筆 9月29日

2010-09-29 04:27:52 | 日記
 私は現在幼稚園児や小学校低学年のアイドルをしている。子供向けの、
「みんなのパンダちゃん」
「オオサンショウウオ黒べえさん」
 これらの歌をつくって子供達に聞かせている。
彼らは私の歌を聞いて喜んでくれる。だが、彼らに言われた一言が私の胸をえぐった。
「おじちゃんは誰よりもかっこいい」
「ありがとう」
 ここまではよかった。
「おじちゃん、なんでいつもGパンにTシャツなの」
 と不思議そうに私を見つめて言う。
「おじちゃんのスタイルなんだよ」
 小学校の2年生くらいの男の子が助け船を出してくれる。
「そんな恰好じゃあ駄目」
 5歳くらいの女の子は譲らない。
私はこの時しみじみと、
「おれは吉田拓郎さんの事をあまり好きではなかったが、影響を受けていたんだ」
 と思った。
「GパンにTシャツスタイル」
 これは今では当たり前の事で誰も何も言わないが、
「日本で最初にこれをしたのは吉田拓郎さんだった」
 テレビ番組で歌手の布施明さんに、
「お前テレビに出るんだったら、もう少しましな恰好をしろよ」
 と言われ喧嘩になった話は有名である。
「日本人は、好き嫌いは別にして、吉田拓郎さんの影響を大なり小なり受けているのだ」
 この事を知っていただきたい。

二宮正治の随筆 9月28日

2010-09-28 02:49:13 | 日記
 私は幼い頃永ちゃんと遊んだ事がある。あの人が中学生だった頃、あの人は孤独と言う二文字に支配されていた。小学生だった私と友達の女の子が一緒に遊ぶと、
「実に楽しそうで、いい顔をしたのである」
 この際、ずばりと本当の事を言わせていただく。吉田拓郎さんのみこしを担ごうと思っているのでなぜ今まで永ちゃんの肩ばかり持って拓郎さんのみこしを担がなかったか、説明しなければいけない。
 私が高校生の頃、拓郎さんはフォーク村の村長さんだった。知り合いの女の子と彼のそばに行っても、彼は構えてしまってどうにもならない。
 私はこの時、憤ったのだ。
「この人本当は女好きのくせに、やけに構える」
 事実吉田拓郎さんのファンは、この際はっきりと言わせっていただくと、
「ほとんど男性ファンである」
 永ちゃんが若い女性を引き付けているのと比べ大違いである。
私は知り合いの女の子たちに、拓郎さんの事を何も言わなかった。
 その後、拓郎さんは大スターになり、
「フォークの神様」
 と呼ばれるようになった。
「永ちゃんを最初に引き立てたのも拓郎さん」
 これも私は良く知っている。
現在、永ちゃんが若い女性の圧倒的支持を受けているのを悔しい思いで眺めている拓郎さんを私は良く知っている。
「近日中に必ず吉田拓郎さんが、女性にそれも十代あたりに受けるようにしたいと思っているので、体だけは気をつけておいてください」
 なんか、先代の林家三平さんのようになったが、
私は、
「吉田拓郎さんの功績に報いたくなったのである」
 乞うご期待!

二宮正治の随筆 9月27日

2010-09-27 02:32:32 | 日記
 吉田拓郎という人の評価について、
「ボブ・ディランに似ている。田舎臭い。素人相手のだましや」
 洋楽ファンはこんな言い方をする。
だが、吉田拓郎と言う人の功績は勲章をあげてもいいほどのものがある。
「音楽を普通の人々が唄ったり、演奏したりするようになった」
 この功績は、吉田拓郎という人の功績が大である。
「吉田拓郎が登場するまでは、音楽はあらゆる分野で音楽エリートが唄ったり、演奏したりするものだったのだ」
 昨今のカラオケブームは今や世界的なものである。英語でも、
「キャラオキ」
 と言って有名である。世界の主要都市にはほとんどカラオケがある。
このように人々が音楽を歌うようになったのは、
「音楽が普通の人に出来る」
 これを吉田拓郎が証明して見せたのである。
今世間では矢沢永吉が若い女性に受けている。
「話せば長くなるが、私は散々矢沢永吉の肩を持ち応援した」
 吉田拓郎という人が、あるいはこの事について腹の底の底で悔しい思いをしているかもしれない。
 私は鹿児島の若者が拓郎の歌を聞いて涙を流す時、
「フォークの神様と言われている吉田拓郎」
のみこしを担ぎたくなったのである。

二宮正治の随筆 9月26日

2010-09-26 05:22:37 | 日記
「吉田拓郎って広島じゃないよねえ」
 昭和四十七、八年当時東京には広島育ちの大物がたくさんいた。
「拓郎さんはこの事ご存知だろうか」
 皇族を初めとして、有力大名家の人たちが、陸軍、海軍に戦争中にいたのである。その息子達は当然広島や呉育ちである。
 私はなぜかこういった広島育ちの名士達と交流があった。
「新しい時代のニューヒーロであるが、こう言った形で批判されるのは私には辛かった」
 それにもっとも辛かったのは、
「吉田拓郎がつくる歌は、アメリカの歌にそっくりだったのである。人によるとそっくりなんて生易しい物ではないと言う」
 私は東京でこの自称広島出身のニューリーダーの歌を聞くと複雑な気分になった。正直なところ、
「地方の何も知らない純真な若者には受けたが、東京の若者は吉田拓郎の事を冷ややかな目で見ていたような気がする」
 だが、吉田拓郎の名前はまたたく間にブランドになっていったのである。
「彼って広島なの」
「よく知らない」
 この会話が繰り返された。
やがて登場してくる、
「どっから見てもどうあがいても広島の男矢沢永吉とは大きな差があったのである」
 学生の頃、
「広島の香りがする拓郎の結婚しようよを唄ってくれよ」
 この言葉を聞くと情けなかった。
「彼の歌に広島の香りなんて見受けられなかったからである」
 こう言っているのは私だけではない。
「江戸時代より前から広島に住んでいる人たちは私と同じ意見だった」
 私は自分自身に言い聞かせるようにこう言った。
「広島の香りねえ」
 この言葉に、
「そうだよ」
 回りの人々は言葉を返したのである。